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第百五十九話 戻るための布

## 第百五十九話 戻るための布


 前夜のうちに、えりは旧南第三へ翌日の予定を送っていた。


 出発、四時四十分。


 第一報、七時。


 帰還予定、十一時三十分。


 遅延時は第一報で再設定。


 学校からは誰も出ない。


 夜明け前の中部市場には、荷車の音がなかった。


 旧十二号搬送路へ向かう荷物は、すべて倉庫の中で止められている。


 薬。


 燃料。


 乾燥野菜。


 交換用の工具。


 行き先を書いた札だけがついたまま、荷台の上に残されていた。


 午前四時四十分。


 市場の裏門に、四人が集まった。


 直樹。


 ミーシャ。


 大庭。


 鷲尾。


 市場側の回収担当者二名と警備員二名は、十七番標識で待機する。


 人体の位置と周囲の安全を確認するまで、それより先へは入れない。


 熊がいる場所へ人を増やせば、守る対象も増える。


 直樹は、折り畳まれた回収袋と位置標識を確認した。


 ミーシャは前日の地図、気象計、記録器材を持っている。


 大庭は長い銃を布で包み、背負っていた。


 鷲尾は十二番の散弾銃と、荷物搬出用のそりを持っている。


 そりの金属枠には、赤い布が六本結ばれていた。


「何だ、それは」


 大庭が聞いた。


「道の印だ」


 鷲尾は胸を張る。


「昨日、俺が結んだ」


「熊よけ?」


「違う。帰り道が分からなくならねえようにだ」


「その身体で迷うのか」


「身体がでかくても、山の道は見えねえんだよ」


 大庭が赤い布を一本つまむ。


「ちゃんと考えてるんだな」


「オゥ、コラ。俺を何だと思ってやがる」


「昨日会ったばかりだから、まだ決めてない」


「だったら余計なことを言うな」


 鷲尾が大庭へ一歩出る。


 直樹が視線を向けると、それ以上は進まなかった。


「まだ何も言ってないぞ」


 大庭が言う。


「お前のせいで止まったんじゃねえ」


 鷲尾は、そりの金具を確認するふりをした。


 裏門から志乃が出てきた。


 手には通行止めの記録と無線機がある。


「慎吾」


「へい」


 鷲尾は即座に背筋を伸ばした。


「昨日言ったことを覚えてる?」


「ジンの命令を聞く」


「真柴」


「同じでしょうが」


「違う」


「へい。真柴の指示を聞きます」


「真柴の指示を、私の指示だと思って」


「へい」


「勝手に撃たない」


「へい」


「勝手に死なない」


 鷲尾が少しだけ顔をしかめた。


「それは状況によります」


「慎吾」


「死にません」


「私が下がれと言ったら?」


「下がります」


「真柴が下がれと言ったら?」


 鷲尾は直樹を見る。


「……下がります」


「声が小さい」


「下がります!」


「山で怒鳴らない」


「へい」


 市場の女たちが、裏門の内側で笑った。


 鷲尾が振り返る。


「お前ら、今の聞いてたのか!」


「慎吾」


「まだ出発前です」


 志乃は直樹へ視線を移した。


「返して」


「何を」


「慎吾」


 直樹は鷲尾を見る。


 身体のでかい警備頭。


 道を知り、最後の判断を志乃へ預け、命令が下りれば動く。


 それで足りる。


「戻せる状況なら戻す」


「真柴」


「死なせるためには連れていかない」


 志乃は、それ以上を求めなかった。


「お願いします」


 鷲尾が不満そうに眉を寄せる。


「アネさん、俺の方が年上ですよ。子どもみたいに頼まないでください」


「子どもより言うことを聞かないでしょう」


「ぐぬ……」


 また笑いが起きた。


「出ます!」


 鷲尾はそりを引き、先に裏門を出た。


     *


 十七番標識までは車で入れた。


 回収担当者と警備員をそこで降ろす。


 えりは市場の記録室に残り、志乃とともに専用回線を監視していた。


 山側の無線は常時受信。


 報告と緊急時だけ送信する。


 十七番標識から先へ進むのは、四人だけだった。


 空はまだ暗い。


 山の稜線だけが、わずかに青くなっている。


 鷲尾が前日に結んだ赤い布は、夜露を吸って重く垂れていた。


 一本目。


 崩れた石垣の横。


 二本目。


 沢へ下りる分岐。


