第174話 八人ではない
## 第174話 八人ではない
相談時間は三分だった。
大広間の奥に、赤い通信箱が置かれている。
中には認証筒が一本。
教官がそれを奪い、旧館裏の搬入口に引かれた白線を越えれば終了。八人は、それを阻止する。
説明はそれだけだった。
安西冬馬が通信箱を見て、それから大広間の反対側に立つ教官へ視線を移した。
「全員でぶつかれば終わるだろ」
最初に口を開いたのは安西だった。
ほかの七人の返事を待たず、箱と教官の間へ歩いていく。
「前から四人で当たる。抜けそうになったら、後ろの四人で押し返す」
誰も安西を指揮者に選んではいない。
声が一番大きく、迷っているように見えなかった。
それだけで、相談の中心になった。
「前へ出る四人は」
田所遼が聞いた。
「俺と田所さん。森川、柴崎も来い」
森川亮介は一度だけ田所を見た後、安西の方へ歩いた。
柴崎誠は動かなかった。
「教官を囲むんですか」
「囲む前に止める」
「配置を決めずに?」
「四人で正面から当たるんだ。配置も何もない」
安西は両手を上げ、身体ごと押し込む動きを見せた。
「一人を四人で受ける。それで終わりだ」
「教官を倒すことが条件ではありません」
江藤沙月が言った。
安西は振り返らなかった。
「倒れたら通れない」
「箱を守ることが目的です」
「だから、箱へ来る前に倒す」
自分の中では、すでに同じ意味になっていた。
田所は教官の足を見た。
安西の案は雑だった。
だが、最初の接触だけなら間違っていないとも思った。
四人で同時に身体を当てれば、一人を押し戻せる。教官がどれほど強くても、質量まで消えるわけではない。
安西が先走っても、自分が横から合わせればいい。
田所も、ぶつかった後のことまでは考えていなかった。
「残りは箱の前か」
「高城は箱から動くな」
安西が言った。
高城真帆は箱の前に立ったまま尋ねる。
「ほかの三人は?」
「抜けてきたら止めろ」
「一人で箱を守るんですか」
「こっちを四人抜いてから、お前のところへ行くんだ」
安西がようやく高城を見る。
「その前に止まってる」
高城は返事をしなかった。
自分の仕事は箱を渡さないこと。
それだけは明確だった。
「残り一分五十二秒です」
芦田真希が壁の時計を見て言った。
「余ってるな」
安西は首を回す。
「もう決まった」
「後ろの三人は、どこに立つんですか」
「空いてるところでいい」
「誰の動きを見れば」
「前が抜かれたら教官を見ろ」
安西は答えながら、教官の右腕へ視線を落とした。
午前中、教官は右腕を庇っていた。
治療を受けてから来たようにも見えた。
今は両腕を下ろし、左右の差を見せていない。
「右側は俺が行く」
「なぜ右なんですか」
御厨奈々が聞く。
「見てなかったのか」
「腕を庇っているようには見えました」
「なら、そこを使う」
「使えると言っていました」
「使えるだけだ。万全とは言ってない」
安西は右拳を左の手のひらへ当てた。
「弱い方を潰せばいい」
江藤は教官と箱の間を見る。
安西、田所、森川、柴崎が前へ出る。
その後ろに芦田、御厨、自分。
高城だけが箱へ残る。
前の四人が教官へ寄れば、その後ろの三人も同じ方向へ引かれるかもしれない。
箱の前に残るのは、高城一人になる。
それが危険なのか。
七人で押し切るために必要なのか。
江藤には決められなかった。
安西の声には迷いがない。
田所も反対していない。
今から疑問を出せば、残り時間で全体を崩すだけかもしれない。
江藤は口を閉じた。
「あと一分二十秒」
芦田が告げる。
「配置につけ」
