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第百六十話 帰ってきただけ

## 第百六十話 帰ってきただけ


 相沢真帆が最初に求めたのは、婚約者の安否ではなかった。


「女性の人に、いてほしいです」


 中部市場の医療室。


 朝から降り始めた雨が、細い音で窓を叩いていた。


 相沢は簡易寝台に横たわっている。


 左脚は膝の下から固定され、白い包帯の一部に血が滲んでいた。両手の爪は何本か割れ、指先には洗っても落ちきらない黒い汚れが残っている。


 医師の処置は終わっていた。


 血圧は安定している。


 意識も清明だった。


 ただ、話を始めようとすると、呼吸が速くなった。


 えりは記録用紙を閉じ、医療室を出た。


 処置を終えた医療者が廊下の角を曲がる。


 壁際で待っていためぐみとの間には、ほかに誰もいなくなった。


 えりは声を落とした。


「めぐ」


「うん」


「相沢さんが、私が記録を取っている間、別の女性に隣にいてほしいって」


「私でいいの?」


「名前を指定されたわけじゃない。ただ、相沢さんの近くに座っていられる人を探してる」


 めぐみは扉を見る。


「何を聞けばいい?」


「何も聞き出さなくていい」


「でも、記録が」


「記録は私が取る」


「水を渡したり」


「必要になればお願いする」


「ほかには?」


 えりは、めぐみの顔を見た。


「隣にいて」


「それだけでいいの?」


「何もしなくていいから」


 めぐみは返事をしなかった。


「それが相沢さんの希望だから」


 えりは扉へ手をかけた。


 中には相沢がいる。


 ここから先は、二人だけの会話ではない。


「入ろう、宮崎さん」


「はい」


 呼び方が変わった。


 めぐみも、それに合わせて背筋を伸ばした。


     *


 相沢は、めぐみが椅子へ座るまで目を閉じていた。


 寝台の横。


 手を伸ばしても、すぐには届かない程度の距離。


 めぐみは背筋を伸ばした。


 何かをする準備だけはしていた。


 相沢が目を開く。


「ごめんなさい」


「何がですか」


「知らない人を呼んで」


「大丈夫です」


「何をしている人ですか」


 めぐみは一瞬、答えに詰まった。


 学校の職員。


 子どもたちの手伝い。


 絵を描く。


 書類を見る。


 食事を運ぶ。


 どれも今の自分を正確には表していなかった。


「旧南第三にいます」


「先生ですか」


「違います」


「医療の人?」


「違います」


「じゃあ、どうしてここに」


 めぐみは答えを探した。


 えりは口を挟まなかった。


「隣にいてほしいと言われたからです」


 相沢は、めぐみの顔をしばらく見ていた。


「それだけ?」


「はい」


 相沢は再び目を閉じた。


 その答えでよかったらしい。


 えりが記録用紙を開く。


「途中で止めても構いません。覚えていないことは、覚えていないと言ってください」


「圭介は」


 相沢の呼吸が浅くなる。


「見つかりましたか」


 えりは声の高さを変えなかった。


「男性のものと思われる人体の一部を回収しています。正式な身元確認は、まだ終わっていません」


「顔は」


「確認できる状態ではありませんでした」


 相沢の指がシーツを掴んだ。


「そうですか」


 その一言のあと、部屋には雨の音だけが残った。


 えりは急がせなかった。


 めぐみも話さなかった。


 数分後、相沢が自分から口を開いた。


「熊がテントを破ったところまでは、話しましたか」


「聞いています」


「そのあとは」


「沢へ落ちて、十七番標識の近くで発見されたと聞いています」


「違います」


 相沢が目を開く。


「まっすぐ歩いてきたんじゃないです」


 えりがペンを持つ。


「話せる範囲でお願いします」


「逃げました」


 相沢の目は、医療室の天井ではない場所を見ていた。


「ずっと、追ってきたから」


     *


 沢へ落ちた時、真帆は左脚の感覚を失っていた。


 冷たい水が腰まで来た。


 流れは強くない。


 それでも身体を起こせなかった。


 岩に両手をつき、右膝だけで水の中を這った。


 後ろから、圭介の声が聞こえていた。


