第百五十三話 中部の食卓
## 第百五十三話 中部の食卓
朝食のあと、直樹はいなくなっていた。
食堂の壁に掛けられた予定表には、
国境第三。身体確認。
帰還予定、十一時。
そう書かれている。
同行者の名前はなかった。
めぐみは図工室へ戻った。
灰色のスケッチブックを開く。
窓。
机。
椅子が一つ。
少しだけ開いた扉。
昨日描いた線は、そのまま残っている。
鉛筆を持った。
けれど、新しい線は引けなかった。
身体確認。
その四文字で、待つ理由はいくらでも作れた。
治った右手を医師に見せているだけかもしれない。
軽く動かしているだけかもしれない。
詳しいことは、帰ってきてから聞けばいい。
以前のめぐみなら、そうした。
自分が心配していないような顔で待った。
聞きたいことを、直樹が説明しやすい形へ小さくした。
めぐみは鉛筆を置いた。
スケッチブックを閉じる。
中部市場へ向かう定期便に空席があると聞き、国境第三で降ろしてもらった。
*
国境第三のグラウンドには、乾いた風が吹いていた。
古い陸上トラック。
白線の薄れた土。
資材倉庫。
外壁に救急箱とAEDを備えた小さな救護所。
金網の向こうには、低い林が続いている。
門を通ると、煙草の匂いがした。
末安えりが、グラウンドの風下に設けられた指定喫煙場所へ立っていた。
右手に煙草。
左手に携帯灰皿。
白線の内側では、直樹とミーシャが防具を確かめている。
大庭が二人とえりの間を行き来し、片手に通信端末を持っていた。
「だから、止める人がいた方がいいでしょう」
「それを最初に言いなさい」
えりが煙を吐いた。
「右手を確認するだけだと思ったんですよ」
「何分」
「十分くらい」
「私は煙草休憩と一緒ならって言っただけ。十分とは言ってない」
えりが、門のそばに立つめぐみに気づいた。
「宮崎さん。そこで止まって」
めぐみは足を止める。
風は、めぐみの背中からえりの方へ流れていた。
「煙、来てない?」
「大丈夫」
「風が変わったら私が動く」
「なおは?」
「見れば分かる」
「何をするの?」
「それも見れば分かる」
えりは煙草を半分ほど残したまま携帯灰皿へ押し込み、蓋を閉じた。
ポケットへ入れる。
顔から休憩中の緩さが消えた。
「大庭。救急箱とAEDは」
「救護所の外壁。封印は切れてません」
「当直への通信」
「ここからつながります」
「じゃあ、久世を呼んで」
「今ですか」
「遅い」
大庭は端末を耳へ当てた。
「久世さん。聞こえます?」
『聞こえている』
「暇なら、少し見ます?」
『暇ではない』
「マッシーとミーシャが、身体を合わせるそうです」
『真柴の右手か』
「右だけじゃないみたいで」
直樹がグローブの留め具を締めた。
「戻った身体が、どこまで動くか見る」
通信の向こうが、一瞬静かになった。
『相手はミーシャ一人か』
「今のところは」
『分かった。当直を向かわせる』
「何を持って?」
『届いてから確認しろ』
大庭が端末を離す。
「嫌な言い方だな」
えりは直樹とミーシャを見る。
「聞いた。軽い確認じゃないのね」
「最初は軽い」
直樹が答えた。
「そのあとは」
「上げる」
「どこまで」
「今日出せるところまで」
ミーシャがグローブの指を曲げた。
「私も同じです」
「そう」
えりは白線の内側へ入った。
二人の正面ではなく、直樹、ミーシャ、大庭、めぐみ、出入口のすべてが見える斜め位置に立つ。
「始める前に決める。目、喉、後頭部、頸椎、膝、指への直接攻撃は禁止」
「分かった」
「同意します」
