第百六十三話 空けておく時間
## 第百六十三話 空けておく時間
めぐみは、直樹の右手から保温布を外した。
旧南第三の保健室。
机の上には洗浄用の水と乾いた布、医療側から渡された保護材が並んでいる。外袋には、えりが受領番号と受取日だけを書いていた。
直樹は椅子に座り、左手を膝へ置いている。
右手の指を一本ずつ動かした。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指だけが、ほかより少し遅れた。
「痛い?」
「ない」
「痺れは?」
「残ってる」
「鳥を撃つ前と同じ?」
「少し冷えた」
めぐみは小指の付け根へ触れた。
直樹は手を引かなかった。
「ミーシャに温めてもらったから、戻った?」
「ああ」
「胸で?」
直樹がめぐみを見る。
めぐみは真顔だった。
「航平の言い方を真に受けるな」
「どこだったの?」
「胸と脇の間だ」
「それを胸って言うんじゃないの?」
「保温だ」
「分かってる」
めぐみの口元が少しだけ緩んだ。
新しい保護材を手首へ巻く。
締めすぎていないか、一度指を差し入れて確かめた。
「嫌だったか」
直樹が聞いた。
めぐみの手が止まる。
「何が?」
「ミーシャと行ったこと」
めぐみは巻きかけの布を見た。
「少しだけ」
「そうか」
「でも、行かないでとは思わなかった」
布をもう一周させる。
「ミーシャは、なおの右手を壊さない」
「ああ」
「危なくなったら止める」
「ああ」
「なおより鳥撃ちが上手」
「一枚差だ」
「負けたんだ」
「次は抜く」
答えが早かった。
めぐみは顔を上げた。
直樹の目には、昨日までとは違うものが残っていた。
怒りでも警戒でもない。
次に飛ぶ標的を、すでに待っているような目だった。
「楽しかったんだね」
「悪くはなかった」
「それ、なおが楽しかった時に言う言葉だよ」
「誰が決めた」
「私」
直樹は黙った。
めぐみは布の端を留める。
「ミーシャも嬉しそうだった」
「顔には出してなかった」
「出てたよ」
「どこに」
「なおを見る時」
右手を机へ静かに戻す。
「鳥が落ちた時より、なおが当てた時の方が嬉しそうだった」
「競争だからだろ」
「うん」
めぐみは否定しなかった。
「好きな人と競争できたから」
直樹がめぐみを見る。
めぐみは余った布を畳んでいた。
責める声ではなかった。
答えを迫ってもいない。
「めぐみ」
「大丈夫」
「何が」
「ミーシャが、なおを好きなこと」
めぐみは布を片づけた。
「私も知ってるから」
直樹はすぐに言葉を返せなかった。
「何もない」
「うん」
「戦友だ」
「それも知ってる」
「昨日も鳥を撃っただけだ」
「胸で手を温めてもらって」
「保温だ」
「分かってるってば」
めぐみが小さく笑った。
笑ったあと、机の上の直樹の右手を見る。
「私が少し嫌だったのは、そこじゃないよ」
「じゃあ、何だ」
「なおが楽しそうだったこと」
直樹の眉が動く。
「楽しそうなのが嫌なのか」
「違う」
めぐみは首を振った。
「私の知らないところで、なおがそういう顔をしてたことが、少し寂しかった」
直樹は右手を見た。
返す言葉を探している時の沈黙だった。
「私も見たい」
めぐみが言った。
「何を」
「誰も助けなくていい時の、なお」
*
翌朝、直樹は元職員室へ入った。
壁の運用表には、旧十二号に関する予定が並んでいる。
足跡の再確認。
迂回輸送。
無線中継器の点検。
果樹区画の落果処理。
教職団から提出される報告書の受領。
どの欄にも、直樹の名前はなかった。
健二が机で搬入表を確認している。
「明日の道路確認は」
「市場の道路班」
「人数は」
「四人。相原さん側から一人来る」
「射撃要員は」
「連れていかない」
「大型獣の痕跡があったら」
「入らずに戻る」
「戻れなかったら」
「兄ちゃんを呼ぶ前に、戻れる場所までしか入れない」
健二は顔を上げた。
「昨日、それができたでしょう」
「ああ」
「今日もできるようにする」
直樹は運用表を見る。