 最初は、自分の名前だった。


 真帆。


 真帆。


 助けてくれとは言わなかった。


 ただ、名前を呼んでいた。


 やがて声が叫びへ変わった。


 そのあと、音になった。


 最後には、骨が鳴った。


 真帆は両耳を塞がなかった。


 塞ぐための手があるなら、前へ進むために使いたかった。


 沢を下る。


 左脚を引くたび、石の角が傷へ入った。


 血が水へ流れた。


 どこまで来たのか分からない。


 空は暗い。


 照明は熊へ投げた。


 靴は片方しかない。


 上着の前は破れ、手には何も残っていなかった。


 後ろで枝が折れた。


 真帆は振り返らなかった。


 見る必要はないと思った。


 熊以外に、自分を追うものはいなかった。


 沢の水から上がる。


 斜面へ手をかける。


 爪が割れた。


 土が崩れる。


 それでも登った。


 地面から少しでも離れたかった。


 斜面の途中に、古い杉があった。


 幹の低い位置から太い枝が伸びている。


 安全だとは思わなかった。


 熊が木に登ることくらいは知っていた。


 それでも地面にいるより、数秒は長く生きられる。


 真帆は枝へ両腕を掛けた。


 左脚は使えない。


 右足で幹を蹴り、腕で身体を引き上げる。


 一段。


 次の枝。


 手のひらの皮が裂けた。


 枝が胸へ当たった。


 落ちかける。


 歯で自分の袖を噛み、声を止めた。


 熊に聞かれたくなかった。


 高い場所まで登ったわけではない。


 自分では、ずいぶん高く登ったつもりだった。


 地面から五メートルほど。


 細い枝へ腹を預け、破れた上着の袖を幹へ巻いた。


 眠れば落ちる。


 力が抜けても落ちる。


 だから、自分の身体を木へ縛った。


 下で音がした。


 黒い影が、幹の周りを歩いた。


 鼻を鳴らす音。


 爪が樹皮を引っ掻く音。


 杉の幹が震えた。


 真帆は息を止めた。


 熊が前脚を幹へ掛ける。


 身体を起こす。


 枝が揺れた。


 登ってくる。


 そう思った。


 熊は途中で下りた。


 離れた。


 また戻ってきた。


 どれだけ時間が過ぎたのか分からない。


 影が消えても、真帆は熊がいると思った。


 葉が落ちれば熊。


 水が動けば熊。


 自分の歯が鳴っても、熊が枝を噛んだ音に聞こえた。


 木の上から、圭介のいる方角は見えなかった。


 戻らなければならないと思った。


 同時に、戻れば自分も食われると分かっていた。


 助けられなかった。


 戻らなかった。


 置いてきた。


 その三つだけが、夜の間に何度も入れ替わった。


 それでも真帆は、木から手を離さなかった。


 生きようと思ったわけではない。


 朝になったら下りる。


 下りられたら、水を探す。


 水まで行けたら、その次を考える。


 それだけを決めた。


     *


「熊は、木の下にいたんですか」


 えりが聞く。


「いたと思います」


「姿を確認しましたか」


「一度だけです。あとは音だけ」


「同じ熊だったかは」


「分かりません」


「分からないままで残します」


 相沢は小さく頷いた。


 両手の爪の間に残っていた黒いものは、杉の樹皮だった。


 別室では、国境第三に前進配備されている小型無人機が、雨の切れ間を待って離陸していた。


 富士川混成大隊・無人システム中隊のドローンオペレーターが、暗号無線中継を通して機体の航路と映像を監視している。


 機体は事前に設定された経路を使い、地形に沿って旧十二号の沢を下っていた。


 回線の状態と地形を見ながら、富士川側のオペレーターが高度と捜索範囲を修正する。


 えりの机に置かれた端末へ、声が入った。


『観測班より市場記録室。十七番標識から北東へ九百。沢沿いに折損した杉枝を確認』


 えりが送信する。


「血痕は確認できますか」


『機体カメラでは判別困難。幹の約五メートルに布片らしいものがあります』


「座標と映像を保存してください。地上回収は後で判断します」


『了解。対象地点を登録します』


 相沢には、そのやり取りを聞かせなかった。


 今は証明するために話しているのではない。


 戻ってきた道を、自分の口で辿っていた。


「朝になってからは?」


 えりが聞く。


