第166話 帰る時刻
## 第166話 帰る時刻
出発時刻の十五分前、直樹は守衛室前の予定表を見た。
午後 国境運用協議。
その下には、朝に自分で書いた文字が残っている。
帰還時刻 確認後連絡。
閉鎖端末へ相原から届いた経路情報を開く。
国境第三までの道路に封鎖はない。途中の検問所で車両確認が一度。協議の開始は十三時。
終了予定の欄は空白だった。
「なお」
廊下の奥から、めぐみの声が届いた。
振り返る。
めぐみは午前中の授業で使った色紙を両手に抱えていた。青と黄色の紙が重なり、指先に細い切れ端が一つ貼りついている。
「もう行く?」
「ああ」
「端末は?」
「持った」
「水は?」
直樹は鞄の脇を軽く叩いた。
「入ってる」
めぐみの視線が、予定表へ移った。
「帰る時間は」
「分かったら連絡する」
「うん」
言い直させることも、念を押すこともしなかった。
めぐみは色紙を抱え直す。
「いってらっしゃい、なお」
「行ってくる」
直樹は昇降口へ向かった。
門の前には、国境第三から来た灰色の車両が停まっていた。運転席の職員へ身分証を見せ、後部座席へ乗り込む。
車が動き出した時、めぐみは門にはいなかった。
もう校舎の中へ戻り、自分の仕事を続けている。
待つことと、立ち尽くすことは違う。
直樹は閉鎖端末を鞄へ戻した。
*
国境第三駐屯地の閉鎖回線室には、外へ通じる窓がなかった。
壁には吸音材が貼られ、長机の中央に三台の端末が並んでいる。机の下では予備電源の送風音が途切れずに続いていた。
相原忍一尉は、すでに紙の地図を広げていた。
制服の上着を椅子の背へ掛け、国境線へ赤鉛筆で短い印を入れている。
「早いな」
「十二時四十分の予定だった」
「今、三十五分だ」
「遅れるよりいい」
「五分あれば、余計な仕事を一つ拾える」
相原は鉛筆を置いた。
「今日は拾うな」
「理由は」
「学校と外をつなぎすぎないためだ」
直樹は机へ近づいた。
相原は地図の上へ、小さな紙片を二枚置く。
一枚には旧南第三。
もう一枚には国境第三。
二枚の間を、手のひら一つ分だけ空けた。
「お前が旧南第三にいる限り、外は学校を通してお前を呼ぶ」
「必要なら出る」
「お前が出ることだけを問題にしてるんじゃない」
相原は赤鉛筆を横へ置いた。
「燃料の相談。護衛。難民搬送。国境調整。獣害。人が足りなくなれば、全部、お前のいる学校へ連絡が入る」
「俺だけが対応すればいい」
「それが続けば、旧南第三は真柴直樹を動かすための窓口になる」
相原は学校の紙片へ指を置いた。
「車両が来る。軍人が来る。物資が一度置かれる。記録を預ける。いずれ、子どもや職員まで任務の背景として見られる」
「教育隊を間に置くのか」
「そのためでもある」
相原は二枚の間へ、黒い線を引いた。
「教育隊の人員、補給、車両、記録は国境第三側で持つ。学校の倉庫も、健二の車も、子どもたちの生活物資も使わせない」
「人員は」
「学校から出さない」
「健二は施設調査に入る」
「建物を見るためだ。隊員にするためじゃない」
「ああ」
「分かっていても、線を引け」
相原は赤鉛筆を持ち直した。
「制度は遅い。書類も増える。責任者は署名を嫌がる。それでも制度を使わないと、最後は名前の残らない人間が全部背負う」
直樹は地図を見た。
相原は国家や制度を信じているわけではない。
間に合わないことも、途中で判断が変わることも、現場へ責任だけが落ちてくることも知っている。
それでも、制度を捨てない。
制度がなければ、誰が決め、誰が使い、誰が失敗したのかまで消えるからだ。
「教育隊は、旧南第三の部隊にはしない」
直樹が言った。
「ああ」
「俺が通うだけだ」
「それでいい」
廊下から速い足音が近づいた。
扉が開き、末安えりが薄い書類の束を片手に入ってくる。
「開始まで二十一分。先に穴を潰します」
椅子へ座る前に、書類を三つへ分けた。
「任用条件。個人記録。責任範囲」
