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第176話 八つ目の返事

## 第176話 八つ目の返事


 午前四時四十分。


 楢ノ沢館の裏口には、まだ夜が残っていた。


 軒下の蛍光灯が一本だけ点いている。透明な覆いの底に、羽虫の死骸が黒く積もっていた。


 八人は作業服の上から防具を着け、壁沿いに並んでいる。


 楠本が一人ずつ状態を確認した。


 江藤の唇には薄いかさぶたがある。


 芦田と高城の腹部に、昨夜より強い痛みはない。安西の脇腹にも、腫れの広がりは見られなかった。


「痛みが増えたら申告。吐き気、目まい、息苦しさも同じだ」


 楠本が記録板へ線を引く。


「動けることと、無理をしていいことは別だ。自分だけで決めるな」


 御厨が芦田を見た。


 芦田も気づき、小さく頷いた。


「全員、参加可」


 楠本は館内へ戻った。


 扉が閉じる。


 古い蝶番が、きい、と鳴った。


 最後に扉の重みが落ちる。


 ぱたん。


 安西は窓を見た。


 黒いガラスに、軒下へ並ぶ八人が映っている。


 直樹はいない。


 大庭も見えない。


「人数」


 田所が言った。


 芦田が一人ずつ顔を見る。


「田所さん。安西さん。高城さん。森川さん。柴崎さん。江藤さん。御厨さん。私。八人」


 柴崎が役割を短く確認した。


「最初の指揮、田所さん。指揮不能時は私が引き継ぎます」


「目的確認、高城。補助、江藤」


「負傷確認、御厨。補助、森川」


「人数確認、芦田。補助、安西」


 安西は胸元のポーチに触れた。


 大庭から借りた単眼鏡が入っている。


「安西、人数確認補助」


 昨日より整っていた。


 昨日より言葉が多い。


 間違えないための声が、次の声を待っている。


 裏口の横にある館内電話が鳴った。


 一度だけ。


 全員の顔が向く。


 田所が受話器を取った。


「田所です」


『開始地点へ入れ』


 直樹の声だった。


 少し割れている。


 背後に風も足音も聞こえない。


「開始条件を確認します」


『中で伝える』


 回線が切れた。


 田所は受話器を戻す。


「教官の位置は」


 安西が聞いた。


「分からない」


 柴崎が電話機の上にある切替表示を見る。


「内線と外線の両方があります。発信場所は特定できません」


「そこまで聞いてない」


「共有です」


 田所が扉へ手を掛ける。


「入る。森川、先頭。高城、最後尾」


 二人が復唱した。


 扉が開く。


 湿った畳と、古い洗剤の匂いが流れてきた。


     *


 開始地点は、一階の大広間だった。


 床に白線だけが引かれている。


 赤い通信箱はない。


 八人が線の内側へ入ると、天井のスピーカーから雑音が落ちた。


『旧館二階、元配膳室』


 直樹の声が続く。


『認証筒を回収し、この線まで持ち帰れ』


「制限時間は」


 田所が尋ねる。


『七分』


「守備側は、真柴教官と大庭教官の二人ですか」


 わずかな間が空いた。


『そうだ』


 裏口の電話より近く聞こえた。


『認証筒だけ戻っても成功にはしない』


「八人で戻る」


 高城が言った。


『そうだ』


 雑音が消えた。


 安西は天井を見た。


 どのスピーカーから聞こえたのか、もう分からない。


「目的確認」


 高城が七人を見る。


「認証筒を回収する。八人で白線へ戻る」


 田所が腕時計を構えた。


「開始」


 七分の表示が動き始める。


     *


 大広間を出る。


 正面に主階段。


 右は厨房。左には帳場と旧客室が並んでいる。


 非常灯は十メートルほどの間隔で点いていた。


 緑の光と光の間に、床も壁も同じ色になる場所がある。


 森川が先頭を進む。


 角を曲がるたび、報告と復唱が続いた。


 八人の列は崩れない。


 その代わり、足が進まない。


 安西は腕時計を見る。


 まだ階段にも着いていない。


「報告は必要なものだけにする」


 田所が言った。


 柴崎が頷く。


「異常、進路変更、役割変更に絞ります」


 主階段へ入る。


 古い赤絨毯の中央だけが黒ずんでいた。


 森川が一段目へ足を置く。


 上で、扉が鳴った。


 きい。


 全員が止まる。


 ぱたん。


 二階右側。


 安西は手すりの向こうを見た。


 動くものはない。


「二階右、扉音」


 安西が言う。


「人影は確認できない」


「共有」


 田所は階段を上がった。


 追跡の指示は出さなかった。


 二階へ出る。


 非常灯の先に、古い姿見が立っていた。


 縁の木材が膨らみ、鏡面には斜めの亀裂が入っている。


 鏡の中に、八人が縦に並んでいた。


 先頭の森川。


 最後尾の高城。


 その後ろに、もう一つ黒い影があった。


 安西が振り返る。


 誰もいない。


「何だ」


 田所が聞く。


