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第百五十一話 自分の分

## 第百五十一話 自分の分


 ミーシャの離脱申請の写しを封じ直した翌朝、中部市場の入口には、値札より先に名前が並んでいた。


 出荷者。


 搬入者。


 検査担当。


 保管責任者。


 白い札。黄色い札。雨に濡れて文字のにじんだ札。


 品物の上ではなく、棚の端や柱へ結びつけられている。


 名前のない箱は、通路の奥へ寄せられていた。


 めぐみは車を降り、乾いた空気を吸った。


 喉に痛みはない。


 長く話し続ければ、声の端が少し掠れることはある。それでも、一言ごとに呼吸を整える必要はもうなかった。


 後続車の運転席から降りたえりが、荷室の書類箱を確認する。


「学校分の購入予定表、受領書、現金証票。全部あります」


 前の車では、大庭が屋根の留め具を確かめていた。


 直樹は後部扉へ右手をかける。


 指を曲げ、金具をつかむ。


 そのまま最後まで押し込んだ。


 乾いた音がした。


 指はすぐに離れた。


 途中で止まらない。


 ミーシャが、その手を見ている。


「痛みは」


「ない」


「痺れ」


「もうない。朝に少しこわばるだけだ」


「握力は」


 直樹は荷台の取っ手を右手だけで握った。


 車体がわずかに揺れる。


「戻ってる」


「本人の感想は記録になりません」


「誰の記録だ」


「私のです」


 運転席から、大庭が顔を出した。


「仲いいねえ」


 二人が同時に大庭を見た。


「違うな。息が合ってるだけか」


「航平」


「はいはい。市場で喧嘩はしません」


 直樹は右手を一度開いた。


 五本の指が遅れずに伸びる。


 ミーシャが言った。


「戻ったなら、動作確認が必要です」


「医療検査は終わってる」


「検査と実際の動作は違います」


「何をする」


「軽いスパーリング」


 めぐみの足が、わずかに止まった。


 ミーシャは続ける。


「国境第三の訓練区画を借ります。右の防御、受け、把持、離脱、転倒回避。異常があれば中止します」


「明日だ」


「今日では?」


「買い物が先だ」


 直樹は茶色い封筒を上着へ入れた。


 めぐみは止めていた足を動かした。


 直樹の手が戻る。


 それは、うれしいことだった。


 外で再び動けるようになることも、喜ぶべきことのはずだった。


     *


 市場の中央通路で、的場志乃が待っていた。


 黒い髪を後ろへまとめ、灰色の上着の袖を肘まで上げている。


 足元には、乾いた泥の跡があった。


「時間どおりですね」


「道路を変えました」


 えりが答える。


「第三検問所の照合停止ですか」


「聞いていましたか」


「燃料券が止まれば、野菜の値段が先に動きます」


 志乃は直樹たちを見る。


「医療倉庫は北棟です。四三一二二は市場の保冷庫へ残します」


 ミーシャが頷いた。


「低温箱は、旧南第三の直接受領ではありません」


「分かっています。学校へ回せるのは、移管承認の出た常温管理品だけです」


 直樹が言った。


「学校分とは分ける」


「こちらも、そのつもりです」


 志乃はミーシャが持つ記録用紙へ目を向けた。


「箱番号は」


「四三一一八から四三一二三。低温は四三一二二」


「中継受領者」


「JIN FUKUOKA」


「最終受領」


「低温箱は医療倉庫側責任者。旧南第三へ移管する分は、末安えり、真柴健二」


 志乃はそれ以上聞かなかった。


「では、そちらは北へ」


 大庭が手を上げる。


「買い物組は?」


「私と末安さんと宮崎さんです」


「男手は要らない?」


「値段を上げる男手なら、足りています」


「俺ら、そんな顔してる?」


「撃てる顔は、日用品の交渉では役に立ちません」


 大庭は胸を押さえた。


「航平」


「行くよ。仕事するよ」


 直樹たちは北棟へ向かった。


 ミーシャは直樹の半歩後ろを歩く。


 歩幅は違うのに、曲がる時は同時だった。


 めぐみは視線を戻した。


