第172話 留守の部屋
## 第172話 留守の部屋
直樹とミーシャが旧南第三へ戻った時、玄関脇の時計は午後七時十二分を指していた。
富士川から二人を運んできた連絡車が、校舎前の砂利を踏んで止まる。
先に降りた直樹は、運転手へ短く礼を言った。
後部座席から小さな鞄を取る。
中には二つの物が入っていた。
西側から発行された命令書。
白いテープを巻いたラバーナイフ。
命令書は、相良を直樹の指揮下へ移管し、再教育と運用適性評価を開始せよと命じている。
ラバーナイフは、海外へ出る前、相良との最後の訓練で使った一本だった。
どちらも、今の相良を見ていない。
命令書が見ているのは、原型要員として残った機能。
ラバーナイフが知っているのは、まだ何も失っていなかった頃の二人だけだ。
直樹は鞄を持ち、玄関へ向かった。
内側で、めぐみが待っていた。
「おかえり、なお」
「ただいま」
「十二分遅かったね」
「富士川を出るのが遅れた」
「相良さんは?」
直樹の足が止まる。
少し後ろで連絡車から降りたミーシャも、二人の間へ入らず立ち止まった。
めぐみは答えを急かさない。
「生きてた」
「うん」
「歩ける。意思もある」
「うん」
「俺のことも覚えてた」
直樹は鞄の持ち手を握った。
「俺が刺したことは覚えてなかった」
めぐみの目が、直樹の顔から右手へ移る。
手には古い傷が残っている。
それでも指は問題なく鞄を握っていた。
「なおは、伝えたの?」
「ああ」
「自分で?」
「隠したまま、教官には戻れなかった」
めぐみは一歩近づいた。
鞄を持っていない直樹の左手へ、自分の指を重ねる。
「痛かったね」
「刺されたのは相良だ」
「なおもだよ」
「違う」
「違わないよ」
直樹は反論しようとした。
だが、言葉は出なかった。
めぐみは握り込まない。
引き寄せることもしない。
ただ、直樹が自分から離すまで触れていた。
直樹の肩から、わずかに力が抜ける。
身体を預けるほどではない。
それでも、一人で立っている時の姿勢ではなくなった。
ミーシャは、その変化を見ていた。
自分は、相良へ黙礼を送ったあとのNAOを知っている。
声も出さず、寂しそうに笑った男のそばにいた。
めぐみが来るまで。
あの時、自分だけが触れられる傷だと思っていた。
だが、めぐみは相良の名を聞いても退かなかった。
直樹が殺したと思っていた男。
戦場で開いた傷。
長い間、誰にも触れさせなかった罪悪感。
その話を聞いた上で、直樹の手へ触れている。
直樹も拒まない。
私も触れたい。
その思いが、以前より強く浮かんだ。
自分から触れたいだけではない。
自分がそばにいる時にも、NAOに力を抜いてほしい。
自分へも身体の重さを預けてほしい。
めぐみへ向けるものと同じでなくてもいい。
自分にも、必要とされる場所が欲しい。
「ご飯、残してあるよ」
めぐみが言った。
「ありがとう」
「先に食べる?」
「命令書を保全へ回す」
「今日は、もう仕事しないんじゃなかったの?」
「置くだけだ」
「置いたら戻ってきてね」
「ああ」
めぐみは直樹の手を離した。
直樹は廊下の先へ歩き出す。
ミーシャは、その半歩後ろへ続いた。
「NAO」
「何だ」
「明日も相良に会いますか」
「朝一番で行く」
「楢ノ沢館は」
「相良に会ってから向かう」
「間に合いますか」
「少し遅れる」
「約束したから?」
「ああ」
直樹の返事は短かった。
「明日、来ると言った」
「なら、行かないといけません」
「分かってる」
「私も行きますか」
「明日は先に楢ノ沢館へ行け」
「相良は」
「久世さんと黒瀬がいる。俺が戻るまで、訓練は始めない」
「一人で教えるつもりですか」
「一人じゃない」
「誰がいますか」
「久世さん、黒瀬、医療担当」
直樹は前を向いたまま続ける。
「必要なら、お前も来るんだろ」
「行きます」
「相良が嫌がらなければな」
「三日ごとに嫌がられます」
