第百五十七話 役割のない名前
## 第百五十七話 役割のない名前
直樹は、めぐみの歩幅が遅いことに気づいていた。
怪我をしているわけではない。
疲れているだけでもなかった。
市場の建物から車までの短い道を、めぐみは一歩ずつ確かめるように歩いていた。
直樹が先に行けば、めぐみはついてくる。
ついてこられることは知っている。
だから、先に行かなかった。
「寒いか」
「少し」
直樹は歩く速度を、もう少し落とした。
めぐみの手には何もなかった。
聞き取り用紙はえりが持っている。
誰かから預かった物も、学校へ届ける報告もない。
それでも直樹には、めぐみを置いて先に車へ行く理由がなかった。
めぐみは、隣を歩く直樹を何度か見た。
待っていた理由を聞こうとして、やめた。
仕事を手伝ったから。
疲れていたから。
一人にしておけなかったから。
どれか一つに決められてしまえば、次に何もできなかった日は、待ってもらえない気がした。
「なお」
「何だ」
呼んだあとで、言葉がなくなった。
「……何でもない」
「そうか」
直樹は問い直さなかった。
ただ、歩幅を戻さなかった。
直樹は、この二日でめぐみが三度、自分が役に立ったかを確かめたことを覚えていた。
何を怖がっているのかまでは、分からない。
何かを任せれば落ち着くことも知っている。
けれど、今ここで仕事を作って渡すことが正しいのかは分からなかった。
二人は並んで車まで歩いた。
その夜、めぐみは待ってくれた理由を聞かなかった。
聞けば答えが終わってしまう気がした。
*
翌朝、直樹は食堂の予定表へ行き先を書いた。
中部市場北側林。
出発、六時。
第一報、九時。
帰還予定、十三時。
遅延時は第一報で再設定。
学校からは誰も出ない。
めぐみは、その文字の横に立っていた。
「私は?」
直樹が白墨を置く。
「今日は残ってくれ」
「記録ならできる」
「保全担当が来る」
「市場で待ってることもできる」
「今日は聞き取りもない」
「じゃあ、何をすればいい?」
直樹は、すぐには答えなかった。
遺体の一部が見つかる可能性がある。
熊が獲物を隠した場所へ、めぐみを連れて行きたくなかった。
同時に、前日からほとんど休んでいないめぐみへ、必要がないとは言いたくなかった。
「今日は休め」
めぐみには、その沈黙の方が長く残った。
危険だから。
疲れているから。
仕事がないから。
どれなのかは言われなかった。
聞けば、最後の一つを選ばれる気がした。
「分かった」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
校庭では、ミーシャが記録器材を車へ積んでいる。
「NAO、地図は後部座席に置きました」
「ああ」
大庭は銃の覆いと携行品を確認した。
「マッシー。今日は昨日の一頭だけだと思うなよ」
「分かってる」
「もう一頭いてもおかしくない」
「同じ前提で入る」
大庭が運転席へ乗る。
ミーシャは後部座席へ移った。
直樹が助手席の扉を開ける前に、めぐみを振り返る。
「九時に一度入れる」
「うん」
「遅れるなら、その時に戻る時刻も言う」
「分かった」
車が校門を出る。
めぐみは、見えなくなるまで玄関に立っていた。
何も頼まれなかった手が、上着の脇で余っていた。
*
中部市場北側の林には、前日より多くの人員が入った。
直樹とミーシャが先頭。
その後ろを、国境第三から来た保全担当者と回収担当者が進む。
大庭は全員と同じ道へ入らない。
古い搬出路を上がり、斜面の上から並行して進んだ。
熊を一頭止めたからといって、森から熊がいなくなったわけではない。
『マッシー。上は取った』
「了解」
『風は奥から下へ抜けてる。こっちの匂いが先に林縁へ流れる』
「見えてないものがいる前提で行く」
『ああ』
前日に置いた番号札を、一つずつ確認する。
血のついた上着の布。
片方の登山靴。
破損した携帯灯。
引きずり痕の始点。
痕跡は、そこから斜面を横切るように続いていた。
熊は人体を地面へ引きずり続けたのではない。
血が濃く残る場所。
何も残らない場所。
再び土が削られた場所。
咥えて持ち上げ、障害物を越え、また下ろした。
その繰り返しだった。
ミーシャが足を止めた。
「NAO」
倒木の根元を指す。
