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第百六十一話 名前を届ける

## 第百六十一話 名前を届ける


 藤崎圭介という名前の横へ、えりが確認時刻を書いた。


 午前八時十四分。


 中部市場、警備連絡所。


 机の上には、別々に集められた記録が並んでいた。


 旧十二号への入域記録。


 現場から回収された衣服と所持品。


 血痕と組織片の照合結果。


 相沢真帆の証言。


 九州中央圏へ入った際に登録された生体情報。


 西の山間集落から送られてきた過去の診療記録。


 どれか一つを、急いで名前の代わりにはしなかった。


 別の場所に残された事実が、同じ一人へ集まっている。


 えりは最後の照合票を閉じた。


「藤崎圭介さんで確認が取れました」


 的場志乃は、机の向こうで腕を組んでいた。


 返事をする前に、壁際へ目を向ける。


 鷲尾慎吾が立っている。


 空いている椅子には座っていない。


 普段は大きく見せている肩も、今は少し内側へ入っていた。


「慎吾」


「へい!」


 呼ばれた瞬間、背筋だけが伸びた。


「聞こえた?」


「聞こえました」


「そう」


 志乃はえりへ顔を戻す。


「相沢さんには?」


「医療側と相談して伝える。本人の状態を確認して、藤崎さんのお母さんへ預ける言葉も聞く」


「遺族への通知は」


「正式な書面は今日中に出せる」


「紙一枚で、息子が死んだって知らせるのか」


 鷲尾が言った。


 えりが顔を上げる。


「書面だけにするとは言ってない」


「今、書面って」


「慎吾、控えて」


 志乃の声は大きくなかった。


 鷲尾の口が閉じる。


「へい」


 それまで前へ出ていた顎が下がった。


 志乃は入域記録へ視線を落とす。


 藤崎圭介。


 相沢真帆。


 二人が旧十二号へ入った日時。


 通行札を発行した担当者の欄には、鷲尾慎吾と書かれている。


「札を出したのは?」


「俺です」


「道を知ってるのは?」


「俺です」


「最初に現場へ入ったのは?」


「俺です」


「なら、慎吾が行って」


 鷲尾が顔を上げた。


「俺が?」


「末安さんと一緒に」


「へい!」


 返事をしたあと、鷲尾は一歩前へ出た。


「アネさんの分まで、俺が頭を下げて――」


「いらない」


 志乃の一言で止まった。


「ですが」


「通行札を出したのはお前」


 志乃は入域記録を指した。


「旧十二号を開けていた管理責任は私」


 次に、えりを見る。


「二つを分けて書面に入れて」


「入れてある。どちらの判断も検証中」


「ならいい」


 鷲尾の肩がわずかに動いた。


「アネさんに泥を塗らせるわけには」


「それを決めるのはお前じゃない」


「でも」


「慎吾」


「へい」


「二度言わせる?」


「……すみません」


 志乃は、えりの前にある書類を指した。


「末安さんの説明を遮らない」


「へい」


「聞かれたことだけ答える」


「へい」


「怒鳴られても、勝手に怒鳴り返さない」


「へい」


「私の名前を勝手に使わない」


 鷲尾が少し止まった。


「アネさんの指示だと説明するのは」


「必要なら末安さんが説明する」


「俺は?」


「鷲尾慎吾として立っていなさい」


「へい」


「終わったら戻って報告」


「命に代えましても――」


「代えなくていい」


 志乃は書類へ目を戻した。


「報告する口を残して帰ってきなさい」


「へい!」


 鷲尾は深く頭を下げた。


 命令が終わると、迷う前に部屋を出た。


 薬と冬物衣類を受け取るため、廊下を大股で歩いていく。


 足音が遠ざかってから、えりが志乃を見た。


「嫌な場所へ迷わず出すんだね」


「通行札を出した本人だから」


「ほかの人なら、途中で逃げるかもしれない」


「慎吾は逃げない」


「死なれたら?」


 志乃の指が一瞬だけ止まった。


「代わりがいない」


 それだけ答え、次の書類を取った。


     *


 警備連絡所の隣では、九州教職団との打ち合わせが始まっていた。


 奥村先生。


 長峰俊夫に同行していた教師たち。


 次の研修への参加を検討していた二人。


 机の端には、旧南第三への協力依頼が置かれている。


 研修中の滞在場所。


 車両の貸し出し。


