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第百五十五話 森は答えない

## 第百五十五話 森は答えない


 林へ入って三十歩で、畑の音が消えた。


 農家の怒鳴り声も、市場の車も、風に鳴る支柱も、木々の後ろへ押し戻された。


 残ったのは、湿った土を踏む音と、自分たちの呼吸だけだった。


 直樹は足を止める。


 半歩後ろにいたミーシャも、同時に止まった。


 地面に二種類の靴跡が残っている。


 底の硬い登山靴。


 その外側を追う、小さな靴跡。


 長峰が先。


 白石が後ろ。


 だが、人間の跡は途中から別のものに踏まれていた。


 五本の指。


 深く刺さった爪。


 湿った地面を押し潰した、大きな前脚。


 直樹は膝をつく。


 跡には触れなかった。


 足跡の底に、水は溜まっていない。


「新しい」


 ミーシャが声を落とした。


「ああ」


 熊は、二人が通ったあとを歩いている。


 人間は熊を見つけていない。


 だが熊は、すでに人間の匂いを取っている可能性が高い。


『マッシー』


 耳元の無線から、大庭の声が入った。


 大庭は直樹たちと同じ道には入っていなかった。


 林縁から斜面を上がり、古い搬出路を並行して進んでいる。


 直樹たちより五十メートルほど高く、横へも六十メートル以上離れた位置だった。


 広い範囲を見渡せる代わりに、木の幹が一本入れば射線は消える。


『風が変わった。下から上へ流れてる』


 直樹は頬に当たる空気を確かめた。


「こっちの匂いが、お前の方へ抜けるか」


『途中で林の奥へ巻いてる。向こうは、もう俺たちを知ってると思え』


「了解」


 直樹たちには熊の姿が見えていない。


 大庭にも見えていない。


 それでも、熊だけは三人の位置を知っているかもしれない。


 森の中では、姿を見せない側が先に選べる。


 近づくか。


 離れるか。


 後ろを取るか。


 人間には、その決定が下されたあとしか分からない。


 直樹は歩き出した。


 右手は下げたまま。


 道具には触れない。


 ミーシャも足跡の外側を進む。


 落ち葉を踏まない場所を選びながら、白石の靴跡を追った。


 低い枝に、紺色の布が引っかかっていた。


 直樹が拳を上げる。


 二人が止まる。


 白石が持っていた肩掛け鞄と同じ色だった。


 肩紐の金具が外れ、鞄だけが地面へ落ちている。


 近くに片膝をついた跡があった。


 そこから白石の歩幅が短くなっている。


「転倒しています」


 ミーシャが言った。


「立ち直ってる」


 靴跡は続いていた。


 白石は足を痛めたあとも、長峰を追った。


 直樹は鞄の位置を無線で送る。


「市場、聞こえるか」


『聞こえてる』


 えりの声だった。


「白石の物と思われる紺色の鞄。林縁から百六十。肩紐の金具が外れてる。本人の靴跡は継続」


『鞄には触らないで』


「触ってない」


『熊の跡は』


「二人の後ろから重なってる」


 一拍置いて、えりが答えた。


『現時点では二人とも生存者として追って。変化があればすぐ入れて』


「了解」


 無線が切れる。


 直樹は枝の間を見る。


 何もいない。


 動く影もない。


 森で最も恐ろしいのは、何かが見えている時ではなかった。


 こちらを見ているものが、どこにいるか分からない時だった。


     *


 中部市場の臨時学校から北側農地の入口までは、直線で七百メートルほど離れていた。


 林縁は、そこからさらに二百メートル先にある。


 直樹たちは、その奥へ入っている。


 市場の建物から見れば、一キロ近く離れた暗い森だった。


 六人への聞き取りには、臨時学校として使われている建物の二階を使っていた。


 高瀬は教室。


 撮影していた女性は、廊下を挟んだ準備室。


 残った二人は、奥村先生の事務机がある小部屋と、隣の空き教室へ分けている。


