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第百六十四話 何のためでもない夜

## 第百六十四話 何のためでもない夜


 午前九時。


 旧南第三の元図書室に、聖マリア病院から映像がつながった。


 画面の中央には、大きな眼鏡が映っている。


 眼鏡の奥から、松隈先生が八人を見渡していた。


 車椅子に座った上半身だけで、狭い画面がさらに小さく見える。


 百八十センチの身体。


 下半身は動かなくても、背中は曲がっていない。


 剣道七段の体幹は、椅子の背にも預けられていなかった。


『全員、私の顔は見えていますか』


「見えてます」


 八人の声が重なる。


『返事は一度で構いません。中原君』


「はい」


『代表して答えてください』


「見えてます。声も聞こえます」


『よろしい』


 松隈先生は大きな眼鏡を指で押し上げた。


『では、国語から始めます』


 画面の横には教材が映されている。


 全員が同じ問題を解くわけではない。


 美月は短い文章を音読する。


 花音は、その内容を三行にまとめる。


 悠斗は保存水の本数から、一人分の配分を計算する。


 蓮は分数。


 陸は旧南第三と中部市場を結ぶ地図を見て、方角と距離を読む。


 千紘は、保存していた種が発芽する条件を調べる。


 颯太は、英語で聞き返す練習をした。


『もう一度言ってください、は』


「プリーズ、セイ……」


 颯太が止まる。


 松隈先生は答えを先に言わない。


『分からない時に、黙る必要はありません』


「はい」


『分からないと伝えることも、会話です。もう一度』


「Please say that again」


『よろしい』


 小さな遅延のあと、松隈先生が頷く。


 ハルは八人の間を歩き、教材のページをそろえていた。


 鉛筆が止まった子には近づく。


 姿勢を無理に直さず、画面から見える位置へ椅子だけを動かす。


『村瀬さん』


「はい」


『文章を見る時に、首だけが前へ出ています』


 花音が背中を伸ばそうとする。


『胸を張らなくていい。座面の中央へ戻ってください』


 ハルが椅子の横へしゃがむ。


「一度、お尻を後ろへ戻そうか」


 花音が座り直す。


 画面の中で、松隈先生が確かめる。


『それで十分です』


 元図書室の扉の外に、直樹が立っていた。


 通信の安定。


 画面の角度。


 子どもたちの顔がどこまで映っているか。


 生活区画が画面へ入っていないこと。


 一つずつ確認している。


 松隈先生の顔が、画面の中でわずかに動いた。


『真柴』


 直樹は扉の外で止まった。


「はい」


『そこにいるなら、入ってきなさい』


 直樹が元図書室へ入る。


「通信確認です」


『確認は終わりましたか』


「映像は安定しています」


『音声は』


「問題ありません」


『では、君の仕事も終わりです』


「まだ授業中です」


『知っています。私が授業をしています』


「何かあれば対応します」


『君が扉に立っていると、子どもたちが私ではなく君を見ます』


 八人のうち三人が、直樹から目を逸らした。


 松隈先生は眼鏡の奥から見逃さなかった。


『生活指導の対象が一人増えましたね』


「俺は生徒ではありません」


『中学時代も同じことを言っていました』


 めぐみが廊下の反対側に立っていた。


 スケッチブックで口元を隠している。


 直樹が見る。


「笑うな」


「笑ってないよ」


 声が笑っていた。


『宮崎』


「はい」


『真柴を教室の外へ連れていってください』


「分かりました」


「俺は自分で出る」


『では、自分で出なさい』


 直樹は元図書室を出た。


 扉を閉める直前、松隈先生の声が追ってくる。


『真柴』


「何ですか」


『十九時以降の予定を、授業中に確認する必要はありません』


 直樹の手が止まった。


「誰から聞いたんですか」


『生活指導には、情報が集まります』


 画面の向こうで、大きな眼鏡が光った。


『勤務時間に戻りなさい。十九時になったら、勤務から離れなさい』


