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第170話 三日目の朝

## 第170話 三日目の朝


 西側医療保全施設は、地図の上では閉鎖された職業訓練所になっていた。


 正門の看板は錆び、駐車場には膝ほどの草が伸びている。窓の内側には古いブラインドが下り、表から人の出入りは見えない。


 だが、建物の裏側だけは舗装が新しかった。


 搬入口を監視するカメラが三台。


 外壁に沿って埋められた振動センサー。


 扉の横には、所属を示さない認証端末がある。


 黒瀬了が身分証を通した。


 久世は隣で腕を組んでいる。


「病院には見えん」


「病院として登録されていません」


「患者はいる」


「はい」


「面倒な場所だ」


 認証灯が緑へ変わった。


 扉が内側へ開く。


 中には消毒薬の匂いがあった。


 白い壁。


 手すり。


 滑りにくい床。


 医療施設として必要な設備は揃っている。ただし、病棟名も診療科も書かれていない。扉には番号だけが振られ、職員の名札にも姓しかなかった。


 案内役の医師が二人を迎えた。


 黒瀬は歩きながら聞いた。


「個室内の録画は」


「現在、停止しています。危険行動があった場合のみ、責任者二名の承認で起動します」


「共用部は」


「常時です」


「記録を確認します」


「準備しています」


 久世が言った。


「相良は」


「日中活動室です」


「拘束は」


「ありません」


「鎮静剤」


「使用していません」


「警備は」


「扉の外に二名です。本人からは見えません」


「ならいい」


 久世はそれ以上聞かなかった。


 廊下の突き当たりに、厚い観察窓があった。


 窓の向こうは広い活動室になっている。


 机。


 椅子。


 水差し。


 壁際に並べられた絵と文字のカード。


 水。


 食事。


 痛い。


 眠い。


 嫌だ。


 止める。


 続ける。


 一人。


 誰かを呼ぶ。


 その中央に、一人の男が立っていた。


 相良だった。


 髪は短く刈られている。


 右の側頭部から耳の後ろに、手術痕が走っていた。


 灰色の長袖シャツの襟元からは、胸を斜めに横切る太い傷の上端が見えている。


 刃が入った痕だけではない。


 救命処置のために開かれ、縫い直された線が重なっている。皮膚の色は周囲と異なり、引きつれた部分だけが硬く盛り上がっていた。


 相良は床に細いテープを貼っていた。


 一本目。


 入口。


 二本目。


 壁。


 三本目。


 遮蔽物。


 四本目。


 退路。


 机を半歩だけ動かす。


 椅子を二脚置く。


 一脚は部屋の中央。


 もう一脚は、壁から二歩半の位置。


 相良はその空いた椅子を見た。


 次に、自分の立つ場所を決める。


 両足を置く。


 目を閉じる。


 呼吸を三度。


 右足を半歩引く。


 左手を前へ。


 右手は身体の近くへ残す。


 そこから、誰もいない相手へ向けて一歩入った。


 胸の傷が引きつった。


 相良の呼吸が一瞬止まる。


 右手が傷の上へ触れた。


 原因を確かめるように、指で線をなぞる。


 自分がなぜ刺されたのか。


 誰に刺されたのか。


 その記憶はない。


 だが、身体だけは同じ入り方を拒んでいた。


 相良は半歩戻った。


 角度を変える。


 もう一度、初めから動く。


 久世が観察窓の前で止まった。


「いつからだ」


 医師が答える。


「目覚めてから毎日です」


「同じか」


「ほぼ完全に」


「時刻も」


「午前六時前後。配置、順番、歩数も同じです」


 相良は二度目の動きを終えた。


 空いた椅子へ顔を向ける。


 三秒。


 五秒。


 七秒。


 何かを待っている。


 だが、指示は来ない。


 相良は右手を下ろした。


 床のテープを一度確認し、最初の位置へ戻る。


 もう一度、同じ手順を始めた。


「写真は」


 黒瀬が聞いた。


「認知検査以外では使っていません」


「本人が求めない」


「はい。写真を見るより、訓練配置を作ります」


「最後の訓練を再現している」


「そう考えています」


 久世は窓から目を離さなかった。


「本人確認は」


「指紋、歯科記録、DNA、古い骨折痕。すべて一致しています」