「全部読んだのか」
相原が聞く。
「表題、目次、結論、例外規定、署名欄」
「全部ではないな」
「必要なところは全部です」
末安さんは一枚目を直樹の前へ滑らせた。
「主任教官候補の受諾前に、包括的な経歴照会へ同意させる文面があります」
「必要では」
「必要な範囲を決めずに取る同意は、同意ではありません」
赤いペンで一文を消す。
「広報利用も削除。家族照会も別手続き。訓練生側も同じです」
「偽名があった場合は」
「本人が偽造したのか、別の人間から与えられたのかを分けます」
「誰が照合する」
「黒瀬さんでしょうね」
末安さんはページをめくった。
「南雲さんが別の人を探していなければ」
「黒瀬とは話しているのか」
「聖マリアで、嫌になるほど」
答えは速かった。
「仕事を置いていきましたからね。本人は説明したつもりだったようですが」
「受けたのは末安さんだ」
「別の調整員を置かれる方が困りました」
末安さんは時計を見る。
「今回は黒瀬さんの紹介は不要です。権限だけ決めます」
十三時ちょうどに、中央の端末が起動した。
正面の画面へ南雲圭が映る。
右側の画面には、久世真央一尉がいた。
迷彩服の袖を肘まで捲り、背後の机には分解された通信中継器と無人機の翼が並んでいる。
久世は画面の中の直樹を確認した。
「真柴」
「はい」
「端末が低い。上げろ」
直樹は画面の角度を変えた。
「右へ二度」
直す。
「それでいい」
挨拶はなかった。
南雲が協議を開始した。
『国境線の人員増強、および新規教育組織の設置について協議する。相原、現状を』
相原は地図を画面側へ向けた。
「道路は増えていません。通る人間だけが増えています」
赤い線の上へ、六枚の札を置く。
「避難民。医薬品。食料。情報提供者。保護対象。身分や目的を偽った越境者」
最後の札だけを少し離した。
「入口で分けても、途中で同じ道路へ合流します。確認に時間を掛ければ物資が止まる。急げば人を間違える」
『現行人員での継続は』
「無理です」
相原は即答した。
「直樹や大庭を呼べば、一時的には通せます。ただ、それは体制ではありません」
『増員にはならないと』
「必要な時だけ熟練者を借りている状態です」
相原は旧南第三の紙片を、地図の外側へ置いた。
「それと、真柴直樹を学校から直接呼ぶ形は終わらせます」
南雲の目が動いた。
『理由は』
「旧南第三が外部任務の窓口になるからです」
相原は言葉を区切った。
「教育隊の補給、人員、車両、記録は国境第三側で持つ。旧南第三の生活基盤は使わない。学校側へ求めるのは、真柴本人の通常勤務と、施設改修に必要な専門協力だけです」
『効率は落ちる』
「落とします」
相原はためらわなかった。
「効率を上げるために学校を兵站拠点へ変えれば、守る場所が一つ消えます」
南雲は少し黙った。
『分離原則として記録する。国境第三側で予算と補給経路を持つ』
「お願いします」
『久世、技術面を』
「機材は増やせます」
久世の声は平坦だった。
「判断できる人間は増えていません」
画面へ複数の通信記録が表示される。
「通信断。映像遅延。位置情報の偽装。民間人の混在。無人機を飛ばせば状況が分かると思っている者がいますが、映像が増えれば誤認も増える」
同じ道路を別の角度から捉えた映像が並ぶ。
一方には武器を持った男が見えた。
もう一方では、その背後に子どもがいる。
「機材が止まった時。命令が届かない時。映像と地上報告が食い違った時。そこで進むか、止まるか、戻るかを決められる人間が足りない」
「操作員の増員だけでは」
相原が聞く。
「足りない」
久世は一語で切った。
「操作は教えられる。判断は、間違いを申告できる者にしか教えられない」
視線が直樹へ向いた。
「真柴」
「はい」
「人員が足りない時、自分を足すな」
直樹は黙った。
「聞こえたか」
「聞こえています」
「改善方法を言え」
「欠員を報告する。代理系統がなければ、任務を止める」