「木から下りました」


「熊は」


「見えませんでした」


「音は?」


「分かりません。何を聞いても、熊だと思ってました」


     *


 朝になっても、山は明るくならなかった。


 霧が木の間に残っていた。


 真帆は袖の結び目を外した。


 指が動かない。


 歯で布を引き、身体を幹から離す。


 上る時より、下りる方が怖かった。


 地面に熊がいるかもしれない。


 それでも木の上に残れば、寒さで動けなくなる。


 一つ下の枝へ右足を置く。


 左脚が幹へ当たった。


 声が漏れた。


 熊が聞いたかもしれない。


 真帆は、そのまま落ちた。


 背中から土へ当たる。


 息が止まる。


 立てない。


 それでも周囲の藪は動かなかった。


 破れた服の裾を裂き、傷の上へ巻いた。


 正しく止血できているかは分からない。


 何もしないよりはましだった。


 沢沿いを下る。


 水は低い方へ流れる。


 低い場所には、人間の道があるかもしれない。


 何度も転んだ。


 左脚を引く。


 右足の靴底が剝がれた。


 素足に近い状態で石を踏んだ。


 空腹は感じなかった。


 喉だけが渇いた。


 沢の水を両手ですくう。


 飲んでいいかは分からない。


 それでも飲んだ。


 沢が少しずつ広くなる。


 木々の向こうに、錆びた柵が見えた。


 閉鎖された山間の遊覧池だった。


 かつては家族連れが来ていたらしい。


 朽ちた案内板。


 草に埋もれた桟橋。


 水面へ傾いた貸しボート乗り場。


 桟橋の脇に、白い船が一艘だけ残っていた。


 池で使う、FRP製の手漕ぎボートだった。


 船体の内側には雨水と枯れ葉がたまっている。


 片方のオールはなく、残った一本も先端が割れていた。


 係留ロープは水を吸い、固くなっている。


 助けには見えなかった。


 放置された遊覧用のローボートだった。


 池のこちら側は、崩れた斜面と深い藪に囲まれている。


 対岸には管理棟があった。


 その裏から、古い保守道路が南へ延びている。


 歩いて池を回れば、どれだけかかるか分からない。


 左脚は、もうほとんど動かなかった。


 真帆は桟橋を這った。


 背後の藪が揺れた。


 黒いものが、木の間を通った。


 熊だった。


 そう見えた。


 真帆は係留ロープへ手を伸ばす。


 結び目が解けない。


 指先に力が入らない。


 爪が剝がれかけた。


 歯でロープを引いた。


 船が桟橋へぶつかる。


 鈍い音が池へ広がった。


 藪がまた揺れた。


 真帆は結び目を諦めた。


 桟橋の朽ちた杭からロープを外し、身体ごと船へ落ちた。


 ボートが大きく傾く。


 雨水が服へ流れ込む。


 左脚が船縁へ当たり、声が出た。


 手元にあった一本のオールを、水へ入れる。


 左右を交互には漕げない。


 片側だけを掻けば、船は回る。


 右側を一度。


 船が左へ向く。


 オールを持ち替え、左側を一度。


 船が少し前へ進む。


 速くはない。


 真帆は何度も持ち替えた。


 一度。


 反対側へ一度。


 船体にたまった水を、割れた容器ですくい出す。


 また漕ぐ。


 岸の藪が動いた。


 黒い影が水際へ出た。


 熊だったのかもしれない。


 そうでなかったのかもしれない。


 真帆は見直さなかった。


 オールを動かした。


 腕が上がらなくなる。


 池の中央まで来た時、風で船が戻され始めた。


 右を一度。


 左を一度。


 水を出す。


 もう一度。


 オールの割れた先が水面を滑り、空を切る。


 真帆は船底へ膝をついた。


 両手で短く持ち、身体ごと前へ倒して水を掻いた。


 対岸の桟橋へは届かなかった。


 管理棟の脇にある土の岸へ、船首が乗り上げた。


 真帆は船縁へしがみついたまま、泥の中へ落ちた。


 後ろを見る。


 池の向こうに、白い桟橋が見える。


 黒い影は、もう見えなかった。


 それでも真帆は立ち止まらなかった。


 管理棟の裏へ這う。


 錆びた軽トラック。


 倒れた自動販売機。


 草に埋もれた保守道路。


 道は人間が作ったものだった。


 舗装が割れていても、下る方向は分かった。


 そこから先は、ほとんど覚えていない。


