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第167話 廃旅館

## 第167話 廃旅館


 朝の旧南第三へ、低いエンジン音が二つ入ってきた。


 深い緑色の車体が正門脇の砂利を踏み、守衛室の前へ並んで止まる。


 高い泥よけ。転倒時に機関部を守る金属製のガード。後部には無線機と荷物を固定するためのキャリアが付いている。


 偵察用オートバイだった。


 相原忍一尉は、車体番号と受領書を交互に確認した。


「二両とも、大庭の原所属部隊からの貸与です。燃料と整備も国境第三側で持ちます」


 健二が車体の周囲を一度歩く。


「学校の車両にはならないんですね」


「なりません。旧南第三の燃料も使いません」


 一両は直樹。


 もう一両は大庭。


 教育隊の運用が始まれば、楢ノ沢館と旧南第三の往復に使う。


「通勤用か」


 直樹が前輪を確認しながら言った。


「主な用途は」


 相原は受領書を閉じた。


「国境第三の車両を毎日拘束しない。健二さんに送迎させない。学校と教育隊の運用を混ぜない。そのための二両です」


 門柱の脇にいた大庭が、右側の車体を顎で示した。


「マッシー。そっちは低速で前が少し逃げる。林道で前輪を噛ませすぎんな」


「整備不良か」


「癖だよ。整備記録はキャリアの防水袋。俺の説明を信用せずに読め」


 直樹は袋の中を確認した。


「今日は一両だけ使います」


 相原が続ける。


「直樹は二輪で経路確認。健二さんと楠本一曹は俺の車両です」


「俺のは?」


 大庭が聞いた。


「今日は置いていきます」


「そりゃ残念だ」


 大庭は直樹が使う車体の座席を一度叩いた。


「帰るための足だ。片道装備にすんなよ」


「今日は調査だけだ」


「仕事が残ってるから泊まる、もなしだ」


「分かってる」


「お前の『分かってる』は信用が薄いんだよ」


 昇降口から、めぐみが出てきた。


 腕には、午前中の授業で使うらしい画用紙が抱えられている。


「なお」


「ああ」


「これで行くの?」


「今日は道も見る」


 めぐみは車体を見た。


 無線機も、金属製のガードもある。それでも、武器を見る時のような顔はしなかった。


「帰ってくる時も?」


「ああ」


「音、覚えられるかな」


「大庭の車体と同じだ」


「じゃあ、二台だったら分からないね」


 大庭が笑う。


「宮崎さん。マッシーは学校の近くじゃ静かに入ってきますよ」


「なぜだ」


「帰宅まで隠密行動しそうだから」


「しない」


 めぐみが小さく笑った。


 直樹はヘルメットを被る前に言う。


「十九時前には戻る」


「うん」


「遅れる時は連絡する」


「分かった」


 めぐみは画用紙を抱え直した。


「いってらっしゃい、なお」


「行ってくる」


 エンジンを始動する。


 めぐみは門に残らず、校舎へ戻った。


     *


 旧県道を外れると、道は急に細くなった。


 片側には崩れかけた石垣。反対側には、枯れ草に覆われた側溝が続いている。


 舗装は残っているが、補修の継ぎ目が波打っていた。


 直樹は速度を落とした。


 自分一人が通れるかではない。


 燃料車。


 補給車。


 負傷者を乗せた車両。


 対向車とすれ違える場所。


 路肩の弱い箇所と、転回できる空き地を端末へ記録する。


 山道側の分岐では一度止まった。


 オートバイなら通れる。


 四輪車は、落石と枝を除かなければ難しい。


 人員通行可。


 車両通行要整備。


 項目を分けて入力した。


 旧温泉集落へ入る。


 道の両側には、看板を外した土産物店が並んでいた。


 割れた硝子戸。


 閉じた雨戸。


 錆びた菓子の陳列台。


 共同浴場跡の煙突だけが、屋根の向こうに残っている。


 楢ノ沢館は、集落の最も奥にあった。


 鉄筋二階建ての本館。その横へ、木造の旧別館が斜めにつながっている。


 玄関上の看板には、薄くなった文字がまだ残っていた。


