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第百五十六話 食べられない肉

## 第百五十六話 食べられない肉


 林縁に明かりが見えたのは、午後八時を回ってからだった。


 最初に現れたのはミーシャだった。


 白石を載せた担架の前を持ち、足元を確かめながら後ろ向きに斜面を下りてくる。


「段差」


「見えてる」


 反対側を持つ直樹が答えた。


「NAO、右へ十センチ」


 直樹が担架をずらす。


 白石の右脚を固定した添え木が、木の根を越えた。


 その後ろから大庭が下りてくる。


 銃口を下へ向け、数歩進むたびに暗い林を振り返っていた。


 市場の搬送班が担架を受け取ろうと近づく。


「まだ」


 直樹が止めた。


「平らな場所まで俺たちで運ぶ」


 白石は目を開けていた。


 唇に色がない。


 肩へ巻かれた布は血を吸い、携帯灯の下で黒く見えた。


 林の中で鳴っていた歯の音は、もうしなかった。


 代わりに、小さく同じ言葉を繰り返している。


「長峰先生が……」


 誰に向けているのかは分からなかった。


「長峰先生が、まだ……」


 めぐみとえりは、農道の入口で待っていた。


 白石を林縁まで運び出すという連絡を受け、臨時学校から七百メートルの道を歩いてきた。


 照明車は入れていない。


 農道の脇へ並べられた携帯灯だけが、泥と長靴を低く照らしていた。


「白石さん」


 めぐみが声をかける。


 白石の目が動いた。


「長峰先生を……」


「明るくなってから、また探します」


「今じゃないと」


「今入ったら、探す人まで戻れなくなります」


 白石の目尻から涙が流れた。


「私が止めればよかった」


 めぐみは答えられなかった。


 自分の中にも、似た言葉があった。


 もっと早く聞けていたら。


 もっと強く問い直していたら。


 違う言葉に見えて、底では同じだった。


 担架が市場側へ運ばれていく。


 えりは搬送班へ、確認できた事実だけを伝えた。


「右脚は骨折の可能性。左肩から背中に裂傷。意識は保ってる。医療判断は受入先に任せて」


 白石が運ばれたあと、めぐみは直樹を見た。


 上着の背中が大きく裂けている。


 泥が頬から首へ乾きついていた。


「怪我してないって言った」


「してない」


「背中は?」


「袋をやられた」


 ミーシャが直樹の後ろへ回る。


 裂けた上着を持ち上げ、その下を確かめた。


「NAO、左に擦り傷があります」


「枝だ」


「NAOの申告だけでは足りません。確認します」


「浅い」


「見せて」


 直樹は黙って上着を脱いだ。


 ミーシャの指には、白石の血が残っている。


 直樹の背中へ触れる手に迷いはなかった。


 傷の縁を押さず、泥だけを拭う。


 肩を動かさせ、皮膚の引きつれを確かめる。


「皮膚だけです。洗浄は必要です」


「言っただろ」


「言ったことと、確認できたことは別です」


 大庭が暗い林から、ようやく目を離した。


「マッシーの『平気』は報告じゃなくて願望だからな」


「お前に言われたくない」


「俺は撃った数まで正直だぞ」


 大庭の声には、普段の軽さが少しだけ戻っていた。


 それでも銃から手を離さない。


 えりが大庭を見る。


「一発?」


「一発です」


「二発目を撃たなかった理由」


「熊の後ろに、ミーシャさんと白石さんがいた」


「確認した」


 えりは手帳へ書いた。


 大庭は直樹へ目を向けた。


「マッシー」


「何だ」


「あれ以上、右へ出てたら撃てなかった」


「ああ」


「左でも駄目だった」


「分かってる」


「次はやめろよ」


「何を」


「自分が餌になる動き」


「白石から離した」


「結果は知ってる」


 大庭は笑わなかった。


「あの距離で走られたら、人間の足じゃ選び直せない。次も俺の線が開くとは限らない」


「分かった」


「本当に?」