「私が止めたら終了。聞こえなかったは認めない。停止後に一発でも出したら、明日以降の外勤は保全上止める」
直樹がえりを見る。
「権限は」
「ある」
「分かった」
「大庭」
「俺は見学です」
「その台詞、覚えておく」
*
数分もしないうちに、グラウンド脇の詰所から当直兵が走ってきた。
片手に黒い官品ケース。
もう一方に、小型の撮影端末を持っている。
「久世一尉の指示です」
当直兵は息を整え、ケースを大庭の前へ置いた。
留め具を外す。
中には、黒と黄色のハンドガン型器材が収められていた。
短い銃身。
照準器。
交換式のカートリッジ。
先端には、ワイヤーにつながった二本の電極を射出する穴がある。
大庭の表情が変わった。
「テーザー?」
「実物です」
当直兵が答える。
「通電機能も生きています」
えりがケースをのぞいた。
「大庭」
「俺も知りませんでした」
「でしょうね。知ってて煙草一本で呼んだなら、今すぐ帰してる」
当直兵は白線の外へ移動した。
撮影端末を肩の高さで構える。
表示灯が点灯する。
「映像と音声、久世一尉へ接続しました」
端末のスピーカーから、久世の声が届いた。
『こちらで確認している』
えりは撮影端末を見る。
「保存先」
『国境第三の安全管理記録。二十四時間で自動消去』
「能力評価へ転用しない」
『しない』
「ミーシャの身分記録にも、直樹の自動復帰判断にも使わない」
『使わない』
「採用」
えりは大庭へ向き直った。
「持って」
「俺も入るんですか」
「まだ決まってないんでしょう」
『まだ決めていない』
「久世一尉。持ってこさせた時点でほとんど決めてます」
えりはテーザー銃を指した。
「狙うなら胴当ての下半分。頭、首、胸の上、鼠径部は禁止」
「了解」
「二本入って通電した時点で終了。追撃なし。転倒先に人か構造物が入るなら撃たない」
「了解」
「宮崎さん側へ銃口を向けても終了」
大庭はテーザー銃を持ち上げた。
重量と重心を確かめる。
「本当に撃てと言われても困りますよ」
「困るくらいでちょうどいい。軽く引く道具じゃない」
えりは白線の外を指した。
「今は待機」
*
直樹とミーシャが向かい合った。
薄い胴当て。
頭部と顎を覆う防具。
肘と膝のパッド。
直樹の右手に、包帯も補助具もない。
ミーシャが聞く。
「最初から最大ですか」
「最初は身体を読む」
「そのあとは」
「上げる」
「どこまで?」
「お前がついてくるところまで」
ミーシャの口元が、わずかに動いた。
「逆です」
「何が」
「NAOが、私についてこられるところまでです」
直樹は右足を半歩引いた。
ミーシャも構える。
えりが言った。
「始めて」
*
最初の動きは、小さかった。
直樹が左手を伸ばす。
ミーシャが外へ払う。
ミーシャの前足が入る。
直樹は右手で肩を止めた。
握る。
離す。
手首を返す。
もう一度つかむ。
右手の指は遅れなかった。
ミーシャの拳が、直樹の胴当てへ当たる。
直樹は下がらない。
肩を入れ、距離を消す。
ミーシャが横へ抜ける。
直樹も回る。
二人とも、金網や倉庫を背負わない。
出入口へ背中を向けない。
めぐみには、強く殴り合っているようには見えなかった。
それでも目を離せない。
「まだ、確認?」
めぐみが聞いた。
「たぶん」
えりは二人から視線を外さない。
「何を見てるの?」
「右を使ったあと、右だけに意識が残らないか」
「分かるの?」
「分かるところまで。続きは本人に聞いて」
直樹が右手を開いた。
「痛みは」
ミーシャが聞く。
「ない」
「こわばり」
「ない」
「遅れは」
「ない」
