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第166話 帰る時刻

## 第166話 帰る時刻


 出発時刻の十五分前、直樹は守衛室前の予定表を見た。


 午後 国境運用協議。


 その下には、朝に自分で書いた文字が残っている。


 帰還時刻 確認後連絡。


 閉鎖端末へ相原から届いた経路情報を開く。


 国境第三までの道路に封鎖はない。途中の検問所で車両確認が一度。協議の開始は十三時。


 終了予定の欄は空白だった。


「なお」


 廊下の奥から、めぐみの声が届いた。


 振り返る。


 めぐみは午前中の授業で使った色紙を両手に抱えていた。青と黄色の紙が重なり、指先に細い切れ端が一つ貼りついている。


「もう行く?」


「ああ」


「端末は?」


「持った」


「水は?」


 直樹は鞄の脇を軽く叩いた。


「入ってる」


 めぐみの視線が、予定表へ移った。


「帰る時間は」


「分かったら連絡する」


「うん」


 言い直させることも、念を押すこともしなかった。


 めぐみは色紙を抱え直す。


「いってらっしゃい、なお」


「行ってくる」


 直樹は昇降口へ向かった。


 門の前には、国境第三から来た灰色の車両が停まっていた。運転席の職員へ身分証を見せ、後部座席へ乗り込む。


 車が動き出した時、めぐみは門にはいなかった。


 もう校舎の中へ戻り、自分の仕事を続けている。


 待つことと、立ち尽くすことは違う。


 直樹は閉鎖端末を鞄へ戻した。


     *


 国境第三駐屯地の閉鎖回線室には、外へ通じる窓がなかった。


 壁には吸音材が貼られ、長机の中央に三台の端末が並んでいる。机の下では予備電源の送風音が途切れずに続いていた。


 相原忍一尉は、すでに紙の地図を広げていた。


 制服の上着を椅子の背へ掛け、国境線へ赤鉛筆で短い印を入れている。


「早いな」


「十二時四十分の予定だった」


「今、三十五分だ」


「遅れるよりいい」


「五分あれば、余計な仕事を一つ拾える」


 相原は鉛筆を置いた。


「今日は拾うな」


「理由は」


「学校と外をつなぎすぎないためだ」


 直樹は机へ近づいた。


 相原は地図の上へ、小さな紙片を二枚置く。


 一枚には旧南第三。


 もう一枚には国境第三。


 二枚の間を、手のひら一つ分だけ空けた。


「お前が旧南第三にいる限り、外は学校を通してお前を呼ぶ」


「必要なら出る」


「お前が出ることだけを問題にしてるんじゃない」


 相原は赤鉛筆を横へ置いた。


「燃料の相談。護衛。難民搬送。国境調整。獣害。人が足りなくなれば、全部、お前のいる学校へ連絡が入る」


「俺だけが対応すればいい」


「それが続けば、旧南第三は真柴直樹を動かすための窓口になる」


 相原は学校の紙片へ指を置いた。


「車両が来る。軍人が来る。物資が一度置かれる。記録を預ける。いずれ、子どもや職員まで任務の背景として見られる」


「教育隊を間に置くのか」


「そのためでもある」


 相原は二枚の間へ、黒い線を引いた。


「教育隊の人員、補給、車両、記録は国境第三側で持つ。学校の倉庫も、健二の車も、子どもたちの生活物資も使わせない」


「人員は」


「学校から出さない」


「健二は施設調査に入る」


「建物を見るためだ。隊員にするためじゃない」


「ああ」


「分かっていても、線を引け」


 相原は赤鉛筆を持ち直した。


「制度は遅い。書類も増える。責任者は署名を嫌がる。それでも制度を使わないと、最後は名前の残らない人間が全部背負う」


 直樹は地図を見た。


 相原は国家や制度を信じているわけではない。


 間に合わないことも、途中で判断が変わることも、現場へ責任だけが落ちてくることも知っている。


 それでも、制度を捨てない。


 制度がなければ、誰が決め、誰が使い、誰が失敗したのかまで消えるからだ。


「教育隊は、旧南第三の部隊にはしない」


 直樹が言った。


「ああ」


「俺が通うだけだ」


「それでいい」


 廊下から速い足音が近づいた。


 扉が開き、末安えりが薄い書類の束を片手に入ってくる。


「開始まで二十一分。先に穴を潰します」


 椅子へ座る前に、書類を三つへ分けた。


「任用条件。個人記録。責任範囲」


「全部読んだのか」