 楢ノ沢館。


 直樹が駐車場と裏手の斜面を確認している間に、相原の車両が到着した。


 助手席から健二が降りる。


 後部座席から、楠本カレン一曹が携行端末と赤白のロープを持って出てきた。


 楠本は建物を見上げ、次に錆びた非常階段へ目を移した。


「触った?」


「まだだ」


「そのまま。乗るな」


「上部の接合を確認する」


「下か、向かいの建物から見な」


「角度が足りない」


「落ちたら、確認項目が増えるよ」


 直樹は非常階段へ向けていた足を止めた。


「別の位置から見る」


「いいね。返事」


 楠本はすぐにロープを解き、非常階段の手前へ張った。


 携行端末を起動する。


「久世、目は生きてる?」


『聞こえている』


 画面には富士川側の久世一尉が映った。


「非常階段、映すよ」


『上部へ寄せろ』


「下が抜けかけてる。順番に見る」


『下部は確認した。上を映せ』


「なら、こっちの順番も飛ばすな」


 楠本は足場を確かめてから端末を上へ向けた。


 久世は反論せず、映像を見た。


 相原が車両から地図と調査票を取り出す。


「一時間後に旧帳場へ集合します。旧別館は外観だけ。本館内部を優先します」


 役割を確認した。


 直樹は、外周、侵入口、射線、避難路。


 健二は、床、梁、配管、暖房、給水。


 楠本は、担架動線、一時退避場所、人が詰まる箇所。


 相原は、車両、燃料、除雪、維持費、周辺との調整。


 久世は、電源、通信、中継器、無人機運用。


「行きますよ」


 楠本は端末を胸元へ固定し、玄関へ向かった。


     *


 硝子戸を開けると、湿った畳と古い木の匂いが流れ出した。


 床には砂と枯れ葉が入り込んでいる。


 正面に旧帳場。


 壁には鍵のなくなった客室札が並び、止まった時計が十一時四十三分を指していた。


 健二は玄関へ入る前に、床へ片足ずつ体重を掛けた。


「この辺りは、すぐ抜ける状態じゃなさそう」


「使えるか」


「今の範囲ではね。床下を見ないと決められない」


 健二は靴箱の脇へ手を入れ、壁の湿りを確かめる。


「水が下から上がってる」


 直樹は帳場までの視線を確認した。


「玄関から中が見えすぎる」


「見えるね」


「硝子を替える」


「何に?」


「防護材か、板」


「値段を聞いてからね」


 相原が後ろから言った。


「玄関全部を防弾材へ替えれば、暖房か給水の予算が消えます」


「被弾すれば使えない」


「凍えれば、その前に使えません」


 相原は調査票へ記した。


「優先順位は、全員の結果を合わせてからです」


 直樹は帳場の奥へ進んだ。


 厨房の勝手口。


 浴場の窓。


 木造別館へ続く渡り廊下。


 渡り廊下の床は、中央が沈んでいた。


 直樹は足を出しかけ、止める。


 非常階段へ張られたロープを思い出した。


「健二」


「待って。今見る」


 健二がしゃがみ、床板と柱の接合を見る。


「これは踏まない方がいい」


「どこまで腐ってる」


「開けないと分からない」


「向こう側の確認は」


「外から回ろう。今日は中を通らない」


 直樹は頷いた。


「迂回する」


 楠本は何も言わず、渡り廊下の入口へロープを張った。


 次に、折り畳み担架を広げる。


 土嚢を二つ載せ、直樹へ前側を持たせた。


「この廊下を曲がるよ」


 二人で進む。


 大広間前の角で、担架の枠が壁へ当たった。


「止めて」


 楠本が隙間を見る。


「縦にすれば通る」


 直樹が言う。


「歩ける人ならね」


「固定した負傷者は無理か」


「首、背骨、骨盤。起こせない人間はいくらでもいる」


 担架を下ろす。


「避難路にするなら、壁を削るか、別の出口を使う」


「大広間から外へ出す」


「戸を見よう」


 古い引き戸は途中までしか動かなかった。


 溝には泥が詰まり、木枠も湿気で膨らんでいる。


「今なら一人ずつしか出せない」


「直せば開く」


「夜に煙が出て、ここで三人の足が止まったら?」


「動かす」