「相良か」


「はい」


 相良が三度目の反復へ入る。


 椅子の位置が二センチほどずれていた。


 相良はすぐに気づき、元へ戻した。


「本人だ」


 久世が言った。


 医師が久世を見る。


「配置で?」


「真柴の立つ位置だ」


 空いた椅子を顎で示す。


「壁から二歩半。相良から三歩」


「訓練時の記録と一致しますか」


「知らん」


 久世の声は不機嫌だった。


「だが、あいつらならそうする」


 黒瀬は相良の動きを見ていた。


 出入口を確認する。


 遮蔽物を置く。


 退路を二つ作る。


 開始位置へ立つ。


 目を閉じる。


 相手の動きを想定する。


 一歩入る。


 胸の傷が引きつる。


 角度を変える。


 最後に、空いた位置からの指示を待つ。


 毎回、同じところで終わる。


「先に私が入ります」


 黒瀬が言った。


「俺も行く」


「初回観察後です」


「俺を覚えてる」


「記録では」


「記録じゃない」


 久世が黒瀬を見る。


「顔を見れば分かる」


「五分です」


「三分にしろ」


「五分です」


 久世が舌打ちした。


「面倒な男だ」


「保全です」


 黒瀬は活動室の扉へ向かった。


 電子錠が解除される。


 中から見える位置に立ち、ノックを二度した。


 相良が動きを止める。


 目が扉へ向いた。


 右足が半歩下がる。


 身体の正面を開けず、黒瀬の手、腰、靴、扉の向こうを順番に見る。


 黒瀬は扉を半分だけ開けた。


「入ります」


 返事はない。


「黒瀬です」


 相良は黒瀬の顔を見る。


 次に、壁のカードへ視線を移した。


「話をします。嫌なら止められます」


 黒瀬は止めるカードを指した。


 相良は右手を一度握った。


 肯定。


 黒瀬は室内へ入った。


 相良から二歩半の位置で止まる。


 訓練用に作られた床の線は踏まなかった。


 相良はそれを見ていた。


「名前を確認します」


 相良の眉がわずかに動く。


「相良さん」


 右手が一度握られた。


「あなたの名前ですか」


 一度。


 黒瀬は机へ三枚の写真を裏返して置いた。


「写真を見せます」


 一度。


 一枚目を表にする。


 久世の現在の写真だった。


 相良の喉が動いた。


「……く」


 音が出る。


 唇が次の形を作る。


「く……せ」


 二音の間が崩れた。


 本人はもう一度言おうとした。


 息。


 舌。


 口の形。


 どれも動く。


 だが、頭の中にある名前を音へ変えきれない。


 相良の拳が腿を叩いた。


 一度。


 二度。


「伝わっています」


 黒瀬が言った。


 相良の手が止まる。


「久世さんですね」


 一度。


 強い肯定。


 黒瀬は二枚目を表にした。


 大庭航平。


 写真の中で、大庭は軽く笑っていた。


 相良の目が細くなる。


 写真。


 黒瀬。


 活動室の奥にいる女性職員。


 もう一度、大庭。


 相良は写真を裏返した。


 机の一番遠い端へ押す。


 女性職員を見て、首を横へ振った。


「この人物を知っていますか」


 一度。


「信用できますか」


 二度。


「女性と二人にしてよいですか」


 二度。


 今度は速かった。


 観察窓の向こうで、久世が鼻を鳴らした。


 黒瀬は大庭の写真をそのままにした。


「確認しました」


 相良は写真をさらに数センチ遠ざけた。


 黒瀬は三枚目を表にする。


 真柴直樹。


 海外へ出る前の、若い頃の隊内写真だった。


 相良の目が止まった。


 肩から余分な力が抜ける。


 写真を手に取る。


 だが、胸へ抱えはしなかった。


 顔を確認すると、そのまま空いていた椅子へ置いた。


 写真の向きを自分へ向ける。


 椅子の脚を二センチだけ修正する。


 床に作った開始位置へ戻る。


 黒瀬を見る。


 次に、写真。


 最後に、訓練用の線を指した。


「この人と訓練する」


 一度。


「真柴さんですか」


 一度。


 相良は写真の椅子を指す。


 時計。


 扉。


 自分。


 もう一度、時計。


「来る時間ですか」


 一度。


 相良は口を開いた。


「ま……」


 音が切れる。


 もう一度。


「ま、し……」


 続かない。


