第168話 守れるが、閉じ込めない
##第168話 守れるが、閉じ込めない
楢ノ沢館の玄関から、止まっていた時計が外されていた。
壁には四角く色の違う跡だけが残っている。
十一時四十三分を指したままの時計は、旧帳場の隅へ伏せて置かれていた。その横では、健二が床板へ白い印を付けている。
「そこは剝がします。こっちは残してください」
作業員が印を書き写す。
「壁は開けますか」
「先に床下です。両方いっぺんに開けると、作業する場所までなくなるので」
初回調査から五日が過ぎていた。
楢ノ沢館は、まだ教育施設ではない。
二階の四室は立入禁止。暖房は動かず、厨房へ届く水も飲用には使えない。浴場では一基だけ残った給湯器の点検が続いている。
それでも建物の中には、人の声が戻っていた。
畳を運ぶ音。
腐食した釘を缶へ落とす音。
配管を叩き、水の通り道を調べる音。
直樹は偵察用オートバイを駐車場の端へ停め、走行距離を記録した。
旧南第三を出たのは七時十分。
到着は七時四十九分。
前回より二分短い。
速度を上げたわけではない。路肩の弱い場所と、見通しの悪い曲がり角が分かったことで、途中の確認が減っていた。
ヘルメットを外す。
旧帳場から健二が顔を出した。
「兄ちゃん、先に二階を見て」
「問題が出たのか」
「まだ出てない。だから、壊す前に見てほしい」
「分かった」
「それと、そこ」
健二が直樹の足元を指した。
工具箱が、廊下の中央へ半分はみ出している。
直樹は壁際へ寄せた。
「担架が通らない」
「ああ」
「楠本さんに見つかる前でよかったね」
「見つけてるよ」
玄関から声がした。
楠本カレン一曹が、水の容器を両手に提げて立っている。
「誰が置いた?」
作業員の一人が手を上げた。
「自分です」
「謝る前に動かしな」
「はい」
「返事が小さい」
「はい」
「よし。工具は壁側。人が倒れた時、この廊下を使うよ」
楠本は水を帳場へ運びながら、工具箱の取っ手まで廊下と平行に直した。
「真柴」
「何だ」
「二階の手すり、補強が終わるまで体重掛けるなよ」
「覚えてる」
「ならいい」
楠本は携行端末を直樹へ見せる。
「久世は九時から。回線試験は通った。通信室候補も西側で進める」
「北側は」
「外壁に近すぎる。電源も一系統しか取れない」
「中継器は」
「廊下側。詳しい話は本人から聞きな」
楠本は水の容器を置いた。
「今は紙より、人が歩く線を空けるよ」
*
二階の道路側客室では、古い硝子が外されていた。
窓枠だけが残り、開口部には仮の板が立てかけられている。板は外から固定されておらず、内側から動かせた。
健二が水平器を窓枠へ当てる。
「枠から直さないと、防護板も付かない」
「運用開始までに、何室使える」
「今のままなら八室」
「残り四室は」
「雨漏りと床下の腐食。開けてみないと修繕期間も出せない」
「八人を入れる予定だ」
「八室全部を寝室にはできないよ」
健二は図面を広げた。
使用可能な八室のうち、四室を訓練生の宿泊室として使う。一室は性別や個別事情に応じて使う予備個室。一室は教官当直室。一室は通信室。最後の一室は保全記録室。
「訓練生は二人一室か」
「開始時はね。修繕が終わった部屋から増やす」
「一人で寝る必要がある者が複数いた場合は」
「受入人数を減らす」
健二は迷わず答えた。
「部屋が足りないのに、人だけ入れるのはなし」
「開始日を遅らせる案も入れる」
「うん」
「八人を先に決めない」
「建物が六人分なら六人。四人分なら四人」
直樹は図面の余白へ書く。
使用可能区画に合わせて受入人数を決定。
不足時は開始延期、または人数削減。
「建物を人数へ合わせて壊すなってことか」
「無理に使えば、人の方が壊れるよ」
健二は水平器を外した。
階下から相原の声が届く。
「会議を始めます」
*
旧帳場の壁へ、一階と二階の平面図が貼られていた。
机の中央には閉鎖回線端末。
画面には、富士川側の久世真央一尉が映っている。椅子へ深く腰を掛け、机上の通信表示を見ていた。
端末の隣には、映像のない別回線が接続されている。
『黒瀬です』
声だけだった。
末安えりは挨拶より先に書類を持ち上げた。
「黒瀬さん。閲覧範囲は建物図面、保全区画、入退室記録まで。個人の治療情報と家族情報は出しません」
『承知しています』
「会議記録は、決定事項と未決事項だけ。私的な発言は残さない」
『末安さんにも確認をお願いします』