「最初からそうしろ」
「はい」
「今の基準を教育案へ入れろ」
「入れます」
久世は、それ以上続けなかった。
南雲が両手を組む。
『善意と個人的な信用で、国境を運用する段階は終わらせる』
低い声が回線室へ通った。
『正式な人員、予算、教育基準、責任、監査、中止権限を持つ組織が必要だ』
「訓練記録の宣伝利用は認めません」
末安さんが即座に入った。
『まだ話していない』
「後で出るので、先に止めます」
南雲の眉がわずかに動く。
『広報へ転用する場合は、別途承認を取る』
「本人同意もです」
『認める』
「家族と過去の所属は一括公開しない」
『認める』
「不採用者の記録を、別の不利益処分へ流用しない」
『保全上の危険がある場合を除く』
「誰が危険と判断しますか」
『保全担当を置く』
「黒瀬さんですね」
末安さんは確認ではなく、結論として言った。
南雲が頷く。
『黒瀬了を入れる』
直樹は画面を見た。
「黒瀬か」
『異論は』
「ありません。役割を確認します」
末安さんが資料を一枚めくった。
「黒瀬さんなら、人物説明は省きます。今回は、どこまで持たせますか」
『身元照合。記録保全。潜入対策。強制下で作られた記録の判別』
「任用決定権は」
『持たせない』
「本人同意、生活上の不利益判断、身分登録は私が持ちます」
『分ける』
「閲覧履歴も残します」
『認める』
直樹が尋ねた。
「教育隊は、原型要員の後続を作る組織ですか」
回線室の送風音が、急に大きく聞こえた。
聖マリアで差し出された復帰確認書を思い出す。
原型要員への復帰。
直樹は署名しなかった。
保留。
一人では決めない。
それでも黒瀬は、別の任用書類を用意していた。
命令はしなかった。
直樹が自分で選ぶ形を作り、その選択を制度へ接続した。
南雲が答えた。
『違う』
「黒瀬も同じ認識ですか」
「確認します」
末安さんが赤いペンを取った。
「口頭ではなく、運用目的へ明記します」
久世が短く入った。
「目的だけでは足りん」
「教育内容で分けます」
直樹が答える。
「脱落者を選別に使わない。恐怖を隠させない。教官と同じ判断を要求しない」
「続けろ」
「中止申告だけで失格にはしない。違う経験を持つ人間を、一つの型へ揃えない」
「そこまで書け」
久世はそれ以上話さなかった。
南雲が直樹を見る。
『真柴直樹。新設する教育組織の主任教官候補として、任用を打診する』
直樹は即答しなかった。
「所属は」
『国境第三の運用支援を目的とする臨時編成。最終承認は私が持つ』
「実任務時の指揮権は」
『派遣先の指揮系統へ入る。教育期間中の責任は主任教官』
「武器使用基準は」
『既存の国境第三基準を超えない』
「教育側に独自の交戦基準は作らせない」
『認める』
「宿営場所は」
相原が地図の北西へ指を置いた。
「富士東麓の旧温泉集落です。廃業した旅館が一つ残っています」
「名称は」
「旧旅館・楢ノ沢館」
「旧南第三から」
「車で四十分程度」
「建物の状態は」
「使えるとは言っていません。三日後に調査します」
「通常日の帰還は」
南雲が直樹を見る。
『旧南第三へ戻るという意味か』
「はい」
『主任教官用の居室を、施設に用意する予定だ』
「常駐はしません」
『主任教官が不在の場合、夜間の責任を誰が持つ』
南雲の問いは、私生活への干渉ではなかった。
制度上、誰が署名し、誰が止めるのかを確認している。
「当直責任者を置きます」
『誰を』
「まだ決めていません」
『なら、正式任用までに決めろ』
「候補者選定前に、副指揮系統案を出します」
末安さんが聞いた。
「期限は」
「明日の正午」
「受領しました」
久世は何も言わなかった。
直樹は続ける。
「生活拠点は旧南第三。通常日は通勤。夜間演習時のみ宿泊します」
『実任務への緊急派遣は』
「別扱いです。指揮当番で対応できない場合だけ入る」
『連絡不能時は』
「代理連絡者を指定します」
『認める』
