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第171話 三日目の教官

## 第171話 三日目の教官


 黒瀬からの着信は、午前六時二十一分だった。


 前線の臨時遠隔運用室では、夜間回線の監視が終わったばかりだった。


 壁面表示には、国境第三から北へ伸びる中継線が残っている。卓上の紙コップには、

 冷めたコーヒーが半分。


 直樹は報告書を閉じ、端末へ右手を伸ばした。


 指は迷いなく画面へ触れた。


 長く残っていた遅れも、めぐみと夜を越えたあの日を境に消えている。手の甲と掌には傷が残っていたが、握ることも、開くことも、細かな操作も問題はなかった。


 向かいの卓で、ミーシャが北側の交信記録を閉じた。


 表示された名前を確認し、直樹は応答する。


「真柴です」


『黒瀬です』


「おはようございます。何かありましたか」


『相良さんについてです』


 直樹の指が止まった。


 ミーシャが顔を上げる。


『生存を確認しました』


 空調は動いていた。


 中継装置の灯りも点滅している。


 それでも、直樹には黒瀬の声しか聞こえなかった。


「……もう一度、お願いします」


『相良さんは生存しています』


「本人確認は」


『指紋、歯科記録、DNA、古い骨折痕。すべて一致しました。久世さんも本人と確認しています』


「意識はありますか」


『あります。自立歩行が可能です。意思疎通も成立しています』


「話せますか」


『発語はほとんど成立しません』


「脳の状態は」


『心停止後、脳死に至る前に循環と酸素化を再開しています』


 直樹は机の縁へ左手を置いた。


「あの時、心臓は止まっていました」


『はい』


「俺が確認しました」


『心停止は事実です』


「救命処置を行ったのは」


『西側の統合回収班です。現場から搬送後、医療記録を死亡記録から分離しています』


 直樹の視線が、壁面表示の一点へ止まった。


 泥の匂い。


 濡れた地面。


 手の中で滑った柄。


 相良の胸へ刃が入った時の、硬い抵抗。


 膝から落ちた身体。


 首へ指を当てても、返らなかった脈。


 直樹は相良の手から刃を外した。


 その場で姿勢を正し、黙礼を送った。


 死んだ相良へ。


 自分が殺した後輩へ。


 顔を上げた時、ミーシャがいた。


 直樹は何も言えなかった。


 それでも、ひどく寂しそうに笑った。


 ミーシャはその顔を見ていた。


 めぐみが到着する寸前まで。


 血と泥の中で直樹が完全に一人にならないよう、何も聞かずに残っていた。


「相良は今、どこにいますか」


『富士川保全棟の秘匿医療区画です』


「富士川に?」


『三日前、西側から移送されました』


 直樹の目が動いた。


「三日前」


『はい』


「黒瀬さんと久世さんは、その三日間、相良を確認していたんですね」


『はい』


「なぜ、俺への連絡が今になったんです」


『本人確認、意思疎通能力、記憶状態の確認を優先しました』


「生きている可能性は、いつ把握しましたか」


『移送前です』


「確定したのは」


『一昨日の夜です』


「その時点でも、俺には知らせなかった」


『接触による影響が不明でした』


 黒瀬の声は変わらなかった。


 直樹も、まだ声を荒らげてはいない。


「俺に接触させない判断は分かります」


『はい』


「生存を伝えない判断とは別です」


『分けていませんでした』


「誰の判断ですか」


『西側暫定統合調整室です』


「富士川側では」


『生存確認が完了するまで、限定保全としました』


「久世さんは納得したんですか」


『していません』


「でしょうね」


 直樹は短く息を吐いた。


「続けてください」


『相良さんは、新しく形成した記憶を約七十二時間保持します』


「三日」


『はい。それを越えると、現在の認識が一定の過去へ戻ります』


「どこへ」


『あなたが海外へ出る前に行った、最後の訓練です』


 直樹の左手が机の縁をつかんだ。


「俺と行った訓練ですね」


『はい』


「それ以降の記憶は」


『長期記憶として保持できていません』


「俺と戦ったことも」


『現在の相良さんは認識していません』


「胸を刺されたことも」


『認識していません』