 三本目と四本目は、道が二つに見える場所へ並べて結んである。


 直樹は足を止めずに確認した。


「印は正しい」


「当たり前だ」


 鷲尾が小声で答える。


 本人は抑えているつもりだったが、ほかの人間の普通の声より大きかった。


 ミーシャが先頭へ出た。


 黒い雨具の裾が、濡れた草を押し分ける。


 数メートル進んでは、土と幹を見る。


 泥に残る足跡。


 折れた枝。


 熊の毛。


 相沢が斜面を下った跡。


 鷲尾たちが上がり、同じ道を戻った跡。


 いくつもの痕跡が重なっていた。


「NAO」


 ミーシャが止まる。


 倒木の皮に、黒い毛が引っかかっていた。


「昨日より新しいです」


「戻ってきたか」


「はい」


 ミーシャは風向きを確認する。


「夜の間に、この道を横切っています」


 鷲尾が散弾銃を握り直した。


「避難台へ戻ったってことか」


「藤崎さんがいると推定される場所へ戻った可能性があります」


 大庭が斜面の上を見る。


「俺はここから上がる」


 直樹が頷く。


「旧道の高い方を取れ。射線が通らなければ撃つな」


「昨日の警備頭みたいに?」


「オゥ、コラ」


 鷲尾が振り向く。


 大庭は笑っていなかった。


「昨日の判断は間違ってない。人体の位置が分からない時に撃たなかったのは正しい」


 鷲尾の口が止まる。


「じゃあ、最初からそう言えよ」


「面白くないだろ」


「山から落としてやろうか」


 鷲尾の手が無線機へ触れた。


 送信はしていない。


 それでも、志乃に聞かれている気がしたらしい。


 手を離した。


 大庭は旧道の斜面へ上がった。


 木々の間に姿が消える。


 少しして無線が入る。


『マッシー。上へ出た。第四の屋根が半分見える』


「熊は」


『まだ見えない。鳥が少ない』


 ミーシャが顔を上げた。


「食べている最中なら、鳥は近づきません」


「ただ、近くにいないだけかもしれない」


『分かってる。決めつけない』


 直樹たちは先へ進んだ。


     *


 第四避難台は、平らに削った斜面の途中にあった。


 低い木製の屋根。


 錆びた雨水槽。


 食料を入れる鉄箱。


 そして、裂かれたテント。


 黄色い布が、頭上の枝に引っかかっている。


 朝の弱い風に揺れていた。


 地面には、折れた支柱が散らばっている。


 鍋。


 消えた照明。


 片方だけの靴。


 黒くなった血。


 テントの横壁は、入口とは関係なく大きく破られていた。


 縫い目から裂けたのではない。


 布そのものに穴が開き、そこから引き広げられている。


 直樹は避難台へ入る前に拳を上げた。


 全員が止まる。


 ミーシャだけが低く進み、外周を確認した。


「熊は見えません」


「匂いは」


「強いです」


 鷲尾が避難台を見る。


「昨日より荒れてる」


 食料用の鉄箱が開いていた。


 南京錠ごと金具が引き剝がされ、中の袋が地面へ広がっている。


 乾燥米。


 薬。


 缶詰。


 布。


 熊は食べられる物と食べられない物を区別しながら、すべてを外へ出していた。


「昨日は閉じてたのか」


 直樹が聞く。


「ああ。俺らが下がった時は、まだ閉まってた」


「俺たちが下がったあとに戻った」


 ミーシャが地面へ膝をつく。


 血痕の横に、新しい熊の足跡がある。


 前足が深く沈んでいた。


 大型の個体だった。


 足跡はテントから斜面の奥へ向かっている。


 途中に、人間の衣服と思われる布片が落ちていた。


 直樹は触れず、位置標識だけを置く。


「市場、こちら真柴」


『市場です』


 えりの声が返る。


「衣服と思われる布片。血痕と新しい熊の足跡を確認」


『現場では、被害者を藤崎さんと決めないでください。入域札と衣服だけでは身元確定にしません』


「了解」


 鷲尾が眉を寄せる。


「藤崎に決まってるだろ」


「強く推定できても、確認はする」


「面倒くせえな」


『面倒でも、別人の名前で死亡記録を作るよりいいです』


 えりの声は、一般回線でも分かる言葉だった。


 鷲尾は黙った。


 殯儀館から名簿を抱えて出た時のことを思い出したらしい。


「……分かった」


 ミーシャが血痕の先を指す。


「引きずった跡が二つあります」


