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第百六十二話 空いた手

## 第百六十二話 空いた手


 旧十二号の鎖は、試験車列を通す間だけ外された。


 二台が中へ入ると、警備員が再び鎖を掛けた。


 開通ではない。


 進めなくなった時、決めた場所まで戻れるか。その手順を確かめるための試験だった。


 朝六時四十分。


 中部市場の運用室では、二台の現在地が地図の上をゆっくり動いていた。


 先導車と回収車。


 積み荷は少ない。


 医薬品の箱と同じ重さに調整した荷。


 密閉容器。


 予備燃料。


 工具。


 今日、確かめるのは荷物が届くことではなかった。


 通信。


 車間。


 転回。


 中止。


 帰還。


 直樹たちを呼ばなくても、その五つが動くかを見る。


 先導車には鷲尾慎吾が乗っていた。


 助手席には市場の道路担当者。


 後続車には無線担当と整備員。


 志乃は中部市場の運用室。


 相原は国境第三の中継点。


 健二は旧南第三で、搬入予定の欄を空けたまま待っていた。


 直樹は学校の元職員室にいる。


 机の上には通信端末。


 隣には大庭。


 壁際には、ミーシャが立っていた。


 直樹は車列へ同行していない。


 無線が弱くなる谷間。


 車両が転回できる場所。


 途中で止まってはいけない区間。


 誘引物が残された小屋。


 最初の経路確認は終わり、道路担当者へ引き継がれている。


 大庭が椅子を後ろへ傾けた。


「マッシーがいなくて、寂しくねえのかな」


「誰が」


「警備頭だよ。熊が出たらジンを呼ぶつもりで、無線を握りしめてんだろ」


 通信機から鷲尾の声が響く。


『第二確認点、通過! 異常なし!』


 志乃が返した。


『声が大きい』


『へい!』


『慎吾』


『……了解しました』


 大庭が鼻で笑う。


「届いてんじゃねえか」


 直樹は地図を見たまま答えない。


 車列が、簡易中継器を設置した谷間へ近づく。


 音声が一度だけ細くなり、戻った。


『第三確認点、到着』


 道路担当者の声だった。


『路面確認を行います』


『車外へ出るのは二名まで』


 志乃が言った。


『一人は周囲を見て』


『了解』


 短い沈黙。


 大庭の椅子が床へ戻る。


 直樹も端末へ顔を寄せた。


『道路左側。大型獣の足跡があります』


 元職員室の空気が変わった。


『新旧は』


『水が残っています。輪郭も崩れていません』


『種類は』


『熊とは断定できません』


 鷲尾の声が割って入る。


『一つだけです! 周囲を確認して進めば――』


『中止』


 道路担当者が言った。


 鷲尾が黙る。


 無線の向こうで風が鳴っていた。


『新旧を判定できない大型獣の痕跡を確認。試験運行を中止します』


 志乃はすぐには答えなかった。


 現場で出た中止判断を、離れた責任者が覆すことはできない。


 それも事前に決めた手順だった。


『慎吾』


『へい』


『聞こえたでしょ』


『……へい』


『予定地点で転回。戻りなさい』


『へい!』


 車列の印が止まる。


 数分後、来た道をゆっくり戻り始めた。


 大庭が息を吐く。


「警備頭、ちゃんと帰ってくるじゃねえか」


「ああ」


「迎えに行かなくていいのか」


「必要ない」


「熊を探しに行かなくていい?」


「痕跡を記録して終わりだ」


「仕事がなくなったな」


 直樹は端末を閉じなかった。


「帰還まで確認する」


「そのあとは?」


「搬入の組み直しを確認する」


「健二さんと相原さんがやる」


「足跡の写真を――」


「市場の担当が持って帰る」


「装備の――」


「マッシー」


 大庭が遮った。


「暇になると、自分で火事を探しに行くのやめろ」


 壁際からミーシャが動いた。


 直樹の前まで来る。