 相原が聞く。


「表題、目次、結論、例外規定、署名欄」


「全部ではないな」


「必要なところは全部です」


 末安さんは一枚目を直樹の前へ滑らせた。


「主任教官候補の受諾前に、包括的な経歴照会へ同意させる文面があります」


「必要では」


「必要な範囲を決めずに取る同意は、同意ではありません」


 赤いペンで一文を消す。


「広報利用も削除。家族照会も別手続き。訓練生側も同じです」


「偽名があった場合は」


「本人が偽造したのか、別の人間から与えられたのかを分けます」


「誰が照合する」


「黒瀬さんでしょうね」


 末安さんはページをめくった。


「南雲さんが別の人を探していなければ」


「黒瀬とは話しているのか」


「聖マリアで、嫌になるほど」


 答えは速かった。


「仕事を置いていきましたからね。本人は説明したつもりだったようですが」


「受けたのは末安さんだ」


「別の調整員を置かれる方が困りました」


 末安さんは時計を見る。


「今回は黒瀬さんの紹介は不要です。権限だけ決めます」


 十三時ちょうどに、中央の端末が起動した。


 正面の画面へ南雲圭が映る。


 右側の画面には、久世真央一尉がいた。


 迷彩服の袖を肘まで捲り、背後の机には分解された通信中継器と無人機の翼が並んでいる。


 久世は画面の中の直樹を確認した。


「真柴」


「はい」


「端末が低い。上げろ」


 直樹は画面の角度を変えた。


「右へ二度」


 直す。


「それでいい」


 挨拶はなかった。


 南雲が協議を開始した。


『国境線の人員増強、および新規教育組織の設置について協議する。相原、現状を』


 相原は地図を画面側へ向けた。


「道路は増えていません。通る人間だけが増えています」


 赤い線の上へ、六枚の札を置く。


「避難民。医薬品。食料。情報提供者。保護対象。身分や目的を偽った越境者」


 最後の札だけを少し離した。


「入口で分けても、途中で同じ道路へ合流します。確認に時間を掛ければ物資が止まる。急げば人を間違える」


『現行人員での継続は』


「無理です」


 相原は即答した。


「直樹や大庭を呼べば、一時的には通せます。ただ、それは体制ではありません」


『増員にはならないと』


「必要な時だけ熟練者を借りている状態です」


 相原は旧南第三の紙片を、地図の外側へ置いた。


「それと、真柴直樹を学校から直接呼ぶ形は終わらせます」


 南雲の目が動いた。


『理由は』


「旧南第三が外部任務の窓口になるからです」


 相原は言葉を区切った。


「教育隊の補給、人員、車両、記録は国境第三側で持つ。旧南第三の生活基盤は使わない。学校側へ求めるのは、真柴本人の通常勤務と、施設改修に必要な専門協力だけです」


『効率は落ちる』


「落とします」


 相原はためらわなかった。


「効率を上げるために学校を兵站拠点へ変えれば、守る場所が一つ消えます」


 南雲は少し黙った。


『分離原則として記録する。国境第三側で予算と補給経路を持つ』


「お願いします」


『久世、技術面を』


「機材は増やせます」


 久世の声は平坦だった。


「判断できる人間は増えていません」


 画面へ複数の通信記録が表示される。


「通信断。映像遅延。位置情報の偽装。民間人の混在。無人機を飛ばせば状況が分かると思っている者がいますが、映像が増えれば誤認も増える」


 同じ道路を別の角度から捉えた映像が並ぶ。


 一方には武器を持った男が見えた。


 もう一方では、その背後に子どもがいる。


「機材が止まった時。命令が届かない時。映像と地上報告が食い違った時。そこで進むか、止まるか、戻るかを決められる人間が足りない」


「操作員の増員だけでは」


 相原が聞く。


「足りない」


 久世は一語で切った。


「操作は教えられる。判断は、間違いを申告できる者にしか教えられない」


 視線が直樹へ向いた。


「真柴」


「はい」


「人員が足りない時、自分を足すな」


 直樹は黙った。


「聞こえたか」


「聞こえています」


「改善方法を言え」


「欠員を報告する。代理系統がなければ、任務を止める」


「最初からそうしろ」


「はい」


「今の基準を教育案へ入れろ」


「入れます」


 久世は、それ以上続けなかった。


 南雲が両手を組む。