 食料の配分。


 緊急時の受け入れ。


 危険区域へ入る際、直樹たちを安全要員として同行させられないかという項目まであった。


 健二は依頼書を裏返した。


 代わりに、古い地図を机へ広げる。


 旧十二号。


 第四避難台。


 閉鎖されたキャンプ区画。


 遊覧池。


 共同畑。


 果樹区画。


 長峰たちが入った林縁。


 地図の横には、宿泊記録と持ち込み品の一覧がある。


 現場で回収された包装の種類。


 製造番号。


 団体が申告した食料の数量。


 教職団が持ち込んだと確認できた物には、赤い印がつけられていた。


 以前からあった物は青。


 誰が残したか分からない物には、何もついていない。


 健二には、研修を再開させたい理由がなかった。


 長峰俊夫が熊に食われた。


 白石澄江は重傷を負った。


 別の日には藤崎圭介が亡くなり、相沢真帆が片脚を裂かれて戻った。


 生きている人間を出すために、兄とその仲間たちが熊の前へ入った。


 道路は閉鎖された。


 市場の警備と医療が削られた。


 旧南第三への搬入も遅れた。


 八人の食事や暖房に使う物資を、別の道へ迂回させなければならなかった。


 隣で小さな火が出ただけではない。


 煙も火の粉も、こちらへ来ていた。


「始める前に、言葉を揃えます」


 健二は地図へ手を置いた。


 声は低かった。


 怒鳴る必要はない。


「これは、研修を続けるかどうかを相談する会議ではありません」


 奥村が顔を上げる。


「では、何のために」


「起きたことの確認と、再発防止です」


「協力については」


「そのあとです」


 健二は裏返した依頼書を押さえた。


「こちらは、協力を頼まれる前の説明を受けていません」


「事故の経緯は、警察と行政へ提出しています」


「旧南第三には提出されていません」


「行政を通して共有されるものだと」


「兄を出したのは行政ではありません」


 健二は奥村を見る。


「学校の車両を空けたのも、八人の移動を止めたのも、搬入を組み直したのも、こちらです」


 長峰と同行していた男性教師が言う。


「私たちも長峰先生を亡くしています」


「知っています」


「こちらだけが責められるのは」


「長峰先生が亡くなったことを責めているんじゃありません」


 健二は地図の一点を指した。


 第四避難台。


「ここに食料が残されていた」


 次の一点。


 閉鎖されたキャンプ区画。


「ここに生ごみと包装が残っていた」


 さらに林縁。


「この近くには、動物を撮影するための干し魚が置かれた」


 長峰に同行していた女性教師の指が動く。


「干し魚は、定点カメラの調査用です」


「目的は聞いていません」


 健二は地図から目を上げなかった。


「熊から見れば餌です」


「熊を呼ぶつもりはありませんでした」


「熊は、置いた人間の意図を確認するんですか」


 女性教師は答えられなかった。


「悪意がなかったことは、結果の否定には使えません」


 健二は旧十二号の途中にある印を指した。


「周辺では、熊の痕跡も記録されていた」


 奥村が言う。


「危険な個体がいると確定していたわけではありません」


「確定しなければ、止めない運用だったんですね」


「そこまでは言っていません」


「止めていません」


 健二は奥村を見る。


「痕跡はあった。危険な個体かは分からなかった。だから進んだ。結果、人が亡くなった。そこまでは事実です」


「当時の情報では、予測できなかった部分もあります」


「全部を予測しろとは言っていません」


 健二は即座に返した。


「予測できないものがあるなら、帰還時刻と中止条件を先に決める。それをしていなかったことを言っています」


 志望者の一人が慎重に口を開く。


「自然の中では、完全な安全を作ることはできません」


「はい」


 健二は頷いた。


「だから、安全にできない部分を誰が引き受けるか、先に決める必要があります」


「私たちは、自分たちで危険を引き受ける覚悟を」


「引き受けていません」


 言葉が重なった。


 志望者の顔が固まる。


「危険を引き受けたのは、白石先生を運び出した人です」


 健二は続けた。


「長峰先生を探すために、翌朝もう一度林へ入った人。熊を止めた人。相沢さんを下ろした人です」


「しかし、私たちも現地で」