 志乃は何も言わず、反対側の通路を指した。


「最初は油です」


     *


 油の売場には、金属缶と樹脂容器が積まれていた。


 調理用。


 機械用。


 灯火用。


 同じ色の容器でも、中身は違う。


 志乃は、通路の端に置かれた四缶の前で止まった。


「これは安いです」


 容器の下半分に、薄い泥の線が残っている。


 えりがしゃがんだ。


「浸水していますね」


「三日前の倉庫冠水です」


「封は」


「外見上は閉じています」


 えりは缶を動かさず、上部の刻印を見る。


「搬入者は」


「記録なし」


「元の所有者」


「倉庫の名義が二回変わっています」


「検査担当」


「いません」


 めぐみが缶の側面を見る。


 紙の札は貼られている。


 価格だけが大きく書かれていた。


「使えないの?」


 志乃が答える。


「機械油なら、沈殿を確認して使える場合もあります」


「食べる油は?」


「私は出しません」


「検査したら?」


「検査費用を払う人の名前がありません」


 えりが立ち上がった。


「責任者がいない」


「そうです」


 志乃は価格札を裏返した。


 裏側は白かった。


「安い物には理由があります。理由を書ける人がいない物は、子どものいる場所へ出しません」


「捨てるの?」


「機械工房へ回すか、処分します。経路が決まれば記録します」


 志乃は隣の棚へ移った。


 同じ容量の油が、倍近い値段で並んでいる。


 出荷者。


 圧搾日。


 保管場所。


 検査者。


 封印番号。


 名前が五つある。


 えりが予定表へ数字を書いた。


「学校分はこちらを六本」


「四本では?」


 めぐみが聞く。


「通常使用は四本です」


 えりは答えた。


「二本は封を切らない予備。搬送が止まった場合に使います」


 志乃が付け加える。


「開封日を容器へ書いてください。残量だけではなく、誰が開けたかも」


「そこまで?」


「事故のあと、全員が『自分ではない』と言う場所は、次も事故を起こします」


 えりが頷く。


「開封者、使用場所、残量。学校側で記録します」


「市場側にも出荷記録を残します」


「二重ですね」


「片方が燃えても、もう片方が残ります」


     *


 次は保存容器だった。


 ガラス瓶。


 陶器。


 金属蓋。


 樹脂製の密閉箱。


 めぐみは予定表に書かれた数を読む。


「大瓶が十二。中が二十四。小が二十四」


「大瓶を十五にします」


 志乃が言った。


 えりが顔を上げる。


「三本多い」


「運搬中に一つ割れます。煮沸中に一つ割れます。誰かが蓋を落とします」


「三つ目は瓶ではありません」


「蓋だけ余るよりましです」


 えりは少し考え、数字を書き直した。


「予備として分けます」


「余ったら、次の仕込みへ」


 めぐみは大瓶を一つ持ち上げた。


 両手に重みがかかる。


 透明なガラスの向こうに、反対側の棚が歪んで見えた。


「何を入れるの?」


「野菜の塩漬け。豆。油脂。骨から取った出汁を煮詰める場合もあります」


 志乃の答えに、めぐみは瓶を棚へ戻した。


「肉は?」


「足りません」


 声が少しだけ低くなった。


     *


 食料棟の冷蔵区画には、空いた棚が多かった。


 干した魚。


 豆。


 芋。


 粉。


 野菜。


 卵は、小さな籠に十二個だけ。


 値札の横に、一世帯二個までと書かれている。


 肉の棚には、薄い燻製肉が三本あった。


 脂の容器は一つ。


 骨は売り切れ。


「お金を払っても、ないんですね」


 めぐみが言った。


「家畜が減りました」


 志乃は空いた棚へ手を置いた。


「飼料がない。薬もない。運べない。冷やせない。育てても途中で死ぬ」


「狩った肉は?」


「検査を通った物は、ほとんど予約で消えます」


「通ってない物は?」


「裏へ行きます」


 えりが言った。


「旧南第三には入れません」


「入れない方がいいです」


 志乃は冷蔵庫の温度計を見る。