「二つ?」


「古いものと、新しいものです」


 熊は最初に人間をテントから運んだ。


 昨日、鷲尾たちが近づいた。


 そのあと熊は戻り、人体を別の場所へ移した。


「人が来ると分かったから、場所を変えたのか」


「その可能性はあります」


 ミーシャは断定しなかった。


「少なくとも、同じ場所には残していません」


 大庭の声が入る。


『真柴。避難台の西。カラスが一羽下りた。すぐ上がった』


「距離」


『百二十。谷の手前』


「人体がある可能性は」


『ある。熊は見えない』


 直樹は地形を見る。


 避難台の西。


 浅い谷。


 風は谷からこちらへ上がっている。


 こちらの匂いは熊へ届く。


 熊の匂いも、ミーシャへ届く。


「第一報を入れる」


 時刻は六時五十八分だった。


「こちら真柴。第四避難台へ到着。熊は未確認。人体を移動させた痕跡あり。帰還予定を十三時へ変更する」


『市場、了解』


 志乃の声が続く。


『旧南第三にも伝える』


「学校からは誰も出さない」


『分かってる』


「西へ進む」


『慎吾をお願いします』


「聞こえてますよ、アネさん」


 鷲尾が送信した。


『なら言うことを聞いて』


「へい」


 直樹が無線を戻す。


「進む。十七番の回収班は、そのまま待機」


 四人は血痕の先へ入った。


     *


 血痕は、谷へまっすぐ下りていなかった。


 斜面を横切り、倒木を回り、また上へ戻っている。


 熊は重い物を運ぶために、最短の道を選んでいない。


 斜面の土が崩れやすく、太い枝が胸の高さに伸びている。


 人間には歩きにくい。


 斜面上の大庭からも見えにくい。


 散弾銃も小銃も、銃口を向ける空間が少なかった。


「嫌な道だな」


 鷲尾が言った。


「熊にとってはいい道です」


 ミーシャが答える。


 前方に、五本目の赤い布が見えた。


 鷲尾が前日、撤退する途中で結んだものだった。


 その布の下に、黒い染みがある。


 ミーシャがしゃがむ。


「昨日は?」


「そこには何もなかった」


「新しい血です」


 熊は夜の間に、獲物をここまで運んでいる。


 六本目の赤い布が、さらに先の分岐にある。


 その向こうは谷。


 右は倒木。


 左は岩壁。


 進める幅は狭い。


『マッシー』


 大庭の声が低くなる。


「何だ」


『六本目の先。地面に黒い物がある』


「熊か」


『動いてない。布か毛か分からない』


 ミーシャが風を測る。


 直樹は彼女の顔を見た。


「いるか」


「近いです」


 鷲尾が散弾銃を上げかける。


「下げろ」


「まだ撃ってねえ」


「銃口を上げる必要もない」


「準備はするだろ」


「今は前を見る」


 鷲尾は不満そうに銃口を下げた。


 ミーシャが一歩進む。


 止まる。


 さらに一歩。


 六本目の赤い布が、風とは違う動きをした。


 枝ごと揺れた。


「NAO」


 ミーシャの声が変わる。


 大庭の無線が重なった。


『真柴。左下、動いた』


 通常の呼び方ではなかった。


 鷲尾が振り向く。


 何も見えない。


 直樹には、黒い背中の一部だけが見えた。


 木の根元。


 四十メートルもない。


 熊は谷の下ではなく、四人の横にいた。


 人間が血痕を追うことを考えたわけではない。


 ただ、自分の食料へ近づくものを、風下の藪から見ていた。


「戻る」


 直樹が言った。


 熊が動く。


 藪が大きく割れた。


 黒い頭が現れる。


「下がれ!」


 ミーシャが後退する。


 鷲尾は一歩遅れた。


 目の前に現れた熊は、昨日見た時より大きく見えた。


 地面に近い位置で頭を振り、口を開く。


 音が先に来た。


 低い息。


 歯が鳴る音。


 次に地面が動いた。


 鷲尾が無線機の送信を押す。


「ア、アネさん!」


『慎吾、真柴を聞け!』


 志乃の声が即座に返った。


「そりを立てろ!」


 直樹が言う。


「何だって?」


「そりを木の間へ立てろ!」


 鷲尾は散弾銃を肩へ掛け、金属製のそりを持ち上げた。


 狭い道の左右に、二本の木がある。


 そこへそりを横向きに押し込む。


 枠が幹へ当たった。


 熊が走る。


 枝が折れる。