相原が言葉を継いだ。
「教育隊の補給、人員、車両、記録は国境第三側で持ちます。旧南第三を隊の所属先、宿営地、物資集積地にはしません」
「条件へ入れる」
直樹が言った。
「教育隊を、旧南第三の組織にはしない」
『理由は』
南雲が尋ねる。
「学校を守るためです」
直樹は地図を見た。
「それと、俺がいないと回らない場所を作らないためです」
『常駐しない理由も同じか』
「それだけではありません」
直樹は一度止まった。
「仕事が残っていれば、俺はそこへ居続けます」
相原が顔を上げた。
末安さんは書く手を止めない。
「任務を生活拠点にしないためにも、通常日は帰ります」
南雲は短く頷いた。
『私的な理由を含むのか』
「含みます」
『それで責任が果たせる仕組みを出すなら、問題にはしない』
「出します」
『教育方針は』
「俺の命令を絶対化しない」
『主任教官の権限を弱めるのか』
「違います。俺がいない時に止まる組織にはしません」
「具体案は」
末安さんが聞く。
「指揮官不在の判断を、基礎教育へ入れる」
「いつからですか」
「最初の週から」
久世が口を開いた。
「遅い」
直樹は右側の画面を見る。
「初日からですか」
「初日から、判断を全部奪うな」
「最初は教官が見る必要があります」
「お前が全部見れば、訓練生は状況ではなく、お前の顔を見る」
久世の声は変わらなかった。
「右手だけを見て、左から三度落とされたのを忘れたか」
「忘れていません」
「なら、最初から死角を作るな」
直樹は考えた。
「初日から、担当を分けます」
「続けろ」
「人数確認、中止申告、退路確認を、一人へ集めない。教官の判断を待たずに申告させる」
「それでいいとは言っていない。案を出せ」
「明日正午までに出します」
「遅れるな」
「はい」
久世は、そこで黙った。
相原が地図へ新しい線を引く。
「補給、車両、除雪、国境連絡はこちらで持つ。教育側へ全部渡さない」
「施設改修は」
「健二に協力を頼みます」
「健二は軍事施設の専門家ではない」
「だから必要です」
相原は赤鉛筆を置いた。
「お前が建物を見ると、侵入口、射線、死角、退路から始める」
「必要だ」
「必要です。ただ、人が眠れるかは別の目が要る」
直樹は少し考えた。
「健二には、生活できる建物かを見てもらう」
「そうしてくれ」
末安さんが言う。
「私は記録区画、同意手続き、面談の境界を確認します。建築判断も医療判断もしません」
『役割を分ける』
南雲が答えた。
「黒瀬さんには記録保全。私には本人の権利。混ぜないでください」
『認める』
「早いですね」
『何がだ』
「今日は同じ説明を二度しなくて済みました」
南雲は反応しなかった。
末安さんは気にせず、次の項目へ移る。
「訓練記録の公開禁止。家族と過去所属の分離。私物検査は理由と記録が必要。面談の無断録音は禁止」
『軍事教育施設としては制限が多い』
「外から守る施設が、中で人を壊したら意味がありません」
南雲は数秒考えた。
『原則として認める。施設構造と合わせて再確認する』
「受領しました」
『ほかに教育条件は』
直樹が答える。
「中止と撤退を正式科目にする」
『射撃より先にか』
「先です」
『理由は』
「進むことだけを覚えた人間は、戻る判断を他人へ渡します」
「続けろ」
久世が言う。
「名前と人数を分けない。中止申告では評価を下げない。体調、装備、視界、判断不能を隠した場合は、その行為を評価する」
末安さんが聞いた。
「処分ですか」
「最初は教育です。繰り返せば現場へ出さない」
「説明文を作ります」
「頼む」
「受領しました」
南雲は書類へ目を落とした。
『条件を踏まえ、主任教官候補を受けるか』
直樹は地図を見る。
国境第三。
楢ノ沢館。
旧南第三。
三つの場所は線でつながっていた。
だが、同じ場所にはしない。
「受けます」
『正式任用は、施設調査と候補者選定の後だ』
「分かりました」
