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第百五十四話 撃つ人

## 第百五十四話 撃つ人


 前日の夕方、直樹たちは予定どおり旧南第三へ戻った。


 中部市場で決めた翌朝の現地確認について、直樹は食堂の予定表へ書き足した。


 中部市場北側農地。


 出発、五時三十分。


 帰還予定、九時。


 遅延時、八時半までに旧南第三へ連絡。


 連絡がなければ、九時半に市場側が確認を開始する。


 学校からは誰も迎えに出さない。


 めぐみは、最後の一行まで読んだ。


 前なら、帰ってこなければ自分が探しに行くと言ったかもしれない。


 今は違う。


 待つ人間が勝手に動けば、帰ってくる人間の道を塞ぐことがある。


 直樹は戻る時刻だけではなく、戻らなかった時に誰が動くのかまで残した。


 めぐみは、その文字を指でなぞらなかった。


 ただ、何度も読んだ。


     *


 翌朝、食堂へ明かりがついたのは五時前だった。


 窓の外はまだ暗い。


 子どもたちの眠る校舎からは、暖房の配管が鳴る小さな音しか聞こえない。


 直樹は水筒へ湯を入れていた。


 ミーシャは机の上で地図を畳み、印をつけた農道をもう一度確かめている。


 大庭は椅子へ座り、眠そうな顔で長い銃の覆いを点検していた。


 出発まで、あと二十分。


 えりは、中部市場へ提出する保全書類を鞄へ収めていた。


 農地へは出ず、書類を渡して帰る予定だった。


 食堂の電話が鳴る。


 えりが受話器を取った。


「末安です」


 受話器の向こうから聞こえるのは、的場志乃の声だった。


 えりは話を聞きながら、煙草の箱を指で二度叩いた。


「壊れたんじゃなくて、触られたのね」


 直樹が水筒の蓋を閉める。


 ミーシャも地図から顔を上げた。


「扉だけ?」


 短い沈黙。


「餌も外へ出した」


 大庭の眠気が消えた。


 えりは窓の外を見る。


 まだ日の出前だった。


「見つけたのは」


 返事を聞く。


「農家二人。車から異常を確認しただけね」


 煙草の箱を叩く指が止まる。


「降ろさないで。罠にも餌にも近づけない。写真は車から撮れる範囲だけ。足跡もそのまま」


 さらに何かを聞き、眉間へ細い皺を寄せた。


「人がいた?」


 返事。


「何人」


 電話の横にあった紙へ、数字だけを書く。


 六。


「今も農道の入口にいるのね」


 受話器の向こうで、男の怒鳴り声が聞こえた。


 別の声が、それを押し返している。


「農家を近づけないで。その六人にも罠へ戻らせない。身元の確認は、こっちが着いてからでいい」


 えりは直樹を見た。


「武器は見えてる?」


 返事を待つ。


「分かった。刺激しないで。市場の人間を二人置いて、両方を離しておいて」


 受話器を置く。


「北側か」


 直樹が聞いた。


「今朝確認する予定だった箱罠」


 えりが答える。


「昨日の夕方、外から来たらしい六人が罠の周囲にいた。今朝、農家が見に行った時には、扉が落とされて、留め金も曲げられてた」


「六人は今もいるのか」


「農道の入口。農家と揉めてる」


「何者だ」


「まだ分からない。本人たちは、動物を助けたと言ってる」


 ミーシャが畳んだ地図を開き直した。


「餌は」


「罠の外へ出されてる」


「熊の痕跡は」


「まだ確認できてない」


 大庭が銃の覆いを閉じる。


「罠を止めただけなら、まだ分かる」


 眠気の消えた目で地図を見た。


「餌まで外へ出したなら、動物を逃がしたんじゃない。呼んでる」


「ああ」


 直樹は予定表へ向かった。


 帰還予定の下へ新しい文字を書き足す。


 状況変更。


 八時半、旧南第三へ第一報。


 帰還時刻は第一報で再設定。


 食堂の入口に、めぐみが立っていた。


 寝間着の上へ上着を羽織っただけで、髪はまだまとめていない。


「予定が変わったの?」


「ああ」


 直樹が答える。


「昨日、箱罠へ複数の人間が手を入れたらしい」


「誰が?」


「まだ分からない」


 えりが鞄を閉じる。


「外から来た六人。自分たちは動物を助けたと言って、農家と揉めてる」


「話を聞ける状態?」


「今のままじゃ無理。農家と引き離して、順番に確認する」


 めぐみは予定表を見る。


