第175話 消えた役割
## 第175話 消えた役割
楠本の確認が終わるまで、八人は旧館裏に残された。
江藤の切れた唇は浅い。芦田と高城の呼吸も戻っている。安西の脇腹も、骨や内臓を疑う痛みではない。
「腫れが強くなる、吐き気が出る、息を吸うと痛みが増す。どれかあればすぐ言え」
楠本は一人ずつ顔を見た。
「訓練を続けられることと、無理をしていいことは別だ」
御厨が芦田を見た。
芦田は気づいたが、何も言わなかった。
「大広間へ戻れ」
直樹が先に扉を開けた。
八人はついていった。
*
赤い通信箱は、訓練前と同じ場所に置かれていた。
ただし、蓋は開いている。
中に認証筒はない。
安西は空になった箱を見ないように、壁際へ立った。
脇腹はまだ重い。深く息を吸うと、殴られた位置が内側から押し返してくる。
八人が並ぶと、直樹は左のポケットへ手を入れた。
砂利を八つ、床へ落とす。
白い石。黒い石。角の欠けた石。
大きさも形も違う。
「一分四十八秒」
直樹が言った。
「俺たちが負けるまでの時間ですか」
安西が聞く。
「十三秒だ」
直樹は赤い箱を見る。
「開始十三秒で箱を失った。残りの時間は、崩れたまま動き続けた」
安西は返さなかった。
認証筒を奪われた後も、追いつけると思っていた。
最後の白線まで行けば、まだ勝負になる。
実際には、一度も同じ命令で動いていなかった。
「映像は見せないんですか」
江藤が尋ねる。
「後だ」
「記憶が違っていたら」
「違っていることを知れ」
直樹は八つの石を見下ろした。
「誰が悪かったかは探すな」
安西が顔を上げる。
「消えたものを探せ」
沈黙が落ちた。
田所が一歩出た。
「開始直後、安西が先に動きました」
「四人で行くって言っただろ」
安西が返す。
「四人は同時に動いていない」
「田所さんが遅れたからだ」
「誰への指示か分からなかった」
「前の四人に決まってる」
「決まっていなかった」
田所の声は強くなかった。
それでも、安西には言い返しにくかった。
森川と柴崎は、自分ではなく田所を見ていた。
その間に、自分だけが教官へ向かっていた。
直樹が石を二つ拾う。
一つを安西の前へ置き、もう一つを田所の前へ置いた。
「開始前、指揮者は誰だった」
「俺です」
安西は答えた。
「誰が決めた」
言葉が止まった。
誰も決めていない。
自分が最初に案を出し、ほかが動いた。
それだけだった。
「田所」
直樹が呼ぶ。
「はい」
「安西が止まった後、何をした」
「箱へ戻れと指示しました」
「指揮を引き継ぐと伝えたか」
「伝えていません」
「安西の指示は消えたか」
田所は安西を見る。
「消えていません」
安西の「前を塞げ」と田所の「箱へ戻れ」が重なった。
柴崎の足が止まった。
直樹は二つの石の間を指でなぞる。
「指揮官が二人いたんじゃない」
指先が止まる。
「指揮という役割が消えた」
柴崎が床の石を一つ拾った。
「最初の指揮者と、交代する条件が必要です」
「条件だけで動けるか」
直樹が聞く。
「交代する者が、全員へ宣言します」
「聞こえなかった者は」
柴崎は一拍置いた。
「復唱させます」
「返事ではなく?」
「内容を言い直させます」
直樹は頷かなかった。
否定もしない。
「次」
森川が前へ出た。
「廊下で、俺が教官へ追いつきました。柴崎が、俺が動けるか確認しました」
「確認は必要でした」
柴崎が言う。
「必要だ」
直樹が答える。
「誰が確認するかは決まっていたか」
「いません」
「誰が追うかは」
「それもです」
森川が石を一つ、柴崎の隣へ置く。
「俺が返事をするまで、柴崎は止まりました」
「返事が遅かったからじゃない」
直樹が言う。
「見る者と追う者を分けていなかった」
御厨の視線が芦田へ動いた。
安西にも分かった。
次は二人のことだ。
「御厨」
「はい」
「芦田のところへ戻ったな」
「倒れていたので」
「返事は」
「ありました」
「呼吸は」
「戻りかけていました。でも――」
「私は追ってと言いました」
芦田が遮った。
御厨の眉が寄る。
「倒れてる人の大丈夫は、信用できません」
「大丈夫とは言ってません。追ってと言いました」
「同じです」
「違います」
二人の声がぶつかった。
安西は口を挟めなかった。
自分なら、追っていた。
だが、芦田を残した後で悪化したら、自分が正しかったと言い切れるかは分からない。
直樹はすぐには止めなかった。
芦田が先に視線を落とした。
「私は、全体を止めたくなかったんです」
御厨の手が、わずかに握られる。
「私は、一人にしたくなかった」
「どちらも必要だ」
直樹が言った。
二人が顔を上げる。
「だから、一人で両方を決めるな」
直樹は石を二つ並べた。
「負傷者を見る者。追う者。分けろ」
御厨は石を見た。
「状態を声に出して、指示を受けます」