「分かった」


 大庭はそれ以上言わなかった。


 林の中では「真柴」と呼んでいた。


 直樹が生きて林を出たあとで、ようやくマッシーに戻った。


 めぐみは直樹の前へ立った。


「戻るって言った」


「ああ」


「戻ってきた」


「ああ」


 それだけだった。


 約束は守られた。


 それでも、胸に残ったものは消えなかった。


 長峰は戻っていない。


 自分が無線で送った魚の情報は、直樹たちへ届いた。


 けれど、長峰には間に合わなかった。


     *


 白石を林縁へ出したあと、直樹たちは熊の場所へ戻らなかった。


 大庭が確認した長峰の片方の靴と血痕、引きずった跡の始点だけを記録し、それより奥への追跡を止めた。


 熊の死体のそばへ人員も残さない。


 死んだ熊が動かなくても、血の匂いは別の動物を呼ぶ。


 林へ入る二本の道を閉じ、市場側の人員は林縁より外へ置いた。


 えりは臨時学校へ戻ると、最初に旧南第三へ回線をつないだ。


「白石澄江は生存。長峰俊夫は未発見」


 予定表を見ている相手へ、短く伝える。


「直樹、ミーシャ、大庭、めぐみ、私の五人は中部市場へ残る。明朝六時に捜索再開」


 受話器の向こうで確認の声が返る。


「学校からは誰も出さないで。帰還時刻は、明日の第一報で改める」


 それだけを伝え、通話を終えた。


 直樹と大庭、ミーシャは二時間だけ眠った。


 めぐみは眠れなかった。


 臨時学校二階の連絡卓のそばで、聞き取り用紙を何度も読み返した。


 長峰俊夫。


 黒縁眼鏡。


 左の蝶番を銀色の線で補修。


 茶色の上着。


 定点カメラ。


 干した魚。


 紙を読み返しても、新しい答えは増えなかった。


     *


 午前六時。


 捜索班が再び林へ入った。


 直樹とミーシャが前を進む。


 国境第三から来た保全担当者二人が、記録器材と回収容器を持って続いた。


 大庭は前日と同じ古い搬出路へ上がる。


『マッシー。上は見える』


「了解」


『昨日の熊以外にもいる前提で行け』


「ああ」


 林へ入って数分後、大庭の声が変わった。


『真柴。右の藪、視界なし』


 直樹が拳を上げる。


 全員が止まった。


「ミーシャ」


 ミーシャが地面と枝先を見る。


「夜間に大型動物が通った新しい痕跡はありません」


『三十先まで進んでいい』


 直樹たちは歩き出した。


 熊の死体は、前夜とほとんど同じ場所にあった。


 横倒しになった巨体の周囲だけ、落ち葉が押し潰されている。


 朝の光で見れば、夜より小さく感じるはずだった。


 実際には逆だった。


 肩から背中へ続く厚み。


 人間の腕より太い前脚。


 地面へ半分食い込んだ爪。


 開いた口の奥に並ぶ歯。


 あれが四十メートルの距離を、一度の呼吸で詰めた。


 あの身体が、木の間をほとんど音も立てずに歩いた。


 直樹の背負い袋は、熊の前脚の下で潰れていた。


 布は裂かれ、中の金具まで曲がっている。


 保全担当者は、死体へ近づく前に長い棒で鼻先と眼球の反応を確認した。


 動きはない。


 それでも誰も、すぐには触らなかった。


 大庭が搬出路から下りてくる。


「マッシー」


「何だ」


「昨日、白石さんは、あれが立ったって言ってたな」


「ああ」


「立ってない」


 大庭は熊を見る。


「四本脚のままで、十分でかかった」


 直樹は答えなかった。


 恐怖の中では、相手を実際より大きく記憶することがある。


 だが、この熊については、どこまでが誇張なのか分からなかった。


 保全担当者が周囲の記録を始める。


 血痕。


 足跡。


 銃弾が入った位置。


 直樹が走った経路。


 白石が倒れていた場所。


 長峰の靴が見つかった位置。


 そこから斜面の上へ、引きずった跡が続いている。


 熊の死体から離れるほど、血は少なくなった。


 途中で、茶色い布が枝に残っていた。


 上着の袖だった。


