第173話 八人が揃う日
##第173話 八人が揃う日
楢ノ沢館の玄関には、新しい木材と古い畳の匂いが混じっていた。
交換された床板は、周囲よりわずかに明るい。壁際には切り落とした角材や工具箱が残り、玄関から中広間まで、赤いテープで区切られた通路だけが真っ直ぐに空けられている。
道路側の窓には、試作の防護板が取り付けられていた。
鉄板ではない。
木枠へ複数の素材を重ねたもので、内側の取っ手を引けば開く。ただし、閉めたままにする時には、理由と時刻を窓脇の用紙へ残さなければならない。
暖房が動くのは一階だけだった。
二階で使用可能な八室のうち、四室が初期訓練生の宿泊室に割り当てられている。残る四室は予備個室、教官当直室、通信室、保全記録室として使う。
浴場は半分が立入禁止。
通信室の床には、まだ仮設の線が這っていた。
完成には遠い。
それでも今日から、八人の初期訓練生がここで生活する。
玄関脇の旧帳場には、二つの受付机が置かれていた。
一つには末安えり。
もう一つには楠本カレン一曹が座っている。
末安さんが確認するのは、受入同意、所持品、連絡先、記録の扱い。
楠本が見るのは、装備と身体状態、それから本人が申告しない動きの偏りだった。
受付の天井近くには、小型の撮影装置が二台設置されている。
映像だけではない。
共用部で交わされた声も、安全管理と初期評価の範囲で記録される。
居室、浴場、面談室は対象外。
閲覧できるのは、相原、末安、楠本、そして戦闘動作の観察補助として参加するミーシャだけだった。
ミーシャには、身元、家族、治療歴などの個人記録は開示されない。
映像と音声は選考記録の確認期間を終えた後に消去する。事故や異議申立てがあった部分だけが、理由を明示したうえで保全される。
その条件は、八人が署名する受入同意書にも書かれていた。
映像は旧帳場の裏に設けられた小部屋へ送られている。
小部屋には四台のモニターが並んでいた。
相原忍一尉が、候補者の到着時刻と輸送記録を照合している。
その隣にミーシャがいた。
椅子へ深く座らず、画面へ身体を寄せている。
「最初、来た」
玄関前の映像に、一人の男が入った。
*
最初に到着したのは、田所遼だった。
予定時刻より二十六分早い。
大きな背嚢を右肩へ掛けたまま、玄関前で建物を見上げる。
屋根。
道路側の窓。
外階段。
駐車場から玄関までの勾配。
視線が建物全体を一周してから、ようやく入口へ向いた。
「建物から見るんですね」
相原が言った。
「出口と、壊れそうなところ」
ミーシャは田所の目の動きを追っていた。
「人より先に、問題を探す」
玄関脇には、搬入作業で使われた角材が二本残っていた。その端が、赤い通路へわずかにはみ出している。
田所は背嚢を下ろさず、角材へ手を掛けた。
「そこへ置いておいて」
楠本の声がした。
田所が振り返る。
「通路に出ています」
「見れば分かるよ」
「では、動かします」
「誰に頼まれた?」
田所の手が止まった。
「誰かがつまずく前に片づけるべきだと思いました」
「それは正しい」
楠本は角材の下を顎で示した。
「でも、下に仮設線がある。引けば抜けるよ」
田所がかがむ。
黒い線が一本、角材の下を通っていた。
「確認不足でした」
「謝る前に荷物を置きな」
「はい」
「角材は作業員と動かす」
田所は背嚢を壁際へ下ろした。
赤い通路には掛けない。
「名前」
「田所遼です」
「知ってる。自分の口で言えるか見ただけ」
田所は返事をせず、差し出された受入票を受け取った。
目の前に問題があれば、身体が先に動く。
誰かが判断するのを待っている間に、助けられたはずの人間を失うことがある。
田所はそれを知っていた。
動かなかった記憶を、もう増やしたくなかった。
末安さんは、田所の受入票へ性格を書き込まなかった。
事実だけを残す。
到着直後、通路上の資材を発見。
周囲確認前に移動を試みる。
指摘後、行動停止。
モニター室で相原が到着時刻を入力した。
「早着。指示前の作業介入」
「止めたら、止まった」
ミーシャが答えた。