「車列、帰還中です」


「ああ」


「NAOは同行不要です」


「分かってる」


「次の任務はありません」


「まだ決まってない」


「確認済みです」


 直樹がミーシャを見る。


「誰に確認した」


「健二さん。えり。相原」


「いつだ」


「先ほどです」


 ミーシャは直樹の上着の袖をつかんだ。


「行きます」


「どこへ」


「鳥です」


「鳥?」


「調理場から二羽の補充依頼です」


「市場へ頼め」


「採取許可を受領しました。場所も確認済みです」


「一人で行けるだろ」


「NAOは同行してください」


 直樹が袖を見る。


 ミーシャは離さなかった。


 大庭の口元が上がる。


「連行だな」


「航平」


 ミーシャが呼んだ。


「何だよ」


 背負い袋から、小さな透明瓶を取り出した。


 口は蝋で固められている。


 中身も透明だった。


「贈呈品です」


 大庭が受け取る。


「何だ、これ」


「蒸留酒です」


「見りゃ分かる。何度だ」


「七十を超えます」


 大庭は瓶を窓の光へ透かした。


「どこから持ってきた」


「アレクセイからです」


「火、つくか?」


「未確認です。可能性はあります」


「俺に?」


「はい」


「何で」


「航平は、強い酒を好みます」


 ミーシャは直樹の袖をつかんだまま答えた。


「NAOは同行してください」


 大庭は酒瓶を見る。


 次に、散弾銃を収めた細長いケースを見る。


 最後に、ミーシャがつかんでいる直樹の袖を見た。


 口の端が、ゆっくり悪く上がる。


「なるほどねえ」


「何がだ」


 直樹が聞いた。


「俺には度数の高い酒。マッシーは山へ連れ出す」


「別の用途です」


「俺を酔わせて、邪魔させねえと」


「飲酒時は同行できません」


「やっぱり邪魔だったか」


「航平には酒です。NAOには鳥です」


「本人に意味がねえのが、一番ひでえな」


「意味はあります」


「ほう」


「食料確保です」


 大庭は瓶を胸元へ抱えた。


「そういうことにしといてやるよ」


「昼から飲むな」


 直樹が言った。


「安心しろ。お前らが帰るまでは開けねえよ」


「理由は」


 ミーシャが聞く。


「面白い報告を聞き逃したくねえからだ」


「鳥は二羽です」


「鳥以外の報告だよ」


 ミーシャは少し考えた。


「ありません」


 大庭はさらに悪く笑った。


     *


 車列が中部市場へ戻ったという連絡が入ったのは、それから十五分後だった。


 負傷者なし。


 車両異常なし。


 積み荷もすべて戻った。


 試験車列を外へ出すため、入口の鎖がもう一度だけ外された。


 二台が通過すると、再び施錠された。


 医薬品は軽車両へ積み替え、相原が手配した迂回路へ回す。


 旧十二号は、試験終了後も閉鎖を継続。


 試験運行は失敗とは記録されなかった。


 中止手順確認。


 その欄には、判断に関わった四人の名前が残った。


 直樹は通信端末を健二へ渡した。


「兄ちゃんは、もういいよ」


 健二が言う。


「帰還確認は」


「終わった。道路担当から報告も来た」


「足跡は」


「写真と位置を保存した。今日は誰も入れない」


「明日は」


「市場側で確認する人を決める」


 健二は直樹を見る。


「兄ちゃんじゃない人をね」


 直樹は返事をしなかった。


「兄ちゃんがいないと戻れない仕組みなら、道は開けないって言ったの、兄ちゃんでしょう」


「ああ」


「戻ってきたよ」


 健二は端末を机へ置いた。


「だから今日は、行かなくていい」


 ミーシャが直樹の袖を引く。


「確認完了です」


「お前が言うな」


「行きます」


     *


 校舎を出る前に、めぐみが廊下の先から来た。


 スケッチブックを胸へ抱えている。


 ミーシャが直樹の袖をつかんでいるのを見る。


 歩みが少しだけ遅くなった。