 めぐみは、その三部屋を行き来していた。


 えりは教室前の廊下に折り畳み机を出し、聞き取り記録と外出名簿を広げている。


 二人の距離は、離れても十メートルほどだった。


 めぐみが準備室から呼べば、えりにはそのまま声が届く。


 無線が必要なのは、二人の間ではない。


 一キロほど先の林へ入った直樹たちと話すためだった。


 林内の三人とは、市場の固定局から直接つながる。


 国境第三の久世へ報告する時だけ、別回線の中継を通した。


 めぐみは準備室で、撮影を担当していた女性と向かい合った。


「長峰さんが、定点カメラを持ってきたことは知っていましたか」


「はい」


「昨日、設置するところも見た?」


「遠くからです」


「何を撮るために?」


「熊が来ないことを証明するためです」


 女性は膝の上で手を重ねていた。


 片方の爪が、もう片方の手の甲へ食い込んでいる。


「カメラだけですか」


「どういう意味ですか」


「動物を画面の前へ呼ぶために、何か置きませんでしたか」


「置いていません」


 返事が早かった。


 女性の目が、開いた扉の向こうへ動く。


 廊下の反対側には、高瀬のいる教室がある。


 高瀬の姿は見えない。


 それでも女性は、そこにいる人間の顔色を確かめるように、扉の方を見た。


「長峰さんは、何を持って林へ入りましたか」


「カメラと三脚です」


「鞄は?」


「持っていたと思います」


「中に何が入っていたか、知っていますか」


「知りません」


「昨日、市場で何か受け取るところを見ましたか」


「見ていません」


 めぐみは質問を変えなかった。


「長峰さんは、何を持っていきましたか」


「知りません」


「カメラだけですか」


「そうだと思います」


「見たんですか」


「……いいえ」


「では、知らないんですね」


 女性は口を閉じた。


 廊下で無線の雑音が鳴る。


 えりが短く応答した。


 めぐみは振り返らない。


 目の前の女性が、爪をさらに強く食い込ませた。


「長峰さんを助けるために聞いています」


「私たちは、動物を助ける活動をしているんです」


「今は長峰さんの話をしています」


 めぐみの喉の奥が擦れた。


 息を一度吐く。


 声を出せなかった頃の癖は、今も緊張すると残った。


 急いで次の言葉を押し出さず、呼吸が戻るのを待つ。


「昨日、長峰さんが何を持っていったか、見ましたか」


 女性の指が止まった。


「市場の保存食を……」


「何ですか」


「干した魚です」


 めぐみの背中が冷えた。


「どのくらい?」


「小さな袋を一つ」


「何のために?」


「動物が来るかを、確かめるために」


「熊が来ないことを証明するんじゃなかったんですか」


 女性は答えなかった。


「魚を、定点カメラの前へ置いたんですね」


「少しだけです」


「いつ知りましたか」


「昨日、罠へ行く前です」


「どうして朝に言わなかったんですか」


 女性が顔を上げた。


「言えば、私たちが悪いことにされるからです」


 めぐみは椅子を引いた。


 準備室を出る。


 えりは五メートルほど先の連絡卓にいた。


「えり」


 呼ぶだけで届く距離だった。


 えりが顔を上げる。


「長峰さん、干した魚を持っていってる。小さな袋を一つ。カメラの前に置いたって」


 えりの目が変わった。


「本人が見た?」


「昨日から知ってた」


「白石さんは」


「知ってたかは、まだ分からない」


 えりが無線機へ手を伸ばす。


 めぐみは、卓上の予備送受話器を先に取った。


「私が言う」


 えりは止めなかった。


 めぐみが送信ボタンを押す。


「なお、聞こえる?」


 林の雑音が返る。


 すぐには声がない。


「なお?」


『聞こえる』


 直樹の声だった。


「長峰さん、干した魚を持っていってる。小さな袋を一つ。定点カメラの前に置いたって、今分かった」


『誰が話した』