「そこは残す」
*
二人目は江藤沙月だった。
玄関へ入った瞬間、挨拶より先に左を見る。
非常口。
次に右。
旧帳場。
壁の時計。
赤い通路。
階段。
田所の背嚢。
楠本。
末安さん。
視線が一つずつ止まり、最後に受付机へ戻ってきた。
「江藤沙月です。本日付で着任しました」
「末安です。受入書類を確認します」
「はい」
末安さんが記入机を示す。
江藤は椅子へ座る前に尋ねた。
「こちらを使って間違いありませんか」
「空いている席を使ってください」
「分かりました」
机には筆記具が二本置かれていた。
一方には紐が付いている。
江藤は紐のある方を選び、必要事項を埋めた後、紙の右下へ到着時刻を書き足した。
「そこは記入欄ではありません」
「必要かと思いました」
「こちらでも記録しています」
「消しますか」
「残して構いません」
怒られてはいない。
それでも江藤は、末安さんの顔を一度確かめた。
余計なことをしたかもしれない。
正しいと思って口にしたのに、責任だけを渡された経験がある。
見えていても、言わない方が安全な時がある。
江藤はそう覚えてきた。
「建物へ入ってから、何を見ましたか」
末安さんが尋ねた。
「非常口、階段、時計、通路です」
「人は?」
「田所さんと、受付のお二人です」
「外の作業員は」
江藤の目がわずかに動く。
「見落としました」
「謝る必要はありません」
末安さんは書類を閉じた。
「次は楠本一曹です」
楠本は江藤の指先へ触れ、冷えと震えを確かめた。
「答える前に息を止めるね」
「緊張しています」
「そうかもね」
手を離す。
「緊張がなくなるまで待ってから、しゃべれる現場ばかりじゃないよ」
「はい」
江藤が階段へ向かう。
モニター室で、ミーシャが映像を少し戻した。
「見えてる」
「作業員は見落としました」
「全部見る人はいない」
ミーシャは、江藤が田所の背嚢へ視線を止めた場面を指した。
「見たものを、どこまで言えるか」
*
三人目の芦田真希は、運搬車両から降りる際、自分の荷物より先に、同乗者が落とした水筒を拾った。
「落ちました」
運転手へ渡し、自分の小さな背嚢を背負う。
受付を終えて食堂へ入ると、机の上の水差しを見た。
紙コップは十二。
椅子は十脚。
壁際の毛布は七枚。
一枚足りない。
「何を見てる?」
楠本が尋ねた。
「何も」
「嘘だね」
芦田は毛布を見た。
「七枚しかありません」
「八人分必要?」
「二階は冷えると聞きました」
「自分の分は?」
芦田は一瞬黙った。
「私は服を重ねれば大丈夫です」
「そういう話じゃない」
楠本は毛布を一枚、芦田へ渡した。
「受付へ戻って、足りないと言いな」
「私がですか」
「気づいたのはあんただろ」
「ほかの方が必要なら」
「自分を八人から外すな」
芦田は毛布を抱え、受付へ戻った。
「毛布が一枚足りません」
末安さんが確認する。
「誰の分が?」
「私以外の七人です」
「それでは不足していませんね」
芦田の指に力が入る。
「私の分も必要です」
「では、言い直してください」
「八人分に対して、毛布が一枚足りません」
「受けました」
予備室の鍵が開けられる。
モニター室で相原が物資表を確認した。
「毛布は意図的に一枚抜いています」
「誰が見つけるか」
ミーシャが言った。
「見つけた。でも、自分を数えなかった」
*
安西冬馬は、玄関へ入る前に大広間を覗いた。
柱と柱の間。
壁までの距離。
床材の滑り。
何人並べるか。
中央に置かれた、灰色の布を掛けた四角い物体より、そこで人間がどう動けるかを見ていた。
「大広間が気になりますか」
末安さんが尋ねる。
「広いと思っただけです」
「何をするには?」
安西は少し笑った。
「集合教育でしょう」
「そうですね」
提出した経歴書には、説明のない期間があった。
末安さんの視線がその空白へ落ちるたび、安西の右拳がわずかに閉じる。
楠本が右肩へ触れた。
「腕、上げて」
安西が上げる。
「もう一度」
「支障はありません」
「聞いてない。もう一度」
二度目は、わずかに遅かった。
「古傷?」