「どこへ行くの?」


「鳥です」


 ミーシャが答えた。


「鳥に、なおが必要なの?」


「はい」


「何をするの」


「食用指定された山鳥を、二羽採取します」


 めぐみは直樹を見る。


「なおも撃つの?」


「そのつもりらしい」


「NAOも撃ちます」


 ミーシャが訂正した。


「右手は?」


「支持だけです。開閉と装填は、私が補助します」


「俺が答える」


 直樹が言う。


「無理はしない」


 ミーシャは直樹の右手首を取った。


 包帯の端と指の動きを確認する。


「痛みが出れば中止します」


 めぐみは、ミーシャの手を見た。


 ミーシャには、その視線の意味が分からない。


「めぐみ。問題がありますか」


「少しだけ」


 ミーシャは待った。


 めぐみは直樹へ向き直る。


「帰ったら、手を見せて」


「ああ」


「それから、鳥の話もして」


「鳥の?」


「なおが何羽当てたか」


 直樹は少し黙った。


「分かった」


 めぐみの口元が緩む。


「行ってらっしゃい」


「了解」


 ミーシャは直樹の袖を離さなかった。


     *


 二人は小型車へ銃器ケースを積み、学校を出た。


 持ち出したのは、上下二連の散弾銃が二丁。


 猟用実包は、予備を含めた規定数。


 別に、標的射撃用の軽装弾を十発。


 市場の猟具係が作った圧縮紙の円盤も十枚。


 鳥への発砲は、二羽を確保した時点で終了する。


 射撃確認を続ける場合は、別に記録した軽装弾と円盤を使う。


 銃番号。


 弾種。


 数量。


 採取対象。


 ミーシャはすべて受領簿へ残していた。


 休耕地へ着くと、直樹はケースから銃を出した。


 この銃には、銃身先端の照星と、その手前に小さな中間照星が付いている。


 二つを縦に重ねれば、銃身の向きは確認できる。


 小銃のような照門はない。


 知識としては分かっていた。


 だが、飛翔する標的を追う感覚が身体へ入るほど、上下二連を撃ったことはない。


 直樹が散弾銃を使ってきた場所の多くは、室内か通路だった。


 近距離。


 扉の向こう。


 曲がり角。


 ほとんど身体が触れるような距離で、大まかな射線と、撃ってはいけないものを先に見る。


 動く標的の前へ銃口を運び、発砲後も振り抜く射撃とは別だった。


 右手の状態もある。


 直樹は銃床を、普段とは逆の左肩へ入れる。


 握把と引き金を扱うのは左手。


 右手は前床へ軽く添えるだけにした。


 開閉レバーを繰り返し扱う動作と装填は、ミーシャが補助する。


 室内で至近距離へ撃つなら、逆の肩でも間に合う。


 だが、鳥の速度へ銃口を合わせるには、目と肩と腰がまだ別々に動いた。


「これを使うのか」


「はい」


 ミーシャも薬室を確認する。


「NAOは、飛ぶ鳥が苦手です」


「散弾銃が苦手なわけじゃない」


「確認しています」


「何を」


「室内。通路。近距離」


「よく覚えてるな」


「記録しています」


「何の記録だ」


「NAOの射撃です」


 声は平坦だった。


 直樹が銃身の上を見る。


「折れた枝なら当てられる」


「枝は逃げません」


「風では動く」


「規則的です」


 ミーシャは銃床を肩へ収めた。


 照星を見ていない。


 頬と銃床の位置だけを確かめ、すぐに下ろす。


「鳥とは違います」


「分かってる」


「身体には入っていません」


「言い切るな」


「確認済みです」


     *


 鳥が集まっていたのは、片側に低い林がある休耕地だった。


 反対側には刈り残された草地。


 その向こうに浅い水路。


 人家と作業道からは離れている。


 射線の後方には土の斜面があった。


 ミーシャは地面の痕跡を確認する。


 食用指定された山鳥。


 小動物。


 古い猪の跡。


 熊の痕跡はない。


「二羽です」


「分かってる」


「三羽目は撃ちません」


「お前もな」