『三日後、楢ノ沢館を調査する。参加者は真柴直樹、真柴健二、久世真央、相原忍』
末安さんが言う。
「私は閉鎖回線で参加します」
『記録区画と面談区画を確認してくれ』
「受領しました」
直樹は時計を見た。
十七時四分。
「終了予定は」
南雲が聞き返す。
『この協議のか』
「はい」
『残り十分だ』
直樹は相原を見る。
「国境第三を出る時刻は」
「十七時三十分。検問で止まらなければ、十八時十五分前後」
直樹は閉鎖端末を取った。
めぐみへの連絡欄を開く。
十九時帰還予定。
入力し、送信する。
末安さんが一度だけ視線を上げた。
何も言わない。
端末が震えた。
めぐみからの返事は、一文字だった。
うん。
直樹は確認し、画面を閉じた。
南雲が協議を終了した。
*
相原は地図を折り畳み、次の書類を机へ広げた。
「このあと、燃料配分の確認がある」
「手伝う」
「帰れ」
「十分で終わる」
「終わらない」
相原は書類を直樹から遠ざけた。
「お前が入れば、橋の燃料、炊き出し、川島宅の暖房まで見ることになる」
「確認だけだ」
「それを俺の仕事と言う」
相原は書類の上へ手を置いた。
「学校と外を切り分ける話をした直後に、担当まで混ぜるな」
「分かった」
「なら、帰れ」
右側の画面はまだ消えていなかった。
久世が言った。
「真柴」
「はい」
「余った時間を、仕事の穴へ詰めるな」
直樹は画面を見る。
「時間はあります」
「だから帰れ」
「改善点ですか」
「そうだ」
久世の声は、訓練場にいた頃と同じだった。
「立て」
直樹は椅子から立った。
「分かりました」
「返事ではなく、帰れ」
「はい」
回線が切れた。
末安さんが書類を二つに分け、鞄へ入れる。
「良い判断でした」
「誰の」
「相原一尉と久世一尉です」
「俺では」
「まだ、言われて帰る段階なので」
末安さんは先に扉へ向かった。
「次は自分で切り上げてください」
「評価は要らない」
「記録するとは言っていません」
*
車両は十七時二十八分に国境第三を出た。
検問所で三分止められた。
前方の道路を、医療搬送車が反対方向へ走っていく。
直樹は時計を確認した。
十八時十五分には着く。
以前なら、空いた時間を別の作業で埋めた。
燃料配分を一つ確認する。
車両を点検する。
誰かの報告書を見る。
まだ帰るには早いと判断する。
仕事がなくなるまで残り、なくならなければ帰らない。
今日は違った。
帰る時刻を先に置いた。
終わっていない仕事を、担当者へ残した。
車が旧南第三の門へ着いた時、時計は十八時十二分を示していた。
*
夕食までは、まだ四十分近くあった。
昇降口へ入ると、校舎は授業と夕食の間の静けさに包まれていた。
多目的室から、子どもたちが椅子を動かす音が聞こえる。厨房では鍋の蓋が一度鳴り、誰かが水を流した。
めぐみは門にはいなかった。
守衛室の前では、ハルが帳面を確認していた。
「おかえりなさい、直樹さん」
「ただいま」
ハルは時計を見た。
「早かったですね」
「協議が終わった」
「では、夕食まで休んでください」
「確認することがある」
「今日、直樹さんが確認しないと困りますか」
直樹は答えなかった。
国境第三に残してきた燃料表。
施設調査の経路。
副指揮系統案。
どれも、今すぐである必要はない。
「困らない」
「では、休んでください」
「分かった」
ハルは休む場所を指定しなかった。
直樹も聞かなかった。
守衛室を離れ、階段の前で一度止まる。
二階を見る。
そのまま上がった。
めぐみの部屋の前まで行き、扉を二度叩く。
「はい」
「めぐみ」
中で椅子が動いた。
扉が開く。
めぐみは袖を肘まで折り、右手に鉛筆を持っていた。指の側面へ黒い粉がついている。
「なお」
「ああ」
「おかえり」
「ただいま」
めぐみは廊下の時計を見た。
「早かったね」
「帰る時間を先に決めたからだ」
「そっか」
めぐみは少し笑った。
「入る?」
「ああ」