「指揮者がいなければ」
「自分の判断を伝えます。黙って残りません」
芦田が続ける。
「動けない者が出たら、人数も言います」
「人数を数えていたか」
直樹に聞かれ、芦田は首を横に振った。
「時間だけ見ていました」
「何人追っていた」
「分かりませんでした」
「高城は」
「箱の近くにいると思っていました」
「森川と柴崎は」
「分かりませんでした」
安西も答えられなかった。
旧館裏へ着いた時、誰が残っていて、誰が倒れているのかを把握していなかった。
ただ、目の前の教官しか見ていなかった。
「人を数える者が必要です」
芦田が言った。
「八人、とだけ数えるな」
直樹が返す。
「名前で確認します」
芦田は一人ずつ見た。
「田所さん。安西さん。高城さん。森川さん。柴崎さん。江藤さん。御厨さん。私」
「八人」
田所が言った。
芦田が頷く。
「はい」
「次」
江藤が自分から一歩出た。
「私は、洗濯室へ先回りしました」
「誰に伝えた」
「芦田さんだけです」
「ほかは」
「伝えていません」
「なぜ」
「確証がなかったからです」
「外れていたら?」
「二人が無駄になります」
「当たっていたら」
江藤が口を閉じる。
実際に当たった。
だが、ほかの六人は二人がどこへ消えたか知らなかった。
「可能性でも、言えばよかったです」
江藤は言う。
「何と」
「教官は洗濯室から裏へ出るかもしれない。私は先回りする」
三秒もかからなかった。
江藤はその短さに、自分で気づいたようだった。
高城が続ける。
「私は終了線へ行きました」
「誰に伝えた」
「誰にも」
「なぜ」
「近くに誰もいなかったので」
「声は」
高城が赤い箱を見る。
「出せました」
「何と言う」
「終了線へ先回りする。動ける人は来てください」
直樹は高城の前へ石を置いた。
「お前の判断は正しかった」
高城の目が上がる。
「一人で完成させるな」
安西は高城を見た。
高城が終了地点へ向かったことを、自分は知らなかった。
知っていれば、教官を追うのではなく、先に高城と線を守れたかもしれない。
最後に直樹が安西を見る。
「俺の右腕」
「はい」
「いつ気づいた」
「午前中です。庇ってるように見えました」
「相談中、何と伝えた」
「右が弱い。そこを潰すって」
「見えたものは」
「右腕を庇っているように見えた」
「お前が足したものは」
安西は自分の拳を見る。
「弱い、です」
「最初に受けられた後、何が分かった」
「右は使える」
「誰に言った」
喉が詰まる。
森川がこちらを見ている。
柴崎はもう答えを知っている顔だった。
「……教官に」
森川が鼻から息を漏らした。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「今、笑っただろ」
「続けろ」
直樹の一言で、二人とも黙る。
「仲間には」
「言ってません」
「なぜ」
「倒すことしか見てませんでした」
「目的は」
安西は空の箱を見る。
「箱を守ることです」
「箱を失った後は」
「認証筒を取り戻すか、終了線を越えさせない」
「誰が、それを言った」
誰も答えなかった。
直樹は八つの石を足先で中央へ寄せた。
「全員、見ていた」
安西は石を見る。
「全員、考えていた」
石はまだ触れ合っていない。
「だが、誰も同じものを持っていなかった」
田所が息を吸う。
「必要なのは、共有する仕組みです」
直樹が田所を見る。
「出せ」
田所は床へしゃがんだ。
「最初の指揮者」
石を一つ前へ置く。
「指揮不能時の代行」
その後ろへ一つ。
高城が三つ目を置く。
「目的を戻す者」
御厨が四つ目。
「負傷確認」
芦田が五つ目。
「人数確認」
柴崎が最後の石を二列の間へ置いた。
「指示の復唱」
直樹は六つの役割と、残った二つの石を見た。
「係を固定するな」
「最初の担当は決めますよね」
芦田が聞く。
「決めろ」
「違いは」
「担当は、最初に責任を持つ者だ」
直樹は先頭の石を弾いた。
石が列から外れる。
「固定は、そいつが消えた後も、誰も穴を埋めないことだ」
安西は、外れた石を目で追った。
「役割は替わる」
直樹が言う。
「消すな」
壁の時計を見る。
「三分」
田所が七人へ向き直る。
「最初の指揮は俺が取る」
「田所さんが最初の指揮」
柴崎がすぐ復唱した。
「代行は柴崎」
安西が言う。
柴崎の眉が上がる。
「理由は」
「誰の命令か、一番しつこく確認してた」
「しつこいは不要です」
「今は褒めてる」
田所が二人を止める。
「柴崎。引き受けられるか」
「引き受けます。田所さんが指揮できなくなった時、私が宣言します」
「目的確認は高城。補助は江藤」
二人が短く復唱する。
「負傷確認は御厨。補助、森川」
「確認します」
御厨が答える。
「返事、呼吸、出血、自力で動けるか」
