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第百五十八話 布一枚

## 第百五十八話 布一枚


 昼食の片づけが終わる前に、中部市場から電話が入った。


 受話器を取った健二は、二度しか返事をしなかった。


「分かりました」


 少し置いて、


「兄に代わります」


 食堂にいた直樹が立ち上がる。


 健二から受話器を受け取った。


「真柴です」


『慎吾が山から戻った』


 的場志乃の声だった。


「誰だ」


 直樹は本気で聞いた。


 受話器の向こうで、志乃が短く息を吐く。


『うちの警備連絡会の現場頭』


「該当者がいない」


『前に市場で、ジンだの雨合羽だの言って絡んできた大きいの』


 直樹は少し考えた。


「声が大きいやつか」


『そう』


「何があった」


『名字は覚えてないの?』


「必要なら現場で確認する」


 志乃が黙った。


 その背後から、大きな声が電話へ割り込んだ。


『アネさん! 名前なんかどうでもいいでしょうが! ジンと雨合羽を早く呼んでくれって――』


『慎吾、電話の横で怒鳴らない』


『へい』


 一瞬で静かになった。


『山で女を一人拾った』


 志乃が続けた。


『左脚を深くやられてる。連れの男が一人戻ってない』


「熊か」


『本人はそう言ってる。慎吾も現場で見た』


「射撃は」


『してない。一度、全員で下がらせた』


「場所は」


『北西山地の旧十二号搬送路。第四避難台の周辺』


 旧十二号搬送路は、中部市場と西側の山間集落をつなぐ補助路だった。


 車が入れるのは途中まで。


 崩落した区間を越える者は、徒歩で尾根を回る。


 第四避難台には雨水槽と食料用の鉄箱、それに二張り分ほどの平地がある。


『負傷者は市場の医療室にいる。意識はあるけど、搬送の準備を始めてる』


「なぜ俺たちを呼ぶ」


 直樹が聞いた。


 今度は志乃ではなく、背後の男が答えた。


『殯儀館で見たからだよ!』


「慎吾」


『へい。でも、そこは言わせてください』


 電話の向こうで、何かが机へ当たる音がした。


『ジンが、人間相手でも止まらねえことは知ってる。雨合羽が外を一人で押さえられることも知ってる』


「ミーシャだ」


『今はどっちでもいいだろうが!』


「慎吾」


『ミーシャさんです。へい』


 志乃が通話へ戻る。


『慎吾の手勢だけでは無理だと、本人も分かってる。嫌いでも、使えるものは使うって』


 背後から、また声が飛んだ。


『アネさんの組と街のためでしょうが!』


『組じゃなくて連絡会』


『同じようなもんでしょう』


『違う』


『へい』


 直樹は食堂の時計を見た。


 午後一時二十五分。


「今から行く」


『末安さんもお願い。慎吾の話を、そのまま記録すると順番が全部逆になる』


「了解」


 通話を切る。


 すぐ近くにいた大庭が腕を組んでいた。


「今の大声、知り合いか」


「殯儀館にいた」


「一緒に入ったのか」


「ああ」


「名前は?」


「覚えてない」


 大庭は直樹の横顔を見た。


「また、名前を入れないことにしたのか」


「何がだ」


「お前、付き合いたくない相手は名前を覚えないだろ」


 直樹は食堂の予定表へ向かった。


 白墨を取る。


 中部市場。


 状況確認。


 第一報、十五時。


 帰還時刻は第一報で再設定。


 学校からは誰も出ない。


「準備しろ」


「否定しないんだな」


 大庭は軽く肩をすくめ、玄関へ向かった。


 直樹が覚えていたのは、男の名前ではなかった。


 身体のでかいガキ大将。


 声と肩幅で相手を下がらせる。


