第165話 昨日の続きではない朝
## 第165話 昨日の続きではない朝
朝は、扉の向こうから先に始まっていた。
廊下を走る足音がする。
階段の下では、食器を重ねる乾いた音が続いていた。水を入れたバケツが床へ置かれ、金属の取っ手が縁に当たる。発電機の低い振動に混じって、炊いた米の匂いが二階まで上がってきていた。
空き教室の窓は、もう白んでいる。
直樹は床へ片膝をつき、二人で使った毛布の端を揃えた。
右手で布を持ち上げる。
指の間から滑らなかった。
一度折り、掌で中の空気を押し出す。もう一度折って、丸めた寝袋の上へ重ねた。
留め具を右手の親指で押し込む。
小さな音が鳴った。
めぐみは窓際に立ち、髪を後ろで結んでいた。
「なお」
直樹が顔を上げる。
「水差し、持とうか」
「持てる」
「うん」
めぐみはそれ以上言わなかった。
机の上に置かれた陶器の水差しを、直樹は右手で持ち上げた。半分ほど残った水が内側で揺れる。
取っ手は細かった。
それでも、持ち替える必要はなかった。
直樹は一度だけ右手の指を開きかけた。
親指。
人差し指。
中指まで動かしたところで、やめた。
もう確かめる必要はない。
水差しを持ち直し、扉の脇へ向かう。
そこには、昨夜から掛けてあった「使用中」の札が残っていた。
直樹は札を外し、紐を壁の釘へ戻した。
「行くか」
「うん」
扉を開ける。
冷えた廊下の空気が、教室の中へ入ってきた。
紙の束を抱えた村瀬花音が、向こうから歩いてくる。
顔の半分が紙で隠れていた。
佐伯千紘がその横にいて、崩れそうな紙束へ手を伸ばしている。
「半分持つよ」
花音は首を横へ振った。
「でも、落としたら――」
「千紘」
めぐみが呼んだ。
千紘の手が止まる。
「花音ちゃん、自分で持ちたいみたい」
千紘は花音を見る。
花音は紙の横から目だけを出し、一度頷いた。
「じゃあ、危なくなったら言って」
千紘は手を引いた。
それでも、花音の半歩後ろから離れなかった。
「それ、ハルちゃんのところまで?」
めぐみが聞く。
花音は職員室の扉へ視線を向けた。
「階段は使わない?」
頷く。
「分かった。ゆっくりね」
めぐみの声は、朝の廊下をまっすぐ進んだ。
掠れなかった。
言葉の終わりに息が漏れることもない。
千紘がめぐみを見上げた。
花音も紙の横から顔を出した。
けれど、二人とも声のことには触れなかった。
「九時までだから、急がなくていいよ」
千紘が花音へ言う。
花音は頷き、また歩き始めた。
めぐみは喉へ手を当てなかった。
直樹も、その声を確かめるようには見なかった。
二人で階段へ向かう。
下から、工具箱を持った健二が上がってきた。
直樹の右手にある水差しを見る。
めぐみの顔を見る。
二人が出てきた教室へ一瞬だけ目を向けた。
「朝飯、残してあるよ」
それだけ言った。
「子どもたちは」
「もう食べ始めてる。兄ちゃんたちの分は、鍋に残してあるけん」
「ああ」
健二は水差しを指した。
「厨房に持っていく?」
「そのつもりだ」
「なら頼んでいい? 今朝、水の出が少し悪い」
「分かった」
「助かる」
健二は工具箱を持ち直した。
通り過ぎる前に、直樹の右手をもう一度見た。
「重くない?」
「問題ない」
「分かった」
健二は頷いた。
「問題が出たら、今度は先に言って」
直樹は答えなかった。
健二も返事を求めず、空き教室の方へ歩いていった。
階段の踊り場では、ハルが掲示物を貼っていた。
片手で紙の端を押さえ、もう片方の手で画鋲を押し込んでいる。
「おはようございます。直樹さん、めぐみさん」
「おはよう、ハルちゃん」
「おはよう」
めぐみの声を聞いたハルの手が、わずかに止まった。
すぐに残りの画鋲を押し込む。
「授業は九時からです」
「分かった」
「その前に、朝食を食べてください」
「食べる」
「では、あとで確認します」
「監視か」
「生活確認です」
めぐみが笑った。
ハルは直樹の右手にある水差しを見たが、何も聞かなかった。
「悠斗さんが、朝の人数を確認しています。食事が終わったら、点呼表を見てください」
「ああ」
「食事のあとです」
「分かった」
ハルは満足した様子を見せず、次の掲示物を広げた。
廊下の先に、洗った毛布を抱えたミーシャが立っていた。
「NAO」
直樹が足を止める。
ミーシャの視線が、水差しの取っ手を握る右手へ下がった。
「右手の動作を確認しました」
「記録するな」
「記録していません。確認です」
直樹は黙った。
ミーシャは次に、めぐみを見る。
「発声を確認しました」
「それも記録しないでね」
「はい」
それだけ答えた。
毛布を抱え直し、ミーシャは廊下の先へ歩いていく。
三歩ほど進んだところで、少しだけ足が止まった。
だが、振り返らなかった。
厨房の入口には、大庭が立っていた。
空になった椀を片手に持ち、壁へ肩を預けている。
二人を見た。
直樹の右手へ目を落とし、めぐみの顔へ移す。
「おいおい、マッシー」
「何だ」
「朝飯の時間まで人間やってんのか」
「意味が分からない」
「冗談だって」
大庭は口の端を上げた。
「勤務終了の効果は出たみてえだな」
「朝からうるさい」
「これでも抑えてんだぞ」