安西が命じた。
命令する権限を渡されたわけではない。
だが森川は、すぐに安西の後ろへ入った。
動き始める合図を待っていた。
柴崎は田所へ尋ねる。
「安西さんの指示で動きますか」
田所は短く考えた。
「最初は四人で当たる」
「田所さんの指示ですか」
「今はそれでいい」
柴崎も前へ出た。
誰が指揮者なのかは決まっていない。
田所が同意したことで、命令らしい形になっただけだった。
残り五十五秒。
安西は大広間の中央に立ち、教官へ正面を向ける。
田所はその左。
森川と柴崎は二人の後ろ。
江藤、芦田、御厨は箱から数歩前へ出た位置に散る。
高城だけが箱の前から動かなかった。
誰も相談を続けなかった。
安西がつま先で床を二度叩く。
「三分も要らないだろ」
教官に聞こえる声だった。
教官は答えない。
両腕を下ろしたまま、八人を見ていた。
柴崎はグローブの留め具を確認した。
一度押さえた後、もう一度指を当てる。
森川は安西と田所の背中を見比べていた。
どちらが先に動くのか。
どちらへ合わせるのか。
まだ決まっていない。
田所は教官の右腕ではなく、足を見る。
右足がわずかに後ろ。
左が前。
安西の側へ誘っているようにも見えた。
だが、伝えるだけの根拠はなかった。
江藤は箱と教官を交互に見る。
違和感は消えない。
言葉にしなければならない。
そう思うほど、何を言えばいいか分からなくなった。
芦田は時間を数える。
三十九秒。
三十八秒。
三十七秒。
何かが足りない。
しかし、足りないものの名前が分からない。
毛布なら数えられる。
水なら本数を言える。
目の前にない役割は、どう数えればいいのか知らなかった。
御厨は教官より、前列の四人を見ていた。
安西の右肩。
田所の拳。
森川の前へ傾いた重心。
柴崎の固い呼吸。
最初に誰かが倒れるとすれば、あの四人のうちの誰かだと思った。
その時、自分が教官を見るのか、倒れた者を見るのか。
まだ一度も選んだことがなかった。
高城は箱の前に立っていた。
ほかの七人が教官を止める。
自分は箱を守る。
それぞれが仕事を果たせばいい。
その二つが同時には成立しない場合があることを、高城はまだ知らなかった。
八人は同じ場所にいた。
だが、互いが何を見ているかは知らなかった。
*
裏のモニター室では、四人が大広間を見ていた。
「安西が先頭になりました」
相原が言う。
「選ばれたんじゃない」
楠本は八人の立ち位置を確認していた。
「ほかが黙っただけ」
末安さんは相談中の発言を記録している。
「田所さんが同意したことで、柴崎さんも動きました」
「止めますか」
相原が尋ねる。
「何を?」
楠本が返す。
「この配置です」
「配置を直す試験じゃないよ」
ミーシャは安西の映る画面を見ていた。
「教官を倒せば終わると思ってる」
「違うと教えますか」
「今、言えば覚える」
ミーシャは首を振った。
「でも、自分が何を見るかは分からない」
末安さんが記録用紙をめくる。
「知識ではなく、選択として残します」
残り十秒。
安西が両拳を上げる。
柴崎も構えた。
森川は田所の動きを待つ。
高城は箱の正面から動かない。
「いつでもどうぞ、教官」
安西が言った。
言葉は丁寧だった。
顎の上がった姿勢と、薄い笑いには敬意がない。
柴崎が一瞬だけ安西を見る。
田所の眉が動いた。
教官は反応しなかった。
右足を半歩、後ろへ置く。
安西の視線が右腕へ向く。
傷めた腕を守るため、左側を前へ出した。
そう見えた。
「行く」
安西が言った。
誰への指示かは分からない。
開始音が鳴る。
安西だけが、最初の一歩を踏み出した。