 直樹は扉を閉めようとした。


『真柴』


 手が止まる。


『返事は』


「……了解しました」


『よろしい』


 直樹は扉を閉めた。


 隣で、めぐみがスケッチブックを口元へ当てている。


「笑うな」


「笑ってないよ」


「声が笑ってる」


 閉じた扉の向こうから、松隈先生の声がした。


『宮崎。授業へ戻ります』


「はい」


 めぐみは返事をしてから、もう一度だけ直樹を見て笑った。


     *


 午前の授業が休憩に入ると、めぐみは空き教室へ寝具を運んだ。


 寝袋が一つ。


 毛布が一枚。


 二つとも、末安さんが保管庫から出したものだった。


 めぐみが寝袋を抱え直したところで、ハルが廊下へ出てきた。


「持ちます」


「大丈夫」


「半分だけ」


 ハルは寝袋の端を受け取った。


 二人で空き教室へ入る。


 昨日並べた二脚の椅子は、そのまま残っている。


 窓際には二つのカップ。


 時計は置かれていない。


 ハルは寝袋を床へ下ろした。


「今夜、ここを使うんですね」


「運用表を見た?」


「見えるところに書いてありましたから」


 めぐみは寝袋の紐をほどきながら、少しだけ目を伏せた。


「みんなに知られてるね」


「勤務終了と名前だけです。何をするかは誰も知りません」


「何もしない予定なの」


「それが一番難しそうです」


「なおが?」


「はい」


 ハルは椅子の背へ手を置いた。


「直樹さん、手が空くと見回りを増やします」


「知ってる」


「扉を確認して、窓を確認して、暖房を確認して。それが終わると、ほかの人の仕事を確認します」


「昨日もそうだった」


「十九時を過ぎても、たぶん何かしようとします」


「止めた方がいい?」


 ハルは少し考えた。


「止めると、止められた場所に残ります」


「それじゃ駄目なの?」


「命令を守っているだけになるから」


 めぐみは、ほどいた寝袋を見た。


「じゃあ、どうしたらいい?」


「戻ってきてほしいと言ってください」


「戻ってきて?」


「直樹さんが立っても、扉をふさがなくていいです。行くなと言わなくてもいい」


 ハルは窓の外へ目を向けた。


「帰ってきてほしいと、言ってあげてください」


「帰ってくるかな」


「今の直樹さんなら」


 答えたあと、ハルはめぐみを見る。


「めぐみさんなら、帰ってくると思っています」


「どうして?」


「何もしなかった直樹さんを、責めないからです」


 めぐみは返事をしなかった。


「でも」


 ハルが続ける。


「直樹さんを休ませることを、めぐみさんの仕事にはしないでください」


「仕事に?」


「何時間眠らせた。何回笑わせた。見回りへ行くのを止めた」


 ハルは一つずつ数えた。


「それを成功にしたら、今夜も勤務になります」


「私の?」


「二人のです」


 めぐみは寝袋の布へ手を置いた。


「何もできなくてもいいんだね」


「何もしないための時間でしょう」


「うん」


「だったら、うまく休ませられなくてもいいんです」


 ハルは扉へ向かった。


「一緒にいてください」


 めぐみが顔を上げる。


「それだけで?」


「それ以上は、直樹さんと決めてください」


     *


 昼前、めぐみは健二を見つけた。


 元職員室で、遠隔授業の進行記録を整理している。


「健二君」


「はい」


「少し聞いてもいい?」


「兄ちゃんのこと?」


 めぐみが止まる。


「分かるの?」


「今、ほかに何を聞くの」


 健二は隣の椅子を引いた。


 めぐみが座る。


「なおって、眠れない時はどうするの?」


「今は、見回りに行く」


「今は?」


「帰ってきてから、ずっとそうだよ」


 健二は記録用紙を重ねた。


「扉と窓を見て、無線を確認して、外へ出る」


「全部問題がなかったら?」


「まだ見てない場所を探す」


「それも終わったら?」


「仕事を作る」


「眠るために何かするんじゃなくて?」


「眠らなくていい理由を作るんだと思う」


 めぐみは机の端を指でなぞった。