「昨日、一緒にいた人。魚のことを知ってたけど、朝は言わなかった」


『白石は知ってるか』


「まだ分からない。これから確認する」


『分かった』


「魚の匂いが、長峰さんの服や鞄にも残ってるかもしれない」


『ああ』


「気をつけて」


『分かってる』


 短い返事だった。


 その向こうで、枝が擦れる音がした。


「なお」


『何だ』


「変だと思ったら、すぐ戻って」


『痕跡を確認して判断する』


「うん」


 めぐみはそれ以上、止めなかった。


「必ず連絡して」


『する』


 通信が切れる。


 えりは時刻を記録した。


「十七時二十八分。誘引物の追加情報、直樹へ直接伝達」


 めぐみは送受話器を置く。


「白石さんが知ってたか、ほかの人にも聞く」


「お願い」


 二人は同じ二階にいる。


 声を出せば、互いに届く。


 それでも、直樹のいる森までは、無線がなければ何も届かなかった。


     *


 林の中で、太い枝が曲がる音がした。


 直樹とミーシャが同時に身体を低くする。


 左。


 二十メートルほど先。


 藪の奥。


 何も見えない。


 再び音がする。


 今度は右だった。


 熊が移動したとは限らない。


 一つ目の音を、二人が熊だと思っただけかもしれない。


 斜面。


 濡れた葉。


 太い幹。


 森の中では、すべてが音を別の場所へ投げ返す。


 ミーシャが地面を見る。


「魚を持っていたなら、カメラの場所に痕跡が集まります」


「ああ」


 二人は歩幅を狭くした。


 数分後、倒れた三脚が見えた。


 定点カメラは地面に落ちている。


 外装には、四本の深い傷が走っていた。


 レンズの前に透明な袋が残っている。


 袋は破れ、魚はない。


 周囲の土が荒れていた。


 人間の靴跡。


 熊の足跡。


 踏み砕かれた枝。


 長峰の登山靴は、そこから斜面の上へ向かっている。


 歩幅が急に広がり、踵が深く沈んでいた。


 走っている。


 白石の靴跡は、カメラの少し手前で止まっていた。


 そこから斜面の下へ向きを変えている。


「分かれています」


 ミーシャが言う。


 長峰は上。


 白石は下。


 二人を同時には追えない。


 その時、斜面の下から音がした。


「……たすけ……」


 人の声だった。


 直樹とミーシャは下へ向かった。


 白石は、倒れた杉の根元にいた。


 右脚が根と岩の間へ挟まっている。


 灰色のコートは泥に覆われていた。


 左肩から背中へ、四本の裂け目が走っている。


 布だけではない。


 裂け目の奥から、血が滲んでいた。


「動かないで」


 直樹が近づく。


 白石の顔は土色だった。


「長峰先生が……」


「どこへ行った」


「上へ……」


「熊は」


「来たんです。音がしなくて……急に、そこにいて」


 白石の歯が鳴っている。


「長峰先生が、光を当てて……撮らないとって……」


「熊へ近づいたのか」


「違う。来ないって、言わないと……」


 言葉が崩れる。


「熊が動いて、長峰先生が走って……私も逃げて」


 白石は自分の肩を見ようとした。


「背中をやられて、落ちて……」


 直樹は脚を確かめる。


 骨折の可能性が高い。


 肩の傷は深いが、動脈性の出血ではない。


「ミーシャ。止血。脚を固定する」


「はい」


 直樹が立ち上がろうとすると、白石が袖をつかんだ。


 ほとんど力はなかった。


「長峰先生を……置いていかないで」


「生きている人間を先に探す」


「熊も……」


 白石は、その先を言えなかった。


 長峰を助けてほしい。


 熊も殺してほしくない。


 二つの願いを同時に口にするには、目の前の血が多すぎた。


「白石さんを出してから、痕跡を追う」


 直樹は袖から白石の手を外した。


「今は動かないで」


『動くな』


 大庭の声が無線に飛び込んだ。


 直樹は止まった。


『真柴、左後方』