 鷲尾の顔から色が消えた。


「これ、止まるのかよ!」


「止めろ!」


「俺一人でか!」


「お前が一番重い!」


「褒めてねえだろ!」


 鷲尾はそりの枠へ肩を入れた。


 両足を土へ沈める。


 熊がそりへ当たった。


 金属が曲がる音がした。


 鷲尾の身体が後ろへ押される。


「うおっ!」


 そりは完全な壁ではない。


 隙間から黒い前脚が入る。


 爪が鷲尾の上着を裂いた。


 鷲尾が倒れかける。


「離すな!」


「無茶言うな!」


「慎吾!」


 無線から志乃の声が飛ぶ。


『そこに立て!』


「へい!」


 鷲尾の足が止まった。


 恐怖が消えたわけではない。


 声も震えている。


 それでも、肩を金属枠へ戻した。


 熊がもう一度押す。


 そりの留め具が一つ外れた。


 ミーシャが右へ回る。


 熊の顔が彼女を追う。


「NAO、こちらを見ます」


「まだ撃つな。警備頭と重なってる」


『真柴、俺からも角度がない』


 大庭の声が入る。


『射線に警備頭がいる』


「聞こえてんぞ!」


 鷲尾が怒鳴る。


「だったら低くなれ!」


『今低くなったら潰される』


「どうすりゃいいんだよ!」


 熊の前脚が、もう一度隙間へ入る。


 そりの横枠を叩いた。


 金属が鷲尾の頬へ当たり、皮膚が切れる。


 血が流れた。


 直樹は熊ではなく、木の間を見る。


 左側の枠が曲がっている。


 あと一度強く押されれば外れる。


「ミーシャ、右へ二歩」


「はい」


「右後方に人員なし」


「確認しています」


「大庭。熊が右を向いたら、斜面を背に肩の後ろへ一発。鷲尾が伏せるまで撃つな」


『了解』


「警備頭」


 鷲尾が熊を押し返しながら叫ぶ。


「鷲尾慎吾だ!」


「鷲尾」


 直樹が初めて名前を呼んだ。


 鷲尾の顔が動く。


「何だ!」


「合図でそりを離して、左へ伏せろ」


「離したら来るぞ!」


「来させる」


「俺を餌にする気か!」


「食われる前に伏せろ」


「説明が雑すぎんだろ!」


 ミーシャが右へ動く。


 枝を銃身で一度払った。


 熊が彼女を見る。


 頭が右へ向いた。


「今だ!」


 鷲尾がそりから手を離す。


 左へ身体を投げた。


 完全に射線の外へ出る。


 支えを失ったそりが倒れた。


 熊が前へ出る。


 黒い肩が、二本の木の間から完全に現れた。


 ミーシャは右へ下がっている。


 彼女の後方には誰もいない。


 大庭の射線は斜面を背にしていた。


 一発目は上から来た。


 熊の肩口へ入る。


 黒い身体が沈む。


 それでも止まらない。


 熊が斜面上へ顔を向ける。


 直樹が正面から撃った。


 短い連続音。


 右手の小指側に、遅れて強い痺れが走った。


 指が引き金の形のまま固まりかける。


 直樹は右手を握り直さず、左手で銃を押さえた。


 熊が向きを変える。


 ミーシャの側へ出ようとする。


「NAO!」


 ミーシャは後方に人がいないことを確認したまま、撃った。


 熊の頭が振れる。


 大庭の二発目が肩の後ろへ入った。


 黒い身体が斜面へ倒れた。


 土と落ち葉が滑る。


 熊は一度、前脚を動かした。


 立ち上がろうとする。


 直樹は近づかなかった。


「待て」


 全員が銃を向けたまま止まる。


 熊の息が聞こえる。


 低く、長い。


 次第に間隔が開いていく。


 最後に前脚が土を掻いた。


 それきり動かなかった。


「大庭」


『四肢の動きなし。呼吸は見えない』


「ミーシャ」


「五分待ちます」


 直樹は右手を銃から外した。


 小指と薬指が、すぐには開かなかった。


 ミーシャが一瞬だけ見る。


「NAO、右手」


「あとだ」


「あとで必ず確認します」


「ああ」


 鷲尾が地面に伏せたまま言った。


「五分も、このままかよ」


「立つな」


「逃げねえよ」


「生きていたら、立った瞬間に近くなる」


「先に言えよ」


「今言った」


 鷲尾は土へ顔を近づけたまま黙った。


     *


 五分後。


 大庭は高所から、熊の呼吸と四肢をもう一度確認した。


 動きはない。


 直樹とミーシャは熊の後方から近づいた。


 ミーシャが長い枝を後脚へ投げる。