「昔のものです」
「痛みは」
「ありません」
「疲れた時に動きが変わったら止める」
「自分で判断できます」
「それを決めるのは、あんただけじゃない」
安西の笑みが消える。
モニター室で、ミーシャは足の位置を見ていた。
「大広間を見てから、右足が前に出た」
「戦うことを想定した?」
「たぶん」
ミーシャは断定しなかった。
「当てた後に、戻れるか見たい」
*
柴崎誠は、予定時刻の三分前に到着した。
靴を脱ぐと、使う棚を確認した。
「空いている場所へ」
末安さんが答える。
「指定はありませんか」
「ありません」
「では、一番端を使います」
署名。
健康状態。
所持品。
規則の受領。
質問欄。
すべてを上から順に埋め、末安さんへ差し出した。
「確認をお願いします」
「受領します」
「不備があれば、今のうちに教えてください」
「こちらで確認します」
「はい」
末安さんは書類を受け取った後、尋ねた。
「二つの指示が同時に来たら、どうしますか」
「上位者の指示を優先します」
「どちらが上位か分からなければ」
「確認します」
「確認できなければ」
柴崎は考えた。
「待機します」
「待機で被害が出る可能性があっても?」
「権限のない判断で、被害を広げる可能性があります」
「分かりました」
モニター室で相原が言う。
「手順は安定しています」
「手順が消えた時を見る」
ミーシャが答えた。
*
御厨奈々は、館内へ入ってから何度も人の手を見ていた。
田所の右手。
江藤の冷えた指先。
毛布を抱えた芦田の左肩。
荷物を持つ時だけ動きが変わる安西の右肩。
「古傷ですか」
安西が振り返る。
「何が」
「右肩です」
「見てたのか」
「動かしにくそうだったから」
「問題ない」
「でも――」
「問題ないって言ってる」
御厨は口を閉じた。
それでも視線は肩へ残る。
楠本が空の水差しを渡した。
「厨房から水を持ってきて」
「安西さんの肩が」
「私は見た」
「隠しているかもしれません」
「そうかもね」
「確認しなくていいんですか」
「今は、あんたの仕事じゃない」
「放っておくんですか」
「違う」
楠本は水差しを御厨の手へ押しつけた。
「一人の人間を、全員で心配するな。私は安西を見る。あんたは水を持ってくる」
御厨は何度も安西を振り返りながら、厨房へ向かった。
相原がモニター越しに尋ねる。
「人の変化には早い」
「引き渡せるかを見る」
ミーシャが答えた。
*
森川亮介は、運搬車両から降ろされた箱を一人で二つ持った。
「一つでいいですよ」
芦田が言う。
「持てます」
「部屋は二階です」
「二つを中へ運ぶよう指示されました」
「中って、玄関までじゃないですか」
森川は止まった。
箱は下ろさない。
「確認します」
二つを持ったまま、運転手のもとへ戻っていく。
相原はその動きを見た。
「命令確認はする」
「確認する時間がある時は」
ミーシャが言った。
「急いだ時に、目的へ戻れるか」
*
最後に到着した高城真帆は、定刻の十分前だった。
遅刻はしていない。
それでも、ほかの七人が揃った玄関へ入った時、自分だけが待たせたように見えた。
受付で封筒を渡される。
「二階の保全記録室へ入れてください」
末安さんが言った。
「担当者へ直接ですか」
「受領箱へ」
「途中で別の指示があった場合は」
「先に封筒を届けてください」
「分かりました」
高城は封筒を胸元へ抱え、二階へ上がった。
作業員とすれ違っても、江藤から挨拶されても、歩みを止めない。
受領箱へ封筒を入れ、蓋が閉じたことを二度確かめる。
階段へ戻る途中、廊下の端で芦田がほどけた靴紐を結んでいた。
高城の足が一度止まる。
芦田に異常はない。
助けも求められていない。
高城は、自分の荷物が残る一階へ戻った。
「見えてはいますね」
相原が言った。
「見た上で、持ち場を選んだ」
ミーシャが答える。
「正しいかは、状況で変わる」
*
八人の受付が終わったのは、午前十時五分だった。
末安さんが受付終了の札を裏返す。
楠本は玄関を確認し、赤い通路へ荷物が出ていないことを見てから、旧帳場の奥へ入った。