「黙ってる時は?」


「いろいろある」


「嫌な時」


「仕事なら嫌と言う」


「仕事じゃない時は?」


「黙る」


「怒ってる時も?」


「黙る」


「困ってる時も?」


「黙る」


「分からない時も?」


「たぶん」


 めぐみが小さく息を吐く。


「答え合わせが難しいね」


「全部当てなくていいよ」


 健二は言った。


「聞けばいい」


「聞いても答えない時は?」


「待つ」


「どれくらい?」


「兄ちゃんが戻るまで」


「戻らなかったら?」


 健二は一度、廊下を見た。


「俺たちが呼び戻す」


「私が何とかしなくていい?」


「しなくていいです」


 今度は弟ではなく、運用を預かる人間の声だった。


「兄ちゃんが途中で立っても、止めなくていい」


「ハルさんにも言われた」


「なら大丈夫」


「戻ってきてって言えばいい?」


「はい」


「それでも行ったら?」


「行く必要があったのかもしれない」


「必要がなかったら?」


「帰ってくる」


 健二は少しだけ笑った。


「少なくとも、今の兄ちゃんなら」


 めぐみは頷いた。


「もう一つ」


「何?」


「なおが扉を見る時は、帰りたいの?」


「違うことの方が多い」


「何を見てるの?」


「誰か来ないか。何か起きてないか。逃げ道が塞がれてないか」


 健二は答えた。


「扉を見ても、めぐみさんから離れたいとは限らないよ」


「そっか」


「兄ちゃんの顔を全部読もうとしない方がいい」


「弟でも分からない?」


「分からないよ」


 健二は即答した。


「分からないまま、帰ってくる場所だけ残してる」


 めぐみは、その言葉を少し長く聞いていた。


     *


 午後、末安さんが空き教室へ来た。


 片手に使用記録の紙。


 もう片方に、二人分の水差しを持っている。


「めぐ」


「えり」


「寝袋一枚。毛布一枚。受領だけ書いて」


 めぐみが紙へ名前を書く。


「一枚でいいの?」


「増やせるけど」


 末安さんは寝袋と毛布を見る。


「一枚がいいんでしょう」


 めぐみは答えず、受領票を返した。


 末安さんはそれ以上聞かなかった。


「扉は内側から鍵を掛けないで」


「なおが嫌がる?」


「何かあった時の避難経路として」


 行政担当者の口調だった。


 少し間を置き、声を下げる。


「それと、逃げ道がないと感じさせないため」


「うん」


「使用中の札だけ外へ出しておく。子どもたちは別の廊下を使わせる」


「朝は?」


「緊急でなければ起こさない」


「点呼は」


「健二さんの管理下にいることだけ記録する。部屋へ確認には来ない」


「ありがとう」


 末安さんは受領票を折った。


「めぐ」


「何?」


「これは保護でも、治療でも、再会の確認でもないから」


 めぐみを見る。


「自分の夜にして」


「うん」


「直樹の夜でもある」


「分かってる」


「なら、何も報告しなくていい」


 末安さんは扉を閉めて出ていった。


     *


 十八時五十分。


 直樹は元職員室にいた。


 机の上には、夜間運用表が開かれている。


「外壁班は」


「十七時四十分に退出しました」


 ミーシャが答える。


「工具の残置は」


「ありません」


「道路班は」


「全員帰還。大型獣の新しい痕跡なし」


「中継器は」


「電圧正常」


「夜間警備は」


「航平と私です」


 大庭は窓際に座っていた。


 アレクセイから贈られた酒瓶は、棚の上に置かれている。


 蝋の封は切られていない。


「航平は酒を持ってる」


「未開封です」


 ミーシャが言った。


「俺の酒を、お前が毎回点検すんな」


「警備終了まで保持します」


「酒を?」


「未開封状態です」


「俺より瓶の信用が高くねえか」


 直樹は運用表へ目を戻した。


「門の施錠は」


「十八時三十分に確認済みです」


「暖房は」


「ハルが確認しました」


「八人は」


「全員、生活区画へ戻っています」


「松隈先生との通信記録は」


「切断済み。録画なし。学習進行のみ健二さんが保持」