「果樹の回収は」
「奥村先生たちと市場の人がやる」
「猪の処理は」
「中部市場の処理場」
「学校の外壁は」
「業者が午後に来る」
「八人の訓練は」
「現地はハルさんが見る」
「ほかは」
「松隈先生が、聖マリア病院から映像で入る」
直樹が健二を見る。
「回線はつながるのか」
「富士川側まで延ばした広域通信設備から、九州側の回線へつなぐ」
「遅延は」
「昨日の試験では少しだけ。会話と教材の共有には問題ない」
「今日は英語か」
「英語だけじゃないよ」
健二は八人分の学習記録を机へ置いた。
国語。
数学。
理科。
社会。
英語。
教科ごとに分けた紙ではなく、一人につき一冊の記録だった。
「義務教育の範囲を、五教科まとめて見てもらう」
「松隈先生一人でか」
「全部を専門授業みたいに教えるわけじゃない」
健二は一冊を開いた。
漢字の読み書き。
短い文章の要約。
四則計算。
分数と割合。
地図記号。
地域の仕組み。
植物。
天気。
水と電気。
短い英語の受け答え。
八人の欄には、それぞれ違う印がついている。
「誰がどこまで分かっていて、どこが抜けてるかを見てもらう。同じ学年じゃないから、全員へ同じ問題を出す形にはしない」
「教材は」
「保存してあった教科書と、九州側から届いた基礎教材。松隈先生が先に確認してる」
「国語は」
「音読する子と、内容を要約する子を分ける」
「数学は」
「四則計算へ戻る子と、分数や割合へ進む子を分ける」
「理科と社会は」
「ここでの生活につなげる」
健二は答えた。
「天気。水。電気。食料の保存。地図。市場と行政の仕組み。覚えるだけじゃなく、今使っているものから入る」
「英語は」
「松隈先生の本来の担当だったでしょう」
「ああ」
「読むことと、短い受け答えから。分からない時に、もう一度言ってほしいと伝えられるところまで」
直樹は記録を一枚めくった。
「生活指導も入れるのか」
「入れる」
「何を教える」
「分からない時に、黙って消えないこと」
健二は言った。
「できなかったことを隠さない。人の教材を勝手に取らない。提出できない時は先に伝える。教科の前に必要な子もいるから」
直樹は八人分の記録を見る。
「画面だけで分かるのか」
「全部は分からない」
「なら」
「だから、現地にはハルさんがいる」
健二は即座に答えた。
「字を書く手が止まっていたら近くで見る。表情が画面で分からなければ、ハルさんが確認する。教材を変える必要があれば、その場で動く」
「姿勢は」
「松隈先生が見る」
「画面で?」
「剣道七段だからね」
健二の口元が少しだけ緩んだ。
「椅子へ座った時の背中。礼をする時の頭。道具を渡す時の手。話を聞く時の身体の向き。車椅子でも、上半身と体幹は兄ちゃんより真っ直ぐかもしれない」
「比べるな」
「身長も百八十あるし」
「知ってる」
「大きな眼鏡で、画面へ顔を近づけて見るって言ってた」
直樹の目に、中学時代の教室が一瞬だけ戻った。
黒板の前。
大きな眼鏡。
間違った英語を読んでも、すぐには答えを言わなかった先生。
生活指導室へ呼ばれた時も、怒鳴る前に椅子を出した。
「兄ちゃんとめぐみさんの、中学校の時からの先生だもんね」
「英語と生活指導だ」
「今は聖マリア病院の神父」
「ああ」
「移動はさせない。病院の部屋から車椅子で参加してもらう」
「身体を支える必要が出たら」
「ハルさんがやる。松隈先生は画面から指示するだけ」
「映像の範囲は」
「訓練場所だけ。生活区画は映さない」
「録画は」
「しない。教材の進み方だけ、俺が別に記録する」
「医療や生活上の判断は」
「授業へ混ぜない。必要なことが見つかったら、本人へ確認してから別に渡す」
健二は鉛筆を置いた。
「兄ちゃんが入る予定もないよ」
直樹は返事をしなかった。
健二は机の脇から、小さな予定表を出した。
直樹個人の行動記録だった。
午前。
午後。
夜間。
空いている欄がいくつもある。
「ここ、兄ちゃんが書いて」
「任務が決まってない」
「任務じゃなくても書いていい」