 新しく来た人間には、理由より先に凄む。


 想定外が起きれば、的場志乃の方を見る。


 ただし、志乃が立てと言えば立つ。


 怖がっていても。


 最後の判断を志乃へ預けていても。


 殯儀館では、撃てないまま直樹についてきた。


 道を知り、人間を声で誘い、最後には名簿を抱えて運び出した。


 指揮は任せられない。


 射撃判断も預けられない。


 誰かを逃がす間、入口を身体で塞ぐことならできる。


 肉壁にはなる。


 それに、自分たちだけで足りない時、使える人間を呼ぶ程度の嗅覚はあるらしい。


     *


 的場市場の警備詰所では、大男が地図を叩いていた。


「だから、第四の上じゃねえって言ってんだろ! 下だ、下! 崩れた沢を回った先だ!」


 泥のついた指が紙の上を滑る。


 上着とズボンには、乾きかけた血がついていた。


 自分の血ではない。


 髪には枯れ葉が絡み、右の靴紐が途中で切れている。


 机の前には、的場地域物流警備連絡会の男が三人立っていた。


「十二号は全部閉めろ! 上から来る荷車も止めろ! 理由を聞かれたら熊だと言え!」


「西の集落へ薬を上げる便が――」


「人間が食われてんだぞ! 薬だけ一人で歩かせられんのか、オゥ!」


「でも、代表の許可が」


「俺は現場頭だぞ!」


 大男は肩をそびやかした。


 その背後で、扉が開く。


「慎吾」


 的場志乃が入ってきた。


 大男の肩が、目に見えて下がった。


「アネさん」


「誰の許可が必要なの?」


「いや、これはですね」


「慎吾」


「へい」


「血のついた靴で地図を踏まない」


 大男は自分の足元を見る。


 地図の端を靴先で押さえていた。


「あ」


「どけて」


「へい」


 慌てて足を引き、椅子の脚へ踵をぶつけた。


「痛っ」


 部下の一人が顔を逸らした。


「笑うな、コラ」


「慎吾」


「笑っていいです」


 志乃は机の前へ立った。


「座れ」


「へい」


 男は素直に椅子へ座った。


 そこへ、直樹たちが入った。


 ミーシャ。


 大庭。


 えり。


 大男は直樹を見るなり、椅子から腰を浮かせた。


「ジン」


 直樹は男の顔を見た。


 以前、殯儀館で一緒に走った男だった。


 志乃が撃たれた時には青ざめ、どこを押さえればいいかも分からず、手を震わせていた。


 それでも志乃から行けと言われれば、直樹について中へ入った。


 顔は覚えている。


 名前はまだ、そこへ置かれていない。


「何があった」


「相変わらず、人の名前くらい――」


 大男は立ち上がりかけたまま止まった。


 地図机の向こうからは出ない。


 直樹との間には、机と椅子が残っている。


 男は知っていた。


 直樹が人間を壊せることを。


 必要だと判断すれば、怒鳴りも脅しもせず、相手が声を出す前に動けなくする。


 殯儀館の廊下で、それを何度も見ていた。


 だから口では凄んでも、直樹の手が届く距離へは入らなかった。


「人の名前くらい覚えろって言ってんだよ、ジン」


「報告を先にしろ」


「そのために呼んだんだよ」


 男は机越しに直樹を睨んだ。


「お前と雨合羽を」


「ミーシャです」


「知ってる」


 男はミーシャを見る。


 殯儀館の白い外壁。


 短機関銃の短い連続音。


 増援が止まり、窓の影が崩れた。


 黒い雨合羽を裂きながら、ミーシャが外周から入ってきた姿を、男は覚えていた。


「殯儀館で見た」


 男が言う。


「あの時と同じように動けるなら、名前はどっちでもいい」


「慎吾」


 志乃の声が飛ぶ。


「名前で呼んで」


 男は唇を曲げた。


「……ミーシャさん」


「はい」