 道路の端を這った。


 十七番標識を見つけた。


 排水溝へ身体を入れた。


 風が当たらなかった。


 そこで初めて、目を閉じた。


     *


『手漕ぎボートを確認しました』


 富士川のドローンオペレーターの声が端末へ入った。


『閉鎖された遊覧池。白色のFRP製手漕ぎボート。船内と南側岸辺に赤黒い付着物があります』


 画面には、水際へ斜めに乗り上げた小さなボートが映っている。


 片方のオールだけが船内に残っていた。


「位置と船体の状態を保存してください」


『了解』


「対岸の管理棟から十七番標識まで、保守道路を追えますか」


『可能です。機体を南へ回します』


「杉の地点から遊覧池までの間も、確認を続けてください」


『了解。推定経路として記録します』


 機体は熊と戦うために飛んでいるのではない。


 真帆がどこを通り、何を使い、どちらへ戻ったのか。


 その道を、あとから消さないために飛んでいた。


 医療室では、相沢の証言が終わろうとしていた。


「私が覚えているのは、それだけです」


 えりは記録用紙を閉じた。


「ありがとうございます」


「役に立ちましたか」


 相沢が聞いた。


 めぐみの指が、膝の上で動いた。


 その言葉を知っていた。


「藤崎さんの身元確認や、現場の記録に必要な情報はありました」


 えりは事実だけを答えた。


「ただ、今はそれより休んでください」


「圭介を置いてきました」


 相沢の目が、めぐみへ向く。


「私は、帰ってきただけです」


 めぐみは何も言えなかった。


「木に登って、逃げて、池を渡って」


 相沢の声が震える。


「圭介は名前を呼んでたのに、私は戻らなかった」


「戻れば、相沢さんも襲われていた可能性が高いです」


 えりが言う。


「でも、置いてきた」


 正しい説明では届かなかった。


 相沢が求めているのは、判断の正誤ではない。


 めぐみは、自分の両手を見る。


 相沢の爪には木の皮が残っている。


 自分の手には、何もなかった。


 記録も取っていない。


 治療もしていない。


 話を引き出してもいない。


 ただ、ここに座っている。


「帰ってきたんです」


 めぐみが言った。


 相沢の目が動く。


「置いてきたのに」


「それでも」


「何も持って帰れなかった」


「何も持ってなくても、帰ってきていいんです」


 言ったあと、めぐみ自身が動けなくなった。


 その言葉は、相沢だけに向いていなかった。


 相沢は泣かなかった。


 目を開いたまま、めぐみを見る。


「それだけでいいんですか」


「それだけでいい日もあります」


「圭介を助けてない」


「助けられなかったことと、帰ってきてはいけないことは別です」


 めぐみの声も震えていた。


「相沢さんが何も覚えていなくても、何も持って帰っていなくても、生きて戻ったことは消えません」


 相沢の唇が動く。


「でも、私が帰ってきたから、圭介のことが分かったんですよね」


「はい」


「じゃあ、役に立ったから」


「違います」


 めぐみは、今度は迷わなかった。


「それが分からなくても、帰ってきてよかったです」


 相沢の目から、初めて涙が落ちた。


「そのうえで」


 めぐみは続ける。


「相沢さんが帰ってきたから、藤崎さんの名前も、最後に相沢さんを呼んだことも、ここへ戻りました」


 相沢は顔を横へ向けた。


 泣く顔を見られたくないらしい。


 めぐみは立たなかった。


 慰めようと手も伸ばさなかった。


 ただ、相沢が自分から顔を戻すまで、隣にいた。


     *


 夕方。


 無人機の映像と現場の血痕、入域記録が、一つの時系列へ並べられた。


 杉の幹に残った布。


 沢沿いの血痕。


 閉鎖された遊覧池。


 白い手漕ぎボート。


 管理棟から延びる保守道路。


 十七番標識の排水溝。


 相沢真帆が戻ってきた道だった。


 えりは記録を保存し、複製を分けた。


 相沢の証言。


 熊害調査。


 藤崎圭介の身元確認。


 混ぜない。


 めぐみは、何も持たずに医療室を出た。


 記録用紙もない。


 相沢から託された物もない。


 用事は終わっていた。


 旧南第三へ戻る車の中でも、何か手伝えることを探さなかった。


