第百五十二話 用事がないのに
## 第百五十二話 用事がないのに
昼の片づけが、予定より二十分早く終わった。
瀬田ハルは、流し台に残った水滴を布で拭いた。
鍋は伏せてある。
まな板には熱湯をかけ、乾燥台へ立てた。
布巾は洗った。
明日の豆は水に浸けた。
食料庫の鍵も、決められた位置へ戻した。
もう一度、最初から確認する。
やはり、終わっていた。
廊下では、千紘と美月が市場から届いた靴下を大きさごとに分けている。
陸が数を読み、花音が紙へ印をつけていた。
以前なら、ハルが横についていなければ進まなかった仕事だ。
今は違う。
えりが受領記録を整えている。
大庭は油の残り一本を車から運び、健二に何か言われて笑っていた。
直樹とミーシャは、正式な移管記録がついた医療品を別室へ移している。
誰かが一つの仕事を抱えなくても、次の手が出る。
それは、よいことだった。
ハルは布を畳んだ。
流し台の端へ置く。
手が空いた。
空いた手を、どうしていいか分からなかった。
旧第七では、用事のない移動をすると理由を聞かれた。
どこへ行くのか。
何をするのか。
誰の許可を得たのか。
今は誰も聞かない。
それでもハルは、自分に同じ質問をした。
どこへ行くのか。
考えるより先に、足は廊下へ出ていた。
*
健二は倉庫にいた。
扉は開いている。
中から木材を動かす音が聞こえた。
「そこ、もう少し上」
「これ以上上げると、上の箱が取れないぞ」
「兄ちゃんの道具箱、誰も使わないから一番上でいい」
「本人に聞いた?」
「聞いたら床に置く」
「分かる」
健二と大庭の声だった。
ハルは扉の横で止まった。
棚の補強。
それなら手は足りている。
釘もある。
工具もある。
子どもは近くにいない。
頼むことはなかった。
健二へ確認することもない。
なのに、見つけたことに少し安心している。
その理由が、ハルには分からなかった。
声をかける前に、健二が振り返った。
「瀬田さん、何かあった?」
「いえ」
「食料庫?」
「終わりました」
「子どもたちは?」
「全員います」
「じゃあ、どうした?」
ハルは答えを探した。
見に来ました。
何を。
健二さんを。
その答えだけは、口にしにくかった。
「棚、曲がっています」
ハルは言った。
大庭が横から棚を見る。
「本当だ」
健二も見上げた。
「最初からだよ」
「直してください」
「今やってる」
「では、お願いします」
ハルは頭を下げ、廊下へ戻った。
後ろで大庭が笑った。
「今の、何しに来たの?」
「棚を見に来たんだろ」
「棚だけ?」
「知らん」
ハルは足を速めた。
自分にも分からなかった。
*
図工室で、めぐみは楠の枝を描いていた。
市場から持ち帰った、灰色のスケッチブック。
最初のページには、窓と机と椅子が一つ。
その奥へ細い道を伸ばし、道の脇へ大きな幹を描き足している。
廊下から足音が近づいた。
扉の前で止まる。
軽く二度、板が叩かれた。
「めぐみさん。入ってもいいですか?」
ハルの声だった。
「うん」
扉が開き、ハルが顔をのぞかせる。
「声、大丈夫ですか?」
「もう、ほとんど大丈夫」
「『ほとんど』は、『大丈夫』とは違いますよ」
めぐみは少し笑った。
「ハルさん、健二くんにも同じこと言ってる?」
「健二さんには、もっと強く言っています」
「そうなんだ」
「言わないと聞きませんから」
ハルは図工室へ入った。
机の反対側に椅子がある。
すぐには座らず、めぐみの顔を見る。
「お邪魔でしたか?」
「ううん」
「一人で描きたい時は、言ってください」
「今は大丈夫」
ハルは椅子へ座った。
スケッチブックをのぞき込まないよう、少し距離を取っている。
「昔の場所ですか?」
「うん」
「この木、大きいですね」