 えりが椅子へ座り、記録用紙を開いた。


「報告者の氏名を確認します」


 男は胸を張った。


「鷲尾慎吾。的場地域物流警備連絡会の現場頭だ」


 直樹は、その名前を顔へ置いた。


 鷲尾慎吾。


 今は入った。


 大庭が隣で、直樹の横顔を見る。


「今、名前を覚えたな」


「記録に必要だ」


「前は聞いてなかったのか」


「たぶん」


「次に会ったら、また忘れる?」


 直樹は答えなかった。


 鷲尾が大庭を睨む。


「さっきから何なんだ、お前」


「大庭航平」


「知らねえ」


「今、名乗ったからな」


 鷲尾が椅子を鳴らした。


「オゥ、コラ――」


 立ち上がろうとしたが、直樹が目を向けると足が止まった。


 直樹は構えていない。


 腕も下げたままだった。


 それでも鷲尾は、机を回り込まなかった。


「慎吾」


 志乃が言う。


「座って」


「へい」


 鷲尾は尻を椅子へ戻した。


 大庭は鷲尾と直樹を順に見た。


「なるほど」


「何がだ」


 直樹が聞く。


「お前が名前を覚えなかった理由」


 大庭は初めて鷲尾の顔を見たばかりだった。


 それでも、部下への怒鳴り声。


 志乃への返事。


 直樹へ凄みながら机を越えない足。


 いくつか見れば十分だった。


「初めて見たけど、よく分かった」


「黙れ」


 鷲尾が大庭を睨む。


「何が分かったんだ、コラ」


「俺には怒鳴る。マッシーには近づかない」


「近づく必要がねえんだよ」


 鷲尾が吐き捨てた。


「殯儀館で見てんだ。ジンが人間を壊す時に止まらねえことも、雨合羽が外を一人で押さえたことも」


「ミーシャです」


「今は黙ってろ」


「慎吾」


「へい。ミーシャさんです」


 鷲尾は直樹へ向き直った。


「俺は、お前らが好きで呼んだんじゃねえ」


「分かってる」


「うちの連中だけじゃ、あの熊へ入れねえ。十二号を閉めたままなら、西の集落へ薬も燃料も届かなくなる」


 鷲尾は胸を張った。


「嫌いでも、怖くても、使えるものは使う。アネさんの組と、この街のためだ」


「慎吾」


 志乃が言う。


「組じゃなくて連絡会」


「同じでしょうが」


「違う」


「へい」


 大庭が鷲尾を見る目を、ほんの少し変えた。


 さっきまでの大声は虚勢だった。


 それでも、虚勢だけの男ではないらしい。


 えりが記録用紙へ視線を戻す。


「自分で確認したことと、負傷者から聞いたことを分けて話してください」


「俺を取調べるみてえに言うなよ」


「分けないと記録にできません」


「アネさん。この人、俺にだけ当たり強くないですか」


「慎吾」


「へい。話します」


 鷲尾は濡れた髪を掻き上げた。


「今朝四時十七分。十二号の見回り班から連絡が入った」


「発見場所は?」


「十七番標識の下。女が一人、排水溝に倒れてた」


「見回り班が発見した?」


「ああ。軽トラで下りてきた二人だ。最初は死んでると思ったらしい」


「名前は」


「相沢真帆。三十二」


「同行者」


「藤崎圭介。三十五」


「二人の関係は?」


「本人は婚約者だと言ってる」


 鷲尾は机の上へ透明な袋を置いた。


 中には、泥と血のついた入域札が二枚入っている。


「二人とも九州中央圏から来た。藤崎の母親が西の山間集落にいる。薬と冬物を運ぶ途中だった」


「十二号を通る許可は?」


「出てる」


 鷲尾の声が少し低くなる。


「市場で通行札を出した。俺が」


 志乃が札を見る。


「安全確認は?」


「三日前に巡回してます」


「熊の痕跡は」


「足跡はあった。古かった。糞も乾いてた」


「記録した?」


「してます」


「二人に伝えた?」