「了解」


 二人は草地の縁へ入った。


 ミーシャは直樹の上着をつかみ、立ち位置を半歩ずらした。


「そこは枝が動きます」


「見えてる」


「鳥が先に確認します」


 直樹は一歩移動した。


 ミーシャは肩を直樹の腕へ触れさせたまま、林の縁を見る。


 本人に、距離を空ける理由はない。


 戦場でも、監視位置が狭ければ同じだった。


 直樹だけが、肩へ触れている重さを意識した。


 最初の鳥は、枯れ草の中から突然飛び上がった。


 羽音。


 ミーシャの散弾銃が肩へ収まる。


 銃口が鳥の後ろから追いつく。


 そのまま前へ抜けた。


 発砲。


 鳥は林の手前へ落ちた。


 直樹は、まだ銃床を左肩へ入れる途中だった。


「早いな」


「NAOが遅れました」


「見えてから上げた」


「羽音の時点で準備できます」


 ミーシャは薬莢を抜き、新しい弾を入れた。


 動作が、いつもよりわずかに速い。


 落ちた鳥より、直樹の顔を先に見ている。


「機嫌がいいな」


「問題ありません」


「そうは見えない」


「私の方が上でした」


 事実を読み上げる声だった。


 ただ、銃を閉じる動きが少し軽い。


 二羽目は、直樹の側から上がった。


 直樹は先に動いた。


 左肩へ銃床を入れる。


 照星と中間照星が縦に重なる。


 その二点から鳥へ視線を移す。


 銃口で追う。


 発砲。


 鳥はそのまま林を越えた。


「後方です」


 ミーシャが言った。


「分かってる」


「鳥の後ろを撃ちました」


「銃口は追いついてた」


「発砲時に停止しました」


 直樹は銃を安全な向きへ下げる。


 ミーシャが前へ回った。


 銃を開き、薬室を空にする。


「もう一度、構えてください」


「鳥はいない」


「姿勢を確認します」


 空の銃を直樹が上げる。


 ミーシャは銃口の向きを確かめてから、左肩へ手を置いた。


 銃床を少し内側へ直す。


 次に腰へ触れ、上半身の向きを変えた。


「硬いです」


「言葉で言え」


「言葉では修正されませんでした」


 左肘を持ち上げる。


 頬へ指を当て、銃床との位置を確かめる。


「照星を見続けないでください」


「最初の確認は必要だ」


「最初だけです」


 ミーシャは直樹の背後へ回った。


 胸が背中へ触れるほど近い。


 肩越しに銃身の先を見る。


「標的を見ます」


「銃がずれる」


「銃は身体へ追従します」


「毎回、同じ位置へ入ればな」


「その位置を確認しています」


 腰を押し、上半身ごと左右へ動かす。


「腕だけで追わないでください」


「分かってる」


「知識では確認済みです」


「まだできてないと言いたいのか」


「はい」


 返事が早い。


 直樹が銃を下ろした。


「楽しんでるな」


「否定しません」


「俺が外すことを?」


「NAOへ教えられることを確認しました」


 ミーシャは直樹を見る。


「普段は逆です」


 それ以上は言わなかった。


 直樹は銃を折った状態で薬室を確かめる。


「次は当てる」


「記録します」


     *


 鳥が来るまでの間、ミーシャは斜面の折れた枝を指した。


 白く裂けた先端が、土を背にして出ている。


「静止目標です」


「撃っていいのか」


「後方、土です。左右、確認済み」


 直樹も自分で周囲を見る。


 人はいない。


 道もない。


 鳥も近くには降りていない。


 ミーシャが銃を開き、実包を入れる。


 直樹へ返す。


 左肩へ上げる。


 二つの照星を一瞬だけ見る。


 枝へ視線を移す。


 発砲。


 白い先端が弾けた。


「命中」


 直樹が言う。


「静止目標です」


「当たったことに変わりはない」


「鳥の記録には入りません」


「誰が決めた」


「記録者は私です」


 ミーシャはすでに、次の羽音を探していた。


 口元だけが、わずかに緩んでいる。