 窓の外を見ていた。


 道路の脇には、通行止めを示す赤い布が残っている。


 薄い布は熊を止められない。


 それでも、どちらへ帰ればいいかは示せる。


     *


 旧南第三へ戻ると、直樹は玄関脇の予定表を書き直していた。


 右手ではなく、左手に白墨を持っている。


 熊を撃ったあとの右手は、まだ小指と薬指が完全には開いていなかった。


 帰還予定、十三時。


 その下へ、


 帰還済み。


 と書く。


 めぐみは少し離れた場所で立ち止まった。


「なお」


「何だ」


「少しいい?」


「ああ」


 直樹は白墨を置いた。


 めぐみは近づく。


 何かを渡すためではない。


 報告もない。


 医療室で起きたことを説明する必要もなかった。


「今日、相沢さんの隣にいた」


「聞いた」


「何もしなかった」


「そうか」


「話を聞いたのは、えりだった。道を探したのは、富士川のドローンの人。治療したのは医療の人」


「うん」


「私は座ってただけ」


「相沢さんが、いてほしいと言ったんだろ」


「でも、何もしてない」


 直樹は予定表を見る。


「帰ってきたんだろ」


 めぐみは顔を上げた。


「誰が?」


「めぐみも」


 直樹は当然のように言った。


「市場から、ここへ」


「それだけ?」


「ああ」


 相沢へ言った言葉が戻ってくる。


 何も持っていなくても、帰ってきていい。


 めぐみは喉の奥へ息を入れた。


「なお」


「何だ」


「昨日、どうして待ってたの」


「言っただろ」


「一緒に帰るから?」


「ああ」


「私が仕事をしたからじゃなくて?」


「違う」


「疲れてたから、放っておけなかったんじゃなくて?」


 直樹は予定表から、めぐみへ顔を向けた。


「一緒に帰りたかったから待った」


 めぐみは、すぐには答えられなかった。


「何もできない日でも?」


「ああ」


「次も?」


「待てる時は待つ」


「待てない時は?」


「帰る時刻を残す」


「遅れたら?」


「書き直す」


「帰ってこられなかったら?」


 直樹は答えるまでに、少し時間を置いた。


「帰る場所を残す」


「どんなふうに?」


「時刻。道。名前」


 直樹は予定表を見る。


「めぐみの名前と席を、俺の都合で消さない」


 めぐみは、直樹の右手を見た。


 まだ二本の指が、わずかに内側へ曲がっている。


「触ってもいい?」


「何を」


「手」


 直樹は右手を隠さなかった。


 めぐみは、固まった指を伸ばそうとはしなかった。


 手の甲へ、自分の指を重ねる。


 治すためではない。


 状態を確認するためでもない。


 何かを渡すためでもなかった。


 ただ、触れたかった。


 直樹の指が、わずかに動いた。


 握り返すには弱かった。


 それでも、めぐみの手から逃げなかった。


「今日は何もしてない」


 めぐみが言った。


「相沢さんの隣にいただろ」


「それも、何かをするためじゃなかった」


「なら、何もしてない」


「うん」


「それで?」


「それでも、触ってていい?」


「ああ」


 めぐみは少しだけ直樹へ近づいた。


 肩が触れる。


 直樹は離れなかった。


 めぐみは直樹の手を取ったまま、予定表を見る。


 帰還済み。


「なお」


「何だ」


「今度、何の用事もない時に、隣にいてもいい?」


 直樹は、すぐには答えなかった。


「用事がないかどうかは、俺には分からない」


 めぐみの指が少し緩む。


 直樹は続けた。


「めぐみが隣に来るなら、それで用事になる」


「何の?」


「一緒にいる」


 めぐみは直樹を見た。


 直樹の表情は、ほとんど変わっていない。


 それでも、逃げる言葉ではなかった。


「それ、用事って言うの?」


「知らない」


「じゃあ、何のためでもなくてもいい?」


「ああ」


 めぐみは、もう一度肩を寄せた。


 今度は、偶然触れた距離ではなかった。


 直樹も身体を引かなかった。


 廊下の奥で、足音が止まった。


 ハルだった。


 両手に、湯気の消えたスープの器を持っている。


 直樹とめぐみは、まだ気づいていなかった。


 ハルは二人の肩を見る。


 重なった手を見る。


 予定表の「帰還済み」を見る。