 さらに十五メートル先で、地面が広く荒れている。


 人間の靴跡は、そこで消えた。


 代わりに、熊の足跡だけが死体の方角へ戻っている。


 ミーシャがしゃがむ。


「ここで身体を持ち上げています」


「どこへ運んだ」


「熊が戻った方向です」


 直樹は熊の死体を見る。


 大庭の表情から軽さが消えた。


「真柴」


「ああ」


「熊の周囲を、もう一度分けて調べる」


     *


 熊の下から、人間の身体は見つからなかった。


 周囲の落ち葉を分けても、長峰の姿はない。


 見つかったのは、血のついた上着の布。


 片方の登山靴。


 破損した携帯灯。


 熊が一度伏せたと思われる、深い窪み。


 その土に、細い透明な破片が落ちていた。


 眼鏡のレンズにも見える。


 だが、小さすぎた。


「触るな」


 直樹が言った。


 保全担当者が位置を撮影し、番号を置く。


 器具で拾い、個別の容器へ収めた。


 大庭が熊を見る。


「中か」


 誰も答えなかった。


 答えを確かめるには、熊を開かなければならなかった。


     *


 熊は中部市場の獣肉処理棟へ運ばれた。


 普段なら、鹿や猪を解体し、肉と皮と内臓を分ける場所だった。


 撃った動物を無駄にしない。


 食べられる部分を取り、脂や皮も使う。


 それが、この土地で動物を殺す時の最低限の責任だった。


 だが、その朝、処理棟の入口には赤い札が下げられた。


 食用処理禁止。


 証拠保全中。


 市場の男が、台車に載せられた熊を見た。


「全部、駄目なのか」


 えりが答える。


「今は何も食用へ回せない」


「肉だけでも相当あるぞ」


「分かってる」


「学校にも回せる」


「分かってる」


 男は熊の腹を見る。


 鹿や猪なら、何十人分もの食事になる。


 冬を越すための肉が、目の前にある。


 それでも、誰も刃物を入れて切り分けることはできなかった。


 熊は食料ではなく、事件の現場になっていた。


 処理棟へ入ったのは、市場の獣医師、証拠保全担当者、警察側の立会人だけだった。


 えりは隣接する管理室で、映像と記録票を確認する。


 直樹と大庭はガラスの外側にいた。


 二人とも熊へ接触した当事者であり、大庭は射撃した本人でもある。


 証拠へ触れる位置には入れなかった。


 ミーシャは処理棟の外で装備を洗浄している。


 めぐみは管理室の入口に立っていた。


 えりが振り返る。


「無理に見る必要はない」


「見る」


「見たあと、戻せないものもある」


「眼鏡のことを聞いたのは私だから」


 えりは少しだけ間を置いた。


「そう」


 止めなかった。


 画面に熊の身体が映る。


 外から見えていた大きさと、開かれていく内部の大きさは別だった。


 胃の中から、干した魚の骨と透明な袋の一部が出る。


 木片。


 草。


 黒い布。


 獣医師の手が止まった。


 白い受け皿へ、小さな黒い物が置かれる。


 えりが処理棟側の通話器を取った。


「何が出た」


『人工物です。黒い樹脂片』


「形は」


『眼鏡のフレームに見えます』


 めぐみの手が、膝の上で固まった。


 洗浄された樹脂片。


 曲がった金属。


 半分に割れた蝶番。


 その周囲へ巻きついた、細い銀色の線。


 めぐみは聞き取り用紙を開いた。


 自分が書いた文字がある。


 左の蝶番。


 銀色の線で補修。


「えり」


「見えてる」


「長峰さんの……」


「まだ決めない」


 えりの声は低かった。


「似た特徴の物が出た。今はそこまで」


 処理棟の映像で、獣医師の動きが再び止まる。


『作業を中断します』


「理由は」


『人体由来の可能性がある組織片です』


 画面の中で、全員が手を止めた。


 その時点から、作業は通常の獣肉処理ではなくなった。


 使用していた器具を下げる。


 手袋と防護具を交換する。


 胃内容物を、発見位置ごとに別の容器へ移す。