「食べて倒れる肉なら、空腹の方がまだ記録できます」


 めぐみは棚の奥を見た。


 白い底板だけが残っている。


 子どもたちは、帰ってきた直樹たちを囲んで食べた。


 大きな鍋を十五人で分けた。


 あの夜は足りていた。


 けれど、足りたことと、これからも足りることは違う。


「脂も必要なんですか」


「冬は特に」


 志乃が答える。


「子どもだけではありません。働く大人にも必要です。痩せた大人が子どもの残りを食べる場所は、長く持ちません」


 えりが予定表の欄外へ書き込む。


「肉、脂、骨。継続調達先なし」


「今はありません」


「今は?」


「農地を荒らしている猪はいます」


 志乃はそれだけ言った。


 えりは顔を上げる。


 めぐみも志乃を見る。


「狩るの?」


「狩るだけなら、誰でも言います」


 志乃は空の棚から手を離した。


「必要なのは、そのあとです」


 志乃は検査台へ目を向けた。


 次に、奥の保冷庫。


 最後に、床の排水溝を見た。


 検査。


 解体。


 冷却。


 運搬。


 配分。


 残った内臓と血。


 水場を汚さない処理。


「直樹たちに話すんですか」


 めぐみが聞いた。


「話はします」


「頼むの?」


「条件を出します」


 志乃はめぐみを見た。


「撃てる人が、食べ物を持って帰れる人とは限りません」


     *


 衣類の区画で、えりは子どもの靴下と下着を確認した。


 サイズ。


 素材。


 洗濯回数。


 補修の可否。


 志乃は値札より、縫い目を見る。


 めぐみは籠を持って、その後ろを歩いた。


 石けん。


 歯ブラシ。


 消毒用の布。


 子どもの手袋。


 健二が頼んだ鉛筆。


 直樹が食べやすい乾いた果物。


 学校の共同用に買う蜂蜜。


 気づけば、籠の底が見えなくなっていた。


 志乃が足を止めた。


「宮崎さん」


「はい」


「あなたの分は?」


 めぐみは籠を見た。


「あるよ」


「どれですか」


 指を動かす。


 蜂蜜。


 喉に使うこともある。


 けれど、学校の共同分だった。


 乾いた果物。


 直樹の食事へ足すもの。


 石けん。


 全員で使う。


「……ない」


 志乃は責めなかった。


「必要な物は」


「特にない」


「欲しい物は」


 めぐみは答えなかった。


 えりが帳簿から顔を上げる。


「学校経費と、成人個人分の生活費は別にあります」


「でも」


「学校のお金から買うという話ではありません」


「今じゃなくても」


「今でなくていい理由はありますか」


 えりの声は事務的だった。


 だからこそ、逃げにくかった。


 めぐみは周囲を見る。


 衣類。


 日用品。


 工具。


 その先に、小さな文具の棚があった。


 紙の束が積まれている。


 学校用の薄い画用紙。


 帳簿用の罫線紙。


 封筒。


 その端に、灰色の表紙のスケッチブックが三冊あった。


 めぐみは近づいた。


 一冊を開く。


 紙は厚い。


 指で撫でても毛羽立たない。


 鉛筆だけでなく、水彩も使えそうだった。


 横には、小さな固形絵具の箱がある。


 十二色。


 蓋の角にへこみがあり、その分だけ少し安い。


「学校用なら、もっと大きい紙があるよ」


 めぐみが言った。


 えりが答える。


「学校用ではない物を選んでください」


「子どもたちも使える」


「使わせたいですか」


 めぐみはスケッチブックを持ったまま、黙った。


 子どもたちに使わせたくないわけではない。


 ただ、この一冊を誰にも渡したくないと思った。


 その気持ちに、すぐ名前をつけられなかった。


「これは」


 めぐみは言った。


「私が使いたい」


「では、個人分です」


 えりが別の小さな紙を出した。


「学校の受領書には入れません」


「記録しないの?」


「学校には記録しません。個人購入の控えは、本人が持ってください」


 志乃が固形絵具の箱を取った。


「これも?」


 めぐみは箱を見る。


 十二色。