『善意と個人的な信用で、国境を運用する段階は終わらせる』


 低い声が回線室へ通った。


『正式な人員、予算、教育基準、責任、監査、中止権限を持つ組織が必要だ』


「訓練記録の宣伝利用は認めません」


 末安さんが即座に入った。


『まだ話していない』


「後で出るので、先に止めます」


 南雲の眉がわずかに動く。


『広報へ転用する場合は、別途承認を取る』


「本人同意もです」


『認める』


「家族と過去の所属は一括公開しない」


『認める』


「不採用者の記録を、別の不利益処分へ流用しない」


『保全上の危険がある場合を除く』


「誰が危険と判断しますか」


『保全担当を置く』


「黒瀬さんですね」


 末安さんは確認ではなく、結論として言った。


 南雲が頷く。


『黒瀬了を入れる』


 直樹は画面を見た。


「黒瀬か」


『異論は』


「ありません。役割を確認します」


 末安さんが資料を一枚めくった。


「黒瀬さんなら、人物説明は省きます。今回は、どこまで持たせますか」


『身元照合。記録保全。潜入対策。強制下で作られた記録の判別』


「任用決定権は」


『持たせない』


「本人同意、生活上の不利益判断、身分登録は私が持ちます」


『分ける』


「閲覧履歴も残します」


『認める』


 直樹が尋ねた。


「教育隊は、原型要員の後続を作る組織ですか」


 回線室の送風音が、急に大きく聞こえた。


 聖マリアで差し出された復帰確認書を思い出す。


 原型要員への復帰。


 直樹は署名しなかった。


 保留。


 一人では決めない。


 それでも黒瀬は、別の任用書類を用意していた。


 命令はしなかった。


 直樹が自分で選ぶ形を作り、その選択を制度へ接続した。


 南雲が答えた。


『違う』


「黒瀬も同じ認識ですか」


「確認します」


 末安さんが赤いペンを取った。


「口頭ではなく、運用目的へ明記します」


 久世が短く入った。


「目的だけでは足りん」


「教育内容で分けます」


 直樹が答える。


「脱落者を選別に使わない。恐怖を隠させない。教官と同じ判断を要求しない」


「続けろ」


「中止申告だけで失格にはしない。違う経験を持つ人間を、一つの型へ揃えない」


「そこまで書け」


 久世はそれ以上話さなかった。


 南雲が直樹を見る。


『真柴直樹。新設する教育組織の主任教官候補として、任用を打診する』


 直樹は即答しなかった。


「所属は」


『国境第三の運用支援を目的とする臨時編成。最終承認は私が持つ』


「実任務時の指揮権は」


『派遣先の指揮系統へ入る。教育期間中の責任は主任教官』


「武器使用基準は」


『既存の国境第三基準を超えない』


「教育側に独自の交戦基準は作らせない」


『認める』


「宿営場所は」


 相原が地図の北西へ指を置いた。


「富士東麓の旧温泉集落です。廃業した旅館が一つ残っています」


「名称は」


「旧旅館・楢ノ沢館」


「旧南第三から」


「車で四十分程度」


「建物の状態は」


「使えるとは言っていません。三日後に調査します」


「通常日の帰還は」


 南雲が直樹を見る。


『旧南第三へ戻るという意味か』


「はい」


『主任教官用の居室を、施設に用意する予定だ』


「常駐はしません」


『主任教官が不在の場合、夜間の責任を誰が持つ』


 南雲の問いは、私生活への干渉ではなかった。


 制度上、誰が署名し、誰が止めるのかを確認している。


「当直責任者を置きます」


『誰を』


「まだ決めていません」


『なら、正式任用までに決めろ』


「候補者選定前に、副指揮系統案を出します」


 末安さんが聞いた。


「期限は」


「明日の正午」


「受領しました」


 久世は何も言わなかった。


 直樹は続ける。


「生活拠点は旧南第三。通常日は通勤。夜間演習時のみ宿泊します」


『実任務への緊急派遣は』


「別扱いです。指揮当番で対応できない場合だけ入る」


『連絡不能時は』


「代理連絡者を指定します」


『認める』


 相原が言葉を継いだ。


「教育隊の補給、人員、車両、記録は国境第三側で持ちます。旧南第三を隊の所属先、宿営地、物資集積地にはしません」


「条件へ入れる」


 直樹が言った。