 映像記録の時刻を読み上げ、容器番号を一つずつ確認する。


 以後は、証拠採取として作業が再開された。


 めぐみは画面から目を逸らさなかった。


 熊が恐ろしかったのは、生きて走ってきた時だけではない。


 止まったあとも、その身体の中に人間を隠していた。


 長峰が最後に何を見たのか。


 何を叫んだのか。


 どこで息が止まったのか。


 熊の胃は何も説明しない。


 ただ、飲み込んだ物だけを返してくる。


     *


 眼鏡だけで、長峰とは決めなかった。


 九州中央圏から中部へ入った際の本人確認写真には、黒い樹脂製の眼鏡が写っていた。


 左の蝶番には、細い銀色の線が巻かれている。


 前日に団体が撮影した映像にも、長峰が同じ眼鏡を押し上げる姿が残っていた。


 宿泊時の所持品記録には、眼鏡一とある。


 補修の状態は、写真と映像で確かめた。


 白石には、医療側を通して画像だけを確認してもらった。


 返事は短かった。


 長峰先生の物です。


 残った四人も、同じ補修をした眼鏡を持つ者はほかにいないと認めた。


 現場で見つかった片方の登山靴は、宿泊区画に残されていたもう片方と一致した。


 茶色い布も、長峰の上着と同じものだった。


 現場の血痕と、熊の胃から見つかった組織片は、国境第三の保全班へ回された。


 九州中央圏への入域時に登録された生体照合情報との比較も依頼した。


 携行医療票は血液型と既往歴の確認には使う。


 だが、それだけで個人を確定することはしなかった。


 事実は、一つずつ同じ方向へ集まっていた。


 それでも、急いで名前を置くことはできない。


 えりは、直樹と大庭を無線室へ入れた。


 扉を閉める。


 めぐみは管理室に残った。


 内部回線の声は聞こえない。


 えりは国境第三の久世と、警察側の黒瀬へ中継回線をつないだ。


「こちら末安。熊胃内容物から、眼鏡フレームと思われる人工物と、人体由来疑いの組織片を回収」


『眼鏡の照合は』


 黒瀬の声が返る。


「入域時写真、前日映像、同行者供述で特徴が一致」


 えりは一度言葉を切った。


「眼鏡だけでマル害(被害者)を長峰に固定しない」


『続けろ』


「現場の靴、上着、血痕、胃内容物、生体照合。全部重ねる」


『それでいい』


 黒瀬が答えた。


『ロクは』


「ロク(遺体)として回収できる状態のものは未確認」


 久世が聞く。


『死亡記録は』


「生体照合の結果が出るまで推定。名前は消さない。確定も急がない」


『了解』


 通信が切れる。


 えりは記録時刻を書き、無線室の扉を開けた。


 めぐみへ話す時には、普通の言葉へ戻っていた。


「眼鏡だけでは決めてない。靴、上着、血痕、組織の確認も全部重ねる」


「うん」


「あなたが聞いた特徴も、その中の一つ」


 直樹が無線室から出てくる。


「めぐみ」


「何?」


「眼鏡の記録、助かった」


 また、その言葉だった。


 助かった。


 前日は、その言葉が嬉しかった。


 自分にもできることがある。


 直樹の隣に立てる。


 そう思えた。


「誰が?」


 めぐみが聞いた。


 直樹が止まる。


「何が」


「誰が助かったの?」


 声が少し掠れた。


 めぐみは息を整える。


「眼鏡が長峰さんの物かもしれないって分かった」


「ああ」


「名前を間違えずに済む」


「ああ」


「でも、長峰さんは助かってない」


 直樹は答えなかった。


「私が聞いたことは、間に合わなかった」


「魚の情報は間に合った」


「白石さんに?」


「白石にも、俺たちにも」


「それで、私は役に立った?」


 直樹の眉がわずかに動く。


「役に立ったかどうかの話じゃない」


「さっき、助かったって言った」


「事実だ」


「じゃあ、聞けなかったことは?」


 直樹は言葉を探した。


 めぐみには、それが見えた。


 何も悪くないと言えば、情報が遅れた事実を消すことになる。