「傷は残っている」


『はい』


「どの程度ですか」


『刺創痕と救命処置痕が重なっています。日常生活に大きな支障はありません。身体を伸ばす動作で、引きつれと軽い疼痛が出ます』


「訓練動作には」


『本人が修正を加えています』


「どういう意味ですか」


『相良さんは毎朝、同じイメージトレーニングを行っています』


 直樹が顔を上げる。


『出入口、遮蔽物、二本の退路、開始位置。あなたが立つ位置も、毎回同じ場所に空けます』


 ミーシャがゆっくり立った。


『一歩入ると胸の傷が引きつります。相良さんは傷の原因を知りません。そのたびに角度を変え、最初から反復しています』


 直樹の口元から、かすかな息が漏れた。


「映像はありますか」


『送ります』


 壁面表示の一部が暗転した。


 外部回線が切れ、閉鎖経路へ切り替わる。


 数秒後、富士川保全棟の活動室が映った。


 白い壁。


 床に貼られた細いテープ。


 二脚の椅子。


 その中央に、相良が立っていた。


 髪は短く刈られている。


 以前より少し痩せていた。


 灰色のシャツの襟元から、胸を斜めに走る太い傷が見える。


 直樹が刃を入れた場所だった。


 その上へ、救命処置で開かれた線が重なっている。


 相良は出入口を確認する。


 遮蔽物を置く。


 二本の退路を取る。


 開始位置へ戻る。


 呼吸を三回。


 右足を引く。


 左手を前へ出す。


 右手は身体の近くへ残す。


 直樹が教えた順番だった。


 相良が一歩入った。


 胸の傷が引きつる。


 動きが止まった。


 傷へ触れる。


 半歩戻る。


 角度を変える。


 最初から。


「違う」


 直樹がつぶやいた。


 画面の相良には届かない。


「そこから入れば、左が残る」


 相良が二度目の動きを始めた。


 先ほどより外側へ入る。


 直樹の顎がわずかに下がった。


「そうだ」


 相良は動きを終えた。


 空いた椅子へ顔を向ける。


 三秒。


 五秒。


 七秒。


 次の指示を待つ。


 指示は来ない。


 相良は開始位置へ戻り、また最初から始めた。


 映像は短かった。


 だが、直樹には十分だった。


 相良は、最後の訓練を続けている。


 自分が海外へ行った後も。


 敵として再会した後も。


 直樹に胸を刺された後も。


 死亡者として処理された後も。


 直樹が立つ場所だけを空けたまま、同じ手順を繰り返している。


 ミーシャは直樹の横顔を見た。


 あの日と同じ顔だった。


 相良へ黙礼を送り、何も戻らない場所で寂しそうに笑った時の顔。


 表情は崩れていない。


 呼吸も乱れていない。


 ただ、目の奥だけが一人になっていた。


 ミーシャの中に、あの日の感覚が戻る。


 めぐみが来るまで。


 戦場で一人になったNAOのそばにいたのは、自分だった。


 血の中にいるNAOを知っている。


 罪悪感に押し潰されながら、それを他人へ見せまいとするNAOを知っている。


 めぐみと自分には、それぞれ違う場所がある。


 以前は、そう思っていた。


 だが、ここ数日。


 直樹とめぐみの接触が増えている。


 めぐみが直樹の肩へ触れる。


 隣へ座る。


 言葉を使わず、その呼吸が落ち着くまで待つ。


 時には、直樹の方から重さを預ける。


 直樹も拒まない。


 ミーシャは、それを見るたびに思うようになっていた。


 私も触れたい。


 私も隣へ座りたい。


 自分の手でNAOの呼吸を戻したい。


 それだけではない。


 NAOの方から、自分を必要としてほしい。


 自分へも身体の重さを預けてほしい。


 自分が触れた時にも、警戒を解いてほしい。


 私も、そうされたい。


 その気持ちは、日を追うごとに強くなっていた。


 めぐみは、生活の中のなおだけではない。


 戦場から帰れなくなった直樹の内側へも、すでに触れ始めている。


 かつて自分の場所だと思っていた領域から、押し出されたくない。


 その傷を癒やす役目を、自分も失いたくない。


 相良の生存は、直樹の古い傷を再び開く。


 その傷なら。


 戦場の傷であれば、私もNAOを癒やせる。


 あの日も、そうした。


 今度もできる。


 今度は、めぐみが到着するまでの代わりではなく。