「楠」
「なおさんと歩いた道?」
めぐみの鉛筆が止まった。
「そう」
「学校の帰りですか?」
「まだ、なおが強くなる前」
ハルは目を瞬いた。
「なおさん、昔は弱かったんですか?」
「身体が弱かった」
「そうなんですね」
「すぐ息が苦しくなってた。走るのも、最初は得意じゃなかった」
「想像できません」
「私も、今のなおを見てると、ときどき分からなくなる」
めぐみは楠の枝を一本描き足した。
「でも、私は昔のなおも好きだった」
ハルは何も言わずに待った。
「なおは、一つ下だったから」
「一歳ですか?」
「うん」
「健二さんから、少しだけ聞きました」
めぐみが顔を上げる。
「何を?」
「指輪のことです」
ハルは膝の上で指を重ねた。
「兄ちゃんが、指輪を用意していた相手だって。それが、めぐみさんだって」
「健二くん、そんなこと言ったの?」
「そのあとは、『まあ、そういう相手』だけでした」
めぐみが小さく笑った。
「健二くんらしい」
「だから、もう決まっているんだと思っていました」
「決まってる?」
「なおさんと、めぐみさんは」
めぐみは鉛筆を置かなかった。
指先で軸をゆっくり回す。
「指輪があっても、話さなくてよくなるわけじゃないよ」
ハルは少し考えた。
「指輪があっても、まだ決めることがあるんですね」
「うん」
「なおはね」
めぐみは、スケッチブックへ視線を落とした。
「私の隣にいるには、強くならないといけないって思ってたの」
「めぐみさんが、そう言ったんですか?」
「言ってない」
「では、どうして?」
「私が、違うって言わなかったから」
楠の下へ、細い線を二本引く。
二人分の道。
「同じ高校へ行きたかった」
「はい」
「同じ制服を着て、同じ教室にいたかった。私は一つ上だったけど、なおが来たら、やっと同じ場所にいられると思ってた」
「なおさんは、行かなかったんですか?」
「少年工科学校へ行った」
「軍の学校」
「うん」
「なおは、強くなって私の隣に立つって思ってた」
「めぐみさんは?」
「強くならなくても、隣にいてほしかった」
「伝えました?」
「ちゃんとは、言えなかった」
窓の外で、誰かが箱を置く音がした。
「応援するって言った」
めぐみは続けた。
「本当は、行かないでって言いたかったのに」
「はい」
「なおは、応援してもらえたと思った」
「違ったんですか?」
「応援したかったのも、本当。でも、寂しかったのも本当」
どちらかが嘘だったわけではない。
だから、言葉が足りなかった。
「なおは、遠くへ行くほど、もっと強くならないと戻れないと思った」
めぐみの鉛筆が動く。
道の先が、紙の外へ伸びる。
「私は、なおが何かできるから好きだったんじゃない」
「はい」
「身体が弱くても、私のために何もしてくれなくても、なおがなおなら、それでよかった」
ハルが尋ねる。
「今も、そう思いますか?」
「思ってる」
返事は早かった。
めぐみの手が止まった。
鉛筆の先が、紙の一点に触れたまま動かない。
「……なのに」
「はい」
「私、自分のことは、そう思えない」
自分が口にした言葉が、図工室に残った。
「ミーシャは、なおの役に立てる」
「あの人ですか?」
「うん」
「前にも来ましたね」
「覚えてる?」
「ジャムと、ケーキを持ってきてくれた人」
「うん」
「今度は、なおさんたちと一緒に帰ってきたので、少し驚きました」
「ミーシャは、なおと外で一緒に動ける人」
「仕事で?」
「うん。なおの右手が悪かった時も、外でどう使ったかを知ってた」
「治療をしている人なんですか?」
「医者じゃない。でも、なおがどこまで動けるか、私より分かる時がある」
めぐみは紙へ目を戻した。
「若くて、きれいで、強くて」