田所は半拍遅れた。
森川は田所を見た。
柴崎は、誰の一歩へ合わせるべきか判断しようとした。
四人で同時に当たるはずだった形は、最初の一歩ですでに崩れていた。
*
安西が距離を詰めた。
「右、潰すぞ!」
左拳を伸ばす。
顔を打つためではない。
教官の視線を上げ、そのまま肩から身体をぶつけるための拳だった。
教官の右足が動く。
後ろではない。
安西の前足の外へ、斜めに入った。
正面にいたはずの身体が、視界から半分消える。
安西が向きを変えようとした時、左の脇腹へ拳が入った。
教官の拳は、人を壊す位置ではなく、次の動作を消す位置へ置かれた。
安西の喉から空気が漏れる。
腹を固める前に呼吸を切られ、上半身が折れた。
教官は追撃しない。
倒れかけた安西の肩へ左手を添え、その身体を田所との間へ流す。
「安西!」
田所は避けた。
支えなかった。
今は教官を止める方が先だと判断した。
右へ一歩。
森川も田所の右へ動く。
柴崎は左を埋めようとして止まった。
安西が息の戻らない喉で叫ぶ。
「前を塞げ!」
同時に田所が、
「箱へ戻れ!」
と声を上げた。
柴崎の足が止まる。
前を塞ぐのか。
箱へ戻るのか。
どちらが自分への指示なのか。
教官は、その一秒を通った。
*
「六秒」
相原が言った。
「隊形消失」
「打撃で止まったのは安西だけ」
ミーシャが答える。
「残り三人は、自分たちの声で止まった」
楠本は安西の胸郭を見る。
「呼吸は戻る。追える」
*
教官は赤い通信箱へ向かった。
高城が箱の前に立つ。
両腕を上げた。
「渡しません」
教官は答えない。
左足を前へ出し、高城の正面へ入る。
高城は拳を打たなかった。
箱から離れなければいい。
教官の左肩がわずかに動く。
高城は顔を守るため、右腕を上げた。
拳は来ない。
教官は左のグローブを高城の視界へ置いたまま、前腕をガードの外側へ差し込んだ。
肩を寄せ、左足を軸に半歩回る。
高城は正面を保つために足を踏み替えた。
二人の位置が入れ替わる。
箱は高城の背後。
身体は箱と平行になり、正面が空いた。
教官の左手が留め具へ届く。
「させない!」
高城が腕をつかもうとした。
教官の右拳が胸の下へ入る。
高城の呼吸が途切れた。
倒れはしない。
だが、次の一歩が出ない。
箱の蓋が開いた。
赤い認証筒が抜かれる。
「右、使えるじゃねえか……」
安西が腹を押さえながら顔を上げた。
教官は見なかった。
認証筒を左手へ移し、大広間の扉へ向かう。
「追え!」
安西が叫んだ。
六人が一斉に教官へ向かう。
高城も息を戻そうとしながら、その背を見た。
箱の前には、誰も残っていなかった。
*
開始十三秒。
通信箱、失陥。
相原が時刻を記した。
「試験はまだ続いています」
末安さんが言う。
「でも、守備課題はもう終わった」
ミーシャが答えた。
*
大広間の外は、二人が並べば肩が触れるほどの中廊下だった。
右に厨房。
左に資材庫。
正面は旧館へ続く渡り廊下。
教官は走っていない。
速足で進みながら、背後の足音を聞いている。
最初に追いついたのは森川だった。
「教官、止まれ!」
森川が右拳を伸ばす。
教官は振り返りながら、拳の外へ頭をずらした。
森川の腕の内側へ入り、右の拳を腹へ置く。
森川は固めていた。
教官はそこで勝負しない。
左のグローブをヘッドガードの右端へ当て、視線だけを横へ流す。
森川の手が壁へつく。
倒れてはいない。
服をつかもうとした手は空を切った。
「森川!」
柴崎が追いつく。
「続行できるか」
「行け!」
田所の声が後ろから飛ぶ。