「教育隊を、旧南第三の組織にはしない」


『理由は』


 南雲が尋ねる。


「学校を守るためです」


 直樹は地図を見た。


「それと、俺がいないと回らない場所を作らないためです」


『常駐しない理由も同じか』


「それだけではありません」


 直樹は一度止まった。


「仕事が残っていれば、俺はそこへ居続けます」


 相原が顔を上げた。


 末安さんは書く手を止めない。


「任務を生活拠点にしないためにも、通常日は帰ります」


 南雲は短く頷いた。


『私的な理由を含むのか』


「含みます」


『それで責任が果たせる仕組みを出すなら、問題にはしない』


「出します」


『教育方針は』


「俺の命令を絶対化しない」


『主任教官の権限を弱めるのか』


「違います。俺がいない時に止まる組織にはしません」


「具体案は」


 末安さんが聞く。


「指揮官不在の判断を、基礎教育へ入れる」


「いつからですか」


「最初の週から」


 久世が口を開いた。


「遅い」


 直樹は右側の画面を見る。


「初日からですか」


「初日から、判断を全部奪うな」


「最初は教官が見る必要があります」


「お前が全部見れば、訓練生は状況ではなく、お前の顔を見る」


 久世の声は変わらなかった。


「右手だけを見て、左から三度落とされたのを忘れたか」


「忘れていません」


「なら、最初から死角を作るな」


 直樹は考えた。


「初日から、担当を分けます」


「続けろ」


「人数確認、中止申告、退路確認を、一人へ集めない。教官の判断を待たずに申告させる」


「それでいいとは言っていない。案を出せ」


「明日正午までに出します」


「遅れるな」


「はい」


 久世は、そこで黙った。


 相原が地図へ新しい線を引く。


「補給、車両、除雪、国境連絡はこちらで持つ。教育側へ全部渡さない」


「施設改修は」


「健二に協力を頼みます」


「健二は軍事施設の専門家ではない」


「だから必要です」


 相原は赤鉛筆を置いた。


「お前が建物を見ると、侵入口、射線、死角、退路から始める」


「必要だ」


「必要です。ただ、人が眠れるかは別の目が要る」


 直樹は少し考えた。


「健二には、生活できる建物かを見てもらう」


「そうしてくれ」


 末安さんが言う。


「私は記録区画、同意手続き、面談の境界を確認します。建築判断も医療判断もしません」


『役割を分ける』


 南雲が答えた。


「黒瀬さんには記録保全。私には本人の権利。混ぜないでください」


『認める』


「早いですね」


『何がだ』


「今日は同じ説明を二度しなくて済みました」


 南雲は反応しなかった。


 末安さんは気にせず、次の項目へ移る。


「訓練記録の公開禁止。家族と過去所属の分離。私物検査は理由と記録が必要。面談の無断録音は禁止」


『軍事教育施設としては制限が多い』


「外から守る施設が、中で人を壊したら意味がありません」


 南雲は数秒考えた。


『原則として認める。施設構造と合わせて再確認する』


「受領しました」


『ほかに教育条件は』


 直樹が答える。


「中止と撤退を正式科目にする」


『射撃より先にか』


「先です」


『理由は』


「進むことだけを覚えた人間は、戻る判断を他人へ渡します」


「続けろ」


 久世が言う。


「名前と人数を分けない。中止申告では評価を下げない。体調、装備、視界、判断不能を隠した場合は、その行為を評価する」


 末安さんが聞いた。


「処分ですか」


「最初は教育です。繰り返せば現場へ出さない」


「説明文を作ります」


「頼む」


「受領しました」


 南雲は書類へ目を落とした。


『条件を踏まえ、主任教官候補を受けるか』


 直樹は地図を見る。


 国境第三。


 楢ノ沢館。


 旧南第三。


 三つの場所は線でつながっていた。


 だが、同じ場所にはしない。


「受けます」


『正式任用は、施設調査と候補者選定の後だ』


「分かりました」


『三日後、楢ノ沢館を調査する。参加者は真柴直樹、真柴健二、久世真央、相原忍』


 末安さんが言う。


「私は閉鎖回線で参加します」


『記録区画と面談区画を確認してくれ』


「受領しました」


 直樹は時計を見た。


 十七時四分。


「終了予定は」