モニター室には相原とミーシャが待っている。
机の上には八人分の受入票。
壁には、名前だけを書いた紙が八枚貼られていた。
順位も、適性も、役職候補もまだ書かれていない。
「受付終了です」
末安さんが言った。
「確認できた行動と、そこからの推測を分けます」
「了解しました」
相原が答える。
「推測は、推測と言う」
ミーシャも確認した。
ブリーフィングは十時十分から始まった。
相原が運用。
楠本が身体。
末安さんが発言と記録。
ミーシャが、戦闘時に相手からどう見えるかを担当する。
「田所」
相原が名前を指す。
「通路上の問題を発見。確認前に介入」
「身体は問題なし」
楠本が続ける。
「止めれば止まる。でも、助ける物が出た時に指揮まで持っていくかもしれない」
「推測です」
末安さんが確認する。
「うん」
「謝罪が早いです。理由の整理より先に、自分で責任を閉じる傾向があります」
相原が紙へ書く。
緊急対象への即応。
介入前確認と指揮移譲を要確認。
「江藤」
「観察情報は多いです」
末安さんが言う。
「自分の認識より、質問した側の反応を優先する可能性があります」
「質問だけで呼吸が止まった」
楠本が続ける。
「声が必要な場面で、同じことが起きるかを見る」
「見えているものを言えるか」
ミーシャが言った。
「違うと思った時も」
「芦田」
「物資と残数を見ています」
相原が答える。
「補給管理の素地はある」
「自分を数えない」
楠本が言った。
「そこが危ない」
「本人には、受け取る資格がないという感覚があるかもしれません」
末安さんが言う。
「推測です」
「役目を渡された時に、守れるかを見る」
ミーシャが答えた。
「安西」
「右肩に軽い左右差。現状は続行可能」
楠本が報告する。
「経歴には空白がありますが、今回の身体評価とは分けます」
末安さんは安西の個人記録を伏せたまま話す。
ミーシャには経歴書は見せられていない。
「拳は使える」
ミーシャが映像だけを見て言う。
「たぶん、八人の中で上」
「指揮候補ですか」
相原が尋ねる。
「当てたあとを見る」
ミーシャは答えた。
「勝てると思った時、目的へ戻れるか」
「柴崎」
「規則と命令系統の確認は正確です」
相原が言う。
「緊張はあるけど、手順がある間は崩れない」
楠本が加える。
「越権を恐れている可能性があります」
末安さんが言う。
「命令が途切れた時に、目的から判断できるか」
ミーシャがまとめた。
「御厨」
「身体変化への感度が高い」
楠本が言う。
「でも、一度見つけた人から離れにくい」
「救護を独占する可能性があります」
末安さんが言った。
「悪意ではなく、引き渡すことへの不安です」
「一人を助けた後、残りを見られるか」
ミーシャが答える。
「森川」
「身体能力と命令移行は安定」
相原が言う。
「曖昧な命令は確認する」
「時間がなくても確認を続けるかを見る」
楠本が答える。
「命令を守ることと、目的を守ることを分けられるか」
末安さんが書き残す。
「高城」
「任された物の管理は確実です」
相原が言う。
「周囲も見えてる」
楠本が続けた。
「芦田に気づいて、止まった。それでも封筒を優先した」
「その時点では、指示どおりです」
末安さんが言う。
「物と人の両方を守れない状況で何を選ぶか」
ミーシャが答えた。
八人分の紙が埋まる。
それでも順位は付かなかった。
「現段階で、責任者候補を絞りますか」
相原が尋ねる。
「まだ」
楠本が即答した。
「受付しただけだよ」
「平時の反応と、圧力下の反応は同じではありません」
末安さんも言う。
「ただし、圧力下の一度の反応だけでも決めません」
相原がミーシャを見る。
「直樹は、何を見ると思いますか」
「一番強い人じゃない」
「では」
「一人が倒れた時、残り七人を見られる人」
「自分が殴られている時も?」
「それが卒業目標」
「今、できる者は」
「分からない」
ミーシャは断定しなかった。
「だから試す」
ブリーフィングが終わったのは、十時四十二分だった。
*
十時四十五分。