柴崎は教官を見る。
次に森川を見る。
森川が返事をするまでの間に、教官との距離が開いた。
「動ける!」
森川が言った時には、柴崎も走り出していた。
教官は渡り廊下の手前で向き直る。
柴崎も足を止めた。
認証筒を奪う。
進路を塞ぐ。
後ろが来るまで時間を作る。
誰からも指示はない。
教官が一歩出る。
柴崎は反射的に両腕を上げた。
左拳がガードへ当たる。
続く右へ備え、肘を閉じる。
右は来ない。
教官の左足が柴崎の外へ回る。
柴崎が向きを変えたところへ、肩が胸へ入った。
背中が壁の保護材へ沈む。
呼吸が乱れ、足の位置を失う。
教官はその横を通った。
「待て!」
柴崎が手を伸ばす。
教官は待たない。
*
「森川が打撃で失ったのは一秒です」
相原が言った。
「残りは、柴崎が返事を待った時間」
「確認は必要です」
末安さんが答える。
「ただし、誰が確認し、誰が追うかはありませんでした」
楠本は二人が壁から離れるのを見る。
「戻れる」
ミーシャが別の画面を指した。
「江藤、先へ行った」
*
江藤は教官の背だけを追わなかった。
渡り廊下へ向かう姿を見た瞬間、別の可能性が浮かんだ。
旧館裏の搬入口へ向かうなら、最短路は渡り廊下。
全員がそう考えて追う。
教官も、それを知っている。
「芦田さん、こっち」
江藤は厨房脇の扉を開けた。
従業員用の外階段へ続く通路だった。
「教官を追わなくていいんですか」
「下へ先回りします」
「確かですか」
江藤の足が一瞬止まる。
確かではない。
「たぶん」
二人は外階段を下りた。
冷たい空気が頬へ当たる。
階段の先に、旧館一階の洗濯室がある。
江藤は扉の前へ立った。
芦田が尋ねる。
「今、何人が追っていますか」
「分かりません」
「高城さんは?」
「箱の近くにいたと思います」
「安西さんは」
「追ってきています」
「森川さんと柴崎さんは」
「分かりません」
芦田は黙った。
江藤は、自分の答えがすべて推測であることに気づく。
館内から足音が近づいてきた。
「来ます」
「教官が?」
「はい」
今度は言い切った。
洗濯室の扉が開く。
教官が現れた。
予測が当たったことに、江藤自身が一瞬驚いた。
「右を塞いでください!」
芦田へ声を掛け、自分は左へ入る。
教官の左肩が動く。
江藤は両腕を上げた。
左拳がガードへ当たる。
視界が塞がる。
教官の身体が右へ動いた。
「右!」
芦田が進路へ入る。
教官は右へ抜けなかった。
芦田を右へ呼び、自分は左へ戻る。
江藤も追う。
距離が近すぎた。
江藤が下がろうとした瞬間、左グローブが口元へ入った。
唇が歯へ当たり、血の味が広がる。
顎が上がった。
教官の肩が胸へ入り、江藤の身体が扉の外へ押し出される。
芦田が戻った。
認証筒と教官の間へ立つ。
「退け」
教官が言った。
芦田の肩が揺れた。
怖かった。
拳を打てるとは思わない。
教官を倒せるとも思わない。
だが、立つ場所だけは分かった。
「退きません」
教官の左拳がガードへ当たる。
腕が顔へ押しつけられる。
芦田は下がらない。
二発目。
足が半歩ずれる。
それでも戻る。
「倒せません」
芦田が言った。
「でも、通しません」
教官は三発目を顔へ打たない。
左足を芦田の外へ置く。
芦田も横へ動く。
その踏み替えに合わせ、右拳が腹へ入った。
息を吐いた直後だった。
芦田の膝が床へ落ちる。
教官は横を通った。
「洗濯室!」
芦田が床へ手をつきながら叫ぶ。
「裏庭へ行きました!」
江藤は唇を押さえていた手を離した。
血は少ない。
芦田を見る。
顔は上がっている。
「返事できますか」