 ミーシャは直樹の肩へ手を伸ばした。


 指が触れる寸前で止まる。


「NAO」


「何だ」


「私も行きます」


「来なくていい」


「行きます」


「これは俺と相良の問題だ」


「違います」


 直樹がようやく画面から目を離した。


「あいつを追っていたのは私です」


「任務だっただろ」


「ロシア側にも死者が出ました」


「分かってる」


「あなたと私が最初に戦ったのも、相良を追っていたからです」


「だからって、お前が背負う必要はない」


 ミーシャは直樹を見る。


「同じ言葉を返します、NAO」


 直樹は答えなかった。


 黒瀬の声が端末から入る。


『ミーシャさんの接触も、相良さん本人の同意が必要です』


「分かっています」


『相良さんは、ミーシャさんを固定記憶として認識していません』


「当然です」


『接触時は、過去の関係を事実として説明してください』


「嘘は言いません」


『追跡任務についてもです』


「言います」


 直樹が言った。


「俺が先に会います」


『接触順序は現地で決めます』


「相良は俺を待っている」


『教官として認識しています』


「なら、なおさらです」


『その認識を利用して命令はできません』


 直樹の目が細くなった。


「命令するつもりはありません」


『訓練を開始するつもりはありますか』


 直樹は答えなかった。


 黒瀬が一拍置いた。


『西側暫定統合調整室から、命令書が発行されています』


 直樹の顔から迷いが消えた。


「命令書?」


『はい』


「要望ではなく」


『命令です』


「内容を読んでください」


『元原型要員・相良を、真柴直樹の指揮下へ移管する。保有技能の再教育および運用適性評価を開始する。富士川混成大隊は、医療上可能な範囲で必要な支援を実施する』


「本人の意思は」


『医療上可能な範囲で本人の協力を得る、とあります』


「協力を得る」


『原文です』


「拒否権は」


『明記されていません』


 直樹の声が一段低くなった。


「相良の記憶が三日で戻ることは、命令を出した側も知っているんですね」


『添付資料に記載されています』


「知った上で出した」


『はい』


「俺を指定した理由は」


『相良さんの固定記憶に、真柴さんが教官として残っているためです』


「だから、命令が通りやすい」


『西側は、教育効率と技能再現性が高いと判断しています』


「教育効率」


『原文ではありません。命令書と添付資料からの要約です』


「黒瀬さん」


 直樹はまだ敬語を保っていた。


 だが、声の熱が上がっていた。


「相良は三日で、今の自分を失うんですよ」


『はい』


「三日の間に俺の命令を入れて、忘れたらまた最初から入れ直す」


『その運用は可能です』


「可能かどうかを聞いてるんじゃない」


 直樹の声が強くなった。


「そのために俺を選んだんでしょう」


『その可能性は高いです』


「可能性ではない」


『命令書に、目的としての明記はありません』


「書くわけがない」


『はい』


 黒瀬の声は、最初から変わらない。


 直樹は机へ手を置いた。


「これは再教育じゃない」


『はい』


「三日ごとに人間を使い直す命令です」


『その危険があります』


「危険じゃない。やろうとしている」


『断定できる資料はありません』


「相良本人の拒否権すら書かれていない」


『はい』


「それでも執行するんですか」


『無条件では執行しません』


 直樹が口を止めた。


『医療保全上の前提として、本人の意思確認を周期ごとに行います』


「三日ごとに」


『はい』


「前の相良が同意しても、次の相良へは引き継がない」


『はい』


「拒否した場合は」


『訓練を停止します』


「西側が強行を命じたら」


『記録を残して拒否します』


「命令違反になります」


『その時点で処理します』


「黒瀬さん自身も外されます」


『その可能性があります』


「そこまでして」


『相良さん本人の意思が確認できない状態で、訓練を継続することはできません』


 直樹は黙った。


 黒瀬は淡々としていた。


 命令書を隠さない。


 命令違反の危険も隠さない。


 西側へ従うためではなく、拒むべき場所を明確にするために、一つずつ事実を並べている。