 青が二種類ある。


 暗い青と、少し緑に近い青。


「……それも」


 志乃は籠へ入れた。


「では、ようやく一人分です」


     *


 支払いを終えたあと、えりは品物を三つに分けた。


 学校生活分。


 医療・衛生分。


 個人分。


 めぐみのスケッチブックと絵具は、小さな紙袋に入った。


 学校の箱へは入れない。


 めぐみ自身が持つ。


 北棟から直樹たちが戻ってきた。


 大庭が空になった搬送台車を押している。


 ミーシャは箱番号の書かれた控えを確認していた。


 低温箱の四三一二二は、市場の保冷庫へ残された。


 学校へ持ち帰るのは、移管記録のついた常温管理品だけだった。


 直樹は保冷庫の鍵を右手で回したらしい。


 指先にわずかな赤みはあるが、手を隠していない。


「終わったか」


 直樹が聞いた。


「うん」


 めぐみの声は掠れなかった。


 直樹の視線が、めぐみの持つ紙袋へ落ちる。


「それは?」


「私の」


 短く答えた。


 直樹は少しだけ目を止めた。


 中身を聞かなかった。


「そうか」


 それだけ言った。


 ミーシャが直樹へ声をかける。


「右の反応は問題ありませんでした」


「市場で確認することか」


「鍵、把持、荷重移動。三つ確認できました」


「明日、やるんだろ」


「はい」


「何を?」


 めぐみが聞いた。


 直樹が答える。


「国境第三で、軽い組み手をする」


「手は大丈夫?」


「もう動く」


「無理は?」


「しない」


 ミーシャが横から言った。


「私が止めます」


 めぐみはミーシャを見る。


「なおが止まらなかったら?」


「倒します」


 直樹が顔を向ける。


「軽い組み手じゃないのか」


「NAOが軽くしなければ、私も変えます」


 大庭が笑う。


「見学していい?」


「仕事してください」


 ミーシャとえりの声が重なった。


 めぐみは少しだけ笑った。


 喉は痛まなかった。


     *


 旧南第三へ戻ると、荷物は受領場所で分けられた。


 健二が学校分の箱番号を読む。


 ハルが数量を確認する。


 えりが受領欄へ署名する。


 直樹たちは、市場の医療倉庫から正式に移管された物だけを別室へ運んだ。


 めぐみは、自分の紙袋を抱えていた。


「それ、どの箱ですか?」


 ハルが聞いた。


「箱じゃないよ」


「市場で買ったもの?」


「うん」


「学校用ですか?」


 めぐみは少しだけ考えた。


「私の」


 ハルは紙袋を見た。


 それから、めぐみの顔を見る。


「そうなんですね」


 それ以上は聞かなかった。


「なくさない場所に置いた方がいいですよ」


「うん」


「子どもたちに見つかると、使っていい物だと思われますから」


「名前、書く」


「それがいいです」


 ハルは受領表へ戻った。


「健二さん、油が一本足りません」


「え。六本だろ」


「ここには五本です」


「大庭さんの車かも」


「確認してください」


「今?」


「今です」


「荷下ろしが終わってからでも」


「足りない物を、足りないまま終わらせるんですか?」


「行ってきます」


 健二が走っていく。


 ハルはその背中を見送り、小さく息を吐いた。


 めぐみは紙袋を持ったまま、図工室へ向かった。


     *


 窓際の机に座る。


 スケッチブックを置く。


 灰色の表紙。


 隅に、自分の名前を書いた。


 宮崎めぐみ。


 学校の備品番号は書かない。


 使用者一覧もない。


 誰かへ提出する予定もない。


 表紙を開く。


 最初の一枚は、まだ白かった。


 めぐみは鉛筆を握った。


 何を描くかは決めていなかった。


 誰に見せるかも。


 紙の上へ、最初の線を引く。


 窓だった。


 次に、机。


 椅子を一つ。


 そこまで描いて、手を止めた。


 その部屋に誰がいるのかは、まだ描かなかった。


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