 鏡へ視線を戻す。


 影は消えていた。


「鏡の中。最後尾の後ろに人影」


 高城が実際の後方を見る。


「後方、人影なし」


「直樹教官か」


 森川が聞く。


「分からない」


 安西は鏡の亀裂を見る。


「反射の重なりかもしれない」


 以前なら、いると言い切っていた。


 田所が頷く。


「進む」


 八人が歩き出す。


 安西は鏡を見なかった。


     *


 元配膳室は、二階廊下の突き当たりにある。


 左右の客室には、真鍮の番号札が残っていた。


 二〇三。


 二〇五。


 二〇七。


 数字の一部が剥がれている。


 板戸の下には隙間がある。


 暗い室内に、布団袋や積まれた座卓の輪郭だけが見えた。


「残り五分二十秒」


 芦田が告げる。


「前進」


 田所が答える。


 八人は歩いた。


 何も出ない。


 扉も鳴らない。


 足音だけが、同じ間隔で廊下を進んでいく。


 安西は無意識に、胸元の単眼鏡へ触れていた。


 元配膳室まで、あと三つの扉。


 田所が二〇四号室の前を通る。


 その首元に、黒い手袋が触れた。


 安西には、そこからしか見えなかった。


 腕の先も、肩も、顔もない。


 壁の暗がりから手だけが出ていた。


「田所さん!」


 安西が踏み込む。


 黄色の判定帯が抜き取られる。


 黒い袖が二〇四号室へ消えた。


 森川が板戸を開く。


 布団袋。


 外した襖。


 奥の壁。


 人はいない。


 江藤が室内へライトを向ける。


「右奥に従業員通路があります」


 棚の横に、人一人が通れる引き戸があった。


 わずかに揺れている。


 安西は向かおうとした。


「追うな」


 田所が壁へ手をついた。


 黄色の帯はない。


「田所さん、右脚に荷重制限判定」


 御厨が前へ出る。


「返事あり。呼吸あり。出血なし。歩行は補助が必要です」


「指揮を引き継ぎます」


 柴崎の声が重なる。


「全員、目的を継続。認証筒を回収します」


 誰も田所へ次の命令を待たなかった。


 高城が続ける。


「教官の制圧は目的ではありません。認証筒を回収し、八人で戻ります」


 森川が田所の右側へ入る。


「移動補助に入ります」


 田所は一瞬だけ柴崎を見た。


「先に筒を取れ」


「指揮は私へ移っています」


 柴崎が答えた。


「江藤、高城、配膳室へ。安西、前方警戒。芦田、人数」


「八人います」


 芦田が即答した。


 安西は暗い通路の奥を見た。


 引き戸の揺れは止まっている。


 そこに直樹がいた証拠は、田所の黄色い帯だけだった。


     *


 元配膳室には、古いステンレス棚が並んでいた。


 表面に非常灯の緑が細く映っている。


 赤い通信箱は、奥の作業台に置かれていた。


 床には配膳台と食器籠が残され、一直線には近づけない。


「左から回ります」


 江藤が洗浄台を見る。


「右は田所さんを通せません」


「江藤、左経路」


 柴崎が答えた。


 全員には復唱させない。


 高城と江藤が奥へ進む。


 安西は入口へ残った。


 廊下には誰もいない。


 黄色の判定帯が中央に落ちている。


 安西は拾わなかった。


 胸元から単眼鏡を出す。


 配膳室の小窓は曇っていた。


 袖で一部を拭く。


 外はまだ暗い。


 東側の屋根で、一度だけ光が反射した。


 安西は単眼鏡を下ろす。


 横を見る。


 七人を確認する。


「東屋根に反射。人影は確認できない」


「共有」


 柴崎が答える。


 もう一度覗く。


 反射したのは、割れた換気扇の覆いだった。


 視線を北西へ動かす。


 給水設備の陰に、人がしゃがんでいる。


 帽子の縁。


 肩。


 こちらを向いた顔は見えない。


「北西、給水設備の陰。人影あり」


「識別は」


「できません」


 人影が片手を上げた。


 大庭だと分かった。


「大庭教官を確認。北西、給水設備」


 外から声が飛んでくる。


「来ねえのか、安西」


 外階段を使えば追える。


 大庭を止めれば、直樹へ位置を伝えられなくなる。


「安西さん」


 高城が箱の前から呼ぶ。


「目的」


 安西は単眼鏡を下ろした。


「大庭教官は追わない。位置だけ共有する」


「惜しいな」


 大庭が笑う。


「昨日なら来たのに」


 安西は返さなかった。


「箱を開けます」


 高城が留め具へ手を掛ける。


 蓋が上がる。


 赤い認証筒が内部の固定具に収まっていた。


 江藤が作業台の下を見る。


「周囲に仕掛けは見当たりません」


「見当たらないだけです」


 高城は認証筒を抜いた。


 配膳室の照明が消えた。


 廊下の誘導灯だけが残る。


 ビニール幕の向こうから、緑色の光が差し込んでいた。


 金属棚の奥で、食器が鳴った。


 からん。


 床へ落ちた皿が、暗がりの中を回っている。


「停止」