そこだけ落ち葉の色が違っていた。
周囲の葉は夜露に濡れ、地面へ張りついている。
根元へ積まれた葉は、表面が乾いていた。
上から新しい葉をかけたように浮いている。
細い枝も数本、同じ場所へ寄せられていた。
風が集めた形ではない。
直樹が拳を上げる。
後ろの人員が止まった。
「近づくな」
保全担当者が望遠で撮影する。
大庭の声が入った。
『何か見つけたか』
「落ち葉と枝を集めた跡がある」
数秒の沈黙があった。
『真柴。先に周囲を見ろ』
呼び方が変わった。
直樹は葉の山から目を離す。
ミーシャと左右へ分かれ、藪と幹の間を確認する。
大庭が斜面上から報告した。
『上側、動きなし。右の谷は見えない』
「ミーシャ」
「新しい大型獣の足跡はありません。昨日の熊の往復だけです」
「匂いは」
ミーシャは一度だけ鼻から息を入れ、すぐに口から吐いた。
「あります」
腐敗だけではなかった。
湿った土。
血。
獣毛。
熊の体臭。
いくつもの匂いが、落ち葉の下に閉じ込められている。
「周囲を確保。記録を始める」
直樹が言った。
保全担当者が外側から近づく。
落ち葉を動かす前に、位置と重なりを撮影する。
細い枝を一本外す。
番号を置く。
次の枝を外す。
葉を一枚ずつ除いていく。
黒く濡れた布が見えた。
長峰が穿いていたものと同じ色のズボンだった。
担当者の手が止まる。
全体を撮影し直す。
落ち葉の下から、人体の下半身の一部が現れた。
その先に、上半身はなかった。
片方の大腿部では、肉の多くが失われている。
白い大腿骨が露出していた。
太い骨には歯の跡がついていたが、中央までは砕かれていない。
少し離れた土の中に、丸みを持った白いものがあった。
保全担当者が手を止め、防護手袋を交換する。
刷毛で周囲の土を避ける。
頭部の骨だった。
一部は強い力で損傷している。
それでも、硬い頭蓋の形は残っていた。
誰も声を出さなかった。
昨日まで話し、歩き、眼鏡を押し上げていた人間が、熊には食料として運ばれていた。
骨の上には、落ち葉が幾重にも重ねられている。
細い枝まで倒木の根元へ寄せられていた。
「隠したんです」
ミーシャが言った。
「捨てたんじゃないのか」
回収担当者の一人が、かすれた声で聞く。
「戻るためです」
ミーシャは葉の重なりを見る。
「ほかの動物に取られないように隠した。食べきれなかったものを、あとで食べるために」
直樹は、熊が集めた枝を見た。
熊は長峰を食べ散らかして、そこへ捨てたのではない。
食べ残した人間を、自分の物として保存していた。
『真柴』
大庭の声が低くなる。
「何だ」
『下側の藪が動いた』
全員の身体が止まる。
直樹が発見場所から離れる。
ミーシャは回収担当者の前へ出た。
無線の向こうで、大庭が銃の覆いを外す音がする。
『距離はある。まだ撃たない』
藪が、もう一度揺れた。
低い位置だった。
数秒後、痩せた狐が飛び出し、斜面を横切った。
誰もすぐには動かなかった。
狐が消えたあとも、直樹は藪を見続ける。
熊を一頭倒しても、森が人間へ安全を返すわけではない。
人体を回収しても、そこが人間の場所になるわけではない。
「作業を続ける」
直樹が言う。
大庭の返事が、少し遅れて入った。
『了解、マッシー』
緊張が消えたのではない。
今すぐ撃つ相手がいないと確認しただけだった。
*
旧南第三では、朝食後の当番表が書き換えられていた。
ハルが食堂の壁の前に立ち、子どもたちの名前を一人ずつ確認している。
配膳。
食器。
洗濯。
薪。
掃除。
名前の横へ、その日の役割を書き込んでいく。
めぐみは、洗い場から布巾を取ろうとした。
「めぐみさん」
背後からハルの声が飛んできた。
「それ、蓮の仕事です」
「手伝うだけ」
「今度は子どもの仕事まで取るんですか」
「取ってない」
「朝から三つ目です」
ハルが白墨を持ったまま近づいてくる。
「洗濯。食器。今度は拭き上げ」
「空いてたから」
「空いてません。担当がいます」
「じゃあ、昼の準備をする」
「それは私と健二さんです」
「市場の記録は?」
「えりさんがやってます」
「何かない?」
「ないです」
ハルは即答した。
「今日は、めぐみさんは働くの禁止です」
「ずっと?」
ハルが眉を寄せる。