 目だけを動かす。


 黒い幹。


 濡れた葉。


 その奥に、さらに暗いものがあった。


 最初は岩に見えた。


 岩が動いた。


 熊は、こちらを見ていた。


 身体の全体は見えない。


 頭。


 肩。


 枝の間から、それだけが出ている。


 だが、見えている肩の高さだけで、人間より大きいと分かった。


 小さな耳。


 低い頭。


 首から肩へ続く厚み。


 鼻だけが動いている。


 干し魚。


 白石の血。


 人間の汗。


 同じ場所へ集まった匂いを、一つずつ確かめている。


『距離四十。枝が入ってる。まだ撃てない』


 大庭の位置からは、熊の肩の一部しか見えていない。


 直樹と白石の間にも、細い幹が何本も重なっている。


 直樹は白石と熊の間へ立った。


「ミーシャ。白石を動かすな」


「分かりました」


 熊が一歩出る。


 ほとんど音がしなかった。


 あれほどの身体が、落ち葉を鳴らさずに距離を縮める。


 熊は頭を上げた。


 立ち上がらない。


 四本脚のまま、身体を左右へ揺らした。


 逃げるのか。


 来るのか。


 人間には分からない。


 熊だけが決める。


 直樹は背中の道具へ手を伸ばさなかった。


 急な動きが合図になる可能性がある。


 熊が鼻から強く息を吐く。


 低い音だった。


 怒鳴り声ではない。


 威嚇ですらないように聞こえた。


 次の瞬間、熊が走った。


 巨大な身体が沈む。


 前脚が土を掴む。


 四十メートルあった距離が、一度の呼吸で半分になる。


 音はあとから来た。


 枝が折れる。


 土が跳ねる。


 木々の間を、重い身体が押し広げる。


「NAO!」


 ミーシャの声。


 直樹は白石から離れる方向へ走った。


 熊の進路を引く。


『右へ!』


 大庭の声に従い、一本の杉を回り込む。


 熊の前脚が幹を叩いた。


 樹皮が剥がれ、拳ほどの木片が飛ぶ。


 爪が直樹の背負い袋へかかった。


 布が裂ける。


 身体が後ろへ引かれた。


 直樹は留め具を外し、袋を捨てる。


 熊が袋を踏み潰した。


 止まらない。


 頭を上げ、再び直樹を見る。


 その目には怒りがなかった。


 憎しみもない。


 直樹が誰を守ろうとしているかも知らない。


 高瀬が何を信じているかも知らない。


 ただ、自分の近くにあるものを追い、退けようとしている。


 だから、話し合う余地がなかった。


『もう一歩、右!』


 直樹は地面を蹴った。


 熊が身体をひねる。


 胸の側面が、斜面上の搬出路へ開く。


『伏せろ!』


 直樹は倒れた。


 銃声は一度だけだった。


 熊の身体が揺れる。


 それでも倒れない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 直樹へ向かって進んだ。


 大庭は二発目を撃たない。


 熊の後ろに、ミーシャと白石がいる。


 直樹は地面を転がり、木の根元へ身体を入れた。


 熊の前脚が、さっきまで頭のあった場所を掻いた。


 爪が土を裂く。


 泥が顔へ飛ぶ。


 熊はさらに一歩出た。


 そこで前脚が折れた。


 巨大な頭が地面へ落ちる。


 肩が崩れ、身体全体が斜面へ倒れた。


 土が揺れた。


 倒れたあとも、森は静かにならなかった。


 熊の肺から空気が抜ける。


 長い音だった。


 呼吸にも聞こえた。


『動くな』


 大庭が言う。


『三分待つ』


 熊の後脚が、一度だけ動いた。


 白石が声を殺して泣いた。


 ミーシャは傷を押さえたまま、熊から目を離さない。


 横倒しになっても、その身体は大きかった。


 動物の死体というより、森の一部が倒れて道を塞いだように見えた。


     *


 銃声は、臨時学校の建物までは届かなかった。


 最初に変化を知らせたのは、連絡卓の無線から飛び込んできた大庭の声だった。


『接触。熊一。白石さんの近くに出た』