 直樹が次の欄へ指を動かす。


 ミーシャが壁の時計を見た。


「十九時です」


「まだ引き継ぎが終わってない」


「完了しています」


「夜間連絡先を――」


「受領済みです」


「俺が必要な時は」


「健二さんが判断します」


「判断が遅れたら」


「相原が確認します」


「二人ともいなければ」


「末安さん」


「末安さんもいなければ」


 大庭が椅子から立った。


「マッシー」


「何だ」


「お前が昨日から挙げた人間、全員まとめて消える事故を待つな」


「待ってない」


「探してる」


 大庭は机の上の無線を取った。


「これは俺」


 鍵束も取る。


「これも俺」


「持ち方が雑だ」


「十九時過ぎたぞ」


「落とすな」


「行けよ」


「何かあれば呼べ」


「何も起きてねえうちから戻ってくんな」


 直樹がミーシャを見る。


「鳥の申請は」


「明日以降です」


「今日やれるだろ」


「NAOへ通常任務は割り当てません」


「申請は任務じゃない」


「私が行います」


「記録は」


「私が保持します」


 ミーシャは運用表の十九時以降へ一本線を引いた。


「勤務終了を確認しました」


 直樹は机の上を見た。


 銃はない。


 無線もない。


 鍵も大庭が持っている。


 持っていく物が見つからなかった。


「手ぶらで行くのか」


 大庭が言う。


「何か悪いか」


「いや」


 大庭の口元が上がった。


「やっと人の部屋へ行く格好になったと思ってな」


「同じ校舎だ」


「それでも武器はいらねえよ」


 直樹は何も持たず、元職員室を出た。


 ミーシャが背中へ言う。


「NAO」


 直樹が振り返る。


「時間は保持します」


「ああ」


     *


 夕食は、普段と変わらなかった。


 白い飯。


 保存野菜の煮物。


 味噌汁。


 鳥肉が少しだけ入った炒め物。


 直樹とめぐみは、八人の近くへ並んで座った。


 直樹は先に食べ終えた。


 器を重ね、立とうとする。


 めぐみが袖をつかんだ。


「まだ私が食べてる」


「片づける」


「今日はしなくていい」


「自分の器ぐらい持つ」


「じゃあ、私が食べ終わるまで待って」


「何をする」


「待つの」


 直樹は器を持ったまま立っている。


 向かい側の蓮が見上げた。


「座ればいいんじゃない?」


「食べ終わった」


「めぐみさんは終わってない」


「見れば分かる」


「じゃあ待てるでしょう」


 直樹は蓮を見る。


「松隈先生に何を習った」


「分からない時に黙って消えないこと」


「今は関係ない」


「生活指導です」


 蓮は真顔だった。


 隣で美月が俯いた。


 笑いをこらえている。


 直樹は座り直した。


 器を手元へ戻す。


 めぐみが食事を続ける。


 直樹は何もせず、その横に座っていた。


 しばらくして、めぐみが箸を止める。


「そんなにじっと待たれると、急いで食べなきゃって思う」


「急かしてない」


「分かってる。なおは待ってるだけ」


「なら、食べればいい」


「その待ってる顔が少し怖いの」


「どうすればいい」


「私を見張らないで、普通に座ってて」


「普通が分からない」


 めぐみは自分の味噌汁の椀を少しだけ寄せた。


「じゃあ、これを一口飲む?」


「めぐみのだろ」


「一口ならいいよ」


 直樹は椀を見る。


 次に、めぐみを見る。


「いらない」


「そっか」


 めぐみは笑い、残りの味噌汁を飲んだ。


 直樹は今度はめぐみの手元を見ず、食堂の窓へ顔を向けた。


 それでも、めぐみが食べ終わるまで席を立たなかった。


     *


 空き教室に入ると、めぐみは扉の外へ使用中の札を掛けた。


 鍵は掛けない。


 直樹は最初に窓を見た。


 次に扉。


 寝袋。


 毛布。


 二脚の椅子。


「寝具まであるのか」


「眠くなった時のため」


「一晩いるつもりだったのか」


「なおが帰りたくなるまで」


「勤務は朝まで外れてる」


「なら、朝までいてもいいね」