「だろうな」
「それでも行きます」
「好きにしろ」
直樹は足を止めなかった。
だが、拒絶もしなかった。
その短い言葉だけで、ミーシャの胸が少し軽くなった。
*
夕食の間、直樹は普段どおりに見えた。
子どもたちから楢ノ沢館について聞かれれば答える。
健二から発電機の燃料残量を確認されれば、記録を見て返す。
ハルが出した汁物も残さなかった。
誰も相良について深く尋ねなかった。
直樹が話せる時に話せばいい。
旧南第三では、それが暗黙の了解になっていた。
ただ、食事を終えた直樹は自分の部屋へ戻らなかった。
食器を片づけたあと、校舎の外へ出る。
簡易屋根の下には、支給された偵察用オートバイが置かれていた。
国境周辺での連絡、偵察、短距離移動に使う車両だ。
直樹は照明を点けず、車体の横へしゃがんだ。
タイヤ。
チェーン。
燃料。
灯火。
異常はない。
それでも、点検を終えようとしなかった。
「走りますか」
背後からミーシャが声を掛けた。
直樹は振り返らない。
「少しだけな」
「一人で?」
直樹は立ち上がった。
ミーシャを見る。
夜間任務の装備ではない。
薄い上着。
髪も下ろしている。
「乗るか」
ミーシャは、すぐには答えなかった。
直樹から誘われると思っていなかった。
「いいですか」
「嫌なら聞かない」
「行きます」
「ヘルメットを持ってこい」
ミーシャは校舎へ戻った。
外から見える間は歩いた。
玄関へ入ってから足が速くなる。
予備のヘルメットを取り、上着をもう一枚重ねた。
戻ると、直樹はすでにエンジンを掛けていた。
ミーシャは後部座席へ乗る。
最初は車体後方の握りへ手を掛けた。
「そこだと振られる」
直樹が言った。
「では」
「俺につかまれ」
ミーシャの手が止まった。
直樹は振り返らない。
ミーシャは両腕を伸ばした。
外套の上から、直樹の腰へ回す。
身体が触れた。
背中。
肩。
腰。
布越しでも直樹の体温が分かる。
「強くつかめ」
「はい」
直樹がクラッチをつないだ。
偵察用オートバイが校門を出る。
夜の道路へ入った。
旧南第三の灯りが、背後へ遠ざかる。
ミーシャは直樹の腰をつかんでいた。
曲がる時だけではない。
直線へ入っても離さなかった。
直樹も、手を外せとは言わない。
学校の周辺を離れ、使われなくなった県道へ入る。
夜の冷気が、ヘルメットの隙間から入った。
左右には閉鎖された店舗。
街灯は三本に一本しか点いていない。
その先で、道路は緩く山側へ上がっていった。
直樹は速度を出さなかった。
逃げるためでもない。
急ぐためでもない。
ただ走る。
任務の目的地がないまま、オートバイを動かしていた。
ミーシャは、そのことに気づいた。
直樹が何かのためではなく走る姿を、初めて見た。
展望所の跡で、直樹はバイクを止めた。
昔は観光客が使っていた場所だった。
柵の一部が錆び、案内板は文字が消えかけている。
遠くに、旧南第三周辺の小さな灯りが見えた。
二人はヘルメットを外した。
直樹はバイクから降りず、片足を地面へ置いている。
ミーシャも後部座席に残った。
腰へ回していた腕は離した。
離した場所だけが急に冷えた。
「相良は」
ミーシャが言った。
「最後の訓練の日にいる」
直樹は前を見たまま答える。
「俺が海外へ出る前の日だ」
「あなたがいなくなる前」
「ああ」
「あの人は、あなたが戻るのを待っています」
「待たせたのは俺だ」
「違います」
「告げずに行った」
「戻るつもりだったでしょう」
「戻らなかった」
「今は戻りました」
「相良の中では違う」
ミーシャは、直樹の横顔を見る。
「三日ごとに戻ればいい」
直樹がわずかに顔を動かした。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「三日ごとに、俺が刺したことを説明する」
「はい」
「三日ごとに、あいつは初めて聞く」