「では、上げます」
直樹が顎を引く。
「来い」
*
音が変わった。
ミーシャの左が直樹の顔へ伸びる。
直樹が外す。
次の右が頬当てを叩く。
直樹の右が返る。
ミーシャの上半身が、拳一つ分だけ後ろへ消えた。
大きく反らない。
後ろ足へ落とした重さが、土を押し返す。
腰が戻る。
肩が出る。
拳が直樹の顎へ走る。
直樹は首を外へずらした。
風だけが頬当てをかすめる。
ミーシャは前足を軸に回り、直樹の右外側へ出ていた。
「今の」
めぐみが息を止める。
「避けたあとに打った?」
「同時」
えりが答えた。
「たぶん」
直樹が追う。
ミーシャはもう次の角度を作っている。
直樹は途中で止まった。
左手を伸ばし、ミーシャの視線を上へ向ける。
低い蹴りが胴当てへ入った。
ミーシャの身体が横へ流れる。
「まだです」
ミーシャが言った。
「分かってる」
「もっと上げてください」
直樹の呼吸が一つ深くなった。
「後悔するな」
「倒してから言ってください」
直樹の足が、土を踏んだ。
*
そこから先は、めぐみには全部見えなかった。
音がしてから、直樹の肩が動いたことに気づく。
ミーシャの身体が沈む。
直樹の拳が頭上を通る。
ミーシャの拳が胴へ二つ入る。
直樹は後ろへ逃げず、距離を潰した。
右手で肩を押さえる。
左の前腕が首元へ入る。
ミーシャは身体を捻り、その下から抜ける。
直樹が追う。
足音は増えていない。
拳の数も急に多くなったわけではない。
それでも、ミーシャが動ける場所は減っていく。
左へ出れば、直樹の足が先に道を塞ぐ。
下がれば、白線が近づく。
右へ回れば、直樹の左肩が待っている。
「速くなってる」
めぐみが言った。
「違う」
えりの声は短かった。
「減ってる」
「何が?」
「いらない動き」
めぐみには、そう見えた。
速くなるほど、直樹が見ているものは増えていた。
ミーシャ。
大庭。
大庭の手にあるテーザー銃。
撮影端末を構える当直兵。
救護所。
出入口。
めぐみ。
えり。
顔はミーシャへ向いているのに、視線だけが周囲を通っていく。
ミーシャが正面へ入る。
直樹の右を誘う。
直樹が打った。
ミーシャの頭が後ろへ外れる。
後ろ足へ重さが落ちる。
土を押す。
腰が戻る。
右のカウンター。
直樹の右肩は戻らなかった。
引き戻す代わりに、その肩ごとミーシャの内側へ入る。
ミーシャの拳が直樹の耳の横を抜ける。
直樹の左手が、ミーシャの右腕を押さえる。
ミーシャが前足を軸に回ろうとする。
直樹の足が、その外へ入った。
軸が消える。
ミーシャの顎が少し上がった。
直樹は顎を打たなかった。
右拳を、胴当ての中央へ打ち込む。
脚。
腰。
背中。
肩。
すべてが拳へ集まった。
鈍い音がグラウンドへ響く。
ミーシャの呼吸が切れた。
直樹は拳を引かない。
肩を入れたまま重心を崩す。
足を払う。
ミーシャの身体が傾く。
直樹の左手が背中へ回った。
頭が土へ当たらない角度へ変える。
ミーシャは横向きに倒れた。
直樹の膝が、肩の横へ落ちる。
右手で腕を押さえる。
左手で腰を見る。
ミーシャの指が、背面の樹脂刃へ伸びた。
直樹は手を踏まなかった。
刃だけを蹴る。
樹脂刃が白線の外へ滑った。
「一人目、制圧」
えりが言った。
終了とは言わなかった。
直樹も止まらない。
ミーシャの呼吸。
両手。
腰。
足。
頭を打っていないか。
それを確かめながら、顔は上がったままだった。
大庭。
テーザー銃。
出入口。
勝った人間の顔ではなかった。
まだ終わっていない人間の顔だった。
*
大庭が、白線の外から一歩だけ前へ出た。