「何を書くんだ」
「俺に聞かないでよ」
健二は予定表を直樹の前へ置いた。
「兄ちゃんの時間でしょう」
直樹は鉛筆を取らなかった。
「空白で困ることはない」
「兄ちゃんは困ってる」
「困ってない」
「さっきから、入れる仕事を探してる」
「確認しただけだ」
「確認が終わったら?」
直樹は答えなかった。
その時、廊下から足音がした。
めぐみが元職員室へ入ってくる。
片手にスケッチブック。
もう片方に、小さな包みを持っていた。
「健二君、今いい?」
「はい」
「なおを借りたい」
健二は直樹を見る。
「本人に聞いて」
めぐみが直樹の前へ立つ。
「なお」
「何だ」
「時間を空けてほしい」
「いつだ」
「明日の夜」
「何をする」
「まだ決めてない」
「決めてからでいいだろ」
「決めたら、仕事になるから」
直樹はめぐみを見る。
「意味が分からない」
「何をするためでもない時間がほしいの」
「何もしないのか」
「話してもいいし、黙っててもいい」
「場所は」
「学校の中」
「外へは出ない?」
「出なくていい」
「何時から」
「十九時」
「終了は」
「最初は、一時間くらいかなと思ってた」
「一時間もか」
「短い?」
「長い」
「じゃあ最初は一時間」
「減ってない」
「増やさなかった」
健二が下を向いたまま、わずかに息を吐いた。
直樹が見ると、搬入表へ目を落としている。
「健二」
「聞いてないよ」
「顔を上げろ」
「兄ちゃんの予定でしょう」
めぐみは机の上の予定表を見た。
「一時間が終わったら、なおはどうするの?」
「ほかの仕事があれば戻る」
「それは嫌」
直樹がめぐみを見る。
声は強くなかった。
それでも、めぐみは曖昧に笑わなかった。
「一時間だけ私のところに来て、そのあと仕事へ戻るなら、仕事の間に私を入れただけでしょう」
「予定を空けろと言ったのは、めぐみだ」
「うん」
「一時間、空ける」
「その日の最後を空けてほしいの」
直樹は予定表を見る。
「何時までだ」
「決めなくていい」
「終了時刻のない予定は入れられない」
「じゃあ、十九時で勤務終了」
「勝手に決めるな」
「いいよ」
健二が言った。
直樹が健二を見る。
「何がだ」
「明日は十九時で兄ちゃんの勤務を終わりにする」
「夜間対応は」
「入れない」
「道路で何かあったら」
「市場の警備班と相原さん側で受ける」
「旧南第三で何かあったら」
「俺とハルさんがいる。末安さんにも連絡できる」
「それでも足りなかったら」
「その時だけ呼ぶ」
健二は予定表を自分の方へ引いた。
「何となく不安だから呼ぶのはなし。本当に兄ちゃんでなければ駄目な時だけ」
「誰が決める」
「俺と末安さん」
「二人とも連絡がつかなければ」
「相原さん」
「相原もいなかったら」
「そこまで全員いなくなる事故を、先に探さないでよ」
直樹は黙った。
めぐみが言う。
「一時間で話すことがなくなったら、黙ってていい」
「そのあとは」
「そのまま一緒にいる」
「何をする」
「分からない」
「寝るのか」
「眠くなったら」
「夕食は」
「一緒に食べる」
「風呂は」
めぐみが一度止まった。
「それは別」
健二が顔を伏せた。
「笑うな」
「笑ってないよ、兄ちゃん」
声が少し震えていた。
直樹は机の鉛筆を取った。
予定表の明日の欄。
十九時。
空白へ線を引く。
最初に、
勤務終了
と書いた。
その下へ、
めぐみ
と書く。
「これでいいか」
めぐみは二つの言葉を見た。
「うん」
「一時間じゃないぞ」
「うん」
「何をするかも決まってない」
「決めなくていい」
「急な呼び出しがなければ、朝まで空いてる」
「それがいい」
直樹の鉛筆が止まった。
めぐみは目を逸らさなかった。
「一時間だけ借りたいんじゃない」
静かに言った。
「その日を、なおと一緒に終わりたい」
直樹は、書いた二つの言葉を見た。
勤務終了。
めぐみ。
任務名ではない。
終了条件も、成果物もなかった。
*
健二は予定表を壁へ戻した。
「十九時以降、兄ちゃんは勤務外」