「もっと抑えろ」
「努力する」
大庭は二人の間を通り過ぎた。
その先を冗談にはしなかった。
厨房では、八人の子どもたちが朝食を取っていた。
中原悠斗は入口に近い席に座り、食べながら室内へ視線を巡らせている。
一人ずつ確認する目だった。
直樹が入ってくると、悠斗が箸を置いた。
「真柴さん」
「何だ」
「朝の点呼、まだ」
「食事のあとに見る」
「八人いる」
「名前でも確認したか」
「した」
「なら座ってろ」
悠斗は厨房の中をもう一度見た。
「全員いる」
「ああ」
「今日は誰も移動してない」
「分かった」
直樹はそれ以上聞かなかった。
悠斗も箸を持ち直した。
壁際の卓に、直樹とめぐみの分が残されていた。
二人は隣り合って座る。
味噌汁は、まだ少し湯気を立てていた。
直樹は食べ始めた。
速さはいつもと変わらない。
飯を食べ、味噌汁を飲み、椀を重ねる。
食べ終えた。
それでも、立たなかった。
隣では、めぐみが焼いた芋を小さく割っている。
一口食べ、湯飲みを持つ。
直樹がまだ座っていることに気づき、顔を上げた。
「なお、食べ終わった?」
「ああ」
「今日は、待っててって言ってないよ」
「まだ食べてるからだ」
「なおは終わったでしょう」
「めぐみが、まだ食べてる」
めぐみは直樹の横顔を見た。
直樹は言い足さなかった。
一緒にいたいとも、昨夜の続きだとも言わない。
ただ、立たなかった。
「じゃあ」
めぐみは芋をもう一つに割った。
「もう少しだけ」
「ああ」
厨房の奥で、食器が一つ重なった。
誰かが水を注ぐ。
子どもたちの話す声が、低く行き交っている。
直樹は、めぐみが食べ終わるまで座っていた。
食器を返した後、守衛室前の予定表へ向かう。
悠斗が作った点呼表を取ろうとした時、胸元の閉鎖端末が短く震えた。
一度。
間を置いて、もう一度。
直樹は表示を見た。
発信者は相原だった。
「出る」
めぐみに伝え、廊下の端へ移動する。
通話を開いた。
『今、話せるか』
「話せる」
『国境線の人員配置について、健軍側と協議が入った』
「増員か」
『それだけじゃない。教育組織の新設案がある』
「俺に何をさせる」
『主任教官候補として出席してほしい』
直樹の中では、返事がもう出来ていた。
必要なら行く。
人が足りないなら埋める。
これまでと同じ答えだった。
「時間は」
『十三時。国境第三の閉鎖回線室で、健軍側と繋ぐ』
「分かった。出る」
相原が少し黙った。
『真柴』
「何だ」
『就任を受けろと言っているわけじゃない』
「分かってる」
『お前は、分かっていて先に受ける』
「協議には出る」
『それでいい。詳細を送る』
通信が切れた。
端末の表示が暗くなる。
直樹はその場で、午後の移動を組み始めた。
出発時間。
車両。
燃料。
国境第三までの経路。
協議で確認する項目。
頭の中へ順番に並べていると、めぐみが隣へ来た。
「仕事?」
「ああ」
「今日?」
「午後から協議がある」
「どこで?」
「国境第三」
「何時から?」
「十三時」
めぐみは一つずつ聞いた。
直樹も一つずつ答えた。
最後に、めぐみが尋ねる。
「いつ帰るの?」
直樹は止まった。
開始時刻は聞いた。
終了時刻は確認していない。
相原も言わなかった。
「分からない」
「そう」
めぐみはすぐに言葉を重ねなかった。
直樹の中には、いくつかの答えが浮かんだ。
会議次第だ。
終われば戻る。
連絡できるとは限らない。
どれも間違いではなかった。
どれも、これまで使ってきた言葉だった。
「分からないなら」
めぐみが言う。
「分かった時に教えて」
直樹は、暗くなった端末の画面を見た。
めぐみは待っていた。
行かないでとは言わなかった。
仕事と自分のどちらを選ぶのかとも聞かなかった。
ただ、帰る時間を知りたいと言った。
「ああ」
直樹は答えた。
「連絡する」
「うん」
めぐみは小さく頷いた。
「じゃあ、私はハルちゃんを手伝ってくる」
「授業か」
「今日は紙を切るんだって」
「刃物は」
「子ども用のはさみ」
「そうか」
二歩進んでから、めぐみが振り返る。
「なお」
「何だ」
「いってらっしゃいは、出る時に言うね」
「ああ」
めぐみは階段を下りていった。
直樹は予定表の前に立つ。
上段には授業予定。
下段には、学校を離れる大人たちの予定を書く欄がある。
健二は配管確認。
ハルは午前授業。
末安さんは行政連絡。
大庭は車両点検。
直樹の欄は空いていた。
予定表の脇に吊るされた鉛筆を、右手で取る。
親指と人差し指の間へ収めた。
芯の先は揺れない。
一行目へ書く。
午後 国境運用協議
その下へ鉛筆を移した。
帰還時刻未定。
そう書こうとした。
だが、「未」の一画目を引く前に手を止める。
直樹は、めぐみの言葉を思い出した。
分からないなら、分かった時に教えて。
鉛筆の先を、もう一度予定表へ置いた。
帰還時刻 確認後連絡
書き終え、鉛筆を元の場所へ戻す。
特別な約束には見えなかった。
告白にも見えない。
任務予定の一部にしか見えなかった。
それでよかった。
昨日までなら、直樹は行き先だけを書いていた。
その朝、予定表には、まだ決まっていない帰還の欄が残された。




