第177話 十二秒の場所
## 第177話 十二秒の場所
朝食の湯気が消えても、八人の間に会話は戻らなかった。
楢ノ沢館の食堂には、箸が椀へ触れる音だけが残っている。
麦飯。
根菜の汁。
薄い卵焼き。
安西は二杯目の飯を半分残していた。
壁の時計は午前六時十三分を示している。
十二秒。
時計を見るたび、その数字が浮かんだ。
認証筒は持っていた。
白線も見えていた。
田所を支えず、七人だけで走れば間に合った。
その考えを、安西はまだ誰にも言っていない。
「俺を置けばよかった」
田所が言った。
御厨の箸が止まる。
安西は顔を上げた。
考えていたことを、先に言われた。
「間に合ったはずだ」
田所は汁の表面を見ている。
「十二秒なら、俺を運んだ時間の方が長い」
「映像を見ないと分かりません」
柴崎が答えた。
「歩く速度は落ちました。でも、それだけが原因とは限りません」
「結果は時間超過だ」
「八人で戻ることも条件でした」
高城が言う。
「俺を置けば七人になる」
「分かってる」
「では、成功にはなりません」
「認証筒は届く」
「条件が二つあったんです」
田所が初めて高城を見る。
「医薬品なら、届ける方が大事だろ」
「昨日は医薬品ではありません」
「同じ判断を現場で迫られるかもしれない」
「朝から重いねえ」
入口から大庭の声がした。
髪が濡れている。首に掛けた手拭いの端が、作業服の襟へ入り込んでいた。
「飯を食いながら、自分を捨てる相談か」
「相談ではありません」
田所が答える。
「そういうのを相談って言うんだよ」
大庭は田所の前へ湯気の立つ茶を置いた。
「報告はあとだ。食え」
「食べています」
「減ってねえ」
大庭が安西の椀も見る。
「お前もだ」
「俺は減ってます」
「冷めただけだろ」
暖簾が揺れた。
厨房にいた直樹が、盆を持って出てくる。
左手に箸を持ち、空いている席へ座った。
「教官」
田所が呼ぶ。
「食え」
「昨日の――」
「映像は七時から見る」
直樹は飯を口へ運んだ。
「今決めるな」
「何をですか」
「誰を置いていけばよかったか」
田所が黙る。
大庭は椀を持ち上げた安西を見る。
「ほら、食え。寝てない頭で反省すると、だいたい自分が全部悪かった話になる」
「寝ました」
「足りてねえ顔だ」
安西は残っていた飯を口へ入れた。
*
午前七時。
旧館二階の記録室に、四台のモニターが並んでいた。
相原が記録端末の前へ座る。
楠本は壁際に立っていた。
直樹と大庭は、八人の後ろにいる。
「確認するのは、怪しい影の正体ではありません」
相原が言った。
「十二秒をどこで失ったかです」
柴崎が手帳を開く。
「映像にない事実は補わないでください。推測を述べる時は、推測だと分かる形で」
画面に、訓練開始時の大広間が映った。
八人が白線へ並んでいる。
天井のスピーカーから直樹の声が流れる。
『旧館二階、元配膳室』
映像が別のカメラへ切り替わった。
旧館裏の細い通路。
直樹が壁に残っていた送話器から手を離す。
「放送室ではありませんでした」
江藤が言った。
「この設備は、事前確認の時にも見えていました」
相原が答える。
「使い道を確認していなかった」
柴崎が書き込む。
「建物を見たのではなく、通れる場所だけを見ていました」
「同じ建物でも、使える場所の数が違ったってことだ」
大庭が言った。
映像が進む。
八人は大広間を出る。
角を曲がるたびに報告する。
全員が復唱する。
人数を確認し、目的を言い直す。
隊列は崩れていない。
ただ、進まない。
「開始から主階段まで、一分二十六秒」
相原が映像を止めた。
安西が画面の時計を見る。
「そんなにかかってたんですか」
「前日の反省を、全部声にしています」
柴崎が言った。
「間違えないことを優先しすぎました」
「必要な報告まで減らすなよ」
大庭が言う。
「報告を減らすんじゃない。報告するものを選べ」
映像が再開する。
二階で扉が鳴る。
きい。
ぱたん。
八人が止まった。
別角度では、窓から入った風で扉が閉じている。
「停止、九秒」
相原が表示する。
「扉が鳴ることは、事前に分かっていました」
御厨が大庭を見る。
「仕掛けたんですか」
「何もしてねえ。鳴ると知ってただけだ」
「教官たちは止まらない」
高城が言った。
「音がしても、目的と関係なければ」
「いつも無視するわけじゃない」
直樹が言う。
「何の音か分からないなら見る。全員で同じ場所を見るな」