 直樹は短く息を吐いた。


「……最初に、それを言ってください」


『先に事実を説明しました』


「相変わらずですね」


『はい』


「命令書は俺にも見せてください」


『原本の写しを用意します』


「相良にも見せる」


『はい』


「俺を指定した理由も隠さない」


『はい』


「訓練するかどうかは、相良が決める」


『はい』


「俺でも、西側でもなく」


『はい』


 直樹は壁面表示を見る。


 相良の映像は停止している。


「今から向かいます」


『富士川までの経路を送ります』


「車両は」


『十分後に前線南門へ到着します』


「久世さんは」


『相良さんのそばにいます』


「相良は覚えているんですね」


『久世さんは固定記憶にあります』


「大庭さんは」


 黒瀬が一拍置いた。


『女性職員から写真を離しています』


 直樹の眉間がわずかに緩んだ。


「そこは残りましたか」


『はい』


「本人ですね」


『久世さんも同じことを言いました』


 通信が切れた。


 壁面表示は国境線の中継画面へ戻った。


 相良の姿だけが消える。


 直樹はしばらく、何も映っていない区画を見ていた。


 やがて机の下の収納箱を開けた。


 古い訓練道具が入っている。


 マーカー。


 細いロープ。


 欠けた筆記具。


 その底から、一本のラバーナイフを取り出した。


 刃も柄も黒い。


 柄の下部に白いテープが巻かれている。


 直樹と相良が、海外へ出る前の最後の訓練で使った一本だった。


 白いテープは識別用だった。


 暗所でも、自分の訓練具を見分けられるように巻いたものだ。


 相良は何度も巻き直しを要求した。


 端が浮く。


 汗で滑る。


 握りが変わる。


 そのたび直樹は、


 使えない理由を道具のせいにするな。


 と言った。


 テープの端には、相良が爪でつけた小さな傷が残っている。


 直樹が握ると、最後の訓練と、相良の胸へ本物の刃を入れた瞬間が続けて戻った。


 直樹はラバーナイフを右手の中で一度返した。


 動きに問題はない。


 ミーシャが言った。


「持っていくのですか」


「見せるだけだ」


「訓練はしない」


「相良が決める」


「今日ではありません」


 直樹はミーシャを見る。


「黒瀬と同じことを言うな」


「正しいからです」


「分かった」


 直樹はラバーナイフを布へ包み、鞄に入れた。


     *


 前線から富士川までは、閉鎖回線用の車両で二時間半かかった。


 移動中、直樹はほとんど話さなかった。


 ミーシャも質問しない。


 直樹は窓の外を見ていた。


 道路の継ぎ目。


 検問。


 閉鎖された集落。


 崩れた標識。


 そのすべてを見ながら、別の場所にいた。


 最後の訓練。


 海外へ出ることを告げなかった朝。


 国境で再会した相良。


 胸へ刃を入れた夜。


 相良は、どこまで覚えているのか。


 何を待っているのか。


 三日後には、何を失うのか。


 そして西側は、その三日間へ何を詰め込もうとしているのか。


 富士川へ着いたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。


 保全棟は、富士川混成大隊が以前から使用していた施設の地下区画にある。


 三日前、西側の閉鎖車両で相良が運び込まれた。


 それ以降、黒瀬と久世は、相良の現在と三日後の変化を確認していた。


 黒瀬が入口で待っている。


「武器は」


「ありません」


「鞄の中は」


「訓練用のラバーナイフです」


「確認します」


 直樹は鞄を開いた。


 黒瀬が白いテープの巻かれたラバーナイフを見る。


「使用しますか」


「今日は使いません」


「相良さんが求めた場合は」


「渡しません」


「確認しました」


 ミーシャは腰の拳銃を外した。


 弾倉を抜き、薬室を確認する。


 黒瀬へ渡した。


「施設内では返却しません」


「分かっています」


 廊下の奥から久世が歩いてきた。


 挨拶はなかった。


「遅い」


「前線からです。これでも急ぎました」


「言い訳するな」


「申し訳ありません」


 久世は直樹の顔を見る。


 次に鞄へ視線を落とした。


「持ってきたか」