 昨日まではなかった、状況変更の文字。


「私も行く」


 直樹が振り返った。


「農地には入れない」


「分かってる。話をする場所にいる」


「危険が確認されたら市場へ戻れ」


「うん」


 めぐみは予定表の空いている欄へ自分の名前を書く。


 宮崎めぐみ。


 中部市場。


 末安えり同行。


 直樹は、その文字を見た。


「呼んでない」


「分かってる」


「用事は」


「今できた」


 えりが鞄を持ち上げる。


「一般人同士の話ができる人間が要る。私だけだと、五分で聞き取りじゃなくなる」


「元警察官が自分で言うんだ」


「めぐ。朝から喧嘩を売らないで」


 そう言いながら、えりの口元が少しだけ動いた。


「煙草は?」


「現場を見てから」


 直樹が装備袋を持つ。


「出るぞ」


 本来なら、猪の通り道と射線を確かめるだけの朝だった。


 そこへ、身元の分からない人間が触った痕跡が加わった。


 動物がどこから来たのかだけではない。


 自然を知らない人間が、何を正しいと思ってここへ来たのか。


 それも確かめなければならなくなった。


     *


 中部市場北側の農地へ着いた時、空はようやく白み始めていた。


 畑の向こうに、黒い林が横たわっている。


 芋の畝。


 豆の支柱。


 鹿に食いちぎられた葉。


 猪に掘り返された土。


 用水路の縁には、昨夜補修したばかりの板が渡されていた。


 泥の上には、長靴の跡と獣の足跡が重なっている。


 ここでは、森は景色ではなかった。


 夜になると畑へ出てくる。


 水路を壊す。


 苗を食う。


 家畜の匂いを覚える。


 一度食べ物の場所を覚えれば、次に来るのは畑とは限らない。


 農道の入口では、十人ほどの人間が二つに分かれていた。


 片側は農家と市場の人間。


 擦り減った長靴。


 泥のついた作業着。


 継ぎ当てのある防寒具。


 もう片側は、揃いの防水上着を着た高齢者たちだった。


 汚れの少ない登山靴。


 首から下げた九州中央圏の来訪者証。


 薄い携帯端末と、小型の撮影機材。


 白地に緑の文字が入った腕章には、


 九州自然共生教育者連絡会。


 と書かれていた。


 九州は、もう地方ではない。


 日本が割れてからの四年で、人と金と行政機能が集まり、かつて東京にあったものの多くを引き受けた。


 高層住宅。


 行政庁舎。


 大学。


 医療研究区。


 企業の本部。


 整備された都市公園と、柵で区切られた緑地。


 そこで暮らす人間にとって、野生動物は映像で学び、保護区で観察し、制度によって管理する存在になりつつあった。


 だが、この畑では違う。


 鹿が一本の苗を食えば、その苗は冬の食卓から消える。


 猪が一晩入れば、何週間もかけて育てた畝がなくなる。


 熊が人の食べ物を覚えれば、次に来るのは畑とは限らない。


 農家の男が声を荒らげていた。


「うちの罠に勝手に触ったのは、あんたらだろうが!」


「罠ではありません」


 六人の先頭に立つ男が答えた。


 七十歳を越えている。


 背筋は伸び、薄い灰色の髪をきれいに撫でつけていた。


「動物を苦しめる拘禁装置です」


「言い方を変えても、畑を守る道具だ!」


「動物を閉じ込め、殺すことが守ることですか」


「毎朝見に来てる。入ったものを放ったらかしにもしてない」


「なら、殺さずに森へ戻せばいいでしょう」


 農家の男が、泥のついた手で畑を指した。


「戻して、また来たらどうする」


「人間の側が距離を取るべきです」


「どこまで下がれって言うんだ」


「この地域は、もともと動物の生息域だったはずです」


「ここを森へ返せってことか」


「共存のためには、土地の使い方を見直す必要があります」


 農家の男が笑った。


 怒っている時の笑いだった。


「あの芋はな、うちだけで食うんじゃない」


 畑の奥を指す。


「市場へ出す。学校へ回す。冬に食わせる。猪が入ったら、店の損じゃ済まん。子どもの皿から一品消えるんだ」


「だからといって、動物を殺していい理由にはなりません」


「じゃあ、あんたが食わせるのか」


 男は答えなかった。


 農家が一歩出る。


 直樹が間へ入った。


 相手には触れない。


 ただ、前へ出る道を身体で塞いだ。


「どけ」