「声が聞こえないやつは?」


 楠本は大広間の入口脇へ立った。


「一度、隊列から外す場所が要る」


『中広間へ移せ』


 久世の声が入る。


「そこまで戻せるならね」


『入口脇に退避区画を作れ』


 楠本は担架の幅を確認する。


「固定したら担架が詰まる。可動式にするよ」


『それでいい』


「図面へ入れる」


 直樹が言う。


「紙はあと」


 楠本は担架を畳んだ。


「次、階段」


     *


 二階の廊下は、窓から差し込む光で白く浮いていた。


 客室は十二室。


 壁紙は剥がれ、畳の一部には黒い染みが広がっている。


 健二は畳の角を上げ、床下を一室ずつ確かめた。


 直樹は窓の位置と、道路からの視線を確認する。


「この部屋は使わない方がいい」


 健二が言った。


「理由は」


「雨漏り。天井裏まで来てる」


「窓から室内が見える」


「見える前に、寝た人が咳をするよ」


 健二は天井板へ指を当てた。


「壁も開けないと駄目だな」


「修繕費は」


 相原が廊下から尋ねる。


「まだ出せない。壊してから分かる部分がある」


「解体前の調査費を先に通します」


 相原は窓の外へ目を向けた。


「冬は、旧県道側も毎日使えるとは限りません」


「除雪を入れる」


 直樹が答える。


「燃料と人員が要ります。通勤条件に、冬季の代替手段も入れます」


「車両を出せない時は、宿泊か」


「無理に帰らせる規則にはしません。ただし、道路が閉じる前に判断する時刻は決めましょう」


「分かった」


 相原は次の部屋へ向かった。


 直樹は道路側の窓へ近づく。


 古い硝子。


 低い腰壁。


 道路から照準を合わせれば、室内の人間が見える。


 図面へ書く。


 窓・閉鎖。


 隣の部屋にも、同じ印を入れた。


「兄ちゃん」


 健二が図面を覗く。


「何だ」


「道路側は全部?」


「ああ」


「板で塞ぐの?」


「外から見えなければいい。防護材でもいい」


 健二は窓の外を見る。


 向かいには、廃業した土産物店の屋根がある。その向こうには山の稜線が見えていた。


「全員が外を見られない建物にするの?」


「撃ち込まれるよりいい」


 健二はすぐには返さなかった。


 窓枠の腐食を指で確かめる。


「守るのは分かるよ」


「ああ」


「でも、ここは人を閉じ込める場所じゃない」


「出口は二つ作る」


「出口だけの話じゃないよ」


 直樹は図面を見る。


「危険は減る」


「危険が減ることと、生活できることは別だよ」


「寝る部屋まで開けておくのか」


「全部、同じ閉じ方にしなくてもいいんじゃない?」


「外から見える条件は同じだ」


「中で何をする部屋かは違うよ」


 楠本が廊下の手すりへ赤い印を付けながら言った。


「全部塞いだら、煙が入った時に逃がせないよ」


「排煙設備を入れる」


「設備が止まった時は?」


「手動の排気口を作る」


「なら、窓も手動で開けられた方が早いね」


「外から狙われる」


「開けっぱなしにしろとは言ってない」


 楠本は手を止めずに続ける。


「塞ぐなら、開ける手順まで作りな。止まった人間は、説明書を探せないよ」


『窓の最終判断は保留しろ』


 久世の声が入った。


「理由は」


『通信、換気、火災、外部監視。条件が足りん』


「防御上は閉鎖が最善です」


『防御だけならな』


 久世はそれ以上説明しなかった。


『案を一つで持ち帰るな』


「はい」


 直樹は図面の「閉鎖」を消さなかった。


 その横へ、小さく書く。


 保留。


     *


 一時間後、四人は旧帳場へ戻った。


 机には、それぞれの調査票が並ぶ。


 直樹の紙には、侵入口、死角、退路、武器庫候補。


 健二の紙には、床下、梁、配管、雨漏り、暖房。


 楠本の紙には、担架が曲がれない角、手すりの腐食、一時退避場所、人が詰まる位置。


 相原の紙には、車両進入、除雪、燃料保管、維持費、周辺調整。


 同じ建物を見た記録には見えなかった。