「受けます」
相原忍一尉が全員を見た。
「今日は完成形を決める会議ではありません」
図面の横へ一枚の紙を貼る。
運用開始に必要な最低条件。
「修繕費、燃料、発電機、通信機材には上限があります。直せない場所を無理に使う案は外します」
「安全基準は下げない」
直樹が言った。
「下げません。使う範囲を狭くします」
相原が一階図面を指す。
旧帳場は運用事務室。
大広間は集合教育。
入口脇には、人の足が止まった時に一度隊列から外せる退避場所を作る。
「固定壁はなし」
楠本が言った。
「担架が詰まる。可動式にする」
「戻す条件は」
直樹が聞く。
「呼びかけに応じられるか。自分の状態を、声でも手でも何でもいいから示せるか。指定した動作が一つできるかを見る」
「声が出ることは条件にしない」
「当たり前」
楠本は図面の大広間入口へ線を引いた。
「返事の方法は一つじゃないよ」
「戻れない場合は」
「中広間の一時対応区画へ移す。時間を決めて再確認する」
「本人が行けると言っても?」
「怖い時に『行けます』って言う人間はいくらでもいる」
楠本は直樹を見る。
「あんたもね」
「教官も同じ基準にする」
直樹が答えた。
末安さんが記録へ加える。
「中止申告や一時退避だけで、減点や懲戒にはしない。故意の職務放棄とは分けます」
「故意かどうかを一人で決めない」
「教育、行政、保全で確認します」
「それでいい」
厨房は給水検査が終わるまで調理禁止。
簡易炊事設備と食料は教育隊側が持ち込み、旧南第三の厨房と物資は使用しない。
生活物資と危険物は別の倉庫へ分ける。
浴場は洗浄と衛生のために使い、治療は行わない。
その三点は短く決まった。
残ったのは、中広間の隣にある旧控室だった。
「面談室に使います」
末安さんが言った。
「二人で入るには十分です。内鍵は付けない」
「外からの鍵は」
相原が尋ねる。
「未使用時だけ管理用に施錠。使用中は外からも施錠しません」
「無断録音は禁止」
直樹が言った。
「入室時刻と退室時刻は残します。面談内容は本人の同意がなければ記録しない」
閉鎖回線から黒瀬の声が入った。
『外から入れない施設は、中で起きたことも外へ出ません』
旧帳場の作業音が遠くなる。
『防御を強くするほど、内部で権限を持つ人間が何をしたか、外からは分かりにくくなります』
「教官を監視するのか」
直樹が聞いた。
『教官を含めます』
黒瀬の声量は変わらなかった。
『訓練生だけを疑う施設にはしません』
直樹は図面を見る。
音の漏れない壁。
外から見えない窓。
内側から開かない扉。
そこで教官が何を言い、何をさせたのか、誰にも分からない部屋。
「必要だ」
「面談室を出ることと、訓練拒否は分けます」
末安さんが続ける。
「本人が出たいと言えば出す。面談を続ける必要がある場合も、理由を説明して同意を取り直す」
「危険が迫っている場合は」
「事実と推測を分けて記録します。それ以上は個別判断」
「了解」
旧控室の扉へ書き込まれた。
内鍵なし。
使用中、外部施錠禁止。
無断録音禁止。
*
二階の区画へ移る。
使用可能な八室のうち、四室を訓練生宿泊区画とする。
一室は、性別や個別事情に応じて使う予備個室。
一室は教官当直。
一室は通信室。
一室は保全記録室。
直樹専用の部屋は作らない。
「兄ちゃんの部屋はなしね」
健二が確認した。
「いらない」
「夜間演習の日は?」
「教官当直室を使う」
「ほかの教官と同じ条件で?」
「ああ」
「通常日は?」
「帰る」
健二は、それ以上からかわなかった。
「通信室は西側の客室」
久世が画面へ配線図を出す。
『電源は二系統。片方が落ちた場合、外部発電機へ切り替える。室内中継器は廊下側』
「窓は」
『残す』
「外から見える」
『防護板を付けろ。ただし、完全閉鎖はしない。排熱、採光、外部アンテナの目視確認が必要だ』
「防護板は内側から手動開閉」
『重量と固定方法は健二と決めろ。私は通信条件だけ出す』
「分かった」
久世は自分の担当範囲から出なかった。
健二も通信機器の位置には口を挟まず、床荷重と窓枠の状態だけを記す。
「宿泊室の窓も、同じ構造にする」
直樹が言った。
前回、めぐみと書き直した図面を机へ置く。
防護板・開閉可能。
「基本は使う本人が開け閉めする」
「警戒時は?」
相原が聞いた。
「当直責任者が閉鎖を指示する」
「一度閉めたら、いつまで?」
末安さんが尋ねる。