部屋には、小さな机と椅子、畳んだ布団、壁際の棚があった。
机の上には、授業で使う絵が何枚か並んでいる。
水差し。
靴。
食器。
校舎の扉。
どれも生活の中にあり、誰かが使い、元の場所へ戻す物だった。
めぐみは机の前へ戻る。
直樹は扉の近くに立ったまま、部屋を見た。
「座ってもいいか」
「うん」
椅子は一つしかない。
めぐみは床に置いていた座布団を、自分の隣へ引いた。
「ここでいい?」
「ああ」
めぐみが座る。
直樹も、その横へ腰を下ろした。
鞄は壁際へ置く。
端末は出さなかった。
地図も、書類も持っていない。
両手には何もなかった。
めぐみはしばらく、直樹を見た。
「今日は、何をするの?」
「何もしない」
「ここで?」
「ああ」
「夕食まで、まだ三十分くらいあるよ」
「分かってる」
「仕事は?」
「残してきた」
「相原さんに?」
「ああ。久世一尉にも帰れと言われた」
「厳しかった?」
「普通だ」
「なおにとってはね」
めぐみは描きかけの紙へ顔を戻した。
鉛筆が動き始める。
直樹は、その音を聞いた。
紙を擦る音。
芯が小さく欠け、めぐみが指で払う音。
廊下を誰かが通り、足音が遠ざかる。
何かを確認する必要はなかった。
報告することもなかった。
直樹が隣にいることを、めぐみは仕事にしなかった。
「話、決まった?」
紙を見たまま、めぐみが聞く。
「主任教官候補を受けた」
「うん」
「まだ正式任用じゃない。三日後に施設を見る」
「どこ?」
「旧温泉集落の旅館。ここから四十分くらいだ」
めぐみは線を一本引いた。
「ここへ帰れる?」
「通常日は帰る」
「そう言ったの?」
「ああ」
「私のため?」
「それだけじゃない」
直樹はすぐに続けなかった。
めぐみも質問を重ねず、待った。
「教育隊を旧南第三の組織にはしない。学校の物資も人員も使わせない」
「相原さんが?」
「ああ」
「学校を守るため?」
「そうだ」
直樹は机の上の絵を見た。
「俺が施設へ住めば、俺がいないと回らない場所になる」
「うん」
「仕事が残っていれば、俺はそこへ居続ける」
めぐみの鉛筆が止まった。
「それで帰るって決めたの?」
「ああ」
「そっか」
めぐみは、それ以上評価しなかった。
ただ、その答えを受け取った。
「原型要員の話も出た」
「黒瀬さん?」
「ああ。保全担当に入る」
「えりも知ってる?」
「知ってる。権限を分ける」
「なおは?」
「教育隊が後続を作る組織か確認した」
「違うって?」
「南雲はそう答えた。末安さんが書面にする」
「なおは、どうするの?」
「同じ判断をする人間は作らない」
めぐみは直樹を見る。
「なおみたいな人を、増やさないってこと?」
直樹は少し考えた。
「違う」
「うん」
「俺の間違いまで、同じにさせない」
めぐみはしばらく黙っていた。
「それがいいと思う」
「ああ」
鉛筆が、また紙の上を動き始める。
「私だけのためじゃなくていいよ」
めぐみが言った。
「でも、私も、なおが戻る理由の一つでいたい」
直樹は机の上に並ぶ絵を見る。
水差し。
靴。
食器。
校舎の扉。
使われたあと、また戻ってくる物だった。
「入ってる」
めぐみが顔を上げる。
「うん」
「めぐみがいるから戻る。それだけじゃない」
「分かってる」
「だが、入ってる」
「うん」
めぐみは鉛筆を持ち直した。
「なお」
「何だ」
「そこにいて」
「ああ」
直樹は隣にいた。
肩が触れるほど近くはない。
手を握ってもいない。
話すことがなくなっても、立たなかった。
時計の針が一つ進む。
厨房から夕食の匂いが上がってくる。
廊下の向こうでは、健二が誰かへ工具を戻すように言っていた。
めぐみは一枚を描き終え、次の紙を取った。
直樹は急かさなかった。
十九時に戻ると伝えた日、直樹は少し早く学校へ帰った。
余った時間を、別の仕事では埋めなかった。
夕食を呼ぶ声が届くまで、何も持たず、何も始めず、めぐみの横に座っていた。