「はい」
「そのたびに、俺を教官として見る」
直樹の右手が、ハンドルの上で一度開いた。
「利用しようと思えば、いくらでも使える」
「だから、あなたは使わない」
「俺が決めることじゃない」
「相良が決める」
「ああ」
「それを三日ごとに聞く」
「ああ」
ミーシャは少し考えた。
「なら、私も三日ごとに嫌われます」
「お前は最初から信用されてなかっただろ」
「はい」
「変わらないな」
「変わります」
「何が」
「三日間で、少しだけ信用されます」
「次には消える」
「また作ります」
直樹が短く息を吐いた。
笑ったのかは分からなかった。
「面倒だぞ」
「NAOよりは簡単です」
「俺も面倒だと言いたいのか」
「はい」
直樹は初めてミーシャを見た。
怒ってはいなかった。
疲れていた。
それでも、富士川から戻った直後より、目の奥の遠さが薄れている。
「帰るぞ」
「もう?」
「明日がある」
「はい」
ミーシャはヘルメットを被った。
直樹の腰へ再び腕を回す。
今度は言われる前だった。
帰り道。
ミーシャは行きよりも近く身体を寄せた。
額が直樹の背中へ触れる。
直樹は何も言わなかった。
速度も変えない。
振り払わない。
そのまま旧南第三まで走った。
校門へ入る直前まで、ミーシャの腕は直樹の腰にあった。
*
オートバイを戻したあと、直樹は臨時遠隔運用室へ入った。
相原忍一尉と閉鎖回線をつなぐ。
翌日の受け入れと初期評価について、最後の確認を行うためだった。
ミーシャも壁際の椅子へ座った。
『主任教官は、受付開始から入りますか』
「入りません」
『到着時から観察しない?』
「記録は後で見ます。最初から俺がいると、全員が俺を見ます」
『では、何時に』
「予定時刻から十五分遅れて入ります」
『意図的な遅延ですか』
「半分は」
『残り半分は』
「朝、富士川へ行きます」
『相良さんとの約束ですか』
「はい」
『予定どおりに出れば、遅れず到着することも可能です』
「富士川で時間を切りません」
相原は少し黙った。
『相良さん本人が終了を選ぶまで待つ』
「はい」
『結果として遅れた形にする?』
「予定上は十五分です。相良の状態で前後します」
『了解しました』
紙をめくる音がした。
『候補者の前へ出る時の状態は』
「右腕を負傷しているように見せます」
回線の向こうに短い沈黙が生まれる。
『右腕は完全に動くはずです』
「動きます」
『なぜ、古傷を使うのですか』
「見えている弱点へ、どう反応するかを確認します」
『心配する者。利用する者。申告する者』
「それだけではありません」
『ほかに?』
「右腕の負傷歴は、訓練生へ渡した資料にありません」
相原の声が少し低くなった。
『知っている反応が出れば、情報経路を確認する』
「はい」
『疑っている者がいますか』
「まだ、いません」
『では、全員を疑う?』
「全員を同じ条件で見ます」
『相良さんを見た直後に、負傷を演じることへ抵抗は』
直樹は返事を急がなかった。
「あります」
『中止しますか』
「しません」
『理由は』
「弱い場所を見せた時、相手が何をするかは必要な確認です」
『あなた自身は』
「何ですか」
『弱い場所を見せた時、誰かへ任せられますか』
直樹は黙った。
相原は答えを催促しない。
「明日は、楠本一曹へ停止権限を渡します」
『私にも?』
「全体運用が崩れたら止めてください」
『ミーシャさんは』
「戦闘の流れを見てもらいます」
ミーシャが顔を上げた。
『主任教官本人が止まれない場合も?』
「その時は止めさせてください」
『本人へ伝えますか』
「今、います」
直樹がミーシャを見る。
「聞いてたな」
「はい」
「俺が勝つことを優先したら止めろ」
「止めます」
「本人の選択を奪った時も」
「止めます」
「誰か一人を役割としてしか見なくなった時もだ」
「分かりました」
直樹は机の上へ白い紙を置いた。
三行を書く。