直樹の右足が大庭へ向く。
顔はミーシャへ向いたままだった。
「待て、真柴」
大庭の呼び方から、軽さが消えた。
「俺は参加者じゃない」
撮影端末から、久世の声が届く。
『大庭。入れ』
「やっぱり?」
『真柴はもう、お前を二人目に数えている』
「本人に聞いてないでしょう」
「入るなら早くしろ」
直樹が言った。
「入らないなら?」
「白線の外へ出ろ」
「出る途中を狙うだろ」
「分かってるなら聞くな」
えりが大庭を見る。
「条件は言った。銃口と転倒先は自分で見る」
「当たったら?」
「二本入って通電した時点で終了。追撃なし」
「本気で撃てと?」
「本気で止めなさい。撃つかどうかは自分で決める」
大庭はテーザー銃を両手で構えた。
直樹はミーシャの右腕を押さえている。
一人を制圧したまま。
右手は塞がっている。
正面には、数メートル離れた大庭。
ミーシャを離せば、背後で再び動くかもしれない。
押さえ続ければ、大庭に撃たれる。
直樹はミーシャの腕を解放した。
ただ離したのではない。
防具の肩へ手を入れ、身体を半回転させる。
大庭の射線から外す。
ミーシャが倒れたままでも、電極の進路へ入らない位置。
直樹は、その前に立たなかった。
斜めへ出る。
大庭の照準が直樹を追う。
「撃つぞ」
「撃て」
大庭が引き金を引いた。
乾いた破裂音。
二本の電極が飛ぶ。
細いワイヤーが空中へ伸びた。
直樹の身体が、めぐみとは反対側へ切れる。
一方の電極が胴当ての端へ刺さった。
もう一方は脇を抜け、土へ入る。
回路はつながらない。
直樹の身体は止まらなかった。
「片方」
えりが言った。
「継続」
大庭は引き金から指を外した。
使用済みカートリッジの解除レバーへ親指をかける。
直樹は一直線に追わない。
射線を切るように横へ動く。
大庭がグラウンド中央へ回る。
直樹は倉庫側へ押される。
逃げ道が狭くなる。
大庭の左手が予備カートリッジへ伸びた。
直樹の速度が上がった。
土が足元で跳ねる。
大庭が銃口を戻す。
間に合わない。
直樹の左手が、テーザー銃を持つ手首へかかった。
右手は銃本体へ行かない。
大庭の肘を内側へ折り、銃口を地面へ向ける。
大庭が肩を入れて押し返す。
直樹は押し合わない。
力が前へ出た瞬間、身体を外す。
大庭の足が白線を踏む。
直樹の右手が肩へ入った。
膝の後ろを崩す。
大庭が片膝をつく。
テーザー銃が土へ落ちた。
直樹は拾わない。
蹴って、届かない位置へ送る。
大庭の背後へ回る。
片腕を取る。
首は締めない。
顔を上げる。
ミーシャ。
出入口。
撮影している当直兵。
めぐみ。
えり。
「終了」
えりの声が通った。
直樹の動きが止まった。
大庭の腕から手を離す。
ミーシャも、起き上がろうとしていた動きを止めた。
終了のあとに動く者はいなかった。
*
風の音が戻った。
直樹の胸が、大きく上下している。
額から汗が落ちる。
右手を開く。
握る。
もう一度開く。
指に遅れはない。
右前腕には熱が残っていた。
痛みではない。
使い切った筋肉の張りだった。
ミーシャは片膝を立て、鼻から息を吸った。
一度。
二度。
大庭は肩を前後へ動かす。
えりが三人を順番に見る。
「意識」
「あります」
ミーシャが答える。
「吐き気」
「ありません」
「頭痛」
「ありません」
「出たら即申告」
「はい」
「真柴」
「問題ない」
「右手」
「動く」
「大庭」
「心以外は」
「記録しない」
「そこはしてほしい」
当直兵が撮影端末を構えたまま、目だけを動かした。