「殴るなら帰れ」


「俺の畑だぞ」


「だから殴るな」


「こいつら、何にも知らん」


 農家の男は、直樹の肩越しに六人を見た。


「整備された公園で鹿を見た話を、ここへ持ってきてる。自分の家の前に熊が出ないから言えるんだ」


「分かってる」


 直樹は答えた。


「分かってるから、ここで殴るな」


 団体の男が顔を硬くする。


「私たちも自然について学んできました」


 農家が振り返った。


「どこで」


「九州中央圏の大学や教育機関で、都市と自然の共生について――」


「都市の話だろうが」


「原則は同じです」


「同じじゃない」


 農家の声が低くなった。


「そっちの森には柵がある。管理する人間がいる。餌をやる馬鹿が出ても、片づける予算がある」


 曲がった留め金を指す。


「ここじゃ、俺たちが夜中に起きる。罠を見に行く。水路を直す。食われた畑を埋める。子どもを一人で歩かせないようにする」


「恐怖を理由に、捕殺を正当化しているだけです」


「恐怖じゃない」


 農家の男は言った。


「昨日も起きたことだ」


 大庭は農道から離れ、畑全体を見渡せる土手へ上がった。


 銃は背負ったまま下ろさない。


 双眼鏡だけを出し、林、農道、民家の方向を順番に見ている。


 ミーシャは直樹と別れ、箱罠の近くへ移動した。


 罠には触れない。


 数メートル手前でしゃがみ、土と金網を観察する。


 扉は落ちたままだった。


 留め金は外側へ曲げられている。


 中に入っていた餌は、金網の外へ筋状に散らされていた。


 土には、登山靴の規則的な靴跡が重なっている。


 その外側に、大きく丸い窪みがあった。


 ミーシャが指を近づける。


「猪ではありません」


 団体の男が振り返った。


「何を根拠に」


「指の位置と爪痕です」


「古い跡でしょう」


「餌を外へ出したあとについたものです」


「なぜ分かるんです」


「あなたたちの靴跡を踏んでいます」


 ミーシャは足跡の縁を見る。


「まだ崩れていません」


 農家側がざわめいた。


 団体の後ろにいた女性が、自分の腕を抱く。


 代表らしい男だけは表情を変えなかった。


「それが熊だという証拠はありません」


「まだ断定していません」


 ミーシャが答える。


「だから、近づけないと言っています」


「恐怖を与えて、捕殺を正当化するつもりでしょう」


 直樹は答えなかった。


 めぐみが前へ出る。


 えりは半歩後ろへ残った。


     *


「九州の、どちらから来られたんですか」


 めぐみが言った。


 代表の男は、直樹より先にめぐみを見た。


「九州中央圏です。あなたも九州の方ですか」


「佐賀です」


「それなら、私たちの活動をご存じかもしれません」


「今の九州が、自然との共生教育に力を入れていることは知っています」


 男の肩から、わずかに力が抜けた。


「そうです。九州は新しい国づくりの中心になった。だからこそ、旧来の捕殺中心の考え方を改める責任があります」


「九州の都市部では、どうやって動物と人を分けていますか」


「緑地帯の整備、侵入防止柵、個体識別、教育活動です」


「管理する人は?」


「自治体と専門機関です」


「柵が壊れたら?」


「担当部署が修理します」


「動物が住宅区へ入ったら?」


「保護班へ連絡します」


 めぐみは頷いた。


「ここには、その担当部署がありません」


 男が黙る。


「夜中に柵が壊れたら、農家の人が直します。畑が荒らされたら、自分で埋めます。熊が出ても、保護班が来るまで家から出なければいい、では済まないことがあります」


「だから殺すしかないと?」


「いいえ」


 めぐみは首を振った。


「こちらの人が、何をしたうえで、それでも罠を置いたのかを聞いています」


「私たちは動物を救いました」


「その気持ちは分かりました」


 めぐみは落とされた扉を見る。


「でも、動物を助けたいと思ったことと、この土地で安全なことをしたかどうかは、同じではありません」


 男の表情が硬くなる。


「私たちは自然について学んでいます」


「ここにいる人は、自然の中で暮らしています」


 めぐみは農家を見た。


「学んでいないと言っているんじゃありません」


 もう一度、男へ視線を戻す。


「知っている自然が違うんです」


 えりが手帳を開いた。