次の映像。
姿見の前で、最後尾の高城の後ろに黒い影が重なる。
安西が振り返る。
高城も後ろを見る。
田所が確認する。
映像が拡大されると、影は高城の装備と鏡の亀裂に映った柱へ分かれた。
「停止、七秒」
相原が言う。
田所が手帳へ書く。
「この二つで十六秒」
室内が静かになる。
すでに時間超過の十二秒より長い。
「でも、この後にも遅れています」
芦田が言った。
「そうです」
相原は映像を進める。
二〇四号室の前。
田所の肩に黒い手袋が触れる。
黄色の判定帯が抜かれた。
森川が部屋へ入る。
奥の従業員通路が揺れている。
そこまでしか映っていない。
「直樹教官が部屋へ入る映像はありません」
相原が言った。
「通路にも死角があります」
「いつからいたんですか」
安西が尋ねる。
直樹は画面を指した。
「お前たちはどこを見てる」
停止画面には、八人全員が映っていた。
森川と田所は前。
柴崎は田所。
江藤と高城は廊下の奥。
御厨は田所の脚。
芦田は腕時計。
安西も奥を見ている。
「全員、前です」
柴崎が答えた。
「最後尾は高城さんでした」
芦田が言う。
「高城も前を見てる」
直樹が返す。
「教官は後ろから来たんですか」
江藤が聞く。
「そこを知って、次はその道だけ塞ぐのか」
「少なくとも一つは防げます」
「別の場所が空く」
直樹は田所の肩に触れた手袋を見る。
「お前たちは、遠くに何かいると思っていた」
「何か見せたんですか」
安西が聞く。
「見せたかもしれない」
「何もしていないかもしれない」
江藤が続ける。
「そうだ」
直樹の返事は短かった。
「前に何もいなくても、お前たちは前を見てる」
安西は画面の自分を見る。
非常灯の先にある、何もない暗がり。
全員がそこを警戒していた。
「教官は速く動いたんじゃない」
安西が言う。
「近くにいた?」
「動いてない時間の方が長い」
大庭が答えた。
「お前らが見て、誰もいないと決めた場所で待ってた」
「どこですか」
「全部教えたら、次は壁と戸しか見なくなる」
大庭は画面へ顎を向ける。
「場所じゃねえ。確認を終わらせるな」
「見続けろということですか」
芦田が聞く。
「一人で全部見るなってことだ」
直樹が言った。
「見える者に渡せ」
映像の中で、田所が壁へ手をつく。
柴崎が即座に声を出した。
『指揮を引き継ぎます』
高城が目的を戻す。
御厨が負傷を確認する。
森川が補助へ入る。
「指揮交代による停止は四秒未満です」
相原が言った。
「ここは前日より改善しています」
田所は画面を見たまま頷いた。
映像は配膳室へ進む。
安西が単眼鏡を使う。
東屋根の反射を確認する。
次に給水設備の陰へ大庭を見つける。
安西はもう一度覗いた。
さらに位置を確認する。
「人影を最初に報告してから、大庭さんと識別するまで十三秒」
相原が映像を止める。
「確認してました」
安西が言った。
「何を」
大庭が聞く。
「大庭教官かどうか」
「大庭だと分かる必要があったか」
安西は画面を見る。
高城はすでに赤い箱の前へ着いていた。
「ありません」
「人影あり。位置。そこまででよかった」
「位置は共有できました」
「そこは使えた」
大庭は単眼鏡を指す。
「見るのが悪いんじゃない。見続けた時間が余った」
安西は返さなかった。
「三回覗いて、一回だけ役に立った」
「一回だけです」
「一回あれば上出来だろ」
「三回中一回ですよ」
大庭の笑みが薄くなる。
「観測は、当てた数じゃねえ」
安西が顔を上げる。
「外した時に、仲間を道連れにしなかったかだ」
昨日の安西は大庭を追わなかった。
人影を見つけても、七人を引っ張らなかった。
それは映像にも残っている。
「はい」
安西が答えた。
相原が映像を進める。
配膳室の照明が消える。
誘導灯だけが残る。
黒い靴が幕の下を横切った。
「作業灯を切ったのは大庭さんです」
相原が言う。
「黒い靴については、別角度の記録がありません」
「大庭教官ではないんですよね」
高城が聞く。
「俺じゃねえ」
大庭が答える。
全員が直樹を見る。
「映ってない」
直樹はそれだけ言った。
「直樹教官だった可能性はある」
江藤が言う。
「別の物を見間違えた可能性もある」
「そう扱え」
直樹が答える。
「映っていない部分を、都合よく埋めるな」
戻りの映像。
田所を森川と御厨が支えている。
歩幅は狭い。
速度も落ちている。
だが、八人は止まらない。
館内電話が鳴っても、柴崎は無視を決める。