「ラバーナイフだけです」


「使うな」


「そのつもりです」


「命令するな」


「分かっています」


「分かってない顔だ」


 直樹は小さく息を吐いた。


「久世さんまで同じことを言うんですね」


「皆に言われるなら直せ」


「努力します」


「信用できん」


 久世はミーシャを見る。


「止めろ」


「そのつもりです」


「頼んでない」


「はい」


 久世は踵を返した。


「来い」


 観察窓の向こうで、相良が動いていた。


 出入口。


 壁。


 遮蔽物。


 二本の退路。


 空いた椅子。


 若い直樹の写真。


 相良は開始位置へ立つ。


 呼吸を三回。


 一歩入る。


 胸の傷が引きつる。


 止まる。


 傷へ触れる。


 半歩戻る。


 角度を変える。


 最初から。


 直樹の顔から色が消えた。


 映像とは違った。


 傷の位置が分かる。


 自分が刃を入れた角度まで分かる。


 相良の身体が動くたび、縫合痕の一部が引かれて白くなった。


「違う」


 直樹が言った。


 久世が見る。


「何がだ」


「その角度では、次に左を取られます」


「言うな」


「……はい」


 相良は反復を終えた。


 空いた椅子へ向く。


 三秒。


 五秒。


 七秒。


 指示を待つ。


 来ない。


 直樹の右足が扉へ向いた。


 黒瀬が前へ立つ。


「接触条件を確認します」


「相良が待っています」


「本人の同意が先です」


「俺を見れば分かります」


「相良さんが決めます」


 直樹は黒瀬を見る。


「分かりました」


「命令しない」


「はい」


「訓練を開始しない」


 直樹の返事が止まった。


「今日の目的は再会確認です」


「相良にとって、訓練が会話です」


「現在は命令との区別を確認できません」


「俺が区別します」


「相良さんが区別できるとは限りません」


 直樹の顎が固くなった。


 ミーシャが言う。


「黒瀬が正しいです」


「分かってる」


「顔は分かっていません」


「お前も言うのか」


「はい」


 久世が直樹の肩を一度押した。


「聞け」


 直樹は久世を見る。


「俺も三日前、すぐ呼べと思った」


「久世さんと俺では違います」


「違わん」


「俺が教えました」


「俺が役割を渡した。外へ戻した」


 久世の声が低くなる。


「お前だけの責任にはしない」


 直樹は口を閉じた。


 久世はそれ以上言わなかった。


 黒瀬が活動室へ入る。


 相良が顔を上げた。


 黒瀬を知らない人間として、手、腰、足元を順番に見る。


 黒瀬は机へ二枚のカードを置いた。


 会う。


 会わない。


 その隣へ、現在の直樹の写真を置く。


 相良の身体が止まった。


 写真を見る。


 海外へ出る前の若い直樹。


 現在の直樹。


 もう一度、若い写真。


 眉間に皺が寄る。


 年齢が違う。


 目元も違う。


 右手には古い傷が残っている。


 相良は黒瀬を見る。


 扉。


 写真。


 会う。


 右手を一度握った。


 電子錠が外れる。


 直樹はすぐには入らなかった。


 相良から見える位置に立つ。


 相良の目が直樹へ向く。


 顔。


 肩。


 右手。


 胸。


 足。


 再び顔。


 直樹は何も言わない。


 相良の口が開いた。


「……ま」


 息が漏れる。


「ま、し……」


 音が崩れた。


 相良は若い直樹の写真を取る。


 現在の直樹へ向ける。


 写真。


 本人。


 写真。


 苛立ちが目に出る。


 なぜ老けている。


 なぜ今になって来た。


 なぜ訓練へ遅れた。


 質問はある。


 だが、言葉にならない。


 直樹は訓練線の手前まで進んだ。


「相良」


 一度。


「俺が分かるか」


 一度。


「真柴直樹だ」


 一度。


 相良は空いた椅子を指す。


 次に開始位置。


 直樹の腰。


 刃物を抜く仕草。


 訓練を始めろ。


 直樹は鞄へ目を向けた。


 白いテープを巻いたラバーナイフが入っている。


 だが、出さなかった。


「今日は訓練をしない」


 二度。


「先に話す」


 二度。