 めぐみは廊下の途中で止まった。


 えりが無線機を取る。


「直樹、応答」


 雑音。


『直樹。聞こえる』


 めぐみは連絡卓まで走った。


 えりの横にある予備送受話器を取る。


「なお、怪我は?」


『ない』


 直樹の呼吸は乱れていた。


 近くで枝が擦れる音がする。


「ミーシャは?」


『無事。白石さんを見つけた。肩をやられてる。脚も動かせない』


「熊は?」


 数秒、返事がなかった。


『大庭です。熊一頭、停止。まだ接近確認前』


「長峰さんは見つかった?」


『まだだ』


「白石さんは話せる?」


『話せる。長峰は斜面の上へ行ったらしい』


「なお、追うの?」


『白石を出してから判断する』


「もう暗くなる」


『分かってる』


「無理なら戻って」


『痕跡を切れるところまで確認する』


「長峰さんを置いてこいって言ってるんじゃない」


 めぐみは送受話器を握った。


「でも、なおまでいなくならないで」


 無線の向こうで、直樹の呼吸が聞こえた。


『無理はしない』


「それだけ?」


『撤退線は守る。戻る』


「約束して」


『約束する』


 めぐみは、ようやく送信ボタンから指を離した。


 えりが無線機を受け取る。


「ここから内部報告に切り替える」


 市場から国境第三への中継回線を開く。


「こちら末安。白石澄江、生存確認。左肩裂傷、右脚骨折疑い」


『熊は』


 久世の声が返る。


「一頭停止。接近確認前」


『長峰は』


「所在不明継続。現段階でマル害(被害者)認定なし」


『了解。搬送は』


「市場側から林縁まで出す。林内は直樹とミーシャで運ぶ」


『照明班を出すか』


「まだ待って。車両音を入れたくない」


『了解』


 えりは中継回線を切った。


 めぐみへ向き直る時には、いつもの言葉へ戻っていた。


「白石さんは生きてる。直樹たちが連れて戻る」


「長峰さんは?」


「まだ見つかってない」


 めぐみは送受話器を置いた。


 手のひらに、硬い縁の跡が残っていた。


     *


 白石の救出連絡が入ったあとも、めぐみとえりは同じ二階にいた。


 めぐみは準備室と教室を往復する。


 えりは廊下の連絡卓から動かず、林の捜索班と市場の搬送班をつないでいる。


 数メートルしか離れていない。


 それでも、二人の仕事は違った。


 めぐみが人の口から、隠された事実を探す。


 えりが出てきた事実を、名前と時刻へ変える。


 どちらか一人だけでは、森へ入った三人へ情報を届けられない。


 けれど、情報が届いたからといって、必ず人を救えるわけでもなかった。


 めぐみは高瀬のいる教室へ入った。


 高瀬は椅子から立ち上がっていた。


「熊を撃ったんですか」


「白石さんは生きて見つかりました」


「長峰先生は」


「まだ捜しています」


「熊は?」


「大庭さんが止めました」


 高瀬の顔から血の気が引いた。


「私たちは、そんなことを望んでいない」


「魚のことを知っていましたか」


「何の話です」


「長峰さんが、干した魚をカメラの前へ置いたことです」


 高瀬の目が、わずかに動いた。


「知っていたんですね」


「観察用の少量です」


「なぜ朝に言わなかったんですか」


「危険な誘引ではないと判断していました」


「誰が判断したんですか」


「私たちには、長年の教育活動と調査実績があります」


「この土地で?」


 高瀬は答えなかった。


「魚を置けば、熊が来る可能性があることは分かっていましたか」


「都市部の観察事例では、少量の誘引物が直ちに人身被害へつながるとは限りません」


「ここは都市部じゃありません」


「原則は同じです」


「同じなら、どうして白石さんは襲われたんですか」


「それが熊によるものかは、まだ――」


「背中に爪の傷があります」


 めぐみの喉が擦れた。


 声が少し掠れる。


 それでも目を逸らさなかった。