勝敗を目的にした時。
本人の選択を奪った時。
人を役割としてしか見なくなった時。
その下へ署名する。
真柴直樹。
ミーシャは紙を見る。
「私が持ちますか」
「相原一尉、楠本一曹、末安さんにも渡す」
「私も?」
「お前が一番早く気づく場合がある」
直樹が自分を指定した。
必要だと判断した。
仕事上の役割でしかない。
それでも、ミーシャの胸の奥が動いた。
「なくしません」
「なくす心配はしてない」
「では、何を心配していますか」
「止める時に遠慮することだ」
「しません」
「だろうな」
直樹は通話を終えた。
机の上には、相良への命令書の写しが置かれている。
その横に、自分の中止条件。
命令される側だけに止まる責任を負わせないための紙だった。
*
翌朝。
直樹が旧南第三を出たのは、午前六時四十分だった。
支給された偵察用オートバイは、簡易屋根の下に置かれている。
直樹は工具袋と小さな鞄を後部へ固定した。
白いテープを巻いたラバーナイフは鞄の中にある。
楢ノ沢館で使う物ではない。
富士川で、相良へもう一度見せるためだった。
めぐみが玄関から出てくる。
「十九時?」
「その予定だ」
「今日は富士川にも行くんだよね」
「ああ」
「無理なら連絡して」
「分かった」
「帰れそうなのに、仕事を増やさないでね」
「努力する」
「そこは?」
直樹はヘルメットを被る前に、めぐみを見る。
「帰る」
「うん」
めぐみは直樹の外套の襟を整えた。
直樹は動かない。
指が離れるのを待ってから、ヘルメットを被った。
「相良さんに、昨日の約束を忘れられてないといいね」
「忘れるのは三日後だ」
「それでもだよ」
直樹は返さなかった。
だが、表情がわずかに緩んだ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい、なお」
エンジンが掛かる。
直樹は右足で車体を支え、クラッチをつないだ。
偵察用オートバイは校門を抜け、富士川へ向かう道路へ出ていった。
二階の窓から、ミーシャが見ていた。
昨夜、自分が腕を回していた腰。
額を預けた背中。
めぐみが襟へ触れても、直樹は同じように動かなかった。
私も触れた。
昨夜は、直樹の方から乗るかと聞いた。
つかまれと言った。
命令でも、任務でも、役割でもなかった。
短い時間だった。
それでも、自分はNAOに選ばれて、後ろへ乗った。
めぐみが校舎へ戻る。
ミーシャは窓から離れた。
自室へ向かう。
そのはずだった。
廊下の途中で、足が止まる。
直樹の部屋の前だった。
扉に鍵は掛かっていない。
秘密資料も武器も置かれていない。
それらは別の保全区画へ入れる。
旧南第三は個人住宅ではない。
寝具が不足すれば、空いている物を使う。
誰かが急病になれば、近い部屋へ運ぶ。
入ってはいけないとは言われていない。
ミーシャは、そう考えた。
入っていいとも言われていない。
そのことは、考えないことにした。
取っ手へ手を掛ける。
一度、廊下を見る。
誰もいない。
扉を開けた。
部屋へ入るのは、初めてではなかった。
以前、通信端末を机へ置くために一度。
夜間報告を届けるために一度。
どちらにも理由があった。
今日は何も持っていない。
それでも、扉を閉めた。
部屋の中には、直樹が出ていったあとの静けさが残っている。
壁際の布団。
畳まれた寝袋。
椅子の背へ掛けられた予備の外套。
机の端に置かれた水筒。
石けん。
乾いた土。
わずかな油。
単独では、どれも直樹の匂いではない。
重なると、直樹がいた場所になる。
昨夜は、実際の背中へ額を預けた。
外套越しの体温も知った。
今朝の部屋には、その直樹がいない。
だからこそ、残っている物が以前より強く感じられた。
ミーシャは机の前へ立った。
何も置かない。
何も取らない。
用事はない。
すぐに出るべきだった。
視線が寝袋の脇へ移る。
黒と灰色の布が置かれていた。