「だから、昨日ここで何をしたか、順番に確認します」


 男が腕章へ触れた。


「九州自然共生教育者連絡会、代表の高瀬邦明です」


 その名を、えりが書く。


 この時になって初めて、六人が何者なのかが記録へ入った。


「昨日、この箱罠を見つけたんですね」


 めぐみが聞く。


「見ました」


「何時ごろですか」


「夕方です」


「扉には触りましたか」


「動物が入れないようにしました」


「扉を落とした?」


「作動しないようにしただけです」


 めぐみは箱罠を見る。


 扉は落ちている。


「留め金を曲げたのは?」


「再び使われないようにしました」


「誰がしましたか」


 高瀬の返事が止まった。


 えりが手帳を開く。


「確認が必要なのは六人。先に全員の名前を聞かせて」


「なぜです」


「誰が何を見て、誰が何をしたのかを分けるため」


「私たちは犯罪者ではありません」


「今は、犯罪者かどうかの話をしてない」


 えりの声は平らだった。


「罠へ来た人数」


「全員です」


「留め金に手をかけた人」


「私たちは全員の意思で――」


「全員は名前にならない」


 えりが高瀬を見る。


「実際に手を動かした人」


「どうして、犯人のように扱うんですか」


「人の土地にある管理器材へ、許可なく手を加えたから。呼び方の話はあと」


 めぐみは団体の後ろを見た。


 一人だけ、こちらを見ていない女性がいる。


 六十代後半ほど。


 両手で布の鞄を握り、餌が散らされた地面を見ていた。


「昨日、餌を外へ出すのはよくないと言いましたか」


 女性が顔を上げた。


 高瀬が先に口を開く。


「彼女は――」


「今、その方に聞いています」


 えりが遮った。


 女性は高瀬を見る。


 それから、めぐみを見る。


「言いました」


「お名前は」


「白石澄江です」


「誰に言いましたか」


「高瀬先生に」


「どうして、よくないと思ったんですか」


「動物が……匂いで来るんじゃないかと」


「高瀬さんは、何と?」


 白石の指が鞄を強く握る。


「農家の人が、怖がらせるために言っているだけだと」


 農家の男が怒鳴りかけた。


 直樹が片手を上げる。


 声を出さずに止めた。


 えりは白石を見る。


「餌を外へ出すところを見たんですね」


「はい」


「止めようとした」


「はい」


「分かりました」


 団体の中で、一人の男が眼鏡を押し上げた。


 左の蝶番が、細い銀線で補修されている。


「餌を出したのは私です」


 えりが男を見る。


「名前」


「長峰俊夫」


「何を使った」


「枝です」


「どこまで出した」


「罠の外へ。動物が中へ入らなくても食べられるように」


 ミーシャが餌の筋を見る。


「林側へ二十メートル以上続いています」


 長峰が眉を寄せた。


「そんなに出していません」


「誰かが引きずっています」


「猪でしょう」


「今は断定していません」


 めぐみが言った。


「何が来たか分からないから、何をしたのか確認しています」


 高瀬が息を吐く。


「私たちは、動物を救おうとしたんです」


「その目的は分かりました」


 めぐみは高瀬を見る。


「だから、昨日の行動を全部教えてください」


「責任を押しつけるためですか」


「違います」


「では、何のために」


 めぐみは林の黒さを見た。


「今日ここへ来る人を、帰すためです」


     *


 団体が撮影していた端末は、市場側の立ち会いのもとで確認した。


 映像は十六時十二分から始まっている。


 高瀬が箱罠の前で話していた。


 自然の回復。


 人間中心主義からの脱却。


 再生可能な共存。


 画面の外で、農家の警告を真似る笑い声がした。


 十六時三十一分。


 長峰が枝で仕掛けを動かす。


 扉が落ちる。


 十六時三十五分。


 高瀬ともう一人の男が、留め金へ手を加える。


 十六時四十二分。


 長峰が餌を外へ掻き出す。


 その時、画面の奥にある林の影が動いた。


 黒い塊が一度だけ木の間を横切る。


 撮影者は気づいていない。


 映像の中の白石だけが、林の方を見ていた。


 えりが映像を止める。


「この時、全員いた?」


「いました」


 高瀬が答える。


