第169話 人間を経歴だけで見ない
##第169話 人間を経歴だけで見ない
富士川の地下保全室には窓がなかった。
時刻を知らせるものは、壁に埋め込まれた白い時計だけだった。
午前五時四十二分。
秒針が一つ進むたび、金属扉の向こうで空調が低く鳴る。
黒瀬了は上着を脱がず、机の前に立っていた。
久世は壁際の金庫へ向かった。
番号を入力する。
鍵を差し込む。
掌紋を当てる。
三つの認証を終えると、厚い扉が音もなく浮いた。
古い金庫だった。
外側の塗装は角から剝げている。だが、蝶番と錠前だけは新しい。内部の棚には、薄い封筒が間隔を空けて並べられていた。
「大庭の部下は」
黒瀬が聞いた。
「まだ北だ」
「帰還命令は」
「出せる位置にいない」
久世は一番下の棚から灰色の封筒を取り出した。
所属も氏名も記されていない。
表に赤鉛筆で二行。
暫定。
帰還未了。
久世はそれを机へ置いた。
「一時レポートだ」
「本人の作成ではありませんね」
「伝送だけだ。前後は見た。中身は暗号のまま保全した」
「大庭さんは」
「中継しただけだ」
黒瀬は封筒に触れず、鞄から二冊のファイルを出した。
一冊は白。
もう一冊は青だった。
白いファイルには、旧川端公民館で救出された元空挺隊員の管理番号がある。
青いファイルには、西側暫定統合調整室の押印があった。
久世は白い方へ目を向けた。
「通信陸曹のか」
「本人が所持していた暗号列です。証言記録とは分離しています」
「名前は」
「本人が国家記録への再登録に同意していません」
久世は鼻から短く息を吐いた。
黒瀬は三つの資料を机へ並べた。
灰色。
白。
青。
それぞれの間に、掌一枚ほどの空間を残した。
「混同しません」
「何と何をだ」
「北側の情報と、西側の要望です」
「同じ穴だろ」
「情報系統が違います。記録は分けます」
久世は答えなかった。
黒瀬は白いファイルを開いた。
数字と記号が、規則性なく並んでいる。
旧川端公民館の地下で、元空挺隊員が四年間維持していた通信の断片だった。
二つまでは機械が返した。
三つ目だけが、人間の返事だった。
救出後も、男は自分を人間として説明しなかった。
階級。
担当。
保守要員。
中継維持。
名前を尋ねても、役割で返した。
ただ、古い通信符号を見せた時だけ、指を動かした。
紙に同じ図形を三度書いた。
折れた翼。
縦線。
その下に丸を一つ。
黒瀬は、その写しを灰色の封筒の横へ置いた。
「開封します」
切り口と封印を確認してから、灰色の封筒を開いた。
中には六枚の薄い紙が入っていた。
一枚目の上部に、北側で活動を続けている報告者の識別符号。
日付は二週間前。
位置情報はない。
文章の多くは、数字と記号へ置き換えられている。
完全な報告書ではなかった。
目撃。
伝聞。
推測。
現地で流通している語。
それぞれが異なる符号で区別されていた。
黒瀬は一枚目を読み、二枚目へ移った。
途中で手を止める。
「何だ」
久世が聞いた。
黒瀬は答えず、白いファイルから換字表を抜いた。
元空挺隊員が残した符号。
大庭の部下が送った数字列。
二枚を透明な保護板の上下へ入れる。
一列ずらす。
二列。
三列。
重なった箇所だけが文字になった。
黒瀬は紙へ書き写した。
女。
系。
天。
皇。
久世の目から眠気が消えた。
「何だ、それは」
「単語です」
「見れば分かる」
「意味は未確定です」
「女系天皇だろ」
「企画名、対象名、系統名、偽装語の可能性があります」
「北が女を立てる」
「確認されていません」
「皇統を割る」
「確認されていません」
久世は口元を歪めた。
「相変わらず腹の立つ言い方だ」
「未確認情報では動かしません」
黒瀬は、四文字の横へ何も書き足さなかった。
丸も線も引かない。
下に小さく記す。
二系統で同一語を確認。
意味未確定。
灰色の資料に「女系天皇」が現れたのは一度だけだった。
前後は欠けている。
誰が使用したのか。
どの施設で使われたのか。
中央の計画なのか、地方の呼称なのか。
まだ分からない。
ただし、救出された元空挺隊員が所持していた暗号にも、同じ語を指す並びがある。
偶然として捨てるには重い。
結論として扱うには足りない。
黒瀬は灰色と白の資料を机の左へ移した。
「北側の案件です」