「熊鈴。食料の密閉。第四避難台から夜は出ない。それは言った」


「通行を止めなかった理由は?」


 鷲尾は志乃の顔を見られなかった。


「山の道で熊の跡があったからって、全部止めたら物が運べません」


「慎吾」


「薬を待ってる人もいたんです」


 志乃は、それ以上責めなかった。


「続けて」


「へい」


 鷲尾は机の傷へ目を落とす。


「女は左脚をやられてた。膝の下から、ふくらはぎまで裂けてた。片方の靴はない。上着も破れてた」


「意識は」


「呼べば答えた。自分の名前も言えた。けど、男の名前を何度も呼んでた」


「低体温は?」


「医療班が疑ってる。服が濡れてた。何時間歩いたか、本人にも分からん」


「鷲尾さんが話を聞いたのは?」


「五時前。車へ乗せる前に、必要なことだけだ」


 えりが時刻を書く。


「聞いた内容をお願いします」


 鷲尾の顔から、さっきまでの威勢が少し消えた。


「夜中に、何かがテントの周りを歩いてた」


「時刻は?」


「分からん。二人とも寝てた」


「最初に気づいたのは?」


「枝が落ちたみてえな音だったらしい」


「次は?」


「布の外から押された」


「テントを?」


「ああ」


 詰所が静かになった。


「鼻みてえな物が、布を内側へ押した。場所を変えて、何度も」


「熊の姿は、その時点では見えていない?」


「見えてない」


「藤崎さんは何をした?」


「声を出した。鍋を叩いた。相沢は照明をつけた」


「熊は離れた?」


「逆だ」


 鷲尾が顔を上げる。


「布を破った」


 ミーシャが地図を見る。


「入口からですか」


「横だ。相沢は、テントの壁が急になくなったって言ってた」


「熊の大きさは?」


「黒かった。頭が、人間の胸より上に見えた」


「立っていましたか」


「分からん。本人も覚えてない」


 えりは、そのまま書く。


「分からないことは、分からないままで残します」


「分かってる」


 鷲尾は志乃を見る。


「分かってますよ、アネさん」


「私、何も言ってない」


「顔が言ってます」


「続けて」


「へい」


 鷲尾の喉が動いた。


「熊は、藤崎の肩を咥えた」


 大庭が壁から背を離した。


「そのまま、テントの外へ引いた。藤崎は生きてた」


 えりのペンが一瞬だけ止まり、また動く。


「相沢さんが確認した?」


「目の前だ」


 鷲尾は目を伏せた。


「藤崎は、相沢の名前を呼んでた。熊に咥えられたまま」


「相沢さんは?」


「照明を投げた。鍋も投げた。熊へ近づいた」


「そこで脚を負傷した?」


「ああ。熊が前脚を振った」


 鷲尾は自分の左脚を見る。


「本人は、触られたって言った」


 誰も口を挟まなかった。


「触られただけで、脚が開いた」


「そのあと」


「相沢は倒れた。熊は藤崎へ戻った」


「戻った?」


「そっちを食い始めた」


 鷲尾の声が擦れた。


「藤崎が、まだ叫んでる間に」


 大庭の表情から軽さが消える。


 ミーシャは瞬きもせず、鷲尾を見ていた。


「相沢さんは、どうやって離れた?」


「斜面を転がった。沢へ落ちた。熊は追ってこなかった」


「理由は?」


「藤崎がいたからだろ」


「それは推測として残します」


「好きにしろ」


 鷲尾が吐き捨て、すぐに志乃を見る。


「記録はちゃんとしてください」


「慎吾」


「へい」


 鷲尾の背中が少し丸くなる。


「相沢は沢沿いに下った。片脚を引きずって、朝まで。十七番標識の手前で倒れた」


 直樹が聞く。


「藤崎の声が止まった時刻は」


「分からん」


「熊が食べる音は、どこまで聞こえた」


 鷲尾が直樹を見る。


 その目から虚勢が消えていた。