森川が言い直した。
「人数は芦田」
芦田が安西を見る。
「補助は安西さん」
「俺?」
「先に行く人が、後ろを見ないからです」
安西は言い返しかけた。
開始直後、自分の後ろには誰もいなかった。
「分かった」
脇腹を押さえていた手を離す。
「俺が数える」
「名前で」
「分かってる」
「復唱してください」
安西は舌打ちを飲み込んだ。
「芦田ができない時は、俺が名前で確認する」
「はい」
残り一分を切っている。
田所が全員を見た。
「指示は名前から。受けた者は、自分がすることを復唱する」
「了解」
森川が答える。
柴崎が横を見る。
森川はすぐ言い直した。
「森川。指示を受けたら、内容を復唱する」
安西の口元が少し緩んだ。
森川が睨む。
「笑うな」
「笑ってない」
「今、笑っただろ」
「残り二十五秒です」
芦田が告げる。
田所は全員へ役割を短く言い直した。
指揮、田所。
代行、柴崎。
目的、高城。補助、江藤。
負傷、御厨。補助、森川。
人数、芦田。補助、安西。
指示は名前から。受けた側が復唱する。
「八人、同じ内容を持っているか」
田所が聞く。
七人が順に返した。
「時間です」
芦田が言った。
直樹は石を一つ拾う。
「今決めた人間が優秀だから機能するんじゃない」
田所の前に置く。
「誰が欠けても、次が埋めるから残る」
大広間の外で、靴音が止まった。
「いやあ、真面目だねえ」
聞き慣れない声だった。
八人が扉を見る。
作業服姿の男が、肩から小さな鞄を提げて立っている。
直樹より少し背が高い。短い髪は前だけ雑にそろい、口元には薄い笑いがある。
「いつからいた」
直樹が聞く。
「安西君が敵へ情報更新したところから」
安西の眉が動く。
「誰ですか」
「大庭航平。久世から今日だけ回された応援」
「何の」
「見物」
「帰れ」
直樹が言う。
「冗談だって」
男――大庭は中へ入った。
「観測と、明日の訓練補助。そこの愛想がない教官とは同期」
「大庭」
「本人に紹介させろよ、マッシー」
安西は直樹を見る。
直樹は訂正しなかった。
大庭は肩の鞄を開き、黒い単眼鏡を取り出した。
縁の塗装が剥げている。接眼部のゴムには細い亀裂があった。
大庭が安西の前へ立つ。
「右腕を最初に見たの、お前だろ」
「そうです」
「悪くない」
「外しましたけど」
「外したのは目じゃない」
大庭は単眼鏡を差し出す。
「その後の口だ」
安西は受け取らなかった。
「なんで俺に」
「見えてたから」
「間違ってた」
「最初はな」
大庭の笑みが少し薄くなる。
「右が使えるって分かった後、直せた」
「直しませんでした」
「そこを覚えろ」
単眼鏡がもう一度差し出される。
安西は手を伸ばした。
見た目より重い。
「新品じゃないんですね」
「俺のお古だ」
「くれるんですか」
「貸す」
「お古なのに?」
「壊したら報告書一枚」
「弁償じゃなくて?」
「金で済ませると覚えねえだろ」
安西は剥げた塗装を親指でなぞった。
「今、使っていいですか」
「やめとけ」
「なんで」
大庭は十メートルも離れていない直樹を指した。
「近くの男を見るのに、それ使ったら、横が消える」
安西は単眼鏡を下ろした。
「遠くを見る道具でしょう」
「だからだよ」
大庭は床の石へ目を落とす。
「見える範囲を狭くした時ほど、顔を上げろ」
安西は七人を見る。
田所。
高城。
森川。
柴崎。
江藤。
芦田。
御厨。
自分を入れて八人。
「分かりました」
「復唱」
柴崎が言った。
「お前、もうやるのかよ」
「決めたばかりです」
大庭が笑う。
「いいねえ」
安西は単眼鏡を握り直した。
「単眼鏡を使った後は、周りと人数を確認する」
「よし」
直樹が赤い通信箱の蓋を閉じた。
留め具が乾いた音を立てる。
「明朝五時。次の訓練を行う」
田所が聞く。
「内容は」
「認証筒の奪取」
高城が箱を見る。
「今度は、私たちが奪う側ですか」
「そうだ」
「守るのは」
大庭が自分と直樹を順に指した。
「俺たち二人」
安西は二人を見比べた。
「二人だけ?」
「安心しろ。近くなら俺はこいつより弱い」
「近くならな」
直樹が付け足す。
「余計なこと言うなよ、マッシー」
「集合四時四十分」
直樹は大庭を無視した。
「楠本の再確認を受け、装備を整えろ。五時開始」
田所が七人を見る。
「集合四時四十分。再確認と装備点検後、五時開始。目的は認証筒の奪取」
全員が短く復唱した。
「解散」
直樹が扉を開ける。
田所が廊下を確認した。
「森川、先頭。高城、最後尾」
「森川、先頭」
「高城、最後尾」
二人の返事が重なる。
「移動開始」
森川が歩き出した。
七人が続く。
安西は扉を越える前に、床を振り返った。
石は一つも残っていない。
前を向く。
先頭の森川から最後尾の高城まで、もう一度数えた。