「決めてなかっただろ」


「今、決めてもいい?」


「俺に聞くのか」


「二人の夜だから」


 直樹は少し考えた。


「眠くなるまではいる」


「うん」


 二人は横に並べた椅子へ座った。


 同じ方向を向く。


 窓の外には暗い校庭が見える。


 遠くの警備灯が一つだけ点いていた。


 めぐみは何も話さなかった。


 直樹も黙っている。


 一分ほどして、直樹が言った。


「鳥の話をするんじゃなかったのか」


「聞きたい?」


「めぐみが聞くと言った」


「じゃあ、聞く」


 めぐみは少しだけ直樹の方へ身体を向けた。


「どうだった?」


「採取数は二羽」


「そうじゃなくて」


「食用指定種。猟用実包は――」


「なおが、どうだったか」


 直樹は口を閉じた。


「一羽目は外した」


「何回?」


「鳥は二回。標的は二枚」


「悔しかった?」


「ああ」


 返事は早かった。


「ミーシャが当てた時は?」


「上手かった」


「嬉しかった?」


「何で俺が」


「一緒にやる相手が上手だったら、楽しくない?」


 直樹は窓の外を見た。


「次は勝てると思った」


「もう一度やりたい?」


「ああ」


「じゃあ、楽しかったんだね」


「悪くなかった」


「その言い方、好き」


「何が」


「認めたくないけど、否定もできない時のなお」


 直樹がめぐみを見る。


「昼に誰かから聞いたのか」


「何を?」


「俺のこと」


「ハルさんと健二君に、少しだけ」


「何を話した」


「なおは眠れないと、仕事を探すって」


「余計なことを」


 めぐみは暗い校庭を見る。


「こうして同じ場所で夜を越すの、あのキャンプ以来だね」


「ああ」


「あの時も、なおが何を考えてるか、全部は分からなかった」


「今も分からないだろ」


「うん」


 めぐみは素直に頷いた。


「だから今日は、勝手に決めないで聞く」


「何を」


「ここから出たいのか、何かを確認したいだけなのか」


 直樹の視線は、いつの間にか教室の入口へ向いていた。


「今は?」


「音がした」


「私から離れたいわけじゃない?」


「違う」


「そっか」


 めぐみは腕をつかまなかった。


 扉の前にも立たない。


 直樹は耳を澄ませた。


 校舎の外から、金属の触れる音がした。


「確認する」


「なおが必要?」


「まだ分からない」


「じゃあ、呼ばれるまで待とう」


 直樹は立ち上がった。


 扉へ二歩進む。


 手を掛ける前に、廊下の向こうから足音がした。


「兄ちゃん」


 健二の声だった。


 直樹が扉を開ける。


「何があった」


「資材置き場の覆いが外れた」


「固定は」


「大庭さんとミーシャがやった」


「見に行く」


「終わったよ」


「結び方は」


「大庭さんが二重にした。ミーシャが確認済み」


「中の資材は」


「濡れてない」


 健二は扉の向こうに立つ直樹を見る。


「何で来た」


「兄ちゃんが立つ気配がしたから」


「聞こえるのか」


「廊下にいるからね」


「見回りか」


「違う。末安さんから水差しの受領票をもらっただけ」


 健二は空き教室の中を見なかった。


「勤務終了」


「ああ」


「戻って」


 直樹は健二を見る。


 健二は先に廊下を歩き出した。


 直樹は扉を閉める。


 椅子へ戻る。


 めぐみは何も言わなかった。


「戻った」


 直樹が言った。


「うん」


「何も聞かないのか」


「戻ってきてって、言う前に戻ってきたから」


 直樹は座った。


「止めなくてよかったのか」


「私は止めたくない」


「なら、出ていっても」


「帰ってきてほしい」


 めぐみは直樹を見る。


「なおが自分で帰ってきてくれた方が、嬉しい」


 直樹はしばらく黙った。


「分かった」


「うん」


     *


 夜が深くなると、二人は松隈先生の話をした。


「眼鏡、大きくなってた?」


 めぐみが聞く。


「前から大きかった」


「なおもそう言ってた」


「画面へ近づきすぎだ」