「長峰さんは、まだ森から戻っていません」


「私たちだけに責任を負わせるつもりですか」


「責任を決めるのは私じゃありません」


 めぐみは息を整えた。


「私は、どうして魚のことを隠したのかを聞いています」


「隠したのではありません。危険情報として扱う必要がないと判断しただけです」


 教室の奥で、別の女性が立ち上がった。


「高瀬先生は、何十年も命の教育を続けてきた方です」


 元校長の男も頷いた。


「今回だけを見て、これまでの活動まで否定しないでください」


「誰も、これまでの活動について聞いていません」


 めぐみが言った。


「昨日、魚を置いたことを聞いています」


 三人は答えなかった。


 全員が、高瀬の側に立っていた。


 誰も、干し魚の話には戻らない。


 長い実績。


 教育への貢献。


 動物を守ってきた年月。


 それらを並べれば、昨日したことも薄められると思っている。


 めぐみは、その形を知っていた。


 京都でも何度も見た。


 一人の名前より、組織の正しさを守る人たち。


 傷ついた人間より、看板を汚さないことを優先する人たち。


 あの時は、黙っている人間へ声を渡せばよかった。


 今も声はある。


 質問もできる。


 隠された魚のことも聞き出した。


 それでも白石は傷ついた。


 長峰は戻ってこない。


「あなたたちが正しい人たちだったかどうかは、今は聞いていません」


 めぐみは高瀬を見る。


「何をしたかだけを聞いています」


 高瀬は答えなかった。


     *


 日が落ちた。


 市場の窓へ、室内の明かりが映っている。


 めぐみは廊下の椅子へ座った。


 膝の上には、聞き取り用紙がある。


 干し魚。


 定点カメラ。


 銀線で直した眼鏡。


 茶色の上着。


 紺色の鞄。


 必要な情報は、少しずつ揃っていた。


 ただ、必要になる前には出てこなかった。


 連絡卓の無線が鳴る。


 えりが応答する。


「末安」


『大庭です』


 森の雑音が混じっている。


『熊の周囲を確認。長峰の登山靴、片方を発見』


「本人は」


『未確認』


「血痕」


『あり。斜面の上へ続いてる。途中から引きずった跡に変わってます』


 えりは、中継回線を開いた。


「久世一尉へ接続」


 短い雑音のあと、久世の声が入る。


『聞こえている』


「熊一頭停止。白石澄江は生存確保。長峰俊夫は未発見」


『痕跡は』


「靴片方と血痕。途中から引きずり痕。現時点でマル害(被害者)認定は保留」


『ロクは』


「ロク(遺体)確認なし。日没後の追跡は中止。痕跡の始点だけ保全して撤収させる」


『了解』


 通信が切れる。


 えりは、めぐみの前まで来た。


「今日は、もう森の奥へ入らない」


「長峰さんを置いて?」


「暗闇で捜索者を増やせば、被害が増える」


「でも、生きていたら」


「それでも行けない」


 えりは言った。


「行けない場所には、行けない」


 めぐみは聞き取り用紙を握った。


「私が、魚のことをもっと早く聞けていたら」


「めぐ」


「分かってる」


 自分から止めた。


「隠した人がいる。私だけのせいじゃない」


「そう」


「でも、聞き出せなかったことは変わらない」


 えりは否定しなかった。


 その沈黙が、めぐみには苦しかった。


 朝、直樹から「助かった」と言われた。


 自分には、直樹にできないことができる。


 だから隣にいていいのだと思った。


 けれど、必要であることと、救えることは同じではなかった。


 めぐみは、聞き取り用紙に書かれた名前を見る。


 長峰俊夫。


 消す理由はなかった。


 まだ、死亡は確認されていない。


 名前を消してはいけない。


 けれど、その次に何を書けばいいのか分からなかった。


 無線機は、黙ったままだった。


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