八人は大広間へ集められた。
奥の四角い物体には、まだ灰色の布が掛けられている。
田所は前列の中央。
安西はその右。
柴崎は一つ空けて左側。
高城は後列の端。
江藤は時計の見える席。
芦田は水差しに近い席。
御厨は安西の右肩が見える位置。
森川は空いている椅子へ座った。
相原が前へ出る。
「本日から三日間、配置確認と基礎評価を行います」
何人かの肩から、わずかに力が抜けた。
「午前は施設確認、装備受領、生活手順の確認です。午後の細目は別途通達します。予定は状況により変更されます」
田所が手を上げる。
「指揮者は決めないのですか」
「現段階では決めません」
「訓練中は」
「必要になれば、皆さん自身で決めてください」
末安さんが監視記録、私物検査、面談、異議申立ての手順を説明する。
「訓練の中止を申し出た事実だけで、不合格にはしません」
江藤は「だけで」という言葉を覚えた。
安西は、守られすぎていると感じた。
芦田は少しだけ息を吐いた。
柴崎は説明を順番に記憶した。
御厨は、本人の代わりに理由を説明しなくてもよいのだと思った。
楠本は机を使わず、八人の前へ立つ。
「具合が悪いなら、先に言え」
安西が手を上げる。
「言えば外されますか」
「隠した方が外す」
「軽い痛みでも?」
「痛みがあることと、使えないことは同じじゃない」
楠本は安西の右肩を見る。
「でも、隠した痛みは人を巻き込む」
「自分で判断できます」
「それを決めるのは、あんただけじゃない」
安西は口を閉じた。
「ここで死なせる気はない」
楠本は八人を見渡した。
「だからって、痛くないと思うなよ」
*
主任教官が到着する予定だった時刻を、十五分過ぎた。
相原は説明を止めなかった。
遅れた理由も話さない。
八人の間に、小さな変化が生まれた。
田所は時計を見た。
江藤は、相原が一度も時計を確認しないことに気づいた。
柴崎は、遅延連絡がないことを不自然に感じた。
安西は、主任教官が候補者を待たせる人物なのかと考えた。
遠くからオートバイのエンジン音が聞こえたのは、十一時二分だった。
音は玄関前で止まる。
数秒後、重い靴音が廊下へ入ってきた。
直樹が大広間へ姿を見せる。
暗い訓練服。
左手にヘルメット。
右手には何も持っていない。
右腕は身体の近くに置かれ、歩く時の振りが左よりわずかに小さい。
袖口の下には、新しい固定用のテープが一筋だけ見えた。
顔色も、普段よりわずかに悪く作っている。
見ようとしなければ分からない程度だった。
バイクを降りる際も、直樹は左手でハンドルを切り、右手を使うまでに半拍置いた。
病院か治療区画へ寄ってから来た。
そう見えるように、すべての動きを揃えている。
モニター室で、ミーシャが直樹の降車映像を見ていた。
「わざと」
相原が尋ねる。
「負傷しているように見せていますか」
「うん」
「どこで分かりました」
「バイクを止める前、一回だけ普通に右を使った」
直樹は、右腕を本当に庇ってはいない。
庇っている人間の動きを再現している。
「遅刻も、そのためですか」
「治療してきたと思わせる」
ミーシャは八人の反応を映す画面へ目を移す。
「誰が見るか。誰が使うか」
大広間では、ほとんどの者が直樹の顔を見ていた。
田所は足。
江藤は右腕と袖口。
御厨は、肩から手首までの動きを追っている。
そして安西は、一瞬だけ目を細めた。
驚いたのではない。
確かめた顔だった。
右腕。
直樹の右腕が、一度壊れていることを知っている人間の顔。
その情報は、初期訓練生へ配布された経歴概要には載っていない。
モニター越しに、ミーシャの表情が変わった。
「安西」
「何かありましたか」
相原が聞く。
「見つけた顔じゃない」
「では」
「知ってた顔」
相原は何も記入しなかった。
今は推測にすぎない。
「情報源は後で確認します」
直樹は大広間の正面へ立った。
八人の前に来るまで、右腕を大きく動かさない。
だが、呼吸は乱れていない。
資料も持っていなかった。
「田所遼」
「はい」
「江藤沙月」
「はい」
「芦田真希」
「はい」