 めぐみの責任だと言えば、事実を隠した者の行為を消すことになる。


「全部は聞けなかった」


 直樹が言った。


「でも、お前が隠したんじゃない」


「長峰さんにとっては、同じじゃないの?」


 直樹はすぐには答えなかった。


「同じだったかもしれない」


 めぐみの胸が縮む。


「でも、だからお前が隠したことにはならない」


「違いが分からない」


「今は分からなくていい」


「なおは分かるの?」


「分からないまま、分けてる」


 処理棟の中で、金属の器具が置かれる音がした。


 直樹の後ろからミーシャが歩いてくる。


「NAO」


 直樹が振り返る。


「右手を見せて」


「何ともない」


「熊から逃げた時に、右手を地面へついています」


「あとでいい」


「今、確認します」


 ミーシャは直樹の右手を取った。


 以前傷めた神経のある手だった。


 指を一本ずつ動かさせる。


 触れた位置を答えさせ、握る力を確かめる。


 直樹は抵抗しなかった。


 めぐみは二人を見た。


 ミーシャは森の中で直樹を支えた。


 白石の血を止めた。


 熊が出た時も、直樹のすぐ近くにいた。


 今も、直樹が自分では確認しない異常を確かめている。


 大庭もそうだった。


 彼が撃たなければ、直樹は戻らなかったかもしれない。


 二人の仕事は、目に見える形で人を生かした。


 それに比べて、自分がしたのは言葉を聞くことだった。


 しかも、必要な言葉を全部は聞けなかった。


 直樹がめぐみを見る。


「続きは帰ってから話す」


「うん」


 めぐみは頷いた。


 自分から数歩離れた。


 逃げたわけではない。


 まだ記録作業が残っている。


 そう言い聞かせた。


     *


 午後、熊の処理方針が決まった。


 肉。


 皮。


 脂。


 骨。


 すべてを証拠として保全する。


 食用には回さない。


 市場の冷蔵区画を一つ空け、封印した容器を収める。


 農家の男が、冷蔵庫の扉の前で立ち尽くした。


「あれだけの肉があるのに」


 誰へ言ったのでもなかった。


 奥村先生が答える。


「子どもたちには、別の食料を回します」


「別の食料があればな」


 男は閉じた扉を見る。


「殺したのに、食えない」


 大庭が、少し離れた場所に立っていた。


 自分が撃った熊が容器へ分けられ、冷蔵区画へ運ばれるのを見ている。


「航平」


 直樹が呼んだ。


「何ですか」


「お前が悪いわけじゃない」


「分かってる」


「そうは見えない」


 大庭は鼻から息を吐いた。


「撃たなきゃ、マッシーがやられてた。白石さんも危なかった」


「ああ」


「だから撃った。そこは迷ってない」


「なら何だ」


「あれだけの肉を駄目にしたのは、俺じゃない」


 大庭は冷蔵庫を見る。


「でも、引き金を引いた手だけは俺のだからな」


 直樹は何も言わなかった。


「マッシー」


「何だ」


「今度、俺がくだらないことで悩んでたら、酒を出せ」


「酒はない」


「そこを何とかするのが兄貴分だろ」


「誰が兄貴分だ」


 大庭が少しだけ笑った。


 それで終わった。


     *


 夕方、国境第三の保全班から暫定照合が返った。


 現場の血痕と、熊の胃から見つかった組織片は、同一人物に由来する可能性が極めて高い。


 九州中央圏の入域時生体情報との最終照合は、まだ続いている。


 それでも、


 眼鏡。


 靴。


 上着。


 血痕。


 胃内容物。


 前日の映像。


 同行者の証言。


 複数の事実が、長峰俊夫という一人の名前へ集まっていた。


 えりは死亡推定記録を作った。


 確定という文字は、まだ使わない。


 書類の一番上へ、


 長峰俊夫。


 と書く。


 めぐみはその横にいた。


「眼鏡の補修について、あなたが聞いた時刻を確認して」


「午後五時十二分」


「誰から」


「同じ団体の女性。長峰さんを最後に見た人」