 右手が喉へ伸びる。


 途中で自分から止めた。


 止めるカードを取り、黒瀬の記録端末の上へ置いた。


「質問を止めます」


 相良は一度握った。


 黒瀬は端末を閉じた。


 相良は開始位置へ戻る。


 写真を置いた空席へ顔を向ける。


 指示を待つ。


 黒瀬が扉の方を見る。


 観察窓の向こうで、久世が三本の指を立てていた。


 三分。


 黒瀬は扉を開けた。


「久世さんがいます」


 相良の顔が上がった。


「会いますか」


 一度。


 久世が入ってくる。


 相良から三歩の位置で止まった。


 写真。


 本人。


 写真。


 相良は三つを見比べる。


 久世は挨拶をしなかった。


「相良」


 一度。


「俺が分かるか」


 一度。


「真柴を覚えてるか」


 相良は空いた椅子の写真を指した。


「そうか」


 相良は扉を指す。


 時計。


 空席。


「まだ呼んでない」


 相良の眉間に力が入る。


「真柴は生きてる」


 動きが止まった。


 相良は久世の口を見る。


 黒瀬を見る。


 写真を指す。


 一度。


「生きています」


 黒瀬が言った。


 相良の口が開く。


 音は出なかった。


 写真を見たあと、すぐに床の配置へ目を移す。


 空席を直す。


 開始位置へ立つ。


 直樹が来れば、すぐ訓練を始められるように。


 久世が言った。


「今日は来ない」


 相良の右手が二度握られた。


「俺に言うな」


 二度。


「真柴にも都合がある」


 二度。


「怒るなら、会ってからにしろ」


 相良の手が止まった。


 久世は椅子を引いた。


 相良が作った訓練線の外に座る。


「伝える」


 一度。


「ただし、すぐじゃない」


 二度。


「二度やっても変わらん」


 相良は黒瀬の写真を指した。


 次に扉。


 直樹の写真。


 自分。


「黒瀬さんが真柴さんへ伝える」


 一度。


「記録より先に、本人へ伝える」


 一度。


 黒瀬は頷いた。


「本人の要望として確認しました」


 相良は大庭の写真を取り上げた。


 黒瀬の記録端末の上へ置く。


 久世が言った。


「そいつと一緒にするな」


 相良の口元がわずかに動いた。


 声のない笑いだった。


     *


 相良は、その日の午後も同じイメージトレーニングを行った。


 出入口を決める。


 遮蔽物を置く。


 退路を二つ作る。


 空席を壁から二歩半に置く。


 写真を正面へ向ける。


 自分の開始位置へ立つ。


 呼吸を三度。


 一歩入る。


 胸の傷が引きつる。


 間合いを修正する。


 最後に、空席からの指示を待つ。


 指示は来ない。


 相良は毎回、同じところで止めた。


 翌朝も黒瀬を覚えていた。


 黒瀬が名乗る前に、訓練線の外側に置いた椅子を指す。


 そこへ座れという意味だった。


 相良は二日目から、必要なカードを自分で選び直した。


 黒瀬。


 久世。


 真柴。


 医師。


 自分。


 現在地。


 いつ。


 会いたい。


 嫌だ。


 止める。


 不足していたカードは紙へ自分で記号を書いた。


 矢印。


 扉。


 時計。


 直樹の写真。


 真柴。


 会う。


 いつ。


 相良は何度も同じ並びを作った。


「連絡準備中です」


 黒瀬が答える。


 二度。


「否定は確認しました。連絡はまだです」


 相良は黒瀬の写真を大庭の写真へ重ねようとした。


「同じではありません」


 相良は黒瀬を見る。


 口元がわずかに上がる。


 二日目の午後。


 女性職員が床のテープを清掃のために一度剝がした。


 相良は戻ってくると、何も言わずに同じ位置へ貼り直した。


 職員が椅子を動かせば戻す。


 写真の角度が変われば直す。


 歩数は毎回同じ。


 時間も同じ。


 胸の傷へ触れる場所まで同じだった。


 三日目。


 久世は相良と廊下を歩いた。


 相良は壁際へ寄らない。


 曲がり角で一度止まる。


 すれ違う人間の利き手側を空けない。


「訓練じゃない」


 相良が久世を見る。


「普通に歩け」


 相良は二歩だけ中央へ寄った。


 三歩目には元の位置へ戻る。


「直らんな」


 相良の口元が少し動く。