「沢へ落ちたあとも聞こえたってさ」


「距離は」


「本人には分からん」


「何を聞いた」


 鷲尾は答えるまでに時間がかかった。


「骨が鳴ったと」


 部下の一人が唇を噛んだ。


「そのあと、熊がテントへ戻る音がした。布や荷物を引っ張ってた。食料箱かもしれねえ」


 ミーシャが言う。


「人間と食料の両方を確保しています」


「俺もそう思った」


 鷲尾はミーシャを見る。


「雨合羽なら、そう言うと思った」


「ミーシャです」


「今そこか?」


「慎吾」


「へい、アネさん」


 直樹が地図を見る。


「現場へ行ったのは?」


「俺だ」


「何人」


「四人」


「時刻」


「五時四十分に出た。六時十八分、避難台の下へ着いた」


「武器は」


「十二番が二丁。短銃身一。発煙筒」


「熊は見たか」


「ああ」


 鷲尾は地図の窪地を指した。


「避難台の手前。七十メートルくらい。テントの残りが木に引っかかってた。血は斜面の奥へ続いてた」


「熊は」


「血の先にいた」


「姿勢は」


「四本脚だ」


「こちらを見た?」


「ああ」


「逃げたか」


「逃げねえ」


 鷲尾は喉の奥で息を吐いた。


「俺らを見て、頭を下げた」


 ミーシャの目が鋭くなる。


「接近する前の姿勢です」


「俺もそう思った」


「その時、どうした」


 直樹が聞く。


「部下の一人が銃を上げた」


「撃たせたか」


「止めた」


 鷲尾は即座に答えた。


「男の身体がどこにあるか分からなかった。枝も多かった。あの距離で散弾を撃ったら、熊より先に男を壊すかもしれねえ」


「外した場合は」


「次は俺らだ」


 直樹は地図上の植生を見る。


 鷲尾は射線が通らないことを理解していた。


 人体の位置が分からないことも。


 撃てば熊を刺激する可能性も。


 その先を自分で決めきれず、志乃へ預けた。


「それで?」


「無線した」


「誰へ」


「アネさん」


 志乃が腕を組む。


「何と言ったの?」


「それ、今言います?」


「言って」


 鷲尾は部下たちを見た。


 全員が目を逸らす。


「……ア、アネさん。でかいのがまだいやす。どうしやしょう、と」


 大庭が口元を手で隠した。


「笑うな!」


「笑ってない」


「目が笑ってんだよ!」


「慎吾」


「へい」


 志乃が続ける。


「私が何と言った?」


「撃つな。男の位置が分からないなら下がれ。負傷者を先に運べ、と」


「それで?」


「下がりました」


「迷った?」


 鷲尾は志乃を見る。


「アネさんが言ったんで」


 迷う理由がない、という顔だった。


 最後の判断を志乃へ預ける。


 それが鷲尾の限界だった。


 同時に、命令が下りたあと、迷わず動ける理由でもあった。


 志乃が下がれと言えば下がる。


 立てと言えば、立つ。


 直樹は鷲尾を見た。


 頭を使わせれば、余計な穴を増やす。


 だが、自分たちだけでは足りないことは分かった。


 嫌いで怖い相手を、怒鳴りながらでも呼びつけた。


 自分のプライドより、志乃の組織と街を優先した。


 指揮は任せられない。


 射撃判断も預けられない。


 だが、道を知り、命令を守り、必要な戦力を現場へつなぐことはできる。


 肉壁だけではなかった。


 道を知っている肉壁だった。


 直樹は、地図上で鷲尾が示した撤退路をもう一度確認した。


「負傷者を下ろした道は使えるか」


「一人ずつならな。担架は二か所で持ち上げる必要がある」


「帰りに印を増やしたか」


「赤布を六本。分岐には二本ずつだ」


 直樹がわずかに頷く。


 大庭がその動きを見逃さなかった。