「画面で顔を確認できるのは五人」


「撮影者を含めれば六人です」


「撮影者は誰」


 別の女性が手を上げた。


「私です」


 えりは名前を確認し、手帳へ書く。


「このあとは」


「市場の来訪者区画へ戻りました」


「全員一緒に?」


「そうです」


 白石が小さく首を動かした。


 めぐみは見逃さなかった。


「戻る途中で、誰か別れましたか」


「いいえ」


 高瀬が答える。


 めぐみは白石を見る。


「長峰さんは、何か言いましたか」


 白石の口がわずかに開いた。


「カメラを……」


「白石先生」


 高瀬が低く呼ぶ。


 えりが高瀬を見る。


「今は白石さん本人に聞いてる。話し終わるまで口を挟まないで」


「私たちは仲間です」


「仲間なら、本人の言葉を奪わないで」


 白石は息を吸った。


「小さな定点カメラを置いたと言っていました。熊が来ないことを証明するために」


「場所は」


「罠の近くです」


「回収した?」


「昨日は、そのまま」


 直樹が初めて口を開いた。


「誰も戻るな」


 高瀬が直樹を見る。


「命令される理由はありません」


「熊がいる可能性がある」


「可能性だけで自然を封鎖するんですか」


「人が入る場所を止める」


「あなた方は、そうやって銃を使う理由を作る」


 高瀬の視線が、土手にいる大庭の銃へ向く。


「最初から撃つつもりなんでしょう」


 大庭は双眼鏡を目に当てたまま答えた。


「撃たなくて済むなら、撃ちません」


「では、その銃は何です」


「撃つ必要が出た時に、外さないためのものです」


「同じことです」


「違います」


 大庭の声から、普段の軽さが消えていた。


「撃ちたい人間が持っているんじゃない」


 林から目を離さずに続ける。


「撃つことになった時に、ほかへ当てない人間が持っています」


 高瀬は答えなかった。


     *


 六人は、中部市場へ戻された。


 逮捕でも拘束でもない。


 農家との衝突を避け、個別に話を確かめるための移動だった。


 来訪者証の記録から、六人が前日の午後、九州中央圏から教育調査の名目で中部市場へ入っていたことも確認された。


 中部市場の臨時学校を管理している奥村先生が、午後の授業では使わない教室を一室空けた。


 奥村先生は団体へ質問しなかった。


 水と毛布を置き、出入口の名簿へ六人の名前を書く。


「外へ出る時は、行き先と時刻をここへ書いてください」


 それだけを伝えた。


 えりは一人ずつ別の机へ座らせた。


 めぐみがその横につく。


 高瀬には、めぐみ。


 白石には、えり。


 ほかの四人は順番を待つ。


 話を急がせない。


 同じ質問を、少しずつ言葉を変えて繰り返す。


 誰が提案したのか。


 誰が手を動かしたのか。


 誰が反対したのか。


 餌を出した時、誰が林を見ていたのか。


 市場へ戻る途中、長峰が何を話したのか。


 答えは少しずつ揃った。


 罠を無効にしようと提案したのは高瀬。


 留め金へ手を加えたのは高瀬と、元校長の男。


 餌を外へ出したのは長峰。


 白石は止めた。


 ほかの三人は、強く反対しなかった。


 定点カメラは、長峰が自分で持ち込んだ。


 設置場所を知っているのは、長峰と白石だけ。


 高瀬は最後まで、


「理念を犯罪のように扱われるのは納得できません」


と言った。


 めぐみは否定しなかった。


「理念について話しているんじゃありません」


「では何です」


「昨日、何をしたかです」


「同じことです」


「違います」


 めぐみは高瀬の前に置かれた水へ触れなかった。


「殺したくないと思ったことと、誰にも言わず罠を壊したことは、同じではありません」


「私たちは行動しただけです」


「そうですね」


 高瀬が顔を上げる。


「だから、その行動を聞いています」


 高瀬は初めて、答えを失った。


     *


 午前の聞き取りを区切った時、直樹が廊下に立っていた。


「どうだった」


「定点カメラが残ってる」


 めぐみが答えた。


「場所は長峰さんと白石さんが知ってる。高瀬さんは、戻るなと言っても納得してない」


 えりが手帳を閉じる。


「確認対象は六人。罠へ手を加えたのは高瀬と、もう一人。餌を移したのは長峰。白石は、それを見て止めようとした人」