 南雲が聞き返す。


『この協議のか』


「はい」


『残り十分だ』


 直樹は相原を見る。


「国境第三を出る時刻は」


「十七時三十分。検問で止まらなければ、十八時十五分前後」


 直樹は閉鎖端末を取った。


 めぐみへの連絡欄を開く。


 十九時帰還予定。


 入力し、送信する。


 末安さんが一度だけ視線を上げた。


 何も言わない。


 端末が震えた。


 めぐみからの返事は、一文字だった。


 うん。


 直樹は確認し、画面を閉じた。


 南雲が協議を終了した。


     *


 相原は地図を折り畳み、次の書類を机へ広げた。


「このあと、燃料配分の確認がある」


「手伝う」


「帰れ」


「十分で終わる」


「終わらない」


 相原は書類を直樹から遠ざけた。


「お前が入れば、橋の燃料、炊き出し、川島宅の暖房まで見ることになる」


「確認だけだ」


「それを俺の仕事と言う」


 相原は書類の上へ手を置いた。


「学校と外を切り分ける話をした直後に、担当まで混ぜるな」


「分かった」


「なら、帰れ」


 右側の画面はまだ消えていなかった。


 久世が言った。


「真柴」


「はい」


「余った時間を、仕事の穴へ詰めるな」


 直樹は画面を見る。


「時間はあります」


「だから帰れ」


「改善点ですか」


「そうだ」


 久世の声は、訓練場にいた頃と同じだった。


「立て」


 直樹は椅子から立った。


「分かりました」


「返事ではなく、帰れ」


「はい」


 回線が切れた。


 末安さんが書類を二つに分け、鞄へ入れる。


「良い判断でした」


「誰の」


「相原一尉と久世一尉です」


「俺では」


「まだ、言われて帰る段階なので」


 末安さんは先に扉へ向かった。


「次は自分で切り上げてください」


「評価は要らない」


「記録するとは言っていません」


     *


 車両は十七時二十八分に国境第三を出た。


 検問所で三分止められた。


 前方の道路を、医療搬送車が反対方向へ走っていく。


 直樹は時計を確認した。


 十八時十五分には着く。


 以前なら、空いた時間を別の作業で埋めた。


 燃料配分を一つ確認する。


 車両を点検する。


 誰かの報告書を見る。


 まだ帰るには早いと判断する。


 仕事がなくなるまで残り、なくならなければ帰らない。


 今日は違った。


 帰る時刻を先に置いた。


 終わっていない仕事を、担当者へ残した。


 車が旧南第三の門へ着いた時、時計は十八時十二分を示していた。


     *


 夕食までは、まだ四十分近くあった。


 昇降口へ入ると、校舎は授業と夕食の間の静けさに包まれていた。


 多目的室から、子どもたちが椅子を動かす音が聞こえる。厨房では鍋の蓋が一度鳴り、誰かが水を流した。


 めぐみは門にはいなかった。


 守衛室の前では、ハルが帳面を確認していた。


「おかえりなさい、直樹さん」


「ただいま」


 ハルは時計を見た。


「早かったですね」


「協議が終わった」


「では、夕食まで休んでください」


「確認することがある」


「今日、直樹さんが確認しないと困りますか」


 直樹は答えなかった。


 国境第三に残してきた燃料表。


 施設調査の経路。


 副指揮系統案。


 どれも、今すぐである必要はない。


「困らない」


「では、休んでください」


「分かった」


 ハルは休む場所を指定しなかった。


 直樹も聞かなかった。


 守衛室を離れ、階段の前で一度止まる。


 二階を見る。


 そのまま上がった。


 めぐみの部屋の前まで行き、扉を二度叩く。


「はい」


「めぐみ」


 中で椅子が動いた。


 扉が開く。


 めぐみは袖を肘まで折り、右手に鉛筆を持っていた。指の側面へ黒い粉がついている。


「なお」


「ああ」


「おかえり」


「ただいま」


 めぐみは廊下の時計を見た。


「早かったね」


「帰る時間を先に決めたからだ」


「そっか」


 めぐみは少し笑った。


「入る?」


「ああ」


 部屋には、小さな机と椅子、畳んだ布団、壁際の棚があった。


 机の上には、授業で使う絵が何枚か並んでいる。


 水差し。


 靴。


 食器。


 校舎の扉。