「今、評価を一つ上げただろ」


「上げてない」


「ただのでかい壁から、呼びに来る壁くらいには上がった」


「うるさい」


「嫌いなのは変わらない?」


「変わらない」


「でも使う」


「街道を開けるのに必要ならな」


 大庭は鷲尾を見る。


「向こうも同じだな。お前が嫌いで怖い。でも、街のために使う」


 直樹は答えなかった。


 鷲尾が二人を睨む。


「人が報告してんだぞ」


「続けてください」


 えりが言った。


 鷲尾は大庭への怒りを飲み込んだ。


「現在、十二号は閉鎖。北西山地へ上がる支線も三本止めた。山間集落には、家から出るなと伝えた」


「輸送中の便は?」


「全部戻した」


「薬は」


 志乃が聞く。


「西の集落分が止まってます。向こうの在庫は二日」


「今日中に代替路を決める」


「アネさん」


 鷲尾が顔を上げる。


「道を全部止めたら、食料も燃料も入らねえ」


「熊が人間を食べている道へ通すの?」


「通せとは言ってません」


「では閉鎖でいい」


「でも、俺が大げさに止めたって、じいさん連中が――」


「私の名前で閉じる」


 志乃が言った。


「的場地域物流警備連絡会代表、的場志乃。閉鎖命令は私が出す」


 鷲尾は口を閉じた。


「慎吾が止めたんじゃない。私が止める」


「……へい」


「何?」


「いや」


 鷲尾は鼻を擦った。


「アネさん、そういうとこ、ずりいなと思って」


「慎吾」


「ありがたいです」


 急に声が小さくなる。


 部下の一人が、隠さず笑った。


「お前、あとで表出ろよ」


「慎吾」


「出なくていいです」


 志乃は鷲尾の上着を見る。


「その血は、相沢さんの?」


「担いだ時についた」


「怪我は?」


「してません」


「確認した?」


「俺は平気ですって」


「慎吾」


「医療室へ行きます」


 鷲尾は肩を落として立ち上がった。


 情けない顔のまま、部下へ向き直る。


「十二号へ誰も上げるな。勝手に救助へ行く馬鹿が一番危ねえ」


 声だけは、また大きくなった。


「通行札の控えを全部出せ。山に入ってるのが二人だけとは限らん。集落側の人数も、もう一回数えろ」


「了解」


「慎吾」


 志乃が呼ぶ。


「へい」


「明日、山へ入るなら、真柴の指示に従って」


 鷲尾の目が直樹へ動く。


「ジンの?」


「そう」


「こいつ、俺の名前を聞いても一度も呼びませんぜ」


「名前を呼ばれないと、指示を聞けないの?」


 鷲尾の顔が歪む。


「アネさんの命令ですか」


「そう」


 鷲尾は直樹を睨んだ。


 間にはまだ机がある。


「へい。分かりやした」


 直樹は、その返事だけを聞いた。


 自分への信頼ではない。


 志乃への服従だった。


 だが、現場で必要なのは理由より結果だった。


「明日は勝手に前へ出るな」


 直樹が言う。


「誰に言ってんだ、ジン」


「警備頭」


「鷲尾慎吾だ!」


「記録には残ってる」


「人の名前を帳面扱いすんな!」


 鷲尾は怒鳴ったが、直樹へは近づかなかった。


 大庭がその様子を見ていた。


「もう名前は覚えてるよな」


「記録上はな」


「なのに使わない」


「必要がない」


 大庭は小さく息を吐いた。


「やっぱりだ」


「何が」


「お前、覚えられないんじゃない。あえて名前で扱いたくないんだろ」


 直樹は大庭を見なかった。


「昔から、本当に嫌いな相手ほど、役割だけでしまう」


「現場で友達を作る必要はない」


「そういう話じゃない」


 大庭には分かっていた。


 直樹は、人の名前を軽く扱っているわけではない。