「どうして、そうなるんですか」
「仕事をするなって言ったから」
「今日は、です」
ハルはめぐみの手から布巾を取り上げた。
「とりあえず座ってください」
「座るほど疲れてない」
「朝ご飯も半分残してました」
「食欲がなかっただけ」
「それを疲れてるって言うんです」
「ハルさん、年下でしょう」
「年下ですけど、今のめぐみさんより朝ご飯を食べてます」
ハルは食堂の隅にある椅子を指した。
「座ってください」
「話したくない」
「話さなくていいです。でも、立ったまま人の仕事を探すのは禁止です」
めぐみはしばらく動かなかった。
ハルも引かなかった。
最後に折れたのは、めぐみだった。
椅子へ座る。
ハルは温め直したスープを持ってきた。
めぐみの前へ置き、自分も斜め向かいの椅子へ座る。
「食べてください」
「いらない」
「直樹さんが戻る前に倒れたら、面倒が増えます」
「心配してるの?」
「してますけど、それを言わせます?」
ハルは口を尖らせた。
めぐみはスプーンへ触れなかった。
しばらく、食堂を行き来する子どもたちの足音だけを聞いた。
「昨日、なおが待ってた」
ハルがめぐみを見る。
「はい」
「仕事が終わってたのに」
「待っていたんですね」
「私、何も持ってなかった」
ハルは、すぐには答えなかった。
「それで?」
「……分からない」
「何がですか」
「どうして待ってたのか」
「本人には聞いたんですか」
「聞いてない」
「じゃあ、私にも分かりません」
「冷たい」
「直樹さんじゃないので」
ハルはめぐみの方へスープを押した。
「それは本人に聞いてください。私は、聞くまで倒れないように食べさせる係です」
めぐみは、少しだけスープを口へ入れた。
温度は高くなかった。
それでも、喉を通る時に身体の内側が緩んだ。
「待ってもらったら」
めぐみは器を見たまま言う。
「次も待ってくれるって思いそうになる」
「思えばいいじゃないですか」
「でも、次に待ってくれなかったら?」
ハルの顔から、軽い調子が消えた。
「昨日のことまで、違った意味になる」
「違った意味?」
「やっぱり仕事をしたからだったとか。弱ってたから仕方なくとか」
声が少し掠れた。
めぐみは息を吐いてから続ける。
「何もできない日に待ってもらえなかったら、昨日待ってくれたことまで、間違いだったみたいになる」
ハルは、すぐに否定しなかった。
「それは怖いですね」
「うん」
「でも、私には直樹さんの答えを決められません」
「分かってる」
「聞くしかないです」
「聞いて、違ったら?」
「その時は、またここでスープを出します」
めぐみが顔を上げる。
「それだけ?」
「それ以上、私に何ができるんですか」
ハルは少し不満そうに言った。
「直樹さんの代わりに好きだとか待つとか言ったら、私が怒られます」
めぐみの口元が、ほんの少し動いた。
ハルはそれを見ても笑わなかった。
「昨日から、めぐみさん、役に立ったかどうかばっかり気にしてますよね」
「そんなことない」
「えりさんにも聞いてました」
「聞こえてたの?」
「廊下で話せば聞こえます」
ハルは当番表へ目を向けた。
「それで、今日は人の仕事を三つ取ろうとした」
「何かしていた方がいいから」
「どうして?」
めぐみは答えられなかった。
ハルは追い込まなかった。
スープの器を指で示す。
「ミーシャは、なおと森へ入れる」
めぐみが言った。
「はい」
「なおが大丈夫って言っても、本当に大丈夫か確認できる」
「そうですね」
「大庭さんは……」
そこで言葉が止まった。
熊を撃った。
なおを助けた。
どちらを言っても、自分にはできないことだった。
「私は、話を聞くだけだった」
「魚のことを聞きました」
「遅かった」
「眼鏡のことも」
「死んだあとだった」
ハルは、今度も否定しなかった。
「もっと上手に聞けてたら、長峰さんは死ななかったかもしれない」
「そうかもしれません」
めぐみがハルを見る。
「でも、違ったかもしれません」
「どっちなの?」
「知りません」
ハルは言った。
「私が見てないところで起きたことを、分かったふりはできません」
「じゃあ、何も言えない」
「言えることはあります」
ハルは食堂の壁を指した。
当番表の中に、一つだけ役割欄が空いた名前があった。