 相良は止めるカードへ手を伸ばした。


 直樹は口を閉じる。


 相良はカードを机へ置いた。


 直樹。


 訓練。


 なぜ。


 黒瀬が言った。


「理由を説明してください」


 直樹は相良の胸を見る。


 目を逸らさなかった。


「お前は負傷した」


 相良が傷へ触れる。


「一度、心臓が止まった」


 相良の目が直樹へ戻る。


「今は生きてる」


 一度。


「俺と最後に訓練した後、長い時間が経ってる」


 二度。


「お前は覚えてない」


 二度。


「俺は海外へ行った」


 相良の手が止まる。


「その後、戻った」


 相良は現在の直樹を見る。


 若い写真。


 目の前の顔。


 年月の差。


「俺たちは、もう一度会ってる」


 黒瀬が一歩動いた。


「真柴さん。段階を」


 直樹は黒瀬を見る。


 相良へ伝える情報が多いことは分かっていた。


 それでも、自分だけが知っている罪を隠したまま、相良の教官へ戻ることはできなかった。


「削らず伝える約束です」


 久世が外から言った。


「言え」


 直樹は相良へ向き直る。


「その傷は、俺が刺した」


 相良の指が、胸の太い縫合痕へ触れた。


 直樹を見る。


 一度も二度も握られない。


 空いた椅子。


 若い直樹の写真。


 現在の直樹。


 胸の傷。


 相良は開始位置へ戻った。


 右足を引く。


 左手を前へ。


 右手を残す。


 目の前の直樹を相手として捉える。


 ミーシャの身体がわずかに沈んだ。


 いつでも間へ入れる姿勢。


 黒瀬は動かない。


 相良が一歩入る。


 胸の傷が引きつる。


 止まる。


 半歩戻る。


 角度を変える。


 もう一度、直樹へ入る。


 最終戦で選んだ角度だった。


 直樹の指が動いた。


 それでも構えない。


 相良は直樹の胸元へ手を伸ばした。


 拳ではない。


 開いた手で服をつかむ。


 引き寄せる。


 顔を見る。


「……な、ん」


 音が途切れた。


「なぜ刺したのか、か」


 一度。


「お前が止まらなかった」


 相良の眉間に力が入る。


「俺も止められなかった」


 相良は直樹を見続ける。


「俺は、お前を殺したと思った」


 相良の手から力が抜けた。


 服を離す。


 胸の傷。


 床の訓練線。


 空いた椅子。


 現在の直樹。


 相良は開始位置へ戻らなかった。


 線の上へ座った。


 直樹は相良の前へしゃがむ。


「相良」


 相良は顔を上げない。


「今日は命令しない」


 反応はない。


「訓練も始めない」


 二度。


「嫌でもだ」


 二度。


「これから先は、俺が決めない」


 相良の手が止まる。


「お前が決めろ」


 相良が直樹を見る。


 直樹はカードを取った。


 続ける。


 止める。


 今日。


 明日。


 相良の前へ並べる。


「今すぐじゃない」


 相良は四枚を見る。


 直樹。


 胸の傷。


 空いた椅子。


 明日。


 相良は「明日」を選んだ。


 次に「続ける」へ手を伸ばす。


 途中で止まり、直樹を見る。


 直樹は頷かない。


 許可も命令もしない。


 相良は自分で「続ける」を選び、「明日」の横へ置いた。


「本人の選択として確認しました」


 黒瀬が言った。


 相良は止めるカードを黒瀬の端末へ置く。


 黒瀬は端末を閉じた。


「記録入力を止めます」


 相良は空いた椅子を指す。


 直樹。


 座れ。


 直樹は椅子へ向かった。


 若い自分の写真が置いてある。


 写真を机の端へ伏せ、椅子へ座った。


 相良は床に座ったまま、現在の直樹を見る。


 二人の間に言葉はなかった。


 相良が覚えているのは、海外へ出る前の教官だった。


 目の前にいるのは、相良を刺した後の直樹だ。


 相良には、その時間がない。


 直樹には、その時間がすべて残っている。


 ミーシャは扉の外から二人を見ていた。


 直樹の背中は、まだ一人で耐えようとしている。


 だが、相良へ命令しなかった。


 自分で選ばせた。


 教官として立たず、一人の人間として椅子へ座った。


 ミーシャは思った。


 私も、あの隣へ座りたい。


 私の前でも、同じように力を抜いてほしい。