 直樹が聞く。


「熊は」


「映像に影が一つ。足跡と合わせれば可能性は高い。でも、まだ断定しない」


「十分だ」


 直樹が言った。


 めぐみは、その言葉が自分にも向いているように感じた。


「私も?」


「ああ」


「役に立った?」


 聞いたあとで、自分でも少し驚いた。


 直樹は一拍置いた。


「助かった」


 胸の奥が温かくなった。


 ミーシャにはできないことを、自分がした。


 直樹が前へ出れば、高瀬たちは口を閉ざした。


 えりだけなら、もっと早く対立していたかもしれない。


 自分がいたから、言葉を引き出せた。


 自分にも、直樹の隣でできることがある。


 めぐみは、その温かさを大事に抱えた。


 それが何でできているのかまでは、まだ見なかった。


     *


 午後四時を過ぎ、聞き取りはいったん休憩になった。


 奥村先生は、団体へもう一度伝えた。


「外へ出る時は、名簿へ行き先を書いてください。便所でも市場の中でも同じです」


 拘束しているわけではない。


 扉にも鍵はかけられていない。


 ただ、危険の可能性がある以上、誰がどこにいるのかを残すための手順だった。


 午後五時。


 奥村先生が名簿を確認した。


 六人分の名前。


 外出欄は空白。


 教室にいるのは四人だった。


「高瀬先生」


 奥村先生が呼ぶ。


「長峰さんと白石さんは?」


 高瀬が廊下を見る。


「休んでいるんじゃないですか」


「この部屋にはいません」


「便所では」


「確認しました」


 えりが外出記録を取る。


 何も書かれていない。


「最後に見た人」


 一人の女性が手を上げた。


「四時十五分くらいです」


 別の男が首を振る。


「白石さんが、長峰先生を止めるって」


 高瀬の顔色が変わった。


 めぐみが近づく。


「どこへ行くのを?」


「長峰先生が、カメラを回収してくると言って……」


「誰に言いましたか」


「私に」


「何時」


「四時十五分くらい」


「白石さんは」


「そのあとを追いました」


「どうして、今まで言わなかったんですか」


「すぐ戻ると思って」


 えりの声が落ちた。


「思ったことはあと。最後に二人を見た時刻を教えて」


「四時二十分です」


「服装」


「長峰先生は茶色の上着。白石さんは灰色のコート」


「ライト」


「長峰先生が一つ」


「通信機」


「持っていません」


「ほかの所持品」


「長峰先生は、カメラのケースを……」


「眼鏡に特徴は?」


「あ……左側を針金で直していました」


「色は」


「銀色です」


「白石さんの鞄」


「紺色の、布の肩掛けです」


 えりは手帳へ記録した。


 高瀬が立ち上がる。


「私も探しに行きます」


「駄目です」


 えりが即座に止めた。


「仲間がいなくなったんですよ」


「だからです。行き先も装備も残さず出た人間を、同じ条件の人間で増やさない」


「何もしないで待てと?」


「話したことを正確に出してください。それが今できることです」


 高瀬は何か言おうとした。


 しかし、言葉にはならなかった。


 直樹が時計を見る。


 日没まで、ほとんど時間がない。


「航平」


 大庭は、すでに廊下の端で銃の覆いを外していた。


「準備できてる」


「ミーシャ」


「映像と白石さんの説明から、カメラの位置を絞ります」


「えり」


「市場側へ連絡する。農道を止める」


 めぐみがえりを見る。


 えりは一般人のいる教室では、それ以上の報告をしなかった。


「めぐ、四人から続きを聞いて。二人がほかに持って出た物、別の道について話していなかったか」


「分かった」


 えりは直樹と大庭へ目を向けた。


「廊下へ」


     *


 教室の扉が閉まる。


 えりは直樹と大庭を、窓から離れた壁際へ寄せた。


 無線機を開く。


「内部向けに整理する」


 声が変わった。


 久世へつながる回線の表示が点灯する。


「こちら末安。所在不明二。長峰俊夫、白石澄江」


『続けろ』


 久世の声が返る。


「現時点でマル害(被害者)認定なし。熊との接触を示す直接証拠なし」


 直樹が黙って聞く。


「最終マル目(目撃者)の確認は十六時二十分。長峰は定点カメラ回収目的。白石は制止目的で追跡した可能性が高い」