前夜から熱を出している子どもだった。
「今日は、この子も仕事がありません」
「熱があるからでしょう」
「はい」
「私は熱ないよ」
「頭の中が働きすぎです」
「そんな病気ない」
「では、休養理由は『ハル判断』にします」
「勝手に決めないで」
「だったら、自分で書いてください。今日は何もしないって」
めぐみは立ち上がり、当番表の前へ行った。
大人の欄に、
健二。
ハル。
えり。
めぐみ。
と名前が並んでいる。
健二の横には、倉庫、昼食、車両。
ハルの横には、配膳、洗濯、子ども。
めぐみの横は空白だった。
「何か書いて」
「嫌です」
「どうして?」
「今日は休ませたいからです」
「じゃあ、私はいらないんでしょう」
ハルが大きく息を吐いた。
「どうして、そうなるんですか」
「仕事がないから」
「今日は、ないだけです」
「明日は?」
「手伝ってもらいます」
「何を?」
「子どもたちのことも、学校のこともです」
ハルは一度、食堂の入口を見た。
健二は倉庫へ行っていて、そこにはいない。
「それに、私も困ってます」
「ハルさんが?」
「健二さんのことです」
めぐみが少しだけ表情を変える。
「健二さんが、どうしたの?」
「どうしたのかを言わないから困ってるんです」
ハルは白墨を机へ置いた。
「疲れていても平気って言います。食べてなくても、あとでって言います。聞いても必要なことしか答えません」
「なおと似てる」
「兄弟ですからね」
ハルは小さくため息をついた。
「私も、健二さんに言いたいことがあるのに、忙しい顔をされると後回しにします」
「何を言いたいの?」
「それは今ここでは言いません」
「私には相談してほしい?」
「してほしいです」
ハルは即答した。
「健二さんのことも、私のことも。二人だけだと話が進まない時がありますから」
「私が間に入るの?」
「ずっと間に入ってほしいわけじゃないです」
少しだけ視線を逸らす。
「でも、私が逃げそうな時に、逃げてますよって言ってほしいです。健二さんが全部一人で決めようとした時も、止めてほしい」
「ハルさんが言えばいいのに」
「言える時ばかりじゃないです」
ハルは少し不機嫌そうに言った。
「だから、めぐみさんにもいてほしいんです。私一人であの兄弟まで面倒を見るのは無理です」
「なおも入ってるの?」
「入ってます。勝手に危ない所へ行く人が二人いるので」
めぐみの口元が、もう一度わずかに動いた。
「じゃあ、私は必要?」
「そういう聞き方はずるいです」
ハルは、めぐみの名前の横に白墨を置かなかった。
「必要だから、今日は壊れるまで働かせないんです」
「何もしなくても?」
「今日は、です」
「名前は?」
「消しません」
ハルは当番表の空白を指した。
「今日は役割がない。それだけです」
「空欄のままでいいの?」
「駄目なら、熱のある子にも薪割りをさせるんですか」
「させない」
「同じです」
「同じじゃないよ」
「全部同じとは言ってません」
ハルはめぐみの前へ戻り、残ったスープを指した。
「めぐみさんは、今日休む。明日からは、また手伝ってください。私と健二さんのことも含めて」
「今、話してもいいよ」
「駄目です」
「どうして?」
「今話したら、めぐみさんは自分のことから逃げるために、全力で私たちの世話をするでしょう」
「しないよ」
「します」
ハルは即答した。
「だから、まず自分の分を食べてください。私と健二さんのことは、そのあとです」
めぐみは当番表を見る。
名前の横は白い。
何も書かれていない。
それでも、名前そのものは残っている。
*
昼前、えりが記録室へ入った。
中部市場からの連絡を受け、扉を閉める。
めぐみとハルは、廊下で待った。
内部回線の声は外へ漏れない。
数分後、えりが出てきた。
手には時刻を書いた紙がある。
「森で、人体の一部が見つかった」
めぐみは立ったまま聞いた。
「長峰さん?」
「現場ではまだ名前を決めていない」
「どんな状態?」
えりは、めぐみの顔を見てから答えた。
「頭部の骨。下半身の一部。大腿骨」
ハルの指が、前掛けの端を握った。
「熊が、倒木の根元へ運んでいた。土と落ち葉と枝をかけて隠していた」
「どうして?」
「あとで戻るため」
めぐみの胃の奥が縮んだ。