「笑うな」


 久世は前を向いたまま言った。


 活動室へ戻ると、相良はまた同じ配置を作った。


 入口。


 壁。


 遮蔽物。


 二本の退路。


 空いた椅子。


 直樹の写真。


 開始位置。


 呼吸を三度。


 一歩。


 胸の傷。


 角度を変える。


 指示を待つ。


 来ない。


 相良は時計を指した。


 久世を見る。


 写真。


 いつ。


「明日、決める」


 二度。


「俺に言うな」


 相良は黒瀬の写真を指した。


「そいつにも言うな。長くなる」


 相良の肩が揺れた。


 声のない笑いだった。


「笑うな」


 久世は不機嫌な顔のまま椅子へ座った。


     *


 三日目の夜。


 相良は午後九時過ぎに眠った。


 直樹の写真は枕元には置かなかった。


 訓練に使う椅子の上へ残した。


 写真は、相良の方を向いていた。


 壁には現在を示すカードが貼られていた。


 あなたの名前は相良。


 ここは西側医療保全施設。


 真柴直樹は生存。


 久世は明日来る。


 黒瀬は連絡準備中。


 嫌なら止められる。


 医師は午前零時まで脳波と睡眠状態を確認した。


 異常はない。


 午前三時。


 相良は一度目を覚まし、水を飲んだ。


 壁のカードを見た。


 そのまま眠った。


 午前五時十四分。


 再び目を開ける。


 天井。


 扉。


 窓。


 自分の両手。


 相良は身体を起こした。


 壁のカードを見る。


 あなたの名前は相良。


 指が止まる。


 ここは西側医療保全施設。


 眉間に皺が寄る。


 真柴直樹は生存。


 その行を長く見る。


 だが、その顔に安堵は浮かばなかった。


 初めから疑っていない人間の顔だった。


 相良はベッドを降りた。


 椅子に置かれた直樹の写真を見る。


 手に取る。


 胸へ抱かない。


 写真を持ったまま、床を見た。


 昨夜まで貼られていたテープを一度すべて剝がす。


 職員が観察窓の向こうで端末を取った。


 相良は止めるカードを扉へ向けた。


 職員の手が止まる。


 相良は最初から配置を作った。


 入口。


 壁。


 遮蔽物。


 退路を二つ。


 椅子を壁から二歩半。


 直樹の写真を正面へ。


 自分の開始位置。


 呼吸を三度。


 一歩入る。


 胸の傷が引きつる。


 相良は傷へ触れた。


 初めて見つけた傷を見るように、襟元を引いた。


 太い縫合痕。


 その周囲に残る、古い血の変色。


 指で触れる。


 理由は分からない。


 だが、今の入り方では駄目だと身体が知っている。


 半歩戻る。


 角度を変える。


 もう一度、初めから行う。


 最後に空席へ顔を向ける。


 三秒。


 五秒。


 七秒。


 指示は来ない。


 相良は時計を見る。


 扉。


 写真。


 訓練。


 遅い。


 四枚のカードを並べた。


 職員が扉越しに聞いた。


「真柴さんが遅れている?」


 一度。


「今日、訓練に来ると思っていますか」


 一度。


「ここから訓練場所へ行く?」


 一度。


 相良は扉を指す。


 自分。


 訓練。


 真柴。


 順番を作る。


 その中に、黒瀬の写真はなかった。


 三日間で作った通信表も使わない。


 黒瀬を知らない。


 この施設を知らない。


 昨日、久世と廊下を歩いたことも覚えていない。


 相良の中では、最後の訓練の日が始まっただけだった。


     *


 午前六時二分。


 久世が施設へ入った。


 黒瀬は観察室にいた。


 活動室の中で、相良が二度目のイメージトレーニングを始めている。


「戻ったか」


「はい」


「何時だ」


「午前五時十四分です」


「俺は」


「認識しています」


「お前は」


「認識していません」


「当然だな」


 久世は相良の胸を見る。


 相良が一歩入る。


 傷が引きつる。


 止まる。


 角度を変える。


「傷は」


「刺創と救命処置痕です。呼吸機能への大きな障害はありません。伸展時に引きつれと軽い疼痛が出ます」


「本人は分かってない」


「原因は認識していません」


「真柴が刺したことも」


「現在の記憶にはありません」


 相良は最後に、空いた椅子へ顔を向ける。