「入る側が死ぬ覚悟を持つことを、責任とは呼びません」


 健二の声は変わらなかった。


「死んだあとで探す人間。怪我人を治療する人間。道路を閉じる人間。物資を迂回させる人間。帰りを待つ家族。そこまで含めて、初めて危険の範囲です」


 健二は旧南第三の位置を指した。


「ここも、その範囲に入りました」


 奥村が地図を見る。


「旧南第三にも被害が出た、と」


「搬入が止まりました」


 健二は一つずつ答えた。


「兄が学校を離れました。市場の医療と車両が熊害対応へ回りました。帰還時刻が読めなくなり、八人を学校から動かせなくなった」


「しかし、熊が直接学校へ来たわけでは」


「隣の火事で煙が入っても、家が燃えていなければ被害ではないんですか」


 奥村の言葉が止まった。


「こちらも危険になった側です」


 健二は、はっきり言った。


「協力を頼む前に、説明と謝罪をする側です」


 男性教師が机の下で拳を握る。


「悲しんでいる人間へ、謝れと言うんですか」


「悲しむことは止めません」


 健二は男性教師を見る。


「ただ、悲しんでいることを、責任の話を止める理由にはしないでください」


「そんなつもりでは」


「つもりは確認できません」


 健二は机の端へ紙を置いた。


 誘引物。


 危険情報。


 判断者。


 連絡手段。


 帰還予定。


 中止条件。


 行方不明時の手順。


「確認できるのは、誰が何を置いたか。誰が危険情報を持っていたか。誰が続行を決めたか。誰が中止を命じられたかです」


 奥村が紙を取る。


「事故報告書ですか」


「事故報告と再発防止計画です」


「警察や行政には、すでに」


「旧南第三への説明は受けていません」


 健二は同じ答えを繰り返した。


「こちらから人と場所を出してほしいなら、こちらへ提出してください」


 志望者の一人が聞く。


「それを提出すれば、研修再開に協力してもらえるんですか」


「いいえ」


「では、何のために」


「自分たちが何をしたかを、自分たちで確認するためです」


 健二は紙から手を離した。


「提出したから再開できる、という交換条件ではありません」


 奥村が地図を見る。


「まず何をすれば」


「自分たちが残した物を回収してください」


 第四避難台。


「非常食」


 キャンプ区画。


「生ごみと包装」


 林縁。


「干し魚を置いた場所と、使用した器材の確認」


「それらすべてを、私たちだけが残したわけではありません」


「分かっています」


 健二は色を分けた記録を示した。


「教職団が置いた物。以前からあった物。誰が置いたか分からない物。混ぜません」


「私たちが行う範囲は」


「確認できた自分たちの物を回収する」


 健二は答えた。


「今後も場所を使いたいなら、周辺の誘引物を減らす作業にも参加する」


「他人が残したごみまで?」


「使う場所だからです」


「清掃をしなければ、自然を教えられないと?」


「ごみのある場所で、自然への思いを語るんですか」


 返事はなかった。


 健二は、再発防止計画の用紙を奥村の前へ置いた。


「再開条件の細部は、今日は決めません」


 奥村が顔を上げる。


「最低限だけ伝えます」


 健二は一行ずつ指した。


「単独行動は禁止」


「帰還時刻を事前に登録」


「餌を使った観察は禁止」


「食品とごみは、持ち込んだ数量と持ち帰った数量を照合」


 最後の欄で指を止める。


「指定範囲で新しい熊の痕跡が一件でも出た場合、または新旧を判定できない痕跡が出た場合、その日の活動は中止」


「古いと確認できた場合は」


「記録して、範囲を変更するか、別の日に判断します」


「現場の教師が安全だと判断した場合は」


「中止を取り消せません」


「厳しすぎませんか」


「人が二人亡くなっています」


 健二はそれだけ言った。


「判断を緩めたいなら、こちらの人員を当てにしないでください」


「捜索や救助を自分たちだけで行えと?」


「それが現実的ではないから、条件を厳しくしています」


 奥村は黙った。


「厳しい条件は嫌だ。でも事故が起きたら助けてほしい。それは安全計画ではありません」


 健二は用紙を奥村の前へ押した。


「こちらへ危険だけを渡す計画です」


 長峰と同行していた女性教師が俯く。


「長峰先生は、子どもたちに本物の自然を見せたいと」