 枝が当たっても反応はない。


 さらに待つ。


 直樹が銃口を向けたまま側方へ回り、死亡を確認した。


「終わりですか」


 鷲尾が聞く。


「この一頭はな」


「ほかにもいるって言うのか」


「山にはいる」


 鷲尾は曲がったそりを見る。


「俺のそりが」


「市場の物だろ」


「俺が手入れしてんだよ」


 上着の肩から胸までが裂けている。


 皮膚には、浅い線が三本走っていた。


 ミーシャが近づく。


「見せてください」


「平気だ」


「鷲尾さん」


 ミーシャが名前で呼んだ。


 鷲尾は少しだけ驚いた顔をした。


「何だよ」


「熊の爪には汚れがあります。浅く見えても、すぐ洗浄します」


「帰ってからでいい」


「今、確認します」


「俺は――」


 無線から志乃の声が入る。


『慎吾』


「へい」


『ミーシャさんに見せて』


「へい」


 鷲尾は素直に上着を脱いだ。


 大庭が斜面から下りてくる。


「すごいな」


「何がだ」


「志乃さんの声、一発で効く」


「アネさんの命令は絶対だ」


「マッシーが名前を呼んだ時も動いたけどな」


 鷲尾が直樹を見る。


「そうだ。お前、今、俺の名前を呼んだな」


「必要だった」


「覚えてたのかよ」


「昨日聞いた」


「警備頭じゃ駄目だったのか」


「あの距離では、名前の方が早い」


「何だよ、それ」


 鷲尾は不満そうに言った。


 それでも、口元が少しだけ上がっていた。


 大庭が直樹の横へ来る。


「名前で呼んだな」


「聞こえてただろ」


「必要になったら使うんだな」


「必要ならな」


「嫌いなのは?」


「変わらない」


「安心した」


「何がだ」


「急に仲良くなったら気持ち悪い」


 鷲尾が怒鳴る。


「誰がこいつと仲良くなるか!」


「傷が開きます」


 ミーシャが言う。


「へい」


 鷲尾が黙る。


 大庭が笑った。


「マッシー。いい壁だったな」


「壁じゃねえ!」


「動く壁だな」


「オゥ、コラァ!」


「洗います」


「へい」


 鷲尾はまた黙った。


     *


 熊の死骸には、まだ近づける人数を増やさなかった。


 直樹が位置を読み上げる。


 ミーシャが全体、口元、爪、体毛、付着した血、足跡との位置関係を撮影した。


 熊の口周りには、人間のものか獣のものか現場では区別できない血が残っている。


 爪にも黒い付着物があった。


「市場、こちら真柴」


『市場です』


「熊一頭を射殺。位置記録完了。口元、爪、体毛、足跡、血痕を撮影。藤崎さんを襲った個体かは未確定」


『熊はその場に残してください。人体を先に回収します。第二回収班を別のそりで上げます』


 えりが答える。


「回収班は何人」


『担当者二名、警備員二名。十七番標識から上げます。大庭さんは高所の射線を維持してください』


「了解」


『熊も市場へ搬送します。胃内容物と付着物を調べます』


「位置標識を置く」


 直樹は熊の周囲へ番号を置いた。


 別の個体がいる可能性がある。


 熊の横へ一人だけ残すことはできない。


 人体を確認したあと、第二回収班が上がるまで、四人とも現場に残る。


 ミーシャが谷側へ視線を向けた。


「NAO。低い灌木の下です」


 熊がいた場所から十数メートル。


 枝と落ち葉が、不自然に集められている。


 太い枝が上に置かれ、その下へ枯れ葉が押し込まれていた。


 熊が自分の食料を隠した跡だった。


 直樹は無線を入れる。


「人体と思われるものを発見」


『現場全体を先に記録してください。名前はまだ確定しません』


「了解」


 大庭が高所へ戻り、周囲を警戒する。


 ミーシャが写真を撮る。


 鷲尾は曲がったそりを引きずり、少し離れた場所へ置いた。


 枝を一つずつ外す。


 血に濡れた寝袋。


 破れた上着。


 人間の腕。


 その先に、人体の一部が残っていた。


 顔による確認はできなかった。


 熊は食べるために身体を開き、運び、残りを隠していた。


 鷲尾が歯を食いしばる。


「昨日、俺が撃ってれば」


「撃てなかった」


 直樹が言った。


「撃たなかったんだ」


「同じだろ」


「違う」


 直樹は現場を見たまま答える。