 指示を待つ。


 来ない。


「毎回これか」


「同じ手順です」


「三日前も」


「はい」


「昨日も」


「はい」


「戻っても」


「はい」


 久世は扉へ向かった。


「待ってください」


「何だ」


「相良さんは、今日を最後の訓練日だと認識しています」


「見れば分かる」


「真柴さんが来ると考えています」


「それも分かる」


「現在の事実を伝えます」


 久世の手が扉の前で止まった。


 相良は床の線を確認している。


 空いた椅子の角度を直す。


「三日前にも言った」


「覚えていません」


「昨日も待った」


「覚えていません」


「大庭をクズだと思ってるのは」


「保持している評価です」


「そこは忘れろ」


 黒瀬は答えなかった。


「無理か」


「残っています」


 久世は扉を開けた。


 相良が振り返る。


 久世の顔を見て、右手を一度握った。


「俺は分かるな」


 一度。


 相良は空席を指す。


 時計。


 扉。


「真柴は来ない」


 相良の表情が止まる。


「今日はな」


 二度。


「生きてる」


 相良が久世を見る。


「だが、ここにいることを知らない」


 相良の呼吸が浅くなった。


 写真を指す。


 久世。


 扉。


 いつ。


「伝える」


 一度。


「三日前にも伝えた」


 相良の目が細くなる。


「覚えてないな」


 一度。


「そうか」


 久世はそれ以上言わなかった。


 相良は黒瀬を見る。


 知らない人間を見る目だった。


「黒瀬です」


 黒瀬が言った。


「三日前にも会っています」


 二度。


「覚えていない」


 一度。


「確認しました」


 相良は黒瀬の持つ端末を見る。


 止めるカードを端末の上へ置いた。


 黒瀬は端末を閉じる。


 相良は直樹の写真を指す。


 次に黒瀬。


 扉。


 自分。


「私が真柴さんへ伝える」


 一度。


「今日、伝えます」


 相良の手が止まった。


 もう一度、右手を握る。


 一度。


 久世が黒瀬を見る。


「やっとか」


「本人の状態を確認しました」


「三日かかった」


「必要でした」


「長い」


「はい」


 相良は訓練線へ戻った。


 開始位置に立つ。


 空いた椅子へ写真を置く。


 呼吸を三度。


 一歩。


 胸の傷。


 角度を変える。


 最初から。


 久世はその背中を見ていた。


「真柴に全部言え」


「はい」


「傷もだ」


「はい」


「三日で戻ることも」


「はい」


「西側の要望もだ」


「分けて伝えます」


「削るな」


「削りません」


 黒瀬は活動室を出た。


 扉が閉じる直前、相良が机を一度叩いた。


 黒瀬が振り返る。


 相良は直樹の写真を指す。


 次に黒瀬。


 最後に扉。


「伝えます」


 一度。


 扉が閉まる。


 廊下を歩きながら、黒瀬は連絡端末を取り出した。


 真柴直樹の番号を表示する。


 相良は、直樹に刺されたことを覚えていない。


 胸には、その刃の痕が残っている。


 記憶が最後の訓練へ戻っても、身体は同じ間合いへ入ることを拒む。


 相良はその理由を知らないまま、毎回、角度を変える。


 そして、直樹が立つはずの位置を空ける。


 指示を待つ。


 来なければ、初めからやり直す。


 三日後も。


 その三日後も。


 直樹が来るまで。


 直樹は、相良を殺したと思っている。


 相良は、直樹が少し遅れていると思っている。


 二人の時間は、同じ場所にない。


 黒瀬は発信先を表示したまま立ち止まった。


 先に相原。


 次に末安えり。


 医療側の停止権限。


 記録範囲。


 本人同意。


 直樹へ何を、どの順番で伝えるか。


 線を引く必要がある。


 直樹へ最初に見せるべきものは、西側の要望書ではない。


 相良が写真を抱いた記録でもない。


 毎朝、同じ位置へ直樹の椅子を置くこと。


 胸の傷が引きつるたび、理由も分からず間合いを修正すること。


 誰もいない空席へ向かい、次の指示を待っていること。


 それが、現在の相良だった。


 黒瀬は発信ボタンを押した。


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