「長峰先生の名前で、この条件を否定しないでください」


 健二は間を置かなかった。


「本人は、もう次の事故に責任を取れません」


 女性教師の目に涙が浮かぶ。


「冷たいですね」


「はい」


 健二は否定しなかった。


「兄が熊の前へ入ったあとですから」


 部屋の空気が変わった。


「長峰先生が亡くなったことを、軽く見ていません」


 健二は続けた。


「だから、同じ理由で次の人間を入れないでください」


「志を継ぐことまで否定するんですか」


「志で手順は作れません」


 健二は奥村を見る。


「志で生ごみは消えません。志で熊は止まりません。志で怪我人は運べません」


 旧南第三の位置へ指を置く。


「志で、ここにいる八人へ兄を返せるわけでもない」


 誰も反論しなかった。


「亡くなった工藤先生や長峰先生を、再開の承認者にもしないでください」


「承認者?」


「二人なら続けろと言ったはずだ、という言葉です」


 健二は志望者たちを見る。


「亡くなった人の名前を使えば、反対する人が臆病に見える。辞退する人が、死者を裏切ったように見える」


 志望者の一人が俯いた。


「それは選択ではありません」


 健二は申込書を奥へ押し戻した。


「今日、署名する必要はありません」


「では、今日は何を」


 奥村が聞く。


「責任のあるところまで戻ります」


 健二は作業名簿を置いた。


「誘引物の回収。ごみの密閉。作業後の数量記録」


「研修ではなく?」


「後始末です」


 健二の声には、慰めも侮辱もなかった。


「自分たちがしでかしたことを確認して、同じことを起こさない形に直してください」


 奥村は長く地図を見た。


「そのあとで、協力をお願いしても」


「お願いするのは自由です」


「受けてもらえますか」


「終わった作業を見て判断します」


 健二は鉛筆を作業名簿の上へ置いた。


「参加する人は、自分の名前を書いてください」


 長峰と同行していた女性教師が、最初に鉛筆を取った。


 長峰の名前は書かなかった。


 自然への思いも書かなかった。


 自分の名前だけを書いた。


     *


 教職団へ任せた作業は、林の外側にある道路沿いと駐車区画だけだった。


 第四避難台の内側へは入れない。


 作業時間は三十分。


 車両は退避する方角へ向けたまま置く。


 見張りと無線担当を一人ずつ置く。


 新しい痕跡か、新旧を判定できない痕跡があれば、作業途中でも全員を戻す。


 林内に残された物は、別の日に実働要員が処理する。


 健二は作業を始める前に、人数と退避経路だけを確認した。


 残ることを勇気とは呼ばない。


 参加しないことを裏切りとも呼ばない。


 後始末へ入る人間と、入らない人間を分けた。


 旧南第三は、彼らの志を守るための後方ではなかった。


 火を出した側から説明を受け、再び火を使わせるかを決める側だった。


     *


 相沢真帆から預かった伝言は、一行だった。


 えりが読み上げる。


「“圭介は出発前に、お母さんがまた薬を半分にしているかもしれないと言っていました”」


 鷲尾は薬の箱を見る。


 藤崎が届ける予定だった薬。


 冬用の下着。


 厚手の靴下。


 毛糸の帽子。


 回収された入域札の写し。


 金属部分が曲がった腕時計。


 本人確認が済んだ私物の一覧。


 すべて別々に封がされていた。


「薬は、元の袋が破れていたから入れ替えてる」


 えりが言う。


「処方内容と数量は、医療側が再確認した」


「時計は」


「お母さんが受け取るか、その場で確認する」


「衣類は」


「お母さんへ届ける予定だった物」


 鷲尾は冬物衣類の箱を持ち上げた。


 薬や書類より、そちらの方が重かった。


 車の助手席へ、えりが乗る。


 鷲尾は運転席へ座った。


「アネさんは来ねえんだな」


「志乃さんは市場に残る」


「それでいい」


「どうして?」


「何を言われるか分からねえ」


「責任者なら、言われるのも仕事でしょ」


「俺が聞けばいい」


「そういうところを使われてるんだよ」


 鷲尾は前を見る。


「アネさんに使われるなら本望だ」


「知ってる」


 えりは書類の入った鞄を膝へ置いた。


「正式な説明は私がする。鷲尾さんは、聞かれたことへ答えて」


「へい」


「私に返事しなくていい」


「癖だ」


 鷲尾がエンジンをかけた。