「昔も英語のノートを見る時、顔が近かったよ」


「間違いを探してた」


「答えを待ってたんだよ」


「同じだ」


「違うよ」


「何が」


「松隈先生、なおが分かってない時はすぐ教えなかった」


「効率が悪い」


「でも、なおは覚えてる」


 直樹は返さなかった。


「昔に戻りたい?」


 めぐみが聞いた。


「戻れない」


「戻れるなら?」


「分からない」


「私は戻りたくない」


 直樹がめぐみを見る。


「中学校に?」


「うん」


「同じ高校へ行きたかったんじゃないのか」


「行きたかったよ」


 めぐみは膝の上で手を組んだ。


「なおと同じ制服を着て、同じ教室にいたかった」


「ああ」


「でも、あの頃に戻ってやり直したいわけじゃない」


「じゃあ何だ」


「今のなおと、これから同じ時間を増やしたい」


 めぐみは右手を差し出した。


「手、貸して」


「確認か」


「違う」


「何だ」


「つなぐの」


 直樹は右手を見た。


 昨日までなら、感覚を確かめるために動かしていた手だった。


 痛み。


 冷え。


 指の遅れ。


 それを記録するための手。


 直樹は右手を差し出した。


 めぐみが握る。


 指を絡ませる。


「動かさなくていいのか」


「うん」


「状態を見ないのか」


「見ない」


「なら、何のためだ」


「何のためでもないよ」


 めぐみは握った手を、自分の膝の上へ置いた。


「なおと手をつなぎたかっただけ」


 直樹の指が、一度だけ強く握り返した。


     *


 夜の交代時間を知らせる足音が廊下を通った。


 二人は時計を置いていない。


 正確な時刻は分からない。


 めぐみが欠伸をした。


「眠いか」


「少し」


「横になるか」


「うん」


 めぐみは寝袋の留め具を外し、床へ広げた。


 中へ入れる形にはしない。


 厚い布を、冷たい床の上へ敷く。


「寝袋は下に敷くだけか」


「うん」


「毛布は一枚だぞ」


「足りるよ」


「二人分には小さい」


「近くにいれば大丈夫」


 めぐみは寝袋の上へ横になった。


 隣を手で軽く叩く。


「なお」


 直樹は扉を見た。


 使用中の札が掛かっている。


 鍵は掛かっていない。


 廊下に人の気配はない。


 無線も持っていない。


 呼び出しも来ていない。


 直樹は靴を脱いだ。


 寝袋の上へ身体を横たえる。


 めぐみが一枚の毛布を、二人へかけた。


 肩が触れた。


 毛布の端を直樹が引く。


 めぐみの肩まで覆う。


「なおの方が出てるよ」


「問題ない」


「仕事の返事みたい」


「寒くない」


「それならいいけど」


 めぐみは直樹の方を向いた。


「近くへ行ってもいい?」


「もう近い」


「もっと」


 めぐみは直樹の胸へ額を寄せた。


 腕を腰へ回す。


 直樹の左腕が、めぐみの背中へ回った。


 右腕も動く。


 まだ、どこまで動くかを確かめる癖が残っている。


 それでも指先は、めぐみの背へ届いた。


「右手、痛い?」


「ない」


「痺れは?」


「今はない」


「そっか」


 めぐみは、右腕も含めて直樹を抱いた。


 治療するためではない。


 動きを確かめるためでもない。


 ただ、そこにある腕ごと抱き締めた。


「めぐみ」


「うん」


 直樹の声が近い。


「キスしていいか」


 めぐみが顔を上げた。


 驚いた目が、すぐに柔らかくなる。


「私が聞こうと思ってた」


「どっちでも同じだ」


「同じじゃないよ」


「嫌か」


「ううん」


 めぐみは目を閉じた。


 直樹が少しだけ顔を寄せる。


 唇が触れた。


 短かった。


 触れたことを確かめるより先に、離れていた。


 二人とも、次に何を言えばよいのか分からなかった。


 めぐみが先に笑った。


「短いね」


「初めてだからな」


「本当に初めてみたい」


「違うのか」


「昔からずっと好きだったから、初めてじゃない気もする」


「したことはない」


「うん」


 めぐみは額を直樹へ寄せた。


