第178話 帰路未確保
## 第178話 帰路未確保
午前八時二十二分。
楢ノ沢館の裏手に、中型トラックが停まっていた。
荷台の前半は、鋼製の隔壁で人員区画と分けられている。
左右にはベンチと安全帯があり、床には滑り止めの溝が刻まれていた。
医薬品は、車体前方の密閉棚。
暖房用燃料は、最後部の換気口付き金属区画。
工具と交換部品は、床面レールへ固定されている。
森川が燃料缶の固定具を引いた。
金具は動かない。
「燃料、六缶。漏れなし」
柴崎が積載表へ印を入れる。
「医薬品、二箱。封印番号一致。学用品、四箱。工具箱、一。交換部品、二箱」
高城が密閉棚の扉を押した。
「施錠確認」
芦田は乗員表を開く。
「田所さん」
「いる」
「安西さん」
「いる」
「高城さん」
「います」
「森川さん」
「いる」
「柴崎さん」
「います」
「江藤さん」
「います」
「御厨さん」
「います」
「芦田、います。行動班八人」
運転席には相原の部下がいる。
助手席に直樹。
中央席には大庭が座り、窓を少し下げていた。
「俺たちは数えないのか」
大庭が聞く。
「車両乗員表には記載済みです」
「名前は?」
「大庭航平さん」
「教官は?」
「業務ですから」
「そりゃそうだ」
安西は車両の前へ出た。
胸元から単眼鏡を取り出す。
覗く前に、周囲を見る。
七人は車両の近くにいる。
運転手、直樹、大庭も確認できる。
単眼鏡を目へ当てた。
敷地の出口。
その先の舗装路。
最初のカーブまでは、車両も倒木もない。
「最初のカーブまで、道路上に障害物なし」
「その先は」
田所が聞く。
「未確認」
「確認」
安西は単眼鏡を下ろした。
大庭が車内から見ている。
「見えるか」
「最初のカーブまで」
「なら乗れ」
それだけだった。
田所が時計を見る。
「乗車する」
八人が人員区画へ入る。
安全帯を締めた後、森川が後部扉を閉じた。
午前八時三十分。
車両が動き出した。
*
楢ノ沢館を出て十五分ほどで、舗装路が狭くなった。
右側は杉林。
左側は谷へ落ちる斜面。
昨夜の雨が、道路の端に細い水筋を作っている。
車両が減速した。
人員区画の全員が、前へ体重を持っていかれる。
「停止する」
運転手の声が車内へ届いた。
田所が立つ。
「全員待機。安西、前方。森川、車両左」
二人が復唱して外へ出る。
左側の路肩が、十メートルほど崩れていた。
舗装の下から土が流れ、黒い空洞が見えている。
道幅だけを見れば、通れそうだった。
安西は単眼鏡を上げた。
「崩落は左側。残っている舗装の幅は、ここから正確に測れない」
森川は路肩へ近づかず、しゃがんで舗装の下を見る。
「縁が割れてる。左輪を寄せるのは危ない」
江藤が棒で路肩を突いた。
表面が沈む。
「端から四十センチほど、土が緩んでいます」
田所は運転手を見る。
「右側へ寄せれば通せますか」
「俺一人なら試す」
運転手は人員区画と後部の燃料区画を見る。
「人と燃料を積んではやらない」
高城が運行票を確認した。
「迂回しても、医薬品は正午までに届けられます」
田所は崩れた路肩をもう一度見た。
「迂回します」
安西が道幅を見る。
「通れそうではあります」
「落ちたら全部届かない」
森川が立ち上がる。
田所は運転手へ向き直った。
「迂回してください。到着後は医薬品を先に下ろします」
直樹は何も言わず、助手席へ戻った。
車両がゆっくり後退を始める。
*
旧農業集落へ着いたのは、午前十時二分だった。
低い家と畑が、緩い坂に沿って並んでいる。
屋根には青い防水シートが残り、端を石で押さえてあった。
旧集会所の前で車両が止まる。
住民が三人、軒下で待っていた。
柴崎が受領票を持って降りる。
高城と森川が、密閉棚から医薬品箱を運び出した。
「受領担当の方は」
白髪の男性が一歩出る。
「三浦です」
「箱数と封印番号を一緒に確認してください」