 柴崎が言った。


「人数」


 芦田が名前を呼ぶ。


 一人ずつ返事が返る。


 八人。


「認証筒」


「高城が保持しています」


「目的継続。出口へ戻る」


 江藤が小型ライトを点けた。


 光が床を走る。


 ビニール幕の下を、黒い靴が一度だけ横切った。


「入口側、黒い靴」


 安西が報告する。


「人物は確認できない」


「追わない」


 高城が言った。


「戻ります」


 御厨が田所の左側へ入る。


 森川と二人で支える。


「田所さん、移動可能」


「江藤、先頭。安西、最後尾」


 二人が復唱した。


 隊列が動き出す。


 安西は最後に配膳室を照らした。


 空になった箱。


 金属棚。


 揺れているビニール幕。


 誰もいない。


     *


 戻りは従業員用階段を使った。


 田所は右脚へ体重を掛けられない。


 森川と御厨が歩幅を合わせる。


「残り一分五十五秒」


 芦田が告げた。


「間に合わせます」


 柴崎は言い切った。


 声が前より少し速い。


 一階へ下りる。


 廊下の途中で館内電話が鳴った。


 一度。


 全員の足が緩む。


「無視します」


 柴崎が決めた。


 二度目は鳴らなかった。


 代わりに、どこかで扉が鳴った。


 きい。


 安西は後方を見た。


 暗い廊下に人影はない。


 ぱたん。


「後方、人影なし」


 それだけを伝えた。


 隊列は止まらなかった。


     *


 大広間まで、あと一つ角を曲がればいい。


「残り三十八秒」


 芦田が言った。


 田所の歩幅が狭くなる。


 森川と御厨が支え直す。


 白線まで走れば間に合う。


 田所を置けば、確実に間に合う。


「俺をここに置け」


 田所が言った。


 柴崎は振り返らない。


「却下します」


「命令だ」


「指揮権は移っています」


「残り二十八秒」


 芦田の声。


 角を曲がる。


 大広間の扉が見えた。


 その前に、人が立っていた。


 直樹と同じ体格。


 暗い作業服。


 顔の位置だけが、非常灯の反射で白く潰れている。


「扉前、人影」


 安西が言った。


「識別できない」


 瞬きをする。


 人影はいなかった。


 扉だけが閉じている。


「進む」


 柴崎が命じる。


 江藤が左。


 安西が右へ入る。


「左、異常なし」


「右、異常なし」


 高城が扉を開ける。


 大広間は暗い。


 白線だけが、廊下の光に浮かんでいる。


「残り十五秒」


 八人が入る。


 高城が認証筒を持って中央へ進む。


 田所を支えた二人が続く。


 柴崎、江藤、芦田。


 安西が最後に入る。


 扉が背後で閉まった。


 ぱたん。


 笛が鳴った。


 照明が点く。


 安西は腕で目を覆った。


 視界が戻る。


 白線の向こうに直樹が立っていた。


 赤い通信箱の横。


 いつからそこにいたのか分からない。


「十二秒超過」


 半開きになっていた窓を押し広げ、大庭が外から入ってくる。


「認証筒はあるな」


 高城が持ち上げる。


「八人もいます」


「時間を超えた」


 直樹が言った。


 褒めない。


 責めもしない。


 安西は直樹の靴を見る。


 黒い靴底には、館内の埃が付いている。


 どこかを歩いていた。


 それだけは分かる。


 鏡の後ろに映った影。


 田所の判定帯を奪った手。


 配膳室を横切った黒い靴。


 最後に扉の前へ立っていた人影。


 どこまでが直樹だったのかは分からない。


「教官」


「何だ」


「最後、扉の前にいましたか」


「確認できなかったんだろ」


「聞いてるんです」


「俺に、推測を事実へ変えさせるな」


 直樹は赤い通信箱の蓋を開けた。


「認証筒を戻せ」


 高城が白線へ向かう。


「待ってください」


 芦田が言った。


 全員の足が止まる。


「人数を確認します」


 白線の内側に七人。


 田所だけが少し後ろにいる。


 森川と御厨に支えられ、右脚を浮かせていた。


 芦田が名前を呼ぶ。


「安西さん」


「いる」


「高城さん」


「います」


「森川さん」


「いる」


「柴崎さん」


「います」


「江藤さん」


「います」


「御厨さん」


「います」


「芦田、います」


 最後に田所を見る。


「田所さん」


 返事がない。


 田所は顔を伏せていた。


「田所さん」


 御厨が肩へ手を添える。


 田所が息を吸った。


「……いる」


 八つ目の返事が返る。


 芦田が頷いた。


「八人、確認」


 高城が白線を越える。


 七人が続く。


 時間は、もう過ぎている。


 それでも、八つ目の返事が返るまで、誰も白線を越えなかった。


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