「記録と合ってる」


 えりは時刻を書き加えた。


「これでいい?」


「うん」


 めぐみは書類を見た。


「私、役に立った?」


 えりの手が止まった。


 直樹に聞いたのと同じ質問だった。


 えりなら、別の答えを出せるかもしれない。


 そう思った。


「今は答えない」


「どうして?」


「今のめぐに答えたら、その答えを居場所の判定に使うから」


 めぐみがえりを見る。


「役に立ったと言えば、ここにいていいと思う」


「そんなこと」


「役に立たなかったと言えば、自分の名前を名簿から外そうとする」


 えりは書類の端を揃えた。


「だから、今は答えない」


「でも、私は聞けなかった」


「聞けなかったことはある」


「人が死んだ」


「隠した人がいる」


「もっと上手なら」


「上手なら、必ず相手が本当のことを言うの?」


 めぐみは答えられなかった。


「警察でも、軍でも、医者でも、全部は間に合わない」


 えりは書類にある名前を指した。


「だから、間に合わなかったあとに、誰だったかを消さない」


「それで救ったことになる?」


「ならない」


 えりは即座に答えた。


「救えなかった人を、救ったことにはしない」


 その言葉は優しくなかった。


 だから、めぐみの胸へ入った。


「でも、名前を戻すのは必要」


 えりは書類を閉じた。


「仕事がない日と、名前がない日は別だから」


 めぐみは冷蔵区画の方を見る。


 扉の向こうには、食べられない肉がある。


 熊の肉。


 長峰の名前へつながったもの。


 どちらも、もう元の場所へは戻らない。


 廊下の向こうを直樹が歩いていた。


 ミーシャが隣にいる。


「NAO、夕食を取ってください」


「あとで」


「今です」


 少し遅れて、大庭が続く。


「マッシー、今日は諦めろ。あの人、医者より聞かないぞ」


「お前も食え」


「俺は腹減ってます」


 三人は同じ現場から戻ってきた。


 互いの傷と、限界と、必要なものを知っている。


 めぐみには入れない場所がある。


 自分には分からない合図がある。


 自分より早く、直樹の異変へ気づく人がいる。


 その事実が、胸の内側へ小さな棘を残した。


 自分は長峰を救えなかった。


 直樹たちは白石を連れて帰った。


 めぐみは書類の上にある名前を見る。


 長峰俊夫。


 名前を残すことはできた。


 だが、それを自分の価値にしてよいのかは分からない。


 えりが書類を抱えて立ち上がる。


「戻るよ」


「どこに?」


「学校」


「まだ仕事がある」


「市場の仕事は、今日は終わり」


「でも」


「めぐ」


 えりは振り返った。


「仕事が終わった人間も帰るの」


 めぐみは、すぐには立てなかった。


 役割を置いたあとも帰ってよい。


 何も提出できない日にも、戻ってよい。


 その考えは、まだ自分のものになっていなかった。


 建物の出口に、直樹が立っていた。


 ミーシャと大庭は、先に車へ装備を運んでいる。


 直樹だけが残っていた。


「何かあるの?」


 めぐみが聞いた。


「ない」


「聞きたいことは?」


「ない」


「じゃあ、どうして待ってるの」


 直樹は少し考えた。


「一緒に帰るから」


 めぐみは手元を見た。


 書類は、えりが持っている。


 新しい情報もない。


 自分の手には、何も残っていなかった。


 それでも直樹は、先に行かなかった。


 めぐみは立ち上がる。


 何も持たずに、出口へ向かった。


 直樹は歩き出した。


 前へは出ない。


 めぐみの隣へ並び、その速度に合わせた。


 胸の中の問いは、まだ消えていなかった。


 何もできなかった日にも、この人は待つのか。


 答えはまだ怖かった。


 けれどその夜、直樹は仕事の終わっためぐみを待っていた。


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