住民たちが荷台へ寄る。
田所が手を上げた。
「医薬品から確認します。燃料はその後です」
高城が箱を地面へ置く。
「医薬品、二箱。外装破損なし」
受領作業が始まった。
直樹は車両の脇に立っている。
大庭は集会所の軒下から、周囲の道路を見ていた。
物資の半分を下ろしたところで、御厨が戻ってくる。
「川崎文江さんの家は、ここから徒歩で十分ほどです。坂があります」
田所は作業中の七人を見る。
「柴崎と芦田は受領作業を継続。ほかは川崎さんの家へ向かう」
芦田が確認する。
「田所さん、安西さん、高城さん、森川さん、江藤さん、御厨さんの六人が移動。柴崎さんと芦田が残留」
「直樹教官も同行する」
田所が付け加えた。
大庭が軒下から手を上げる。
「俺は車両側に残る」
「了解」
直樹が先に坂道へ入った。
六人が続く。
*
川崎文江は、家の裏で薪を割っていた。
厚い防寒着の上から、色の抜けた前掛けを締めている。
右膝には、毛糸で編んだ筒状のサポーター。
長靴の右底だけが、外側へ傾いて減っていた。
「川崎文江さんですか」
御厨が声を掛ける。
文江は鉈を止めた。
「そうだけど」
「楢ノ沢館から来ました。診療所までの同行について――」
「行かないよ」
御厨の言葉が止まった。
田所が前へ出る。
「膝の検査予定が入っています」
「聞いてる」
「車両も来ています」
「見たよ」
「今日は移動しないということですか」
「そう言ってる」
文江は枝を切り株へ置いた。
鉈を振り下ろす。
乾いた音がした。
「帰りはいつだい」
田所の手が、運行票の上で止まった。
「検査後の状態によります」
「今日帰れるのかい」
高城が田所の隣から書類を見る。
「復路の車両予定は記載されていません」
「次の便は」
江藤が尋ねる。
「この書類では分かりません」
田所が答えた。
文江は鉈を切り株へ置いた。
「連れていく車はある」
前掛けで手を拭く。
「帰す車はない」
六人を見る。
「それで行けって言うのかい」
「診察が終われば、こちらで調整して――」
御厨が言いかけた。
「約束できるのか」
直樹が聞いた。
御厨は運行票を見る。
「できません」
「なら言うな」
文江は直樹を見た。
「この人は話が早いね」
田所が運行票を閉じる。
「帰りの予定がないことは、こちらの確認不足です」
「隣の谷にもいたよ」
文江が言った。
「一泊で検査する話だった。帰りの車が出なくて、三週間戻れなかった」
「燃料不足ですか」
江藤が聞く。
「車も燃料も、ほかへ回されたって話だよ。畑と鶏は近所が見た」
文江は家の軒下を見る。
「悪い人に連れていかれたんじゃない。戻す順番が後になっただけだ」
その言葉の方が、安西には重く聞こえた。
誰も悪意を持っていなくても、人は帰れなくなる。
「家を空けられない理由がありますか」
田所が尋ねた。
「家だけじゃない」
文江は鉈を腰の鞘へ戻した。
「ついてきな」
*
家の裏から、さらに坂を上った。
文江は右脚を少し外へ振って歩く。
御厨が手を出しかける。
文江は見ずに避けた。
「必要なら言うよ」
「分かりました」
御厨は手を戻した。
坂の途中に、石で囲まれた取水口があった。
山側から流れてきた水が、細い管へ入っている。
金網には、濡れた葉と小枝が詰まっていた。
文江はしゃがみ、手袋を外す。
葉を取り除くと、水の音が強くなった。
「これを朝と夕方に見る」
森川が取水口を覗く。
「詰まると」
「下の家に水が回りにくくなる」
「代わりにできる人はいますか」
「いるよ」
「頼めますか」
「何日だい」
森川は答えられない。
「一日なら頼める。二日でも頼める」
文江は泥の付いた葉を脇へ捨てる。
「いつ帰るか分からない人間の代わりを、何日頼めばいい」
田所は運行票を畳んだ。
「復路の日付が決まれば、検査を受けますか」
「帰れるなら行くよ」
「検査の結果、治療や入院を勧められた場合は」