「危険がなくなるまで」
「それでは、一度の命令で一日中閉められます」
直樹は図面を見る。
「一時間ごとに再判断する」
「閉鎖を命じた教官一人だけで延長しない」
「当直責任者と別の一名で確認」
「宿泊者本人にも、理由を説明してください」
「解除を求める権利も入れる」
「危険が残っていれば、開ける必要はありません。ただし、説明と記録は必要です」
「ああ」
健二が窓の横へ、小さな矢印を描いた。
閉じる方向。
開く方向。
どちらにも動く印だった。
*
「私物検査について」
末安さんが新しい用紙を置いた。
「無断では行いません。理由を記録し、検査した物と結果を本人へ説明します」
「危険物を隠している可能性があっても?」
相原が聞いた。
「生命に直結する場合は、先に止める。その後、一時間以内に記録」
黒瀬の声が入った。
『検査を行った者だけで、正当性を判断しないでください』
「行政担当と保全担当が、あとから確認します」
末安さんが答えた。
「拒否した事実だけで、不採用や懲戒にはしない。ただし、具体的な危険があれば生活区画への入室を制限する」
「根拠は残す」
「当然です」
直樹は宿泊室の扉を見る。
「廊下から、部屋の中は見えない方がいい」
「覗き窓は付けないよ」
健二が言った。
「寝る場所まで見える建物にはしない」
「でも、ずっと誰かが出てこないのも困る」
楠本が扉を指で叩く。
「朝と夜、名前を呼ぶ。返事がなければ、二人で確認する」
「教官だけが確認するのか」
「訓練生同士でもいい。教官を待って手遅れになる方が困る」
「内部を監視しない。安否だけを見る」
直樹がまとめた。
「休息を怠慢として扱わない」
末安さんが加える。
「確認理由は安全だけです」
*
最後に残ったのは、非常口だった。
表玄関。
大広間脇の出口。
厨房側の勝手口。
外階段は、補強が終わっても重量制限が残る可能性がある。
「主要避難路には入れない」
直樹が言った。
「補助避難路です」
相原が答える。
「主要二方向は、表玄関と大広間脇」
「片方が塞がれた場合は」
「厨房側を広げる」
健二が図面を指した。
「配管を移せば、担架も通せる」
「費用は」
「今日中に見積もりを出す」
「優先する」
相原が決めた。
「鍵は一人に持たせるなよ」
楠本が言った。
「教官が倒れたら終わる」
「非常口は内側から一動作で開けられる構造にする」
直樹が答える。
「暗くても、手が震えてても開けられる形」
「建具屋へ伝えるよ」
健二が記す。
「説明書を読まないと開かない扉にはしない」
非常口の脇へ、直樹が書き加える。
教官不在時も使用可能。
*
相原は、決定した箇所へ一つずつ印を付けた。
一階。
旧帳場は運用事務室。
大広間は集合教育。入口脇に可動式退避区画。
厨房は給水検査まで調理禁止。
中広間は負傷者の一時対応。
旧控室は面談室。内鍵なし。使用中の外部施錠と無断録音を禁止。
倉庫一は生活物資。
倉庫二は危険物。
浴場は洗浄と衛生区画。
二階。
宿泊室四室。
予備個室一室。
教官当直室。
通信室。
保全記録室。
直樹専用室は作らない。
窓は防護可能。ただし完全封鎖しない。
閉鎖時は理由と時間を記録し、一時間ごとに再判断する。
居室内部は常時監視しない。
それでも、誰かが長時間閉じ込められていることを隠せない運用にする。
非常口は二方向以上。
内部から一動作で開けられる。
訓練生にも教官にも、中止申告権を与える。
「決定事項は以上です」
末安さんが言った。
「未決事項は、防護板の材料、給水検査、暖房範囲、外階段の荷重、冬季の通勤条件」
「開始日は決めない」
直樹が言う。
「基準を満たしてからだ」
「受入人数も、使える部屋に合わせます」
相原が答えた。
『教育予定を理由に、安全基準を変えるな』
久世が言った。
「開始承認の条件へ入れる」
『それでいい』
映像のない回線から、黒瀬の声がした。
『個別の規則だけでは、判断に迷った時の基準になりません』
末安さんが赤いペンを持つ。
「表題ですか」
『必要です』
「短くしてください」
健二が、窓の図面を見る。
閉じる矢印。
開く矢印。
「守れる」
健二が言った。
「でも、閉じ込めない」
直樹は図面を見た。
外から撃ち込まれない窓。
内側から開けられる非常口。
使用中は施錠されない面談室。
監視されない宿泊室。
それでも、教官の権限だけでは誰かを隠せない記録。