     *


 三羽目は、二人の正面から斜めへ抜けた。


 直樹は銃を上げる。


 照星を見そうになる。


 途中でやめた。


 鳥だけを見る。


 銃口が後方から追いつく。


 前へ抜ける。


 発砲。


 その瞬間、銃口の動きが止まった。


 散弾は鳥の後ろを通る。


「停止しました」


 ミーシャが言った。


「少しだけだ」


「発砲後も追います」


「分かってる」


「まだ身体には入っていません」


 直樹は、鳥が消えた林を見ていた。


 負傷者はいない。


 守る車列もない。


 撃たなければならない敵もいない。


 それでも、外したまま終わる気はなかった。


「もう一羽だ」


「了解」


 ミーシャはすぐに次の実包を確認した。


 直樹が外すたびに喜んでいるのではない。


 直樹が次を求めるたび、返事と動作が速くなっていた。


「右手は」


「問題ない」


「確認します」


 ミーシャは直樹の右手首を取った。


 手袋の上から指先を押す。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 反応を見る。


「冷えています」


「撃てる」


「感覚低下は問題です」


 ミーシャは自分の上着の前を開いた。


 直樹の右手を取り、胸元の内側へ入れる。


「何してる」


「保温です」


「手袋がある」


「遅いです」


 直樹が抜こうとする。


 ミーシャは上着の上から、直樹の手を両腕で押さえた。


「動かないでください」


「ミーシャ」


「NAO。現場判断です」


 平坦な声だった。


 直樹は一度だけ息を吐いた。


 諦めて手を預ける。


 右手は、ミーシャの胸と脇の間へ挟まれていた。


 ミーシャは直樹の手を抱えたまま、林の縁を見ている。


 本人には、温度を戻す以外の意味はない。


「まだ冷たいです」


「もういい」


「未確認です」


「どう確認する」


「指を動かしてください」


 直樹が上着の中で指を曲げる。


 ミーシャの身体へ、指先が触れた。


「反応あり」


「離せ」


「温度が不足しています」


「鳥が出たらどうする」


「私が撃ちます」


「俺が撃つ」


 ミーシャが直樹を見る。


「継続を希望していますか」


「ああ」


「確認しました」


 手を抜くことを許した。


 直樹は右手を戻し、指を動かす。


 目が変わっていた。


 ミーシャはそれを確認してから、林へ顔を戻した。


     *


 次の鳥は低かった。


 草地の端から飛び、右へ抜ける。


 直樹は鳥だけを見る。


 銃を上げる。


 銃床が左肩へ収まる。


 銃口が後ろから追いつく。


 少し先へ出る。


 発砲。


 撃ったあとも銃口を止めなかった。


 鳥が草地へ落ちる。


 直樹は銃を下げる。


 ミーシャが銃を受け取り、開いて薬室を確認した。


「一羽」


「確認しました」


 ミーシャは、落ちた鳥より先に直樹を見ている。


「嬉しそうだな」


「NAOの動作が修正されました」


「それだけか」


「はい」


 答えたあとも、視線を外さなかった。


「次で並ぶ」


「鳥は一対一です」


「なら、もう一羽で勝てる」


「必要数は二羽です」


 直樹が林を見る。


 別の羽音がした。


 銃へ手を伸ばしかける。


 ミーシャがケースを閉じた。


「鳥への発砲は終了です」


「分かってる」


「目が追っています」


「癖だ」


「違います」


「何が」


「競争を継続したい顔です」


 直樹はミーシャを見る。


「お前もだろ」


 ミーシャは数秒、答えなかった。


「否定しません」


     *


 休耕地の端には、土の斜面へ向けて固定された簡易投射器があった。


 市場の猟具係が、圧縮紙の円盤を飛ばすために作ったものだ。


 射線は斜面側へ限定されている。