 相良を刺した直樹の内側に残っている傷を、自分は知っている。


 あの日の顔を知っている。


 黙礼の後、寂しそうに笑ったNAOを知っている。


 戦場の傷なら、私も癒やせる。


 そして、自分もNAOから求められたい。


 その思いが、静かに形を持ち始めていた。


 ミーシャは扉を開けた。


 相良が顔を上げる。


 知らない女を見る目だった。


 ミーシャは三歩離れた場所で止まり、両手を見せた。


「ミーシャです」


 相良は黙って見る。


「以前、あなたを追いました」


 相良の目が細くなる。


「捕まえる任務でした」


 二度。


「嫌ですよね」


 二度。


「今日は捕まえません」


 相良はミーシャを見る。


 直樹を見る。


 再びミーシャ。


「NAOと一緒に来ました」


 相良の視線が直樹へ移る。


 直樹は何も言わない。


 相良は壁のカードから一枚を取った。


 信用できない。


 ミーシャの前へ置く。


「分かりました」


 ミーシャは頷いた。


「三日後も、最初から言います」


 相良はカードを動かさなかった。


 ミーシャは直樹の隣へ座らない。


 扉に近い壁際へ下がる。


 相良の退路を塞がない位置だった。


 久世が入ってきた。


「今日はここまでだ」


 二度。


「明日やるんだろ」


 一度。


「なら休め」


 二度。


「胸が開くぞ」


 相良が傷へ触れる。


「また縫われる」


 相良は久世を見る。


「痛いぞ」


 しばらく考え、一度。


「分かればいい」


 久世は直樹を見る。


「お前も出ろ」


「相良が決めます」


「居座る気か」


「本人が望むなら」


 相良は「一人」のカードを見る。


 直樹。


 久世。


 ミーシャ。


 三人を順番に確認する。


 次に「誰かを呼ぶ」のカードを取り、直樹の前へ置く。


 その後、「一人」を久世とミーシャへ向けた。


「俺らは出ろ、か」


 一度。


 ミーシャが頷く。


「分かりました」


 久世が直樹を見る。


「三十分だ」


「一時間いただけませんか」


「三十分」


「相良が決めます」


 相良は時計のカードを取った。


 三十分。


 その数字を選ぶ。


 久世が鼻を鳴らした。


「聞き分けがいい」


 相良は机の端に伏せられた大庭の写真を指した。


 久世を見る。


「俺はあれよりましだ」


 相良の口元がわずかに動いた。


 久世と黒瀬が出る。


 ミーシャも扉へ向かった。


 出る前に、一度だけ直樹を見る。


 直樹は相良だけを見ている。


 ミーシャの胸に、鈍い痛みが走った。


 私も、あの隣へ座りたい。


 私がいる時にも、同じように力を抜いてほしい。


 めぐみが触れ始めた直樹の内側から、自分だけが押し出されたくない。


 だが、今は入り込まない。


 ミーシャは扉を閉めた。


     *


 活動室に二人だけになる。


 相良は直樹の右手を指した。


 古い傷。


 なぜ。


「壊した」


 相良の眉間に皺が寄る。


「お前の後だ」


 相良は自分の胸を見る。


「別の場所でだ」


 納得していない。


 それでも質問を変えた。


 海外。


 時間。


 何年。


「十年以上だ」


 相良の身体が止まる。


「お前の中では、最後の訓練の翌日だろう」


 一度。


「俺の中では違う」


 相良は直樹の顔を見る。


 目元。


 髪。


 右手に残った古い傷。


 自分が持たない年月を測るように。


「新しいことは、三日ほど覚えられる」


 一度。


「その後、ここへ戻る」


 直樹は床の訓練線を指した。


「俺が海外へ行く前へ」


 二度。


「嫌でもだ」


 二度。


「俺も嫌だ」


 相良が直樹を見る。


「三日後、また同じ説明をする」


 相良の手が止まった。


「何度でも」


 直樹は相良の胸の傷を見る。


「俺が刺したことも」


 相良が傷へ触れる。


「お前が生きていることも」


 直樹は短く息を吸った。


「毎回、最初から伝える」


 相良はしばらく動かなかった。


 やがて、右手を一度握った。


 直樹は鞄を開けた。


 白いテープを巻いたラバーナイフを取り出す。


 相良の目が止まった。