     *


 旧十二号から外れた共同畑では、箱罠の鉄格子が揺れていた。


 中に入った猪が身体をぶつけるたび、固定杭が土から浮く。


 農家は、離れた軽トラックの後ろまで下げられている。


 直樹が罠の周囲を一周した。


 大庭は、土手と畑の間に残った足跡を見る。


「ほかに二頭」


「ああ」


「追うか?」


「追わない」


「また畑へ来るぞ」


「来たら痕跡が残る」


「山まで追って全部撃つ必要はないって?」


「ああ」


 猪が鉄格子へ身体をぶつけた。


 罠が数センチ動く。


「こいつは」


「人の畑へ入った。罠にかかった。放置すれば、誰かが近づく」


「だから止める」


「ああ」


 大庭は罠に設けられた射入口と、鉄格子の位置を確認した。


 銃弾が格子へ触れない角度を取る。


 罠の後ろには土手。


 左右に人はいない。


「熊の次は猪かよ」


「検査を通れば食料になる」


「熊は食えなかったのにな」


「あれは先に証拠になった」


「食えるかどうかも、人間の都合か」


「人間が責任を持てるかどうかだ」


「同じに聞こえる」


「同じなら、記録はいらない」


 大庭は銃を構えた。


 直樹が農家へ手を上げる。


 それ以上近づくなという合図だった。


 一発。


 鉄格子の揺れが止まる。


 二人はすぐには近づかなかった。


 呼吸と動きを確認し、一定時間を置く。


 長い棒で反応を見る。


 安全を確かめてから、直樹が搬送用のロープを取った。


 右手の小指が途中で開かなくなる。


 大庭がロープを奪った。


「右は使うな」


「左で持つ」


「最初からそうしろ」


「分かってる」


「分かってるやつは、今右で持たない」


 大庭は猪の後脚へロープを回した。


「めぐみさんに報告しとくぞ」


「自分で言う」


「何て?」


「猪を運んだ」


「手の話だよ」


 直樹は答えなかった。


「撃たれるより、心配される方が嫌そうな顔すんな」


「運ぶぞ」


「はいはい」


 二人で猪を搬送台へ載せた。


 共同畑を出る途中、傾いた石垣の向こうに柿の木が並んでいる。


 実が枝に残っていた。


 地面には割れた柿が落ち、動物の足跡が集まっている。


「こっちも寄せてるな」


 大庭が言った。


 直樹は古い標識を見る。


 西山第二共同果樹組合。


 管理者名と連絡番号。


 木の下には栗も落ちている。


「持って帰るか」


「許可を取る」


「どうせ腐るぞ」


「腐らせないために確認する」


「誰もいなかったら?」


「いないことと、いらないことは違う」


 大庭は柿へ伸ばしかけた手を下ろした。


「腹が減ってる時まで正論かよ」


 直樹は市場へ無線を入れた。


『兄ちゃん、猪は?』


 健二の声が返る。


「一頭確保。市場へ運ぶ」


『ほかの個体は』


「追ってない。畑の外へ出た痕跡だけ記録する」


『分かった』


「果樹区画に柿と栗が残ってる。落果へ足跡が集まってる」


『所有者を調べる。勝手には取らないで』


「分かってる」


『大庭さんにも言って』


 大庭が無線へ顔を寄せた。


「信用ないな、健二さん」


『今、柿を持ってませんか』


「持ってませんよ」


『手は伸ばしました?』


 大庭が黙る。


「持ってない」


 直樹が答えた。


『兄ちゃんが止めたんだね』


「位置を送る」


『はい。こっちで所有者を確認する』


 通信が切れる。


 大庭は直樹を見る。


「弟に行動読まれてんぞ」


「お前が分かりやすい」


 直樹は位置情報を送った。


 所有者の確認。


 回収可能な範囲。


 食べられない落果の処理。


 動物が開けられない容器。


 今できることだけを伝えた。


     *


 鷲尾たちの車は、閉鎖区域の外縁を通った。


 道路脇の駐車区画に、健二と教職団の教師たちがいる。


 先ほどまで自然教育の再開について話していた者たちが、軍手を着け、生ごみを金属容器へ移していた。


 長峰に同行していた女性教師は、非常食の袋へ数量と日付を書いている。


 奥村は、割れた保存箱を運んでいた。


 見張り役は林へ背を向けず、無線機を握っている。


 車両の前は、市場へ戻る方向へ向けられていた。


 工藤や長峰の名前は、どこにも掲げられていない。


 鷲尾が車を止めた。