「今のなおとは、初めて」


 十五歳の続きを取り戻したのではない。


 失った時間を埋めたのでもない。


 声を失っためぐみと、右手を傷つけた直樹が、互いの傷を治すために触れたのでもなかった。


 今ここにいる二人が、初めて互いへ許可を求めた。


「もう一回してもいい?」


 めぐみが聞いた。


「数えるのか」


「覚えておきたいから」


 今度は、めぐみから唇を重ねた。


 最初より少し長い。


 離れたあとも、額は触れたままだった。


「二回目は私」


「まだ数えるのか」


「うん」


「なら、次は俺だ」


 三度目は直樹からだった。


 右手がめぐみの頬へ触れる。


 力を測るためではなく、離れないように支える。


 指先が髪へ触れた。


 唇が重なる。


 今度は、どちらも急いで離れなかった。


 それでも深くは進まない。


 触れたことを二人で受け取るだけだった。


 離れたあと、めぐみは直樹の胸へ顔を戻した。


 両腕を背中へ回す。


 直樹も、両腕でめぐみを抱き締めた。


「苦しくない?」


「大丈夫」


「また仕事みたい」


 直樹は少し黙った。


 抱く腕の力を、わずかに強める。


「……離したくない」


「うん」


 めぐみも腕を解かなかった。


「私も」


 遠くで何かが閉まる音がした。


 直樹は一度だけ目を開いた。


 足音は近づいてこない。


 無線も鳴らない。


 誰の名前も呼ばれなかった。


「なお」


「何だ」


「ここにいるよ」


「分かってる」


「私も、ここにいていい?」


「ああ」


「朝まで?」


 直樹はめぐみの背中へ回した右腕を、もう一度抱き寄せた。


「朝まで」


 一枚の毛布の下で、二人の体温が混じった。


 寝袋は、身体と冷たい床の間に敷かれているだけだった。


 直樹は扉を見なかった。


 めぐみも、直樹が眠るまで待とうとはしなかった。


 互いを抱いたまま、同じ速さで呼吸が深くなる。


 外では、道路も警備も学校も、直樹を呼ばずに夜を越えた。


 その夜、何の役にも立たない二人の時間が、約束どおり朝まで守られた。


     *


 朝の光が、カーテンの隙間から入った。


 めぐみは、直樹の胸へ頬をつけたまま目を開けた。


 毛布の中で、直樹の両腕が自分を抱いている。


 右腕も離れていない。


「なお」


 名前が、朝の教室をまっすぐ進んだ。


 掠れなかった。


 途中で息も抜けなかった。


 呼び終えたあとも、喉に引っかかるものがない。


 直樹が目を開ける。


「何だ」


「起きてた?」


「今、起きた」


 直樹はめぐみを抱いていた右腕を動かした。


 五本の指が、同じ速さで開く。


 小指だけが遅れることもない。


 痺れはなかった。


 冷たさもない。


 直樹は右手で、めぐみの頬にかかっていた髪を一本だけ避けた。


 指先は迷わなかった。


「右手」


 めぐみが言った。


「ああ」


「痛くない?」


「ない」


「痺れは?」


「ない」


 直樹は自分の指を見る。


 開く。


 閉じる。


 親指と人差し指で、めぐみの髪を一本だけつまむ。


 手を離す。


 どの動作にも、昨日までの遅れがなかった。


「めぐみ」


「うん」


「もう一度呼んでくれ」


 めぐみが直樹を見る。


「なお」


 声は変わらない。


 低くしても、息が抜けない。


 もう一度。


「なお」


「聞こえてる」


「うん」


 めぐみは笑った。


 その笑い声も掠れなかった。


 二人はまだ、それを何と呼ぶべきか決めなかった。


 診断もしていない。


 記録も取っていない。


 ただ、昨日まで引っかかっていたものが、その朝は一つも戻ってこなかった。


 直樹は、今度は確かめるためではなく、右腕でもめぐみを抱き寄せた。


 めぐみも、澄んだ声でもう一度名前を呼ぶ。


「なお」


「ああ」


 一枚の毛布の下で、二人はすぐには起き上がらなかった。


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