鉛筆を持つ指に、少し力が入る。
「なおが言わなくても、次に何をするか分かる」
市場の通路で、二人は同時に曲がった。
直樹が右手を開けば、ミーシャはその指の動きを見ていた。
明日は、二人で組み手をする。
めぐみの知らない動きと、知らない合図を確かめる。
「前に来た時」
ハルが言った。
「ミーシャさん、子どもたちが食べるまで、ケーキに触りませんでした」
「うん」
「ずっと立っていました」
「そういう人」
「優しい人なんですか?」
めぐみは、すぐには頷かなかった。
「礼儀を守る人だと思う」
「そうなんですね」
「だから、困るの」
ハルが少し首を傾ける。
「嫌な人だったら、もっと簡単だった」
「嫌えますから?」
「うん」
めぐみは鉛筆を置いた。
「ミーシャがいてくれて、よかったって思ってる」
「はい」
「あの人がいなかったら、なおは帰ってこられなかったかもしれない」
ハルは、分かったふりをしなかった。
「でも」
めぐみは両手を膝へ置く。
「いなかったらよかったのにって、思う時もある」
声は掠れなかった。
逃げる場所がなくなるほど、はっきり聞こえた。
「そんなことを思う自分が、嫌なの」
「どうしてですか?」
「ミーシャは何も悪くないから」
「悪くない人には、嫌な気持ちを持ってはいけないんですか?」
めぐみがハルを見る。
ハルは少し困った顔をした。
「すみません。私も、よく分かっていません」
「ううん」
「第七では、怖がったら『不安定』、怒ったら『反抗』って書かれました」
ハルは膝の上で、重ねた指を見ていた。
「黙っていたら、嫌じゃないことにされたんです」
めぐみは何も言わなかった。
「だから、気持ちまで正しく一つにしなくていいと思います」
「ありがとうって思ってても?」
「はい」
「いなくなってほしいって思う時があっても?」
「同じ人の中にあっていいんじゃないですか」
「ハルさん、そういうこと言うんだ」
「今、考えました」
「今?」
「はい。間違っていたら、あとで直します」
めぐみが少し笑った。
笑ったあと、表情が静かになる。
「私、なおが昔考えてたことと同じだね」
「同じ?」
「役に立たないなら、隣にいてはいけないって」
めぐみは自分の胸へ手を置いた。
「なおには、そんなことないって思ってたのに」
「自分には言えないんですね」
「うん」
「それは、少し不公平です」
「誰に?」
「めぐみさんに」
めぐみは答えなかった。
*
廊下を誰かが走った。
すぐに健二の声がする。
「油あった! 大庭さんの車の後ろ!」
ハルの顔が、声の方へ動いた。
ほんの少しだけ早かった。
「健二くん?」
「はい」
「行かなくていいの?」
「油が見つかったなら、用事は終わりました」
「そう」
「はい」
ハルは座ったままだった。
それでも、耳は廊下の音を追っている。
「ハルさん」
「何ですか?」
「さっき、健二くんを探してた?」
ハルの背中が少し固くなった。
「どうして分かるんですか」
「倉庫の方から来たから」
「棚を見ていました」
「棚だけ?」
ハルは黙った。
廊下の向こうで、健二と大庭が油の本数を言い合っている。
「私も、今日、少し変なことに気づきました」
ハルが言った。
「なに?」
「健二さんを探していました」
「用事?」
「ありません」
めぐみは、スケッチブックから顔を上げた。
「前は、健二さんに聞くことがたくさんありました」
「うん」
「食料も、鍵も、子どものことも、見回りも。どこにいるか分からないと困りました」
「今は?」
「人が増えました」
ハルは指を折る。
「えりさんが記録を見てくれます。大庭さんが車両を見ます。直樹さんたちも戻りました。子どもたちも、自分でできることが増えています」
「ハルさんの仕事、減った?」