アフガンスカーフだった。
端が破れている。
補修された縫い目。
古い血の跡。
泥の色が抜けきらない箇所もある。
直樹が外人部隊にいた頃から使っているものだった。
本人は、記念品として残しているわけではない。
まだ使える。
だから捨てていない。
直樹にとっては、それだけの物だった。
ミーシャは近づいた。
布の端へ指を触れる。
繰り返し洗われた生地は柔らかい。
補修された場所だけが硬い。
この布は、自分が知らないNAOを知っている。
外人部隊で過ごした時間。
帰る場所がなかった夜。
誰かを守り、誰かを殺し、何も言わず眠った日。
めぐみが知らない時間。
自分も知らない時間。
この布だけが触れていた。
ミーシャはアフガンスカーフを持ち上げた。
顔へ近づける。
匂いを嗅ぐためではない。
そう思った。
古い布の中に、現在の直樹の匂いも残っている。
石けん。
外気。
煙。
身体の熱。
昨夜、背中へ額を預けた時と同じ匂いだった。
ミーシャは布を下ろさなかった。
寝袋の横へ腰を下ろす。
夜間勤務の疲れが身体へ戻ってくる。
自室へ戻る前に、少し座るだけ。
そう考えた。
寝袋へ背を預ける。
硬い。
それでも、姿勢を直さなかった。
アフガンスカーフを膝へ置く。
目を閉じる。
廊下の音が遠くなる。
誰かが食器を重ねる。
子どもが階段を下りる。
水道管が鳴る。
この部屋だけが動いていない。
直樹はいない。
それなのに、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
昨夜、直樹の背中へ額を預けた時と同じだった。
携帯端末が振動した。
相原からだった。
『予定車両が十分後に到着します』
「分かりました」
『楢ノ沢館へ到着後、裏の通用口から入ってください』
「はい」
『候補者の受付開始前に、記録範囲を確認します』
「間に合います」
通話を切る。
画面の時刻を見る。
数分しか経っていない。
それでも、もう少しここにいたかった。
ミーシャはアフガンスカーフを元の場所へ置いた。
破れた端の向きまで合わせる。
寝袋へ残った小さな皺も手で伸ばした。
何も盗んでいない。
部屋の外へ持ち出していない。
触れただけ。
少し座っただけ。
すべて元へ戻した。
ミーシャは、そうやって線を引いた。
ここまでなら、まだ越えていない。
扉を開ける。
廊下には誰もいなかった。
部屋を出る。
扉を閉める。
自室へ戻り、髪を整えた。
鏡の前で首元へ触れる。
アフガンスカーフの感触は残っていた。
昨夜の直樹の背中の硬さも。
腰へ回した腕の内側に残った体温も。
誰にも気づかれていない。
そのことは、次に入らない理由にはならなかった。
*
連絡車へ乗る直前、ミーシャは一度だけ二階を見上げた。
直樹の部屋の窓は閉じている。
外から見れば、誰も入っていない部屋だった。
机も。
寝袋も。
外套も。
アフガンスカーフも。
置かれた位置は変わっていない。
それでもミーシャの中では、あの扉の向こうはもう、入ったことのない場所ではなくなっていた。
運転手が車両の扉を開ける。
「楢ノ沢館までです」
「お願いします」
ミーシャは後部座席へ乗った。
連絡車が旧南第三を出る。
山側の道へ向かう。
直樹は、その頃すでに別の道を走っていた。
相良へ交わした約束を守るため、富士川へ向かっている。
そのあと、予定より遅れて楢ノ沢館へ入る。
右腕を負傷しているように見せる。
誰が心配するのか。
誰が弱点として使うのか。
誰が、配られていないはずの過去を知っているのか。
そして直樹自身が、相良を見たあとで、人を役割として扱わずにいられるのか。
それを確認するため、ミーシャは先に楢ノ沢館へ向かった。
木々の間から、朝の光が車内へ差し込む。
膝の上には何もない。
それでもミーシャの指は、そこにあるはずのない布の端を探すように、一度だけ閉じた。