「まだ明日だ」
「先に周知する」
「全員に言う必要はない」
「言わないと、兄ちゃんが自分で仕事を拾うから」
「拾わない」
「さっき全部の仕事を確認した」
「確認だ」
「はいはい」
めぐみが直樹の袖を引いた。
昨日、ミーシャがつかんでいた場所と同じだった。
「なお」
「何だ」
「書いてくれてありがとう」
「まだ何もしてない」
「先に置いてくれた」
「十九時からだ」
「うん」
「学校の中だけだ」
「うん」
「急な呼び出しがあれば」
「本当に必要なら行っていい」
「本当に、の判断は」
「なお一人で決めないで」
直樹が止まる。
「健二君か、えりか、相原さんに聞いて」
「三人ともいなかったら」
「ミーシャ」
「本人も来るかもしれないだろ」
「じゃあ航平さん」
「信用できるか」
「なおよりは、遊ぶ予定を守りそう」
健二がとうとう顔を伏せた。
「笑うな」
「笑ってないよ、兄ちゃん」
今度は、はっきり笑っていた。
*
昼前、大庭が運用表を見つけた。
直樹の名前の横。
明日、十九時。
勤務終了。
めぐみ。
それだけが書かれている。
「何だ、これ」
大庭が指をさした。
「予定だ」
直樹が答える。
「見りゃ分かる。用件は?」
「ない」
「ないのに予定?」
「ああ」
「勤務終了まで書いてあるぞ」
「ああ」
大庭の口元が上がる。
「鳥撃ちに対抗したか」
「違う」
「胸元保温への巻き返し?」
「航平」
「はいはい」
大庭は予定表から手を離した。
「まあ、いいんじゃねえの」
「何が」
「マッシーが、助ける予定でも殺す予定でもないものを書いた」
「殺す予定は書かない」
「そういうところだよ」
大庭は酒瓶を入れた鞄を肩へ掛けた。
「邪魔すんなよ」
「誰に言ってる」
「お前にだ」
大庭は去っていった。
入れ替わるように、ミーシャが元職員室へ入る。
運用表を見る。
十九時の欄で視線が止まった。
「予定を確認しました」
「何の確認だ」
「明日、十九時。勤務終了」
手元の記録板へ書き込む。
「以後、NAOへ通常任務は割り当てません」
「お前まで管理するな」
「重複防止です」
書き終え、板を閉じた。
直樹を見る。
「保持します」
「何を」
「時間です」
ミーシャはそれ以上言わなかった。
自分が鳥撃ちへ連れ出した時と同じように、めぐみが求めた時間も、決まった予定として扱った。
*
夕方。
めぐみは空き教室の窓を開けた。
明日の夜に使う部屋だった。
机は置かない。
椅子を二脚だけ、窓から少し離して並べる。
向かい合わせにはしなかった。
同じ方向を見られるよう、横に置いた。
何を話すかは決めていない。
絵も描かなくていい。
直樹の手を診る必要もない。
役に立つ物を準備しようとして、何度もやめた。
水だけ置く。
それも必要か分からず、一度持ち上げる。
結局、二つのカップを窓際へ残した。
夕食は食堂で一緒に食べる。
そのあと、ここへ来る。
時計を置こうとして、やめた。
終了時刻を決めないために、勤務を終わらせてもらったのだ。
廊下から足音がした。
直樹だった。
「明日だろ」
「うん」
「何してる」
「何もしない準備」
「準備がいるのか」
「なおには必要そうだから」
直樹は部屋を見る。
椅子が二脚。
水が二つ。
ほかには何もない。
「ここで何時までいる」
「ここを出たくなるまで」
「そのあとは」
「一緒に戻る」
「どこへ」
めぐみは少し考えた。
「それは明日決める」
「決めてないことが多いな」
「だから仕事じゃないんだよ」
直樹は椅子の背へ左手を置いた。
「嫌になったら言う」
「うん」
「めぐみも」
「言う」
「俺が黙ってても」
「隣にいる」
「一晩、何も話さないかもしれない」
「それでもいい」
直樹は椅子から手を離した。
二人で教室を出る。
廊下の運用表には、明日の仕事がいくつも書かれている。
道路。
燃料。
食料。
警備。
医療。
遠隔授業。
その一日の終わりにだけ、二つの言葉が並んでいた。
勤務終了。
めぐみ。
直樹はその欄を、空白には戻さなかった。