次に、青いファイルを中央へ引いた。
「こちらは西側です」
久世が椅子へ座る。
黒瀬は青いファイルを開いた。
表題には、長い名称が印字されていた。
損傷原型要員機能残存体に関する評価協力要請。
久世が一行目で舌打ちした。
「人間と書け」
対象者の氏名は伏せられていた。
年齢。
性別。
元所属。
身体機能。
保有技術。
損傷部位。
再教育担当候補。
個人の記録ではなく、再利用可能な機能の一覧だった。
近接戦闘。
室内侵入。
退路構築。
短距離射撃。
追跡回避。
地形利用。
黒瀬の指が止まる。
「この技能構成を確認します」
黒瀬は鞄から黒い記録簿を出した。
富士川周辺で発生した一連の戦闘記録。
ロシア側の死傷者。
避難者の経路。
直樹とミーシャの誤認交戦。
直樹が追った、一人分の足。
最後に起きた刃物による近接戦。
記録上、対象者はそこで死亡していた。
氏名欄には、相良。
黒瀬は青いファイルの識別番号と、相良の搬送番号を照合した。
末尾の二桁だけが違う。
途中の欠番は一致していた。
死亡後の通常搬送で付け替えられる番号ではない。
「相良の遺体を最後に確認したのは」
「真柴だ」
「医療上の確認は」
「同行医療班」
「その後は」
「搬送班へ渡した」
「所属」
「西側の統合回収班」
「富士川ではない」
「違う」
黒瀬は次のページを開いた。
医療記録だった。
現場到着時。
心拍なし。
自発呼吸なし。
大量出血。
対光反射、微弱。
脳死判定、未実施。
搬送後。
人工循環開始。
血液酸素化。
脳温管理。
頭蓋内圧抑制。
心拍再開。
脳幹反射、残存。
皮質活動、確認。
黒瀬は読み上げなかった。
久世が紙を取った。
視線が途中で止まる。
「心臓は止まった」
「はい」
「真柴の判断は間違ってない」
「心停止は確認されています。脳死判定はありません」
「脳は」
「生きていました」
空調の音だけが続いた。
久世は紙を机へ戻した。
指先は離さなかった。
「生かしたのか」
「循環を再開しています」
「稼働、か」
青いファイルの表題を見て言った。
「西側の記録では」
「気に入らん」
黒瀬は一枚めくった。
意識回復。
視覚認知あり。
単純指示への反応あり。
意思表示あり。
発声企図あり。
言語出力、重度障害。
声が出ないのではない。
話したい内容を、言葉へ変換できない。
口と舌は動く。
音も出る。
だが、その音が本人の中にある意味と結びつかない。
「意思疎通は可能です」
「喋れるのか」
「発語は成立していません。視線、指差し、選択、身振りを使います」
「人形じゃない」
「違います」
「命令だけでもない」
「違います」
黒瀬は表題の上へ白い紙を置いた。
機能残存体という文字を隠す。
そのまま記録を進めた。
人物認知。
見当識。
短期記憶。
新規記憶の保持時間。
約七十二時間。
新しく会った人間を、一日目には覚えている。
二日目にも認識する。
三日目まで、起きた出来事を保持できる。
しかし、それを越えると現在との接続が崩れる。
次に意識を整えた時、相良の認識は過去の一定地点へ戻っている。
直樹が海外へ出る直前。
二人が行った、最後の訓練。
説明されたことも。
新しく会った人間も。
三日間で築いた関係も。
長期記憶として残らない。
相良は再び、直樹がまだ国内にいる時間へ戻る。
「俺は」
久世が言った。
「覚えてるのか」
「固定記憶にあります」
「名前でか」
「名前への反応と、写真の選択が一致しています」
「真柴は」
「最も反応が強い」
久世の口元が硬くなる。
「大庭は」
黒瀬は次の記録を見た。
「嫌悪反応があります」
「嫌悪」
「大庭さんの写真を裏返しています。女性職員を写真から離す動作も確認されています」
久世の目元がわずかに動いた。
「そこだけ残ったか」
「損傷前からの評価である可能性があります」
「女にだらしないクズだとな」
黒瀬は訂正しなかった。
青いファイルの中にいるのは、機能だけではなかった。
直樹を覚えている。
久世を覚えている。
大庭を見れば、女性を遠ざけようとする。
話したいと思っている。
それでも言葉にできない。
三日の現在を生きた後、また過去へ戻る。
相良だった。
「西側の目的は」
久世が聞いた。
黒瀬は最後のページを開いた。