「本館は候補に残します」


 相原が言う。


「旧別館は当面使用しない。内部調査にも補強が必要です」


「本館も、すぐには使えないよ」


 健二が答える。


「二階の客室は半分以上、壁か床を開ける必要がある。暖房も最初は一階だけになると思う」


「給水は」


「厨房と浴場の一部には来てる。でも飲用できるかは別」


「発電機は外部から出します」


 相原が記す。


「燃料庫は、生活区画から離す」


 直樹が言った。


「倉庫二を候補にします。ただし、外から直接搬入できるようにする」


 相原が続ける。


「負傷者を通す入口とは分けて」


 楠本が加えた。


「濡れた装備を外す場所も玄関脇に要る。泥と燃料を同じ廊下に入れない」


「中広間を一時対応に使う」


「決めるのは次の会議」


 楠本は調査票を直樹の前へ置いた。


「でも、玄関からそこまでの線は切らないで」


「ああ」


「窓は保留です」


 相原が図面をまとめる。


「防御案は出す」


 直樹が言う。


「生活側の案も必要だよ」


 健二が答えた。


「俺は建物を見る。でも、実際に暮らす感覚は別だから」


「訓練生はまだ決まっていない」


「今いる人に聞けばいい」


「誰に」


 健二は答えなかった。


 直樹の顔を見ただけだった。


 相原が時計を確認する。


「日没前に戻りましょう。改修会議は二日後です」


 楠本は端末へ言った。


「久世、終わるよ」


『測定値を送れ』


「車へ戻ってから送る。歩きながら打たせるな」


『相原が運転する』


「私が酔う」


『では停車中に送れ』


「最初からそう言いな」


『楠本』


「分かったよ。線は切らない」


 回線が切れた。


     *


 帰路、直樹は相原の車両より先に出た。


 急ぐためではない。


 夕方の路面と視界を確認するためだった。


 山の影が道へ落ちる。


 昼には見えていた段差が、暗くなると消えた。


 端末へ追記する。


 日没後、速度制限。


 単独夜間走行、原則回避。


 楢ノ沢館と旧南第三の間を、毎日この道で往復する。


 任務へ向かう道であり、同時に帰るための道だった。


 学校の外壁が見えてくる。


 大楠。


 集落の屋根。


 夕食の煙。


 正門の手前で速度を落とした。


 エンジンを必要以上に鳴らさず、守衛室の脇へ入る。


     *


 めぐみは門では待っていなかった。


 直樹が走行距離と燃料を記録していると、二階の窓で人影が動いた。


 すぐには降りてこない。


 直樹も呼ばなかった。


 記録を防水袋へ戻し、鍵を保管箱へ入れる。


 予定表へ書く。


 帰還 十八時二十二分。


 ハルが守衛室から顔を出した。


「おかえりなさい、直樹さん」


「ただいま」


「夕食まで三十分ほどあります」


「ああ」


「今すぐ必要な確認はありますか」


 直樹は図面の筒を見る。


「ない」


「では、勤務外です」


「分かった」


 ハルは休む場所を指定しなかった。


 直樹も聞かなかった。


 図面だけを持って二階へ上がる。


 めぐみの部屋の前で、扉を二度叩いた。


「はい」


「めぐみ」


 扉が開く。


 めぐみは机へ向かっていたらしく、右手に消しゴムを持っていた。


「おかえり、なお」


「ただいま」


 めぐみの視線が、直樹の肩と袖へ動く。


「転ばなかった?」


「ああ」


「寒くなかった?」


「問題ない」


 めぐみは少しだけ眉を上げた。


「寒くなかった?」


「少し冷えた」


「そっか」


 それでよいらしく、扉を広く開ける。


「入る?」


「ああ」


 部屋には、机と椅子、畳んだ布団、壁際の棚がある。


 机の上には、授業で使う絵が並んでいた。


 水差し。


 靴。


 食器。


 校舎の扉。


 その隣には、窓が一つ増えている。


 直樹は床へ図面を広げた。


 めぐみも隣へ座る。


 肩が軽く触れた。


 直樹は離れなかった。