「人体の位置が分からなかった。枝で射線もなかった。お前は撃たない方を選んだ」


「そのあと食われた」


「撃てば、お前たちも死んだかもしれない」


「でも」


「相沢さんを下ろした」


 鷲尾は黙った。


「一人は戻した」


 直樹が言う。


「全部できなかったから、何もしていないことにはならない」


 大庭が斜面の上から直樹を見る。


 直樹は気づかず、人体と枝の位置を記録していた。


 鷲尾は、しばらく返事をしなかった。


「……そういう言い方、嫌いだ」


「知ってる」


「俺のこと、何も覚えてねえくせに」


「その言葉が嫌いなのは覚えてる」


 殯儀館で、直樹は言った。


 ないよりましだ。


 鷲尾は、あの言葉を嫌った。


 役に立てなかったと思っていた鷲尾へ、直樹は道を知っていると言った。


 名前を覚えていなくても、働きは残っていた。


「本当に、変な覚え方しやがる」


 鷲尾は曲がったそりを立て直した。


「運ぶぞ」


「記録が先だ」


「終わったらだよ」


 えりの指示に従い、写真、位置、衣服、血痕、人体、熊の足跡を分けて残す。


 そのあとで回収袋を開いた。


 人体を袋へ収める。


 袋を封じる。


 そりへ固定する。


 その上から、不透明な搬送覆いをかけた。


 人間だったものを、荷物のように落とさない。


 第二回収班が到着したのは、それから二十分後だった。


 警備員二名が周囲を確保する。


 担当者二名が熊の死骸を別の回収用そりへ固定した。


 口元や爪の付着物を損なわないように覆いを分ける。


 人体と熊を、同じそりには載せなかった。


「第一班から下ろす」


 直樹が言った。


「大庭は第二班が出るまで上を維持」


『了解』


「ミーシャは先頭。鷲尾はそりの後ろ」


「俺は前じゃねえのか」


「帰り道は赤い布で分かる」


「結んだのは俺だぞ」


「だから残ってる」


 鷲尾は不満そうに、そりの後ろへ回った。


     *


 帰りの道には、赤い布が残っていた。


 六本目。


 五本目。


 分岐に二本。


 沢の横。


 崩れた石垣。


 そりの金具は曲がっていた。


 片側の滑走板が地面へつかず、何度も石へ引っかかる。


 そのたびに鷲尾が持ち上げた。


 直樹とミーシャが左右を支える。


 大庭は第二回収班の上から先を見た。


 誰か一人の力だけでは戻れなかった。


 十七番標識で、車両と追加の回収班が待っていた。


 人体の入った回収袋を、記録番号とともに引き渡す。


 熊の死骸は第二班が続けて下ろす。


 えりから無線が入った。


『市場へ到着後、人体、現場の血痕、熊の付着物を照合します。相沢さんへの追加確認は、医療側の許可が出てからです』


「了解」


 鷲尾が赤い布を一本、木から外そうとした。


「残せ」


 直樹が言う。


「熊は死んだだろ」


「調査が終わってない」


「道も閉じたままか」


「今日はな」


 鷲尾は赤い布から手を離した。


「西の集落、薬が二日分しかねえ」


「午後に代替路を通す」


「決まったのか」


 無線から志乃の声が返る。


『もう車を回してる』


「アネさん」


『慎吾、怪我は』


「ないです」


 ミーシャが即座に送信する。


「三本あります。浅いですが、洗浄と経過確認が必要です」


「雨合羽!」


「ミーシャです」


『慎吾』


「へい。怪我してます」


『帰ったら医療室』


「へい」


 大庭が笑う。


「本当に隠せないな」


「お前、少し黙れ」


「もう山を下りたから怒鳴っていいのか」


「最初から怒鳴ってねえ!」


 鷲尾の声が山へ響く。


 遠くで鳥が飛び立った。


「怒鳴ってます」


 ミーシャが言う。


「へい」


 直樹は、木に結ばれた赤い布を見る。


 夜露は乾き始めていた。


 薄い布は、熊を止めなかった。


 人間と熊の間に、壁を作ることもできなかった。


 それでも赤い布は、帰る方向を示していた。


 一本では足りない。


 道を知る者が結び。


 前を歩く者が見つけ。


 後ろを守る者が確かめる。


 その線をたどり、人間は山から戻った。


 布は境界にはならなかった。


 帰るための道にはなった。


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