 すぐには手を伸ばさない。


 白いテープの端。


 爪でつけた小さな傷。


 柄の擦れ。


 握りの形。


 相良は右手を出した。


 直樹は渡さず、掌の上へ載せたまま見せた。


「覚えてるか」


 一度。


「今日は使わない」


 二度。


「明日、訓練するかどうかは、お前が決めろ」


 相良はラバーナイフを見る。


 直樹。


 胸の傷。


 床の線。


 明日のカード。


 相良は右手で、ラバーナイフを直樹の掌へ押し戻した。


 その上から、一度だけ叩く。


 開始の合図ではない。


 預ける動作だった。


「分かった」


 直樹は布へ包み直した。


 三十分後。


 扉が開いた。


 久世が入ってくる。


「終わりだ」


 二度。


「三十分だ」


 二度。


「決めたのはお前だ」


 相良の動きが止まる。


 時計を見る。


 自分で選んだ三十分。


 一度。


「休め」


 一度。


 直樹が立ち上がる。


 相良も立つ。


 空いた椅子から若い直樹の写真を取り、机の決まった位置へ戻す。


 床のテープは剝がさない。


 明日も同じ訓練を行うために残す。


 直樹は扉の手前で振り返った。


 相良は開始位置には立っていなかった。


 椅子へ座り、胸の傷へ手を置いている。


 目は直樹を見ていた。


「明日、来る」


 一度。


「約束する」


 一度。


「三日後も来る」


 相良は意味を測るように見る。


「覚えてなくてもだ」


 長い沈黙の後。


 一度。


 直樹は活動室を出た。


 廊下でミーシャが待っていた。


「どうでしたか」


「明日、相良が望めば訓練する」


「再教育ではなく」


「違う」


「では」


「相良が選ぶ」


 ミーシャは直樹の顔を見る。


 あの日と同じ寂しい笑いはなかった。


 代わりに、疲労と痛みの奥へ、相良の教官だった男の顔が戻り始めている。


 直樹はまた、自分を削る。


 三日ごとに相良へ説明する。


 毎回、胸の傷を見る。


 毎回、自分が刺したと伝える。


 それを一人で続けるつもりだった。


「私も来ます」


「信用できないと言われただろ」


「だから来ます」


「必要ない」


「三日後も同じことを言われます」


「そうだろうな」


「それでも、最初から名乗ります」


 直樹が廊下を歩き始める。


 ミーシャは隣へ並ぶ。


「何度でもです」


「相良が嫌がらない範囲で頼む」


「はい」


 廊下の先で、久世が黒瀬から青いファイルを受け取っていた。


 直樹へ差し出す。


「読め」


「今ですか」


「今だ」


 直樹は受け取った。


 表紙には、


 原型要員・相良の指揮移管ならびに再教育開始命令。


 と印字されている。


 直樹の目が冷えた。


「相良の前で読むな」


「分かっています」


「機能じゃない」


「はい」


「身体でもない」


「はい」


「人間だ」


 直樹は久世を見る。


「分かっています」


「なら忘れるな」


「忘れません」


 久世はそれだけ言い、戻っていった。


 直樹は命令書を二つに折った。


 破らない。


 捨てない。


 西側が何を求めているのか、相良へ隠さないために。


 同時に、西側の言葉で相良を呼ばせないために。


 保全棟を出ると、富士川の朝はすでに明るかった。


 直樹は前線へ戻る車両へ向かう。


 ミーシャは、その半歩後ろを歩いた。


 直樹の外套。


 相良を刺した右手。


 白いテープを巻いたラバーナイフが入った鞄。


 ミーシャは、それらを見ていた。


 戦場の傷なら、自分もNAOを癒やせる。


 その思いは、もう消えなかった。


 ただ心配しているだけではない。


 相良によって開いた直樹の傷のそばに、自分がいたい。


 直樹へ触れたい。


 その隣へ座りたい。


 自分にも、彼の重さを預けてほしい。


 自分がいることで、力を抜いてほしい。


 めぐみが触れ始めた場所から、押し出されたくない。


 私も、NAOから求められたい。


 私も、そうされたい。


 その欲が、ミーシャの中で、日ごとに深く根を張り始めていた。


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