後方で扉が閉じても、安西が確認して報告するだけで進む。
最後に大広間前の影で六秒止まる。
影は演台と黒い布が重なったものだった。
相原が計測結果を机へ置いた。
「田所さんを残し、ほかの七人だけで戻った場合の正確な時刻は出せません」
田所が紙を見る。
「推定では」
「映像上の歩速から、十秒以上早まった可能性があります」
「なら、時間には間に合った」
「七人であれば」
高城が言った。
「八人で戻る条件には違反します」
「でも、俺がいなければ――」
「運べば遅くなる」
直樹が言った。
田所が黙る。
直樹は計測表へ指を置く。
「それは事実だ」
扉の音。
姿見。
単眼鏡。
最後の影。
「だが、十二秒をお前一人のせいにするな」
「俺が普通に歩ければ、間に合いました」
「そうだ」
直樹は否定しなかった。
「だから、負傷しない位置を選べ」
田所の肩に、黒い手袋が触れた時刻。
「指揮しながら、一番先に死角へ入るな」
「はい」
「負傷した後に、捨てられる理由にはならない」
田所は画面の自分を見る。
森川と御厨に支えられながら、八人の列へ戻っている。
「俺が後ろも見ていれば」
「全部、自分で見ようとするな」
直樹が言った。
「見える者を使え」
柴崎が紙へ三つの言葉を書いた。
前。
後ろ。
近く。
「前方だけではなく、停止時に確認方向を分けます」
「割り振る間に止まるなよ」
大庭が言う。
「短く決めます」
「近くは誰が見る」
森川が聞いた。
安西が胸元の単眼鏡へ触れる。
「遠くを見る奴の近くは、別の奴が見る」
大庭が口元を緩めた。
「少しは道具の使い方が分かってきたな」
「返しませんよ」
「貸してるだけだ」
「お古でしょう」
「お古にも持ち主はいる」
相原が記録端末を閉じた。
「映像確認を終了します」
直樹が立つ。
「次は」
森川が尋ねた。
「訓練は終わりだ」
八人が直樹を見る。
扉が開き、相原の部下が書類袋を持って入ってきた。
「本日予定されている定期運行があります」
相原が言った。
「八人には補助要員として参加してもらいます」
*
机の上へ、一枚の運行票が広げられた。
出発地点は楢ノ沢館。
目的地は富士東麓の旧農業集落。
医薬品。
暖房用燃料。
学用品。
交換用の工具と部品。
「輸送の最終責任と、安全判断は真柴さんが持ちます」
相原が説明する。
「八人には、積載確認、経路案、人数確認、現地での受け渡し、帰路の歩行補助を担当してもらいます」
「訓練ではないんですか」
田所が聞いた。
「業務です」
相原が答えた。
「ただし、八人だけへ任せるわけではありません」
直樹が運行票を見る。
「判断はお前たちが出せ」
「教官は」
「危険なら止める」
安西は紙へ視線を落とした。
帰路の欄に、八人とは別の名前がある。
川崎文江。
六十八歳。
右膝痛。
長距離歩行に不安あり。
楢ノ沢館の診療所で検査を受ける予定になっている。
「この人を連れて戻るんですか」
御厨が尋ねる。
「本人が同意し、移動可能と判断された場合です」
相原が答えた。
「難しい場合は無理に動かさない。現地の状態を報告し、別の手段を組みます」
「護衛対象ですか」
森川が聞く。
「同行者だ」
直樹が答えた。
「荷物じゃない」
「はい」
「出発は八時三十分です」
相原が時計を見る。
「準備を始めてください」
森川が立ちかける。
「待て」
田所が止めた。
森川の足が止まる。
昨日までなら、安西が最初に地図へ手を伸ばしていた。
今回は高城が運行票を中央へ動かした。
「最初に成功条件を分けます」
医薬品を届ける。
燃料と物資を引き渡す。
川崎文江の状態と意思を確認する。
九人で戻ることが正解とは限らない。
動かさないことが正解になる場合もある。
江藤が地図を開く。
「経路は、車両区間と徒歩区間を分けて確認します」
柴崎が白紙を出した。
「指揮と代行を決めます。途中で変更した場合も、役割は残します」
御厨は川崎文江の欄を読む。
「右膝痛だけでは、歩ける距離は分かりません」
「現地で本人に聞く」
森川が答えた。
「必要なら、車両までの補助方法も考える」
芦田は八人の名前の下へ、一行を書き足した。
川崎文江。
安西は胸元から単眼鏡を出した。
接眼部へ目を近づける前に、手を止める。
田所。
高城。
森川。
柴崎。
江藤。
芦田。
御厨。
自分。
地図の上には、もう一人の名前がある。
今度の九人目は、鏡の中にはいなかった。