「旅館?」


「ああ」


 玄関、大広間、厨房、階段、二階の客室を順に示す。


「窓、多いね」


「旅館だったからだろう」


「山が見えたのかな」


「反対側からは見えた」


「なおは何を見たの?」


「侵入口。射線。退路」


「健二さんは?」


「床と水と暖房」


「相原さんは?」


「車と燃料と費用」


「楠本さんは?」


「人の足が止まる場所」


 めぐみの目が図面へ戻る。


「足が止まる?」


「負傷者。泣いた人間。吐いた人間。動けなくなった人間を、隊列から一度外す場所だ」


「追い出すんじゃなくて?」


「戻すために外す」


「そっか」


 めぐみは大広間の脇を指した。


「ここ?」


「候補だ。一人にはしない」


「うん」


 直樹は道路側の客室を示した。


「この窓は塞ぐ案を出した」


「全部?」


「ああ」


「外から見えるから?」


「撃ち込まれる」


 めぐみは図面の小さな四角を見た。


「健二さんは?」


「人を閉じ込める場所じゃないと言った」


「なおは?」


「撃ち込まれるよりいい」


「そっか」


 めぐみはすぐには否定しなかった。


「ここが寝る部屋?」


「ああ」


「朝は?」


「何がだ」


「朝、起きた時」


 めぐみは自分の部屋の窓を見た。


 外は夕方になり、硝子へ薄い橙色が残っている。


「窓を全部なくしたら、朝が分からないね」


 直樹は図面へ視線を戻した。


「時計は置く」


「時間じゃなくて」


「何が違う」


「夜が終わったって、目で分かること」


 直樹は答えなかった。


 警備上の危険ではない。


 構造上の欠陥でもない。


 通信や補給の問題にも入らない。


「朝が分からないと困るか」


「私は嫌かな」


 めぐみは直樹を見る。


「外へ出られない日があっても、外があることは見たい」


「窓が怖い人間もいる」


「いると思う」


「なら、どうする」


「選べたらいいね」


「開けるか、閉めるかを?」


「うん。なおが決めた一つだけじゃなくて」


 直樹は鉛筆を出した。


 窓の横に書かれた「閉鎖」を見る。


 めぐみが手にしていた消しゴムを差し出した。


「使う?」


「ああ」


 直樹が受け取ろうとした時、めぐみの指が右手の甲へ触れた。


 そのまま、手首までゆっくり滑る。


「なお」


「何だ」


「帰ってきたね」


「ああ」


「思ったより早かった」


「帰る道を確認した」


「仕事?」


「帰るための確認だ」


「そっか」


 めぐみの指が、直樹の袖を軽くつかんだ。


 直樹は図面から顔を上げる。


 めぐみが、直樹の頬へ手を添えた。


 傷を確かめる触れ方ではなかった。


「嫌じゃない?」


「嫌じゃない」


 めぐみが身体を寄せ、直樹の唇へ短く触れた。


 長くはなかった。


 何かを約束するためでもなかった。


 めぐみが離れる。


 直樹は、その頬へ右手を添えた。


「もう一度していいか」


「うん」


 今度は直樹から唇を重ねた。


 軽く触れ、離れる。


 めぐみの手は、直樹の袖に残っていた。


「なお」


「何だ」


「図面、続き」


「ああ」


 二人は肩が触れる位置へ戻った。


 直樹は消しゴムを受け取り、窓の横の「閉鎖」を消した。


 紙の繊維が少し毛羽立つ。


 その上へ書く。


 防護板。


 一度、鉛筆を止める。


「開けられる方がいい」


 めぐみが言った。


「ああ」


 文字を続けた。


 防護板・開閉可能。


 完全な答えではない。


 材料も、開閉の条件も、権限も決まっていない。


 撃ち込まれる危険が消えたわけでもなかった。


 それでも、窓は塞がれたままではなくなった。


 めぐみは直樹の肩へ、自分の肩を預けた。


 直樹も少しだけ寄せ返す。


 夕食を知らせる声が届くまで、二人は開けられる窓の位置を考えた。


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