「安西冬馬」
「はい」
安西の返事だけが、わずかに遅れた。
「柴崎誠」
「はい」
「御厨奈々」
「はい」
「森川亮介」
「はい」
「高城真帆」
「はい」
全員の名前を呼ぶ。
呼び間違えない。
「経歴は見た」
直樹は右手を使わず、左手でヘルメットを机へ置いた。
「だが、経歴で役割は決めない」
田所が尋ねる。
「何で決めるんですか」
「動いた時に見る」
「今日ですか」
「午後の細目は後で出す」
直樹はそれ以上説明しなかった。
「施設を覚えろ。昼食まで十五分」
大広間を出ていく。
御厨が右腕を目で追っている。
江藤は袖口のテープを覚えた。
安西だけは、直樹が出ていった扉を見ながら、右拳をゆっくり開いていた。
*
昼食は、厨房脇の食堂で取った。
簡易炊事設備で作った汁物と、固いパン。
量は多くない。
安西が最初に食べ終えた。
田所は午後の予定を周囲へ尋ねる。
柴崎は食器を指定された位置へ戻す。
森川は自分の分を片づけた後、残された配膳箱も運んだ。
高城は装備受領票を食事中も手元から離さない。
江藤は、誰がどこへ座ったかを確認している。
芦田は水差しを取ると、先に周囲へ回した。
御厨は、直樹の右腕について考えていた。
「治療してきたのかな」
小さく呟く。
「何が」
芦田が聞いた。
「主任教官の右腕」
安西の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「昔の傷じゃないのか」
誰よりも早く答えた。
御厨が安西を見る。
「知ってるんですか」
「有名な話だろ」
「資料にはありませんでした」
江藤が言った。
安西はパンの欠片を皿へ戻した。
「どこかで聞いただけだ」
「どこで?」
安西は江藤を見る。
「取り調べか?」
「確認です」
「午後のことでも考えた方がいい」
田所が間へ入った。
「まだ何も決まってない」
江藤はそれ以上聞かなかった。
ただ、安西が「右腕」と言われる前から、どちらの腕か分かっていたことを覚えた。
*
昼食後、八人は二階へ荷物を運んだ。
二人一室。
田所と森川。
江藤と芦田。
安西と柴崎。
御厨と高城。
田所は荷物を置くと、すぐ廊下へ出た。
「午後の細目が出たら、全員で確認しよう」
「指揮者を決めるんですか」
柴崎が尋ねる。
「必要なら」
「必要かどうかは誰が決めます」
「その時に決める」
「それでは遅いかもしれません」
田所が柴崎を見る。
「なら、お前はどうする」
「条件が分からなければ決められません」
江藤は部屋割りを紙へ書き出していた。
「何してるの?」
芦田が尋ねる。
「誰がどの部屋か」
「相原一尉も持ってるよ」
「私たちも知っていた方がいい」
「みんなに言う?」
江藤の手が止まった。
「必要になったら」
安西は隣室で右肩を回している。
「軽く合わせないか」
森川へ声を掛ける。
「許可が出ていません」
「身体を温めるだけだ」
「指示を待ちます」
「真面目だな」
安西が笑った。
江藤はその笑い方を聞きながら、昼食時の答えを思い返していた。
どこかで聞いた。
それだけでは、右腕の傷を知っていた理由にならない。
*
館内放送が入ったのは、十三時五十二分だった。
短い雑音。
『全初期訓練生へ通達』
相原の声だった。
八人の動きが止まる。
『十四時、大広間集合』
『装備は訓練服、ヘッドガード、マウスピース、グローブ』
安西の口元が上がった。
「やっぱりスパーリングだ」
続く言葉で、その笑みが止まる。
『試験課目――主任教官阻止』
『主任教官、真柴直樹の目的達成を、初期訓練生全員で阻止せよ』
江藤が顔を上げる。
『主任教官を倒すことを、達成条件とはしない』
『負傷者が発生した場合の続行、回収、停止判断は、訓練生側に委ねる』
放送が切れた。
古い配管の鳴る音だけが残る。
「負傷者って」
芦田が言った。
御厨は、自分の手を見た。
安西が廊下へ出る。
「八人で一人だろ」
「倒す必要はない」
「止めればいい」
江藤が聞く。
「何を止めるんですか」
「主任教官だ」
「目的達成を止めると言っていました」
高城が大広間の方角を見る。