 交代する側は銃を開き、後方線の外で待つ。


 ミーシャは猟用実包を別の箱へ戻した。


 訓練用の軽装弾を取り出す。


「十発です」


「五回ずつか」


「はい」


「先に撃つ」


「了解」


 最初の円盤が斜めに上がる。


 直樹が撃つ。


 散弾は後ろを通った。


「停止しました」


「投射が遅い」


「記録します」


「するな」


 二枚目。


 直樹は照星を見すぎた。


 円盤が土へ落ちる。


「ゼロ」


「枝は当てた」


「飛翔標的はゼロです」


 三枚目が空中で割れた。


「一」


「確認しました」


 交代する。


 ミーシャは最初の二枚を続けて割った。


 三枚目も落とす。


 直樹が無言で次の円盤を投射器へ入れた。


「三枚です」


「分かってる」


「差は二枚です」


「まだ終わってない」


 四枚目を、ミーシャが外した。


 直樹の口元がわずかに上がる。


「後ろだったな」


「確認しています」


「発砲時に止まった」


「はい」


「身体に入ってないんじゃないか」


 ミーシャが直樹を見る。


「訂正します」


「何を」


「NAOは、負けず嫌いです」


「今さらか」


 最後の円盤をミーシャが割る。


 四枚。


 直樹は残る二枚を続けて割った。


 三枚。


 差は一枚。


 直樹が空になった弾箱を見る。


「もうないのか」


「使用数、十発です」


「次は」


「申請が必要です」


「申請しろ」


「了解」


 返事は事務的だった。


 だが、受領簿を取り出す動作が、来た時より明らかに速かった。


     *


 旧南第三へ戻った時、大庭は食堂の端にいた。


 酒瓶はまだ開いていない。


 机の上に置かれている。


 ミーシャは鳥を二羽持っていた。


 直樹は散弾銃のケースを左肩へ掛けている。


 右手は、ミーシャが巻き直した保温布に包まれていた。


「お帰り」


 大庭が言う。


「酒、飲んでないのか」


 直樹が聞いた。


「昼から飲むなって言ったのは誰だよ」


「珍しく聞いたな」


「それに、報告を待ってた」


 大庭は二人を見る。


「鳥は二羽です」


 ミーシャが言った。


「見りゃ分かる」


「必要数です」


「ほかは?」


「飛翔標的を十枚使用しました」


「そうじゃねえ」


 ミーシャは待った。


 大庭が直樹の保温布を見る。


「何でマッシーの手を、お前が巻いてんだ」


「冷えていました」


「どうやって温めた」


「私の上着の内側です」


 大庭が一度、天井を見る。


 それから酒瓶を持ち上げた。


「俺にこれを渡して、男を山へ連れ出して、服の中に手まで入れたと」


「私が入れました」


「訂正が強いな」


「本人に意味はありません」


 直樹が言う。


 大庭の口元が悪く上がる。


「本人に意味がねえのは分かってるよ」


「なら深読みするな」


「材料が多すぎて無理だ」


 めぐみが食堂へ入ってきた。


 最初に鳥を見る。


 次に、直樹の右手へ目を移した。


「なお」


「右では撃ってない」


 直樹が先に言う。


「前床の支持に使用しました」


 ミーシャが補足した。


「冷えたため、保温しました」


「どうやって?」


 めぐみが聞く。


 直樹がミーシャを見る。


 ミーシャは自分の上着の前へ手を入れ、胸元を二度叩いた。


「ここです」


 脇へ挟んだとも、胸へ抱え込んだとも取れる位置だった。


 めぐみの視線が、ミーシャの指先から直樹の右手へ移る。


 大庭は一度、ミーシャの胸元を見た。


 次に直樹を見る。


 何も言わずに顔を背けたが、肩が震えていた。


「航平」


 直樹が低く呼んだ。


「俺は何も言ってねえぞ」


「顔が言ってる」


「冷えた手を、ずいぶん丁寧な場所で温めてもらったんだなと思ってよ」


「保温です」


 ミーシャが訂正する。


「直接、体温を使用しました」