『死亡前提への切り替えは』


「ロク(遺体)なし。生存者捜索で入る」


『了解』


 えりは大庭を見る。


「航平。道具(銃器)は」


「車にあります」


「ギョク(弾丸)の数だけ確認。撃つ前提で持つな。撃つことになった時に、足りないのも駄目」


「了解」


 直樹が聞く。


「第一報は」


「時間に関係なく、状況が変わった時点。定時は八時半」


「ああ」


「発見時、自分で生死を決めない。呼吸、出血、体温、反応。見たものだけ送って」


「分かってる」


「熊を見ても、二人との位置関係が取れないなら撃たない」


 大庭が答える。


「分かってます」


「分かっていても言う」


 えりは無線機を閉じなかった。


「久世一尉。国境第三側で受けられる?」


『受ける。必要なら照明と搬送を出す』


「まだ出さないで。車両音で動きを変えたくない」


『了解』


 えりは通信を切った。


「なら行って」


     *


 めぐみは教室の前に立っていた。


 内部報告の声は、扉越しには聞こえていない。


「私は?」


 直樹がめぐみを見る。


「ここに残って、四人から続きを聞いてくれ」


「一緒には?」


「行けない」


「危ないから?」


「ああ」


「私の仕事は、まだ終わってない?」


 直樹は、質問の意味を測るようにめぐみを見た。


「二人がほかに何を持って出たか。別の道を話していたか。確認する必要がある」


「分かった」


「助かる」


 また同じ言葉だった。


 今度は、先ほどほど胸が温かくならなかった。


 直樹が必要としている間だけ、自分にはここにいる意味がある。


 聞けることがなくなれば、直樹たちは外へ出ていき、自分は残される。


 そんな考えが、一瞬だけ胸を通った。


 めぐみはすぐに押し戻した。


 今は二人が戻っていない。


 自分のことを考える時ではない。


「なお」


「何だ」


「帰ってきて」


「ああ」


 直樹は答え、廊下を走った。


     *


 市場の搬入口で、高瀬が三人を追ってきた。


「本当に撃つんですか」


 大庭が足を止める。


「まだ決めてません」


「熊がいたら?」


「人へ届く前に止める必要があって、安全な線があれば撃ちます」


「あなたが?」


 大庭は銃を背負い直した。


「俺が撃ちます」


「なぜ、あなたが決めるんです」


「撃つかどうかを決めるのは、俺一人じゃありません」


 大庭は農道の先を見る。


「でも、撃つことになった時に、引き金を引くのは俺です」


「人間が、自然の命を決めるんですか」


「決めたくないですよ」


 大庭が答えた。


「だから、撃たずに済む距離から見ています」


「それでも銃を持っている」


「撃つ時に、別の人へ当てないためです」


 高瀬の後ろから、めぐみが出てきた。


「高瀬さん」


「私たちは、こんなことを望んだわけではありません」


「分かっています」


「動物を救おうとしただけです」


「それも聞きました」


「では、止めてください」


「何を?」


「銃を持っていくことを」


 めぐみは答えなかった。


 林の方角には、もう光がほとんど残っていない。


 直樹が振り返る。


「めぐみ」


「うん」


「中へ戻れ」


 めぐみは高瀬を見る。


「今、止めなければいけないのは、撃つ人ではありません」


「では何です」


「何も知らないまま、また森へ入る人です」


 高瀬の顔が歪んだ。


 めぐみはそれ以上言わなかった。


 直樹、ミーシャ、大庭が農道へ出る。


 三人の背中が、暮れかけた畑へ小さくなっていく。


 大庭だけが、二人より離れた方向へ向かった。


 広い範囲を見るために。


 撃つ時、ほかの誰にも当てないために。


 めぐみは、その姿が見えなくなるまで立っていた。


 自分はここに残る。


 人の話を聞くために。


 直樹に必要とされた仕事をするために。


 そう考えれば、足は動いた。


 けれど、胸の奥にはまだ名前のない問いが残っていた。


 聞くことがなくなったあとも。


 誰の役にも立てなかったあとも。


 自分は、あの人の前にいていいのだろうか。


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