 何も言わなかった。


 踵を返す。


 後ろから走ってきた子どもが、玄関へ向かおうとした。


 ハルは器を片手へ寄せ、空いた手で子どもの肩をつかんだ。


「今日は、こっちから行きましょう」


「なんで?」


「玄関は今、通れません」


「誰かいるの?」


「います」


「誰?」


「今は知らなくていい人たちです」


「見たい」


「駄目です」


「どうして?」


「大人にも、邪魔されたくない時があります」


 ハルは子どもの身体を食堂側へ向けた。


「でも、スープ冷めてるよ」


「温め直せます」


「また?」


「今日は何回でも温めます」


 子どもを先に歩かせ、ハルも台所へ戻った。


 鍋へスープを返す。


 弱い火をつけた。


 温め直しながら、一度だけ玄関の方を見る。


「本当に遅いんですから」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 それでも口元は、少しだけ笑っていた。


     *


 しばらくして、めぐみと直樹は食堂へ入った。


 触れていた手は、もう離れている。


 けれど二人の歩く間隔は、以前より狭かった。


 ハルは何も聞かなかった。


 温め直したスープを、二人の前へ置く。


「遅かったですね」


 めぐみが椅子へ座る。


「ごめん」


「謝らなくていいです。子どもを三人、別の廊下へ回しただけなので」


 めぐみの手が止まった。


「見てたの?」


「見てません」


「本当に?」


「見ないようにしました」


 ハルは直樹の前にもスープを置いた。


「次からは、先に合図してください」


「何の?」


「廊下を空けます」


「そんなことまでしなくていいよ」


「今日、子どもを止めるのが大変だったんです」


「ごめん」


「だから、謝らなくていいです」


 ハルは少しだけ笑った。


「その代わり、私が健二さんのことで困った時は、相談に乗ってください」


「私に?」


「直樹さんのことで困る人なら、たぶん話が通じます」


「なおは、そんなに困らせないよ」


「今のうちに言っておいてください」


「聞こえてる」


 直樹が言った。


 ハルは直樹を見なかった。


「聞かせています」


 めぐみが笑う。


 ハルも、少し遅れて笑った。


「でも、私に相談していいの?」


「駄目ですか」


「駄目じゃない」


「なら、お願いします」


「うん」


 めぐみは迷わず答えた。


「私も、ハルに相談していい?」


 ハルは一瞬だけ目を丸くした。


「健二さんのことなら」


「なおのこと」


「そっちですか」


「駄目?」


 ハルは直樹を見る。


 直樹は何も知らない顔で、スープを飲んでいた。


「たぶん、私の方が分かることもあります」


「私より?」


「一緒に暮らしてきた時間は、こっちの方が長いですから」


「それは、ずるい」


「そのうち追いついてください」


 めぐみの頬が、わずかに赤くなる。


「追いついていいの?」


 ハルは答える前に、スープを一口飲んだ。


「私に聞くことじゃないです」


「誰に聞けばいい?」


 ハルは直樹を見た。


「一番近くにいる人に」


 直樹が顔を上げる。


「何の話だ」


「自覚がない人は、スープを飲んでいてください」


「飲んでる」


「なら結構です」


 めぐみが声を抑えて笑った。


 ハルも笑う。


 二人の間に、正式な名前のない約束が一つ増えた。


 誰かの世話を引き受けるためではない。


 兄弟に困らされた時、話をする。


 嬉しい時にも、たぶん話をする。


 まだ姉でも妹でもなかった。


 それでも、いつか近い呼び方が必要になるかもしれない程度には、二人の席は近づいていた。


 相沢真帆は、婚約者を助けられなかった。


 何も持たず、木へ逃げ、放置された手漕ぎボートで池を渡り、人間の道へ戻った。


 帰ってきただけだった。


 けれど、その「だけ」を消してしまえば、帰る人間はいなくなる。


 その夜、めぐみは何の役にも立たない手で、直樹の傷んだ手に触れた。


 直樹も、その手を離さなかった。


 そしてハルは、二人が手を離すまで、スープを温めていた。


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