 大庭の肩がさらに揺れた。


「ミーシャ。それ以上説明しなくていい」


「説明不足ですか」


「逆だ」


 大庭がとうとう吹き出した。


「悪い悪い」


 口では謝りながら、もう一度ミーシャの胸元を見る。


「そこで温めながら、指が動くかまで確認したわけだ」


「はい」


 ミーシャは事務的に頷いた。


「屈曲と伸展を確認しました」


「胸元で動作確認か」


 大庭の口元が、いやらしく歪む。


「マッシーも、ずいぶん丁寧な点検を受けたもんだ」


「航平」


 直樹の声が低くなる。


「医療的な確認の話だぞ」


「その顔で言うな」


「想像する必要はありません」


 ミーシャが訂正した。


「右手の感覚回復を確認しただけです」


「その説明が一番駄目なんだよ」


 大庭は机へ手をつき、声を殺して笑った。


「ミーシャ。それ以上答えるな」


 直樹が言う。


「了解」


 めぐみは大庭を見ず、直樹の右手を取った。


「なお」


「何だ」


「あとで、手をちゃんと見せて」


「ああ」


「鳥の話も」


「一羽は当てた」


「それだけじゃなくて」


 めぐみは直樹を見る。


「楽しかった?」


 直樹はすぐには答えなかった。


 ミーシャが横から答えることもしない。


「……悪くなかった」


「そっか」


 めぐみは直樹の指先へ触れた。


「あとで聞かせて」


「ああ」


 大庭が酒瓶の口を指で弾く。


「鳥撃ちより面白いもん見せてもらったな」


 直樹が大庭を見る。


「その酒、預かるぞ」


「何でだよ」


「全部飲みそうだからだ」


「ミーシャから俺への贈呈品だ」


「保管するだけだ」


「マッシー。負けた腹いせか?」


 直樹の動きが止まる。


 大庭の目が細くなった。


「負けたのか」


「鳥は一対一です」


 ミーシャが答える。


「飛翔標的は?」


 数秒の沈黙。


「ミーシャが一枚上だ」


 直樹が言った。


 大庭は酒瓶を抱えたまま、声を上げて笑う。


「そりゃ酒がうまくなる!」


「まだ飲むな」


「分かった分かった」


 ミーシャは直樹を見る。


「次回、申請します」


「次は抜く」


「記録します」


 返事は平坦だった。


 それでも、口元はわずかに緩んでいた。


     *


 二羽の鳥は中部市場で確認され、食用へ回された。


 一羽は旧南第三。


 一羽は中部市場。


 余りはなかった。


 撃ちすぎた鳥もいない。


 旧十二号では、直樹がいなくても車列が戻った。


 休耕地では、直樹が撃たなくても一羽目は落ちた。


 それでも直樹は、ミーシャに負けたまま終わりたくなかった。


 誰かを救うためではない。


 道を開けるためでもない。


 ミーシャは、それを嬉しいとは言わなかった。


 記録した。


 姿勢を直した。


 冷えた右手を温めた。


 次の標的射撃を申請すると決めた。


 帰り道では、いつものように直樹の半歩前を歩かなかった。


 肩が触れるほど近くを、同じ速さで歩いた。


 直樹が、


「次は抜く」


 と言うたびに、ミーシャは彼の顔を見た。


「記録します」


 返事は変わらない。


 それでも口元は、何度戻してもわずかに緩んだ。


 好きな人と、敵ではなく空を見た。


 命を奪うための競争でも、人を搬出するための訓練でもない。


 ただ、どちらが先に標的を割るかを競った。


 直樹が外せば、自分が教えられた。


 直樹が当てれば、落ちた標的より先に彼の顔を見た。


 直樹が本気になれば、もう一枚投げたくなった。


 ミーシャは、その感情に名前をつけなかった。


 必要もなかった。


 その日の記録には、鳥二羽と、飛翔標的一枚の差だけが残った。


 ミーシャの顔には、記録されなかったものが残っていた。


 大庭は、それを見逃さなかった。


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