えりは端末へ顔を向ける。
「久世一尉。保存先、再確認」
『国境第三安全管理記録。二十四時間で自動消去』
「評価資料への転送なし」
『なし』
「採用」
撮影端末から、久世の声が続く。
『真柴』
「聞こえてる」
『何人目まで見ていた』
「航平が二人目」
「俺が入る前から?」
大庭が聞いた。
「テーザーを持った時点で」
「参加するとは言ってない」
「持った人間は数える」
『三人目は』
「入口」
『その次は』
直樹は撮影端末を見た。
「監視している一人」
当直兵の背筋が少し伸びた。
『当直は味方だ』
「撮っている人間は数える」
久世が少し黙った。
『身体は』
「戻った」
『右手は』
「遅れはない」
『最大か』
直樹は右手を握った。
肩を一度回す。
呼吸の戻りを測る。
「今日出せる分は、全部出した」
『了解した』
合格とも、復帰とも言わなかった。
当直兵は撮影端末の表示を確認する。
「中継を終了します」
赤い表示灯が消えた。
大庭からテーザー銃を受け取り、使用済みカートリッジと一緒に官品ケースへ収める。
「回収します」
「最初から最後まで仕事が早いな」
大庭が言った。
「当直ですので」
当直兵はケースを持ち、詰所へ戻っていった。
*
えりは白線の外へ出た。
ポケットから煙草の箱を出しかける。
めぐみが近づいてくるのを見て、箱を戻した。
代わりにガムを一枚口へ入れる。
「怖かった?」
「うん」
「どこが」
「なおがミーシャを倒したところ」
「そう」
「でも、そのあとも見てた」
「何を」
「ミーシャの手。腰。頭。大庭さん。入口。私たち」
えりはガムを噛みながら、直樹を見る。
「本人に聞きなさい」
「えりは分からない?」
「分かるところまでしか言わない」
めぐみはミーシャを見る。
胴当てを外しながら、大庭と短く話している。
器材を片づける手は止まっていない。
「ミーシャじゃないと、なおはあそこまで出せないんだね」
「見れば分かる」
「それ以上は?」
「直樹に訊け」
めぐみは少し笑った。
「昨日より答えてくれない」
「昨日、ハルと話したんでしょう」
「どうして知ってるの?」
「健二が図工室の前を三回通った」
「三回?」
「一回目は油。二回目は瀬田さん。三回目は本人も理由を忘れてた」
直樹がこちらへ歩いてくる。
汗で髪が額へ張りついている。
右手にグローブを持っている。
左ではない。
「途中から見てたか」
「うん」
「怖かったか」
「怖かった」
「そうか」
「でも、探しに来てよかった」
直樹がめぐみを見る。
「どうして」
「なおが何をしてるか、知らないまま帰りを待つ方が嫌だから」
直樹は短く頷いた。
めぐみはミーシャを見た。
それから、直樹へ戻る。
「ミーシャじゃないと、あそこまで出せないの?」
「ああ」
答えは早かった。
胸の奥に、小さな痛みが生まれた。
めぐみは、それをなかったことにしなかった。
「右手は?」
「戻った」
「ミーシャも、遅れはなかったって言うと思う」
「たぶんな」
「ミーシャの答えじゃなくて、なおに聞いてる」
直樹は右手を開いた。
掌。
指。
手首。
どこにも包帯はない。
「戻った。全力でも遅れはない」
「うん」
今度は、直樹の言葉として受け取った。
*
中部市場の共同炊事場には、豆と芋の匂いが満ちていた。
長机が六つ。
荷運びを終えた男。
店番を交代した女。
腕へ包帯を巻いた老人。
子どもを膝へ乗せた母親。
昼を過ぎても、食事を取る人は残っている。
的場志乃が、直樹たちの前へ器を置いた。
「食べてから話します」
「先に条件を聞きたい」
直樹が言う。