「それでいい」
末安さんが改修方針書の上部へ書いた。
守れるが、閉じ込めない施設。
相原が確認印を押す。
『異議ありません』
黒瀬の声が言った。
『ない』
久世も続いた。
楠本は立ち上がり、机の端へ置かれていた工具箱を持つ。
「紙は終わり。人が通る線から空けるよ」
*
会議のあと、楢ノ沢館の中へ新しい線が引かれた。
玄関から中広間まで、赤いテープが貼られる。
担架と人が通る線。
工具も資材も置かない。
大広間の入口脇には、可動式の仕切りを置く位置が白線で示された。
旧控室の扉から内鍵が外される。
外側の管理鍵は残したまま、使用中に施錠しないことを示す札が取り付けられた。
倉庫二には、危険物区画の札が付いた。
武器も弾薬も、まだ運び込まれていない。
二階の窓には、健二が開閉方向を示す矢印を付ける。
防護板はまだない。
暖房も動かない。
給水の検査も終わっていない。
楢ノ沢館は、まだ人を受け入れられなかった。
それでも、何を守り、何をしてはいけない場所なのかは決まった。
十七時五十二分。
直樹は自分で時計を見た。
窓枠は、あと二枚残っている。
廊下の資材も、すべては運び終えていない。
「楠本一曹」
「何」
「窓枠が二枚。道路側の仮板確認。相原への作業報告」
「引き継ぐ」
「問題が出たら連絡を」
「入れる」
「頼む」
「受けた。帰りな」
今回は、帰れと言われる前に仕事を渡していた。
楠本は直樹の代わりに責任を背負うのではない。自分の担当として、残りを受け取った。
直樹は作業員へ声を掛け、オートバイへ向かった。
楢ノ沢館を出たのは十八時一分。
*
帰路の途中、道路脇の注意表示が倒れていた。
直樹は速度を落とす。
停車し、位置と状態を端末へ記録した。
国境第三の道路担当へ送る。
自分では立て直さなかった。
再び走り出す。
山の影が道路へ伸びる。
旧南第三の外壁が見えてくる。
大楠。
集落の屋根。
夕食の煙。
学校の手前で速度を落とした。
正門を通り、守衛室脇へ入る。
エンジンを止める。
*
めぐみは二階の廊下で、窓を閉めていた。
夕方の風が、壁へ留めていた子どもたちの絵を揺らしている。
直樹が食事を終えて階段を上がると、めぐみが振り向いた。
「なお」
「ああ」
「おかえり」
「ただいま」
めぐみは窓の留め金を下ろした。
「今日は分かったよ」
「何がだ」
「なおの音」
「大庭はいない」
「二台でも分かるかもしれない」
「なぜ」
「帰ってくる時の音だから」
めぐみは、直樹の袖に付いていた白い木くずを取った。
指先でつまみ、近くのごみ箱へ落とす。
「今日は、何を決めたの?」
「建物の使い方」
「窓は?」
「閉じられる。開けられる。閉めたままにする時は、理由を残す」
「うん」
「俺の部屋は作らない」
めぐみが直樹を見る。
「旅館に、なおの部屋がなくても平気?」
「通常日は帰る」
「こっちに?」
「ああ」
「夜の訓練は?」
「教官当直室を使う。ほかの教官と同じだ」
「そっか」
廊下の向こうから人の足音が近づいた。
めぐみは直樹の袖を軽く引く。
「部屋、入る?」
「ああ」
二人で室内へ入る。
めぐみが扉を閉めた。
机の横に立ったまま、直樹の胸元へ手を置く。
「今日は、なおから?」
直樹は意味を確かめるように、めぐみの顔を見た。
「いいのか」
「うん」
直樹はめぐみの頬へ手を添え、唇へ短く触れた。
離れると、めぐみが少し笑った。
「おかえりの分」
「ああ」
めぐみは直樹の肩へ額を預けた。
直樹はその背へ右腕を回す。
強く抱き締めず、離れようと思えば離れられるだけの力だった。
「なお」
「何だ」
「旅館に部屋を作らなかったのは、帰るため?」
「それだけじゃない」
「うん」
「俺だけの部屋を作れば、そこが俺だけの判断で動く場所になる」
「だから、作らない?」
「ああ」
「帰る場所は、もうある?」
直樹は少し考えた。
「ある」
「学校?」
「ああ」
めぐみの腕が、直樹の背へ回る。
「ここも?」
直樹は答える前に、めぐみを見た。
「入っていい時は」
「うん。それは毎回、私が決める」
「ああ」
「今日はいいよ」
「分かった」
めぐみはもう一度だけ、直樹の唇へ軽く触れた。
楢ノ沢館に、直樹専用の部屋は作らなかった。
その夜、めぐみは遠くから近づいた一台分のエンジン音で、直樹が帰ってきたことを知った。
直樹もまた、その音を止める場所を、自分の帰還先として選んでいた。