「話を聞いて、私が決める」
「分かりました」
文江は指を折った。
「帰る車を決める」
一つ。
「水を誰に頼むか決める」
二つ。
「家の鍵を預ける相手も決める」
三つ。
「泊まりになるなら、薬も着替えもいる」
四つ。
「帰れない時は、誰がここへ知らせるか。それも先に決める」
田所が頷く。
「復路の日付と、変更時の連絡先まで確認します」
「そこまで決まれば話になる」
「本人の同意がないため、今日は移動しません」
田所が言った。
直樹を見る前に、自分で決めていた。
文江が目を細める。
「あんたが決めるのかい」
「いいえ」
田所は文江を見る。
「川崎さんが、今日は行かないと決めました」
直樹が聞く。
「持ち帰るものは」
「受診拒否ではありません」
田所は運行票を開く。
「復路を含む条件が整えば、再調整する。その記録です」
「それでいい」
御厨が文江へ尋ねる。
「車両までの坂は、自分で歩けそうですか」
「二回休めば歩ける」
「触れてほしい時は、川崎さんから言ってください」
「そうするよ」
森川が坂道を見る。
「本人は、二回休めば車両まで歩けると言っています。次回は休める場所も確認します」
御厨が記録へ書く。
「現時点で、自力で坂を往復していることを確認。移動距離については、診療所側にも事前確認を依頼します」
安西は取水口の上から、北側の山道を見た。
周囲を確認する。
田所、高城、森川、江藤、御厨。
文江。
少し離れた上流側に直樹。
自分を含めて八人。
単眼鏡を目へ当てる。
北側の道に、大きな崩れは見えない。
途中から木が張り出し、道幅が隠れている。
「北側の道、見える範囲に崩落なし」
江藤が地図を開く。
「車両幅は」
「確認できない。途中から木で見えない」
「次回の現地確認箇所にします」
森川が地図へ印を付けた。
安西は単眼鏡を下ろした。
見えない部分へ、言葉を足さなかった。
*
旧集会所へ戻る頃には、物資の受け渡しが終わっていた。
柴崎が受領票を見せる。
「医薬品、燃料、学用品、工具、交換部品。数量差なし。受領者署名済みです」
「川崎さんは」
芦田が尋ねる。
「今日は同行しない」
田所が答えた。
「本人の意思ですか」
「復路が確保されていない。条件が整えば再調整する」
柴崎が運行票を受け取る。
「受診拒否としては記録しません」
「本人は検査そのものを拒んでいません」
高城が言った。
「帰宅日、水路の代行、家の鍵、薬と着替え、予定変更時の連絡方法が必要です」
「本人の申告では、車両まで二回休めば歩けるとのことです」
御厨が続けた。
「自力で坂を往復しているところは確認しました。移動可能距離は診療所側の判断も必要です」
江藤が地図を広げる。
「復路候補の北側道路があります。車幅は未確認です」
柴崎は一つずつ記録した。
安西が人員区画へ入る。
積み荷を降ろした分、内部が広くなっていた。
壁際には、文江が座る予定だった折り畳み椅子が固定されたまま残っている。
田所が直樹へ聞いた。
「今回の業務は、完了ですか」
「物資は届いた」
「川崎さんは乗っていません」
直樹は折り畳み椅子を見る。
「本人が乗らないと決めた」
「運行票どおりではありません」
直樹は助手席へ向かった。
「人間は票どおりに動かない」
扉へ手を掛ける。
「理由を消さずに持ち帰れ」
芦田が、行動班に添付された同行予定者確認票を開いた。
川崎文江。
名前の横には三つの欄がある。
同行。
拒否。
不参加。
芦田は、どこにも印を付けなかった。
「柴崎さん」
「はい」
「この三つでは残せません」
柴崎が用紙を見る。
「備考欄へ記録します。区分の修正は、帰着後に申請します」
芦田は鉛筆を備考欄へ移した。
最初に書く。
受診拒否ではない。
次に、文江が提示した条件を短く記した。
最後の一行で、手を止める。
文字を確認してから、ゆっくり書いた。
帰路未確保。