「できます」
「立てますか」
「今は無理です」
江藤は一度迷った。
「追って」
芦田が言う。
江藤は頷き、教官を追った。
*
「江藤が先へ行きました」
相原が言った。
「芦田の返答を受けて」
末安さんが記録する。
「置き去りではありません。本人へ確認した上で、追跡を選択」
楠本は芦田の呼吸を見ていた。
「すぐには走れない。でも、自力で戻る」
*
御厨は芦田の声を聞き、教官ではなく階段側へ向かった。
床に膝をつく芦田が見える。
「芦田さん!」
「大丈夫です」
「どこを打たれたの」
「腹です。でも、教官は裏庭へ」
「息は?」
「戻ります」
御厨は芦田の肩へ触れた。
「待って。立たないで」
「追ってください」
「でも」
「追って」
芦田がもう一度言った。
御厨の手は離れない。
江藤が洗濯室の入口から振り返る。
「返事ができています」
「だからって、一人にするんですか」
「芦田さんが、自分で追えと言いました」
「でも――」
「私たちが残ったら、芦田さんが止めた時間もなくなります」
御厨は芦田を見る。
芦田が頷いた。
ようやく手を離す。
二人が洗濯室へ入った時、教官は裏口の前にいた。
「教官!」
御厨が走る。
教官が振り返り、認証筒を右手へ持ち替えた。
御厨の視線が右手へ動く。
つかもうと腕を伸ばす。
教官は半歩下がり、右手を身体の後ろへ隠した。
御厨がさらに前へ出る。
足が揃う。
左拳が脇腹へ入り、呼吸が漏れた。
それでも御厨は袖へ手を伸ばす。
「芦田が倒れた」
教官が言った。
御厨の目が階段側へ動く。
その一瞬に、教官は外側へ回った。
御厨の手が空を切る。
教官は打たずに裏口を抜けた。
「今のは――」
江藤が言いかける。
「分かってる!」
御厨が返した。
分かっていても、見てしまった。
御厨は階段側へ顔を向けかける。
途中で止めた。
「行きます」
今度は自分から言った。
*
高城は大広間で呼吸が戻ると、教官の後を追わなかった。
箱の先にある目的地を考えた。
大広間脇の資材搬入口を抜け、建物の外周へ出る。
砂利道を走り、旧館裏の終了線へ先回りした。
教官を捕まえるより、教官が最後に来る場所へ行く方を選んだ。
旧館裏には薪置き場と古い給湯設備がある。
その先に搬入口。
白い終了線は、扉の二メートル手前へ引かれていた。
教官が洗濯室から出た時、高城は線の前に立っていた。
「認証筒を置いてください」
教官は歩みを止めない。
「箱を守れなかった」
「今度は、ここを守ります」
「一人で?」
午前中、安西から言われた言葉だった。
「一人でも、今はここにいます」
教官が左へ動く。
高城も左へ。
右へ。
高城も右へ。
拳だけを見ない。
認証筒だけも見ない。
腰と足を見る。
教官が踏み込む。
高城が左拳を出した。
グローブの先が、教官の頬へ触れる。
浅い。
それでも届いた。
高城は追わない。
終了線の正面へ戻る。
教官の足が止まった。
右肩をわずかに落とす。
午前中、負傷を装った時と同じ動きだった。
高城は反応しない。
左拳がガードへ当たる。
続く右も受ける。
前腕が痺れた。
教官は左のグローブを高城の視界へ置き、前腕をガードの外側へ差し込んだ。
肩を寄せて半歩回る。
高城は正面を保つため、足を踏み替えた。
砂利が滑った。
教官の左拳が腹へ入る。
身体が折れる。
それでも高城は倒れながら袖をつかんだ。
布が伸びる。
教官は振りほどかない。
高城の引く力を使い、一歩前へ出る。
高城の重心が崩れ、両手が砂利へついた。
指が袖から離れる。
だが、高城が作った数秒で、二人が間に合った。