「空腹で決めると、肉が多く見えます」
大庭が器を受け取る。
「名言だ」
「市場では普通です」
直樹も座った。
ミーシャは直樹の隣ではなく、地図を広げられる向かいの席を選ぶ。
めぐみとえりは、その横へ座った。
煮込みの中には、豆、芋、細く切った葉野菜。
肉は、親指の先ほどの欠片が一つだけだった。
大庭が匙ですくう。
「これ、一人一個?」
「今日は」
志乃が答える。
「昨日はありませんでした」
直樹は肉を最後まで残した。
先に豆と芋を食べる。
ミーシャは器を取る時、一度だけ脇腹をかばった。
すぐに手を離す。
器の縁に浮いた、わずかな油を見る。
「植物油ですか」
「少しだけ。共同炊事用の備蓄です」
「残量は」
「十日」
「使用量を落とせば」
「人が痩せます」
志乃は自分の器を持ったまま立っている。
「座らないのか」
直樹が聞いた。
「席が足りません」
「一つ空いてる」
「地図の場所です」
直樹は地図を畳んだ。
「座れ」
志乃は一度だけ直樹を見る。
それから席へ座った。
大庭が声を落とす。
「マッシー、今日は人の席まで見えるんだな」
「聞こえてる」
「最大出力の効果?」
「食ってろ」
志乃の器にも、小さな肉が一つ入っている。
志乃はそれを後へ残し、豆を口へ運んだ。
「南第三へ肉を持ち帰りたいですか」
直樹が答える。
「足りていない」
「ここもです」
「ああ」
「農家もです」
「ああ」
「撃つ人も、処理する人も食べます」
「当然だ」
「当然と言いながら、最後に子どものいる場所へ全部持っていこうとする人がいます」
めぐみは直樹を見た。
直樹は反論しなかった。
「先に配分を決める」
志乃が指を折る。
「農地被害地域。現地の案内役。処理担当。市場の共同炊事。負傷者や乳児のいる場所」
最後の指を折る。
「そのあと、南第三」
「順番が来た分だけでいい」
直樹が言った。
「子どもへ先に約束しないでください」
「しない」
「撃てるとも?」
「言わない」
「持って帰るとも?」
「言わない」
志乃は頷いた。
地図を開く。
農地。
水路。
林。
民家。
市場へ続く道。
赤い印が六つある。
「現地確認は明朝です」
直樹が地図を見る。
「撃つ前提か」
「いいえ」
「安全な射線がなければ帰る」
「それが第一条件です」
ミーシャが地図の端を押さえる。
「同行者は」
「農家の案内役一名。元猟師一名。市場の処理担当二名」
大庭が聞く。
「俺らは?」
「真柴さん、ミーシャさん、大庭さん。必要なら、国境第三へ中継をつなぎます」
「また久世さん?」
「呼びますか」
「俺には聞かないでください」
えりが匙を置いた。
「学校は現場にも保管にも入れない。報酬も学校運営費とは別。持ち帰る物資は、市場の検査と配分後」
「その条件で記録します」
志乃が答えた。
めぐみは、直樹の右手を見る。
匙を持っている。
持ち替えない。
震えていない。
その手は、ミーシャを倒した。
倒れる頭を守った。
次の相手を数えた。
今は、豆と芋を口へ運んでいる。
同じ手だった。
めぐみは自分の器から、小さな肉をすくった。
口へ入れる前に、味を想像する。
その一欠片が食卓へ届くまでには、撃つことより多くの手順がある。
直樹は、それを知っている。
「なお」
「何だ」
「明日、帰る時間は?」
「九時」
「遅れたら?」
「八時半までに連絡する」
「連絡できなかったら?」
「九時半で市場側が確認を出す。学校からは誰も出さない」
「分かった」
めぐみは肉を口へ入れた。
脂は少なかった。
それでも、確かに肉の味がした。