再教育後の運用適性評価。
訓練記憶の再起動。
指示保持期間の測定。
原型要員由来技能の再現性。
最適再教育担当者の選定。
候補者は一人だった。
真柴直樹。
久世が椅子から立った。
「ふざけるな」
声は低かった。
机の上の紙が一枚、指に押されて動いた。
「真柴は殺したと思ってる。今もだ」
「はい」
「そこへ戻す気か」
「西側の要望です」
「お前は」
久世が黒瀬を見る。
「どうする」
黒瀬は資料を整えた。
北側の灰色と白。
西側の青。
青いファイルの表題を隠した紙に、黒いペンで書く。
相良。
生存。
意思疎通可能。
本人同意未確認。
「経歴は確認します」
黒瀬は言った。
「死亡記録、原型要員歴、戦闘技能。すべて事実です」
久世は黙っている。
「再運用への同意は、そこから作れません」
「真柴には」
「まだ伝えません」
「隠すのか」
「本人を確認します」
「紙にある」
「生存記録と本人確認は別です」
久世は開いたままの金庫を見た。
四年前。
直樹の死亡推定を確かめに来た相良へ、久世は任務へ戻れと言った。
所属は残っている。
役割がある。
そう伝えた。
翌朝、相良は富士川から消えた。
久世は追跡命令を出さなかった。
戻せば、技術だけを利用される。
一人にした方がいい。
そう判断した。
相良は国境で避難者を守り、直樹を待った。
直樹へ足を読ませた。
直樹の刃を受けた。
その後も生きていた。
三日ごとに、まだ直樹が自分を置いていない時間へ戻りながら。
「どこだ」
久世が聞いた。
「西側医療保全施設です」
「行くぞ」
「初回確認は私が行います」
「俺を覚えてる」
「固定記憶にあります」
「なら俺が行く」
「久世さんの接触は記録対象です」
「俺も検査する気か」
「全員です」
久世は黒瀬を睨んだ。
黒瀬は視線を逸らさない。
「相良さんの反応だけでは判断しません。接触する側の反応も残します」
「面倒な男だ」
「保全です」
黒瀬は北側の資料をまとめた。
灰色の一時レポート。
元空挺隊員の暗号。
意味の確定していない四文字。
女系天皇。
それらを久世の金庫へ戻す。
青いファイルは戻さなかった。
「北の話は」
久世が聞く。
「別件として追います」
「相良とつながるか」
「確認されていません」
「またそれか」
「現時点では」
久世は金庫の扉を閉めた。
施錠音が三度鳴った。
黒瀬は青いファイルを鞄へ入れず、手に持った。
扉へ向かう。
「黒瀬」
久世が呼んだ。
黒瀬が止まる。
「真柴へ出す前に、俺へ回せ」
「相良さんをですか」
「要望書だ」
「分かりました」
「削るな」
「原本を提示します」
「西側の言い分も全部だ」
「はい」
黒瀬は金属扉へ手を掛けた。
「生存確認と運用要望は分けて伝えます」
「真柴が分けると思うか」
「分けられない可能性があります」
「だろうな」
「そのための記録です」
扉が開いた。
白い廊下の灯りが、地下保全室へ差し込んだ。
黒瀬は外へ出る。
扉が閉まった後も、久世は机の前に立っていた。
そこにはもう、相良の資料はない。
紙がなくても、名前だけが残っていた。
相良。
直樹より三歳下。
直樹の教えを通った男。
直樹が自分の手で終わらせたと思っている男。
相良の心臓は、あの日、確かに止まった。
だが、脳は生きていた。
血液を送り直され、酸素を与えられ、再び身体が動き始めた。
意思も残った。
伝えたいこともある。
ただ、言葉へ変えられない。
三日間だけ、新しい時間を持つ。
その後はまた、直樹が海外へ出る前の最後の訓練へ戻る。
直樹がまだ帰ってくると信じていた時間へ。
その直樹の時間だけは、戻らない。
相良へ刃を入れた感触も。
止まった呼吸も。
送った黙礼も。
相良を帰せなかった罪悪感も。
すべて、現在の直樹に残っている。
黒瀬はまだ、直樹へ連絡を入れなかった。
先に確認する必要があった。
西側の記録にある「稼働」が、何を指しているのか。
相良の身体が動くというだけなのか。
それとも。
言葉を失い、三日ごとに現在を失ってもなお、自分の意思で誰かを拒み、
誰かを待っている一人の人間が、そこにいるのか。
経歴には、死亡と書かれている。
要望書には、機能残存体と書かれている。
そのどちらにも、相良本人の意思は書かれていなかった。