「何してんだ」


 健二が顔を上げる。


「熊を呼ぶ物を減らしてます」


「そんな袋を拾って変わるのかよ」


「一袋で熊害が止まるとは言ってません」


 健二は金属容器の蓋を閉めた。


「残せば餌になります」


 奥村が保存箱の破片を持ち上げる。


「自然教育より、ずいぶん地味ですね」


「今は教育をしていません」


 健二が答えた。


「後始末です」


 えりが車窓から聞く。


「果樹区画は?」


「所有者の代理人と連絡がつきました。食べられる柿と栗は回収。傷んだ落果は密閉して市場へ運びます」


「学校近くの果樹は」


「今年分を取り終えたあと、剪定か伐採を所有者と相談します」


「猪は?」


「兄ちゃんと大庭さんが一頭確保。市場で検査します」


 車にいる二人へ向けた言葉だった。


「山の個体は?」


「追わせてません」


 健二は地図を畳む。


「人の場所へ入ったものだけ対応します」


 鷲尾が鼻を鳴らす。


「全部捕まえた方が早いだろ」


「山から全部いなくなったあと、何が増えるか分かりません」


「何が増えるんだよ」


「分からないから、全部はやりません」


 健二は即座に答えた。


「分からないことを、勢いで壊す必要はないです」


 えりが腕時計を見る。


「行くよ」


 車が再び動く。


 後ろでは、教師たちが保存箱の破片を拾い続けていた。


 森を愛する話はしていなかった。


 死んだ教師の志も語っていなかった。


 食べ物を残さない。


 人の場所へ来た個体だけを止める。


 食べられる物は、持ち主を確認して持ち帰る。


 今できることだけをしていた。


     *


 藤崎の母親は、集落の一番奥にある平屋で暮らしていた。


 屋根の端には、古い雪止めが残っている。


 玄関脇には、空になった灯油缶が二つ。


 小さな畑では、白菜の外葉が風に伏せていた。


 鷲尾が冬物衣類の箱を持つ。


 えりは薬と書類を持った。


 玄関の前に立っても、鷲尾はすぐに戸を叩かなかった。


「向こうへ着いてから考えるんじゃなかったの」


 えりが言う。


「考えてる」


「遅い」


「うるせえ」


「帰る?」


「帰らねえよ」


 鷲尾は戸を叩いた。


 中から足音が近づく。


 細く戸が開いた。


「どちらさまですか」


 鷲尾の口が動く。


 アネさんに言われて。


 そこまで出かかった言葉を飲み込んだ。


「中部市場から来ました」


「圭介の荷物ですか」


 母親は、鷲尾が抱えた箱を見る。


「薬もあるんでしょう」


 えりが一歩前へ出た。


「藤崎さん。末安えりです。中部市場で記録と連絡を担当しています」


 身分証を示す。


「息子さんのことで、お伝えすることがあります」


 母親はしばらくえりを見ていた。


 それから戸を大きく開ける。


「中へどうぞ」


     *


 薬の箱を見た時だけ、母親の指が動いた。


「これ、圭介が持ってきてくれるはずだったものですね」


「はい」


 えりが答える。


「処方内容と数量は、医療担当者が確認しています」


「遅かったから、また道が止まったのかと思ってました」


 母親は薬を開けなかった。


「圭介は、どこにいますか」


 えりは書類を机へ置いた。


「旧十二号で熊害に遭いました」


 母親の顔は変わらなかった。


「相沢真帆さんは生存しています」


「圭介は?」


「本日、藤崎圭介さんであることを正式に確認しました」


 母親は薬の箱を見ていた。


「亡くなったんですね」


「はい」


「どこにいますか」


 鷲尾の喉が動く。


「市場で預かっています」


 母親が鷲尾を見る。


「全部ですか」


 鷲尾は答えられなかった。


 えりは代わりに言わない。


「全部ではありません」


 鷲尾が答えた。


 母親は目を閉じなかった。


「あなたが見つけたんですか」


「はい」


「圭介を見た?」


 鷲尾の両手が、膝の上で閉じる。


「熊が、藤崎さんの肩を咥えて引いていくのを見ました」


 母親は動かなかった。


「生きていましたか」


「その時は、動いていました」


「なら、どうして撃たなかったんですか」


「熊の向こうに、相沢さんがいました」


 鷲尾は母親から目を逸らさなかった。


「撃てば当たる位置でした」


「近づけなかったんですか」


「近づこうとしました」