田所と安西が旧館の角を回り、終了線の前へ滑り込む。
田所が線の中央。
安西がその右。
高城は教官の後方にいる。
教官が白線へ到達するには、二人を抜かなければならない。
「左右に分かれる!」
田所が言う。
安西は教官の右側へ寄った。
「使えるんだな」
右腕を見て言う。
「使える」
「どこまで」
「来れば分かる」
右手が低い。
安西には、誘っているように見えた。
それでも踏み込む。
左拳を顔へ伸ばし、そのまま肩からぶつかる。
右腕を使わせない距離へ入る。
教官の左手が拳を外へ流した。
安西は止まらない。
肩を押し込む。
教官の右前腕が、安西の肩を受けた。
衝突を止めず、下へ流す。
安西の重心が前へ落ちる。
右拳が胸の中央へ入った。
安西自身の勢いと重なる。
足が砂利を滑り、片膝が落ちた。
「使えないんじゃなかったのか」
「誰が言った」
教官は答えた。
安西が顔を上げる。
教官はその目を一度見た。
何も聞かない。
田所は安西へ行かなかった。
教官と終了線の間を塞ぐ。
「来てください」
教官が前へ出た。
田所の左拳が伸びる。
教官は外へ流す。
続く右が胴体へ入った。
浅い。
それでも教官の呼吸が一度変わる。
田所は追わず、終了線の前へ戻る。
教官が右へ動く。
田所も右へ。
左へ。
田所も左へ。
教官の左拳がガードへ当たる。
右を肘で受ける。
田所は下がらない。
短い右を返した。
教官の頬へ入る。
頭がわずかに動いた。
届いた。
もう一発なら押し戻せる。
その思いが、終了線より先に身体を動かした。
田所の足が半歩、前へ出る。
教官の左足が、その外側へ入った。
田所は終了線へ戻ろうと身体をひねる。
右拳がその動きへ重なる。
胸郭の下。
身体へ力を入れ直す瞬間だった。
田所の呼吸が切れる。
膝は落ちない。
拳を返そうとする。
教官の左がガードへ当たり、視線が上がる。
教官の右足が田所の横を通った。
「田所さん!」
江藤の声が裏口から届く。
田所が振り向く。
教官は白線の手前にいた。
田所が手を伸ばす。
届かない。
左足が線を越える。
続いて右足。
赤い認証筒が、線の向こうの回収箱へ落ちた。
乾いた音がした。
*
楠本の笛が鳴った。
一回。
終了。
教官はその場で振り返った。
田所が腹を押さえて立っている。
安西は片膝。
高城は砂利へ両手をついていた。
洗濯室から江藤と御厨。
その後ろから森川と柴崎が来る。
芦田も、壁へ手を添えながら歩いてきた。
八人全員がいた。
一度は足を止められた。
それでも、誰も最初の場所には残っていなかった。
「時間」
教官が言う。
館内回線から相原の声が返った。
『一分四十八秒』
安西が息を整えながら笑った。
「八人相手に、逃げ切ったってわけですか」
「違う」
教官が言った。
「お前たちは一度も八人で来てない」
安西の笑みが消える。
教官は回収箱から認証筒を取り出した。
「大広間へ戻れ」
「反省会ですか」
柴崎が聞く。
「何が起きたか並べろ」
「映像は見せてもらえますか」
江藤が尋ねた。
「後だ」
「間違っていたら」
「直せ」
教官は安西へ一度だけ視線を向けた。
右腕のことを、なぜ知っていたのか。
まだ聞かない。
安西はその視線の意味に気づき、口を閉じた。
教官は旧館の扉へ向かう。
田所が全員を見た。
安西。
高城。
森川。
柴崎。
江藤。
芦田。
御厨。
自分。
八人いる。
今度は口に出さなかった。
「来い」
教官が扉を開ける。
八人は同じ扉へ向かった。
まだ隊列にはなっていない。
それでも今度は、誰も先に走らなかった。