 どれも生活の中にあり、誰かが使い、元の場所へ戻す物だった。


 めぐみは机の前へ戻る。


 直樹は扉の近くに立ったまま、部屋を見た。


「座ってもいいか」


「うん」


 椅子は一つしかない。


 めぐみは床に置いていた座布団を、自分の隣へ引いた。


「ここでいい?」


「ああ」


 めぐみが座る。


 直樹も、その横へ腰を下ろした。


 鞄は壁際へ置く。


 端末は出さなかった。


 地図も、書類も持っていない。


 両手には何もなかった。


 めぐみはしばらく、直樹を見た。


「今日は、何をするの?」


「何もしない」


「ここで?」


「ああ」


「夕食まで、まだ三十分くらいあるよ」


「分かってる」


「仕事は?」


「残してきた」


「相原さんに?」


「ああ。久世一尉にも帰れと言われた」


「厳しかった?」


「普通だ」


「なおにとってはね」


 めぐみは描きかけの紙へ顔を戻した。


 鉛筆が動き始める。


 直樹は、その音を聞いた。


 紙を擦る音。


 芯が小さく欠け、めぐみが指で払う音。


 廊下を誰かが通り、足音が遠ざかる。


 何かを確認する必要はなかった。


 報告することもなかった。


 直樹が隣にいることを、めぐみは仕事にしなかった。


「話、決まった?」


 紙を見たまま、めぐみが聞く。


「主任教官候補を受けた」


「うん」


「まだ正式任用じゃない。三日後に施設を見る」


「どこ?」


「旧温泉集落の旅館。ここから四十分くらいだ」


 めぐみは線を一本引いた。


「ここへ帰れる?」


「通常日は帰る」


「そう言ったの?」


「ああ」


「私のため?」


「それだけじゃない」


 直樹はすぐに続けなかった。


 めぐみも質問を重ねず、待った。


「教育隊を旧南第三の組織にはしない。学校の物資も人員も使わせない」


「相原さんが?」


「ああ」


「学校を守るため?」


「そうだ」


 直樹は机の上の絵を見た。


「俺が施設へ住めば、俺がいないと回らない場所になる」


「うん」


「仕事が残っていれば、俺はそこへ居続ける」


 めぐみの鉛筆が止まった。


「それで帰るって決めたの?」


「ああ」


「そっか」


 めぐみは、それ以上評価しなかった。


 ただ、その答えを受け取った。


「原型要員の話も出た」


「黒瀬さん?」


「ああ。保全担当に入る」


「えりも知ってる?」


「知ってる。権限を分ける」


「なおは?」


「教育隊が後続を作る組織か確認した」


「違うって?」


「南雲はそう答えた。末安さんが書面にする」


「なおは、どうするの?」


「同じ判断をする人間は作らない」


 めぐみは直樹を見る。


「なおみたいな人を、増やさないってこと?」


 直樹は少し考えた。


「違う」


「うん」


「俺の間違いまで、同じにさせない」


 めぐみはしばらく黙っていた。


「それがいいと思う」


「ああ」


 鉛筆が、また紙の上を動き始める。


「私だけのためじゃなくていいよ」


 めぐみが言った。


「でも、私も、なおが戻る理由の一つでいたい」


 直樹は机の上に並ぶ絵を見る。


 水差し。


 靴。


 食器。


 校舎の扉。


 使われたあと、また戻ってくる物だった。


「入ってる」


 めぐみが顔を上げる。


「うん」


「めぐみがいるから戻る。それだけじゃない」


「分かってる」


「だが、入ってる」


「うん」


 めぐみは鉛筆を持ち直した。


「なお」


「何だ」


「そこにいて」


「ああ」


 直樹は隣にいた。


 肩が触れるほど近くはない。


 手を握ってもいない。


 話すことがなくなっても、立たなかった。


 時計の針が一つ進む。


 厨房から夕食の匂いが上がってくる。


 廊下の向こうでは、健二が誰かへ工具を戻すように言っていた。


 めぐみは一枚を描き終え、次の紙を取った。


 直樹は急かさなかった。


 十九時に戻ると伝えた日、直樹は少し早く学校へ帰った。


 余った時間を、別の仕事では埋めなかった。


 夕食を呼ぶ声が届くまで、何も持たず、何も始めず、めぐみの横に座っていた。


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