「少し」
「よかったね」
「はい」
ハルは、困ったように眉を寄せた。
「でも、前より健二さんがどこにいるか気になります」
「どうして?」
「分かりません」
「会いたかったんじゃない?」
「たぶん」
「何かしてほしかった?」
「何もありません」
「話したかった?」
「何を話すかも決めていませんでした」
「何もないことを?」
ハルは少し考えた。
「たぶん、そうです」
用事がない。
頼むこともない。
助けてもらうこともない。
それでも探す。
めぐみは膝の上で手を組んだ。
「少し、羨ましい」
「どうしてですか?」
「ハルさんは、必要じゃなくなってから、会いたいって気づいたんでしょう?」
「まだ、会いたいのかも分かりません」
「探したんでしょう?」
「はい」
「私は」
めぐみは言葉を止めた。
「なおに、私の助けがいらなくなった時も、会いたいって思ってもらえるか分からない」
ハルはすぐには答えなかった。
「なおさんに聞かないと、分かりませんね」
「簡単に言うね」
「簡単ではないです」
「聞いて、違ったら?」
「違った時のことは、私には分かりません」
ハルはめぐみの目を見る。
「でも、聞かないまま、めぐみさんが勝手にいなくなるのはダメです」
「ダメ?」
「はい」
「どうして?」
「なおさんが答える前に、答えを決めることになるからです」
めぐみは視線を下げた。
自分の私物を直樹の部屋から引き上げる。
隣へ座らなくなる。
帰る時刻を聞かなくなる。
そんなことを、まだ始めてもいないのに考えていた。
「ハルさんは、健二くんに言える?」
「言えません」
返事が早かった。
「じゃあ、同じじゃない」
「私は後輩なので」
「何の?」
「年齢のです」
「それ、関係ある?」
「めぐみさんが先にお願いします」
「ずるい」
「先輩ですから」
「ハルさん、結構そういうこと言うんだね」
「最近、言っても怒られないと分かってきました」
めぐみは笑った。
今度は少し長く笑えた。
「じゃあ、ハルさんも言って」
「めぐみさんが言ったら考えます」
「約束?」
「そこまでは」
「ずるい」
「二回目です」
*
健二の足音が近づいた。
図工室の前で止まる。
扉の隙間から、顔だけがのぞいた。
「瀬田さん、いた」
ハルが振り返る。
「何ですか?」
「油、六本あった」
「聞こえました」
「返事なかったから」
「見つかったなら大丈夫です」
「それだけ」
「はい」
健二は、めぐみのスケッチブックへ目を向けた。
すぐに視線を外す。
「邪魔した?」
「少し」
ハルが答えた。
「俺?」
「はい」
「迷いがないな」
「何か用事ですか?」
「いや。瀬田さんがいなかったから、どこにいるかと思って」
ハルは動かなかった。
「用事は?」
「ない」
めぐみはハルを見た。
ハルは、ほんの少し目を見開いている。
「じゃあ、戻る」
健二は扉から顔を引いた。
「夕方の確認、あとで」
「はい」
足音が離れていく。
ハルはしばらく扉を見ていた。
「今の」
めぐみが言った。
「用事、なかったね」
「棚のことかもしれません」
「棚は直したんでしょう?」
「確認かもしれません」
「ハルさん」
「何ですか?」
「顔、赤いよ」
「暑いので」
「窓、開いてるよ」
「閉めてください」
めぐみは笑いながら、窓へ手を伸ばさなかった。
*
ハルが図工室を出たあと、めぐみはスケッチブックへ向き直った。
窓。
机。
椅子が一つ。
楠へ続く昔の道。
そのどれにも、まだ直樹はいない。
めぐみは鉛筆を持った。
机の横へ、扉を描いた。
閉じた扉ではない。
少しだけ開いている。
誰かが入ってくるのか。
自分が外へ出るのか。
まだ決めなかった。
ただ、扉の先へ続く線を消さなかった。