「では、なぜ圭介を置いてきたんですか」


 志乃の名前が浮かんだ。


 下がれと言われた。


 生きている相沢を先に下ろせと言われた。


 そのどれも口にしなかった。


「俺一人では、二人とも連れて帰れませんでした」


「圭介も生きていたかもしれない」


「はい」


「相沢さんを選んだんですか」


「目の前で生きていて、動かせる人を先に下ろしました」


「圭介は」


「追える人数と装備をそろえてから、もう一度入りました」


「その時には」


「生きている状態では見つけられませんでした」


 母親の指が、薬の箱へ触れた。


「あなたが決めたんですか」


「最初に下がる判断は、現場の責任者へ確認しました」


 鷲尾はそこで止めた。


 志乃の名は出さなかった。


「通行札を出したのは、鷲尾さんです」


 えりが言った。


「旧十二号を開放していた管理責任者は、的場志乃さんです。二人の判断は、現在それぞれ検証しています」


 母親はえりを見たあと、再び鷲尾へ向き直った。


「そのあと、あなたも戻ったんですね」


「道を案内しました」


「息子を運びましたか」


「そりを引きました」


「最初には置いてきた」


「はい」


 鷲尾は否定しなかった。


「今は、あなたにありがとうとは言えません」


「はい」


「今後も言えないかもしれません」


「はい」


「それでも来たんですね」


 鷲尾は膝の上で拳を握った。


「紙だけじゃ駄目だと思いました」


「自分が楽になるために?」


 鷲尾の指が強く閉じる。


 アネさんの名前を守るため。


 そこへ逃げかけた。


 言わなかった。


「それもあると思います」


 母親は長く黙った。


 時計の音だけが部屋に残る。


「真帆さんは」


「治療中です」


 えりが答える。


「話せる状態にはあります」


「自分を責めていますか」


「はい」


「そうでしょうね」


 母親は薬の箱を胸元へ寄せた。


「圭介は、あの子を置いて逃げられない人でした」


 声は震えなかった。


「真帆さんも、圭介を置いて帰ったと思っているんでしょう」


「はい」


「誰も、代わりに死ねばよかったなんて言わないでください」


 えりが頷く。


「伝えます」


「帰ってきたことを謝らなくていいとは、まだ私には言えません」


 母親は言葉を探した。


「でも、圭介の代わりにならなくていいと」


 えりは手帳を開かなかった。


「そのまま伝えます」


 母親は冬物衣類の箱を見る。


「これは置いていってください」


「受け取りますか」


「圭介が持ってくるはずだった物です」


 毛糸の帽子を取り出す。


 端に小さなほつれがあった。


「これ、あの子が選んだんじゃないですね」


「相沢さんが選んだそうです」


「そう」


 母親は帽子を膝へ置いた。


「時計も置いていってください」


 鷲尾が封筒を差し出す。


 母親は、すぐには受け取らなかった。


「息子は、連れて帰ってもらえるんですか」


 えりが答える。


「回収できたものは、正式な手続きのあと、ご家族へ引き渡します」


「全部ではなくても」


「はい」


 母親は鷲尾を見る。


「あなたも来るんですか」


「必要なら」


「必要です」


 鷲尾が息を止める。


「お名前は?」


 鷲尾は背後を見なかった。


 ここには志乃はいない。


 借りられる名前もなかった。


「鷲尾慎吾です」


「そうですか」


 母親は薬の箱を抱いた。


「鷲尾さん。息子を連れて帰ってください」


「へい」


 返事をしてから、鷲尾は口を閉じた。


「はい」


 言い直した。


     *


 箱罠の猪は、中部市場の獣肉処理棟へ運ばれた。


 熊が運ばれた時に掲げられた赤い札は、もう外されている。


 それでも、運び込んだ時点で食料になるわけではなかった。


 外見。


 血液。


 内臓。


 寄生虫と疾病の可能性。


 射創の周囲。


 食用へ回せる部位と、廃棄する部位。


 一つずつ確認された。


 共同果樹区画の所有者とも連絡がついた。


 食べられる柿と栗は回収。


 地面へ落ちて傷んだ実は、動物が開けられない容器へ入れる。


 今年の収穫後、学校に近い果樹をどうするかは、所有者と改めて話すことになった。


 夕方、検査を通った猪肉の一部が旧南第三へ届いた。