 一度名前で覚えた相手を、ただの部品として扱いにくくなる。


 だから、付き合いたくない種類の人間には、最初から名前を使わない。


 警備頭。


 的場の大きい方。


 入口を塞ぐもの。


 そこへ押し戻し、必要以上に近づかない。


「入口を塞げと言ったら塞げ」


 直樹が鷲尾へ言った。


「下がれと言ったら下がれ。俺の合図なしに撃つな」


「やっぱり俺を壁にする気か」


「ほかに何ができる」


「オゥ、コラァ!」


 鷲尾の右手が机へついた。


 だが、机を回り込まない。


 直樹は動かなかった。


 鷲尾の方が先に志乃を見た。


「アネさん」


「従って」


「へい」


 直樹へ向き直る。


「最初からそのつもりだ、コラ」


 大庭が小さく笑った。


 志乃が直樹へ聞く。


「慎吾は、搬送路を塞ぐだけ?」


「最初はな」


「俺は行くぞ」


 鷲尾が言った。


「お前らを呼んで、俺だけ市場に残れるか」


「慎吾」


 志乃の声が低くなる。


「死ねとは言ってない」


「分かってます」


「私が下がれと言ったら下がって」


 鷲尾の返事が少し遅れた。


「……へい」


 志乃は、その返事を聞いてから直樹を見る。


「使える?」


「道案内にはなる」


 鷲尾が顔を歪める。


「それだけかよ」


「殯儀館でも道は間違えなかった」


 鷲尾が一瞬黙った。


 直樹が以前の働きを覚えていたとは、思っていなかったらしい。


「それに」


 直樹は続けた。


「必要な人間を呼ぶ判断はした」


 鷲尾の肩が、わずかに動く。


「名前は覚えねえのに、そこは覚えてんのかよ」


「働きは覚えてる」


「やっぱり物扱いじゃねえか」


「働かない物よりはいい」


「オゥ――」


「慎吾」


「へい」


 大庭が小さく息を吐いた。


「マッシー、本当に嫌いなんだな」


「嫌いでも使う」


「向こうも同じだ」


 鷲尾は舌打ちし、扉へ向かった。


 途中で一度、足を止める。


「ジン」


「何だ」


「あの女、最後に言った」


 鷲尾の声が低くなった。


「テントの中なら、熊は入ってこないと思ってたって」


 鷲尾は、自分の指で薄い布を押す動きをした。


「布があったから」


 直樹は黙って聞く。


「でも、熊には外も中もなかった」


 ミーシャが地図上の第四避難台を見る。


「NAO。熊はすでに、藤崎さんを食料として守っている可能性があります」


「ああ」


「日没前に接近できる時間はありません」


「今日は入らない」


 直樹は地図を見た。


「大庭。明朝、先に射線を取れ」


「了解」


「ミーシャは痕跡。熊が藤崎さんを移動させた可能性も見る」


「はい」


「保全と回収は最小限」


 えりが頷く。


「市場側は?」


 志乃が聞いた。


「旧十二号を閉じたまま、別の搬送路を準備する。警備頭には、入口と人員の管理をさせる」


「鷲尾慎吾だ!」


 扉の前から声が飛んだ。


 直樹は地図から顔を上げない。


「聞こえてる」


「だったら呼べ!」


「必要になったらな」


「一生呼ぶ気ねえだろ!」


「慎吾」


「医療室へ行ってきます!」


 鷲尾は顔を赤くしたまま、詰所を出ていった。


 机の上には、二枚の入域札が残っている。


 一枚は血に濡れていた。


 もう一枚は、角が折れているだけだった。


 二人分の通行を認めた紙。


 山から戻ったのは、一人だけだった。


 第四避難台には、破れたテントが残っている。


 人間はその夜、布一枚を内と外の境界にした。


 熊には、最初から境界などなかった。

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