熊は長峰を殺して終わったのではない。
人間の身体を食料にし、残りを隠し、自分が戻る場所として覚えていた。
「今、照合へ回してる」
えりは言った。
「名前が確定したら、もう一度伝える」
「何かすることは?」
言った直後、自分で気づいた。
また仕事を探している。
えりは答える前に、食堂の当番表を見た。
めぐみの名前。
空白の役割欄。
「今日はない」
胸に細い痛みが走った。
ハルは何も言わない。
めぐみは自分の名前を見る。
「分かった」
何かを任せてほしいとは言わなかった。
*
正午を少し過ぎた頃、国境第三から生体照合の結果が届いた。
現場で回収された人体の一部。
前日に採取した血痕。
熊の胃から見つかった組織片。
すべてが同一人物に由来する。
九州中央圏への入域時に登録された生体情報とも一致した。
えりは、めぐみとハルを記録室へ呼んだ。
「確認が終わった」
めぐみは黙って待つ。
「長峰俊夫。死亡が正式に記録される」
昨日まで推定だった名前が、死者の記録へ移った。
めぐみは目を閉じなかった。
「名前は残る?」
「残る」
「何をした人かも?」
「罠を壊したことも、魚を置いたことも、そこで死んだことも。分けて残す」
「悪い人として?」
「記録は、人を一つの言葉にしない」
えりは答えた。
「したことを残す。名前も残す」
めぐみは当番表の方を見る。
仕事をしなくても残る名前。
死亡が確認されたあとも残される名前。
置かれる場所は違う。
それでも、役割が終わったから消されるわけではなかった。
*
直樹たちが戻ったのは、午後一時を過ぎてからだった。
車の音が校庭へ入る。
子どもたちが窓へ集まりかけ、健二が廊下から手を振った。
「今は道を空けろ。話は荷物を下ろしてからだ」
大庭が最初に車を降りた。
銃は覆いへ戻している。
「腹減った」
玄関に立つ健二へ顔を向ける。
「健二さん、何か残ってます?」
「荷物を下ろしたらな」
大庭が直樹を見る。
「マッシー、先に飯にしようぜ」
「記録箱が先だ」
「この兄弟、飯の前に必ず働かせるよな」
「働いたやつには出す」
健二が言った。
「ほら、ひと言多い」
大庭は車の後部へ回り、記録箱を持ち上げた。
ミーシャがもう一つの器材箱を下ろす。
「NAO、こちらを」
「ああ」
直樹が受け取る。
めぐみは、食堂の入口に立っていた。
手には何も持っていない。
昼食を作ったわけでもない。
帰還者の記録を受け取る係でもない。
直樹がめぐみに気づいた。
「ただいま」
「おかえり」
直樹は当番表を見る。
めぐみの名前の横には、何も書かれていない。
「今日は何もしてない」
めぐみが先に言った。
報告ではなかった。
直樹がどう反応するかを確かめる言葉だった。
「そうか」
直樹は空欄を見たまま言った。
「休めたか」
「少し」
「ならいい」
新しい仕事を渡さなかった。
空欄を埋めようともしなかった。
めぐみは直樹の顔を見る。
失望しているようには見えない。
安心したようにも見えない。
ただ、昨日までと同じ目で自分を見ていた。
「なお」
「何だ」
聞こうとした。
何もできない日にも待つのか。
ミーシャのように森へ入れなくても。
大庭のように命を救えなくても。
言葉さえ間に合わなくても。
それでも隣にいるのか。
まだ、口にするのは怖かった。
「ご飯、食べる?」
「ああ」
「私、作ってないけど」
「誰が作った飯でも、飯は飯だろ」
「手を洗ってからです」
ハルの声が食堂の奥から飛んできた。
「直樹さんも、大庭さんも、ミーシャさんも。健二さんも、倉庫から戻ったら洗ってください」
「俺もかよ」
健二が廊下から言う。
「一番洗ってください。さっき油を触ったでしょう」
「見てたのか」
「見なくても分かります」
大庭が笑う。
「健二さん、強い人に捕まったな」
「お前も早く洗え」
直樹が食堂へ入る。
めぐみも隣を歩いた。
何も運ばない。
何も報告しない。
ただ、自分の席へ向かう。
壁の当番表では、名前の横が白いままだった。
直樹は、その空欄を埋めようとはしなかった。
めぐみは椅子へ座る。
手には何も持っていない。
怖さは消えていない。
次も待ってくれるのかは、まだ聞けていない。
それでも、めぐみは席を立たなかった。