 健二は肉入りと肉なしの鍋を並べた。


 前の豚の時と同じだった。


 八人の誰も、理由を聞かれなかった。


「前の豚とは違う」


 配膳前に、健二が言った。


「今日の猪は、人が育てていた動物じゃない。畑へ入って、箱罠にかかった。市場で調べて、食べられると確認された部分だけが来てる」


 蓮が聞く。


「学校の近くにいた猪?」


「違う。代替路の共同畑」


「こっちの畑には来てない?」


「今日の確認では痕跡はない。明日も見る」


 蓮は頷いた。


 颯太が配分票を見る。


「熊は、調べても食べなかった」


「熊は先に、亡くなった人のことを確認する証拠になった」


 健二が答える。


「切り分けて配ったら、何がどこにあったか分からなくなる」


 陸が鍋を見る。


「今日は二切れでもいい?」


「全員へ回ってから」


 ハルが答えた。


「残ったらね」


 悠太は肉なしを選んだ。


 花音も同じ鍋を指した。


 美月は少し考えてから、肉を入れない椀を受け取った。


 颯太は、


「一切れ」


 と自分で量を決めた。


 千紘は、ほかの器を運ぶ前に自分の椀を受け取った。


 それから悠斗へ聞く。


「残りを一緒に運んでくれる?」


「分かった」


 自分で決める。


 人へ頼む。


 理由を聞かない。


 前に覚えた手順だけが残っていた。


 食堂の端では、直樹が左手で報告書を書いている。


 めぐみは隣で、スケッチブックを開いていた。


 直樹の仕事を手伝ってはいない。


 直樹も、めぐみへ仕事を渡していない。


「なお」


「何だ」


「右手」


「あとで見せる」


「今日、何か持った?」


「ロープ」


「右で?」


「途中まで」


 めぐみが鉛筆を置く。


 直樹は報告書から顔を上げた。


「航平が取った」


「じゃあ、あとで見せて」


「ああ」


 めぐみは、それ以上仕事を止めなかった。


 ただ、直樹の隣に座っていた。


     *


 鷲尾たちが中部市場へ戻った時には、空が暗くなり始めていた。


 教職団の作業は終わっていた。


 教職団が持ち込んだ物。


 以前からあった物。


 誰が置いたか分からない物。


 すべて別に数えられている。


 奥村は、洗った金属容器の蓋を閉めていた。


 志望者の一人は、研修申込書をまだ持ったままだった。


「続けるか、決まりません」


 健二へ言う。


「なら、今日は書かなくていいです」


「工藤先生や長峰先生に、申し訳ない気がして」


「二人は、あなたを申し込ませるための名前じゃありません」


 健二は作業記録を確認した。


「自分で決めてください」


 鷲尾は、その会話を聞きながら警備連絡所へ入った。


 志乃は、朝と同じ机にいた。


「戻りました!」


 鷲尾が声を張る。


「報告」


 志乃は顔を上げなかった。


「薬、衣類、私物、すべて受領。藤崎圭介の引き渡しには、俺も同行します」


「遺族の希望?」


「へい」


「私の名前は」


「出してません」


「余計なことは」


「言ってません」


 志乃がえりを見る。


「本当?」


「途中で何度か危なかったけど、命令は守った」


「そう」


 志乃は次の書類を取った。


「慎吾」


「へい!」


「この受領票を倉庫へ」


「へい!」


 鷲尾が書類へ手を伸ばす。


「その前に食べて」


「俺はまだ動けます!」


「慎吾」


「へい」


「座れ」


「へい」


 鷲尾は、壁際の椅子へ腰を下ろした。


 志乃が机の下から、包まれた握り飯を出す。


 鷲尾の前へ置いた。


「二つ食べたら倉庫」


「へい!」


「口に入れてから返事しない」


「へ――」


 鷲尾は口を閉じた。


 握り飯を持つ。


 志乃はもう次の書類を読んでいる。


 一つ目を半分まで食べたところで、鷲尾は机の上の受領票を見た。


 藤崎圭介。


 その下の同行者欄には、


 鷲尾慎吾。


 と書かれていた。


 母親の家で名乗ったのと同じ名前だった。


「慎吾」


 志乃が書類から目を離さずに呼ぶ。


 鷲尾の顔が上がる。


「食べ終わってから行きなさい」


 口の中の飯を飲み込む。


「へい!」


 鷲尾は二つ目の握り飯を取った。


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