「布の掛かった物がありました」
「箱みたいなやつか」
田所が聞く。
「守る対象かもしれません」
江藤も気づいていた。
だが、高城より先には言えなかった。
「時間がない」
田所が言う。
「装備を着ける。話は移動しながらする」
「あなたの指示を聞くんですか」
柴崎が尋ねた。
「今は俺が言った」
「指揮者になるという意味ですか」
「違う」
田所は答える。
「十四時に遅れないためだ」
それなら、柴崎も動けた。
芦田が残り時間を確認する。
「七分四十秒です」
「森川、ヘッドガードを運んで」
「了解」
「御厨、マウスピースの予備を確認して」
「分かりました」
「江藤、全員の装備を数えてくれ」
江藤が一瞬止まる。
「八人分あります」
「見たのか」
「受付の時に」
「なら言ってくれ」
「はい」
田所は安西を見る。
「肩は」
「問題ない」
「主任教官は右を負傷してるかもしれない」
安西が言った。
江藤が振り返る。
「かもしれない?」
「見ただろ」
「見ました」
「なら右側から詰めればいい」
「負傷者を狙うんですか」
御厨が聞く。
「試験だ」
「だからです」
「使える弱点を使わずに、何を試す」
田所が二人を止める。
「大広間へ行ってから決める」
八人はまだ一つの集団ではなかった。
それでも、初めて同じ目的へ向かって動き始めた。
*
十四時の三分前。
八人は大広間の前へ並んでいた。
田所の額には汗がある。
江藤は八人の名前を順番に確認している。
芦田は時計を見る。
安西は右肩を一度回した。
柴崎は開始命令を待つ。
御厨は、高城の呼吸が速いことに気づいた。
森川は扉が開くまで動かない。
高城は、奥にあるはずの箱を考えていた。
モニター室には四人が揃っている。
相原。
ミーシャ。
末安さん。
楠本。
末安さんは発言と訂正を記録する。
楠本は身体状態と続行の可否を見る。
相原は集団運用と指揮の移行。
ミーシャは直樹と八人の間に生まれる戦闘の流れを追う。
「受付時の印象を、結果へ引っ張らないでください」
末安さんが言った。
「分かってるよ」
楠本が答える。
「受付で見えた人間と、殴られた後の人間は違う」
「どちらかだけが本当でもありません」
ミーシャは中央画面の直樹を見る。
大広間で一人、グローブの留め具を締めている。
右手も、今は普通に動いていた。
「もう隠してない」
相原が言う。
「近くで見たら分かる程度に戻してる」
「安西は右腕を狙うと思いますか」
「分からない」
ミーシャは安西の映る画面を見る。
「でも、右腕のことを知ってた理由は見る」
「直樹自身も観察対象です」
末安さんが言った。
「試験の負荷が想定を越えた場合、主任教官が自分で止まれるか」
「私も止める」
楠本が笛を持ち上げる。
「でも、本人が止まれない教官に、人を止めることは教えられないからね」
大広間の扉が開いた。
八人が入る。
灰色の布は外されていた。
赤い通信箱。
その手前に引かれた白い線。
柱の脇には救急箱と氷嚢。
大広間の中央で、直樹が一人で待っている。
田所が聞いた。
「主任教官」
直樹が顔を上げる。
「右腕は使えるんですか」
安西の視線が田所へ動いた。
直樹は質問の理由を聞かなかった。
「使える」
「治療してきたのでは」
「そう見えたか」
田所は答えられない。
直樹は安西を見る。
安西だけが、目を逸らさなかった。
「手加減はしますか」
田所が質問を変えた。
直樹は八人を見る。
「死なせない」
怪我をさせないとは言わなかった。
モニターの中で、芦田の呼吸が速くなる。
安西の顎が上がる。
田所は直樹の足を見る。
江藤は赤い箱へ視線を移す。
御厨は右腕を見ている。
柴崎は、試験規則がまだ示されていないことを考えている。
高城は箱と直樹の間の距離を測る。
森川は、誰の指示で動くかを待っていた。
「始まる前から出てる」
ミーシャが言った。
「何がですか」
相原が尋ねる。
「自分が信じたい答え」
館内回線から楠本の声が流れた。
『相談、三分』
大広間の扉が閉じる。
八人の前で、時計が動き始めた。




