第百五十話 名前のない欄
## 第百五十話 名前のない欄
相良の死亡記録は、すでに封筒へ収められていた。
氏名は残った。
所属欄は空いたままだった。
末安えりが、封筒の表へ相良の名前だけを書いたあとだった。
*
富士川沿いの仮設処置所。
使われていない管理事務室には、蛍光灯が一本だけ点いていた。
窓は黒い布で塞がれている。
相良の遺体は、隣の区画へ移されていた。
扉の向こうから声はしない。
直樹は壁際の椅子に座っていた。
右手は膝の上にある。
開こうとしても、指は握った形から戻らなかった。
相良と刃を交えたあとから、力を送るたびに手首の奥が震える。
右手がどこまで痛んでいるのかも、もう分けられなかった。
机の前には、えりとミーシャがいた。
日本側の記録。
軍側の記録。
外部機関へ照合する記録。
机の上には三種類の封筒があり、どれも重ねられていない。
相良の紙を入れたのは、さらに別の薄い封筒だった。
「無所属は、名前を消す意味ではありません」
えりは封筒の端を押さえた。
「所属欄が空いていても、氏名欄は残します」
直樹は何も答えなかった。
紙の中へ戻せたのは名前だけだ。
本人は戻らない。
えりが次の記録へ手を伸ばそうとした時、ミーシャが言った。
「もう一枚あります」
医療鞄の内側から、折られていない用紙を出す。
相良の記録とは違う様式だった。
氏名。
現所属。
離脱理由。
離脱希望日。
本人署名。
次期所属。
受入責任者。
最後の二欄には、何も書かれていない。
えりが書面を読む。
「離脱申請ですね」
「はい」
「あなたの?」
「はい」
直樹は顔を上げた。
ミーシャは直樹を見なかった。
日付を記入する。
署名欄へ、自分の名前を書いた。
「今日決めたんですか」
えりが聞く。
「いいえ」
「いつから」
「決めた日は書きません。今日、提出します」
ミーシャはペンを置いた。
えりは、相良の封筒とミーシャの申請書を見た。
二つを近づけなかった。
「これは別の封筒へ入れます」
「はい」
「死者の記録と、生きている人の進路を一緒には扱いません」
えりは新しい封筒を出した。
表へ、本人提出とだけ記す。
「提出先は」
「アレクセイ・イリイチ・サボリン」
「原本を渡しますか」
「はい。写しを私が持ちます」
「閲覧を認める人は」
ミーシャは少し考えた。
「提出先。私。必要な場合、末安えり」
「直樹は?」
ミーシャはそこで初めて直樹を見た。
「今は入れません」
直樹は何も言わなかった。
聞く余裕がなかった。
聞かれなければ分からないことを、いつものように、分からないまま脇へ置いた。
ミーシャも説明を押しつけなかった。
えりは申請書を新しい封筒へ入れた。
相良の記録とは別の鞄へ収める。
一つは、もう本人へ聞けない紙だった。
もう一つは、本人が答えを変えられる紙だった。
*
旧南第三へ帰還した翌朝。
直樹は右手で、上着のファスナーを胸まで引き上げた。
親指と人差し指で金具を挟む。
中指を下へ添える。
途中で一度止まったが、指を休めると、鎖骨の下まで上がった。
残りは左手で閉めた。
昨日までできなかった動作が、朝には一つ増えていた。
中部共同市場へ向かう車は二台だった。
前の車を大庭が運転する。
助手席に直樹。
後部座席にはミーシャが乗る。
後続車はえりが運転し、めぐみが助手席に座った。
学校側の購入予定表と受領書類は、後続車の後部座席に積まれている。
出発前、健二は直樹へ二つの封筒を渡した。
白い封筒。
茶色い封筒。
「白は学校の買い物」
「茶色は」
「外勤分。燃料、通行、車両補修、連絡費」
「分けたのか」
「最初から分けてる」
直樹は茶色い封筒を右手で受け取った。
指が滑らないうちに、左手へ移す。
健二はその動きを見たが、何も言わなかった。
「学校へ持ち帰る物は、到着後に受領を取り直す」
「ああ」
「外で兄ちゃんの名前を使って通した箱でも、学校へ入ったら別だからな」
「分かった」
「帰還予定は」
「夕方」
「遅れる時は」
「先に連絡する」
「よし」
健二は運転席の窓を軽く叩いた。
「大庭さん、安全運転でお願いします」
「今日は丁寧だな」
「運転中は必要なので」
「必要な時だけ敬意が出る」
「使い分けてます」
「了解、健二」
大庭は窓を上げた。
二台の車が旧南第三の門を出た。
*
旧幹線へ入って一時間ほど経った頃、ミーシャの鞄から短い電子音が鳴った。
携帯電話ではない。
厚い外装に覆われた衛星電話だった。
ミーシャが表示を確認する。
「アレクセイです」
大庭は前を見たまま聞いた。
「走りながら取れる?」
「不安定です」
「少し先に退避帯がある」
大庭が速度を落とす。
堤防沿いの空き地へ前の車を入れた。
後続車も、少し間を空けて停車する。
ミーシャは車を降りた。
アンテナを伸ばし、空が開けた場所へ移動する。
接続音が鳴った。
一度切れる。
もう一度つながった。
ミーシャは衛星電話を直樹へ渡した。
「ジンに、です」
直樹は左手で受け取る。
「聞こえるか」
雑音の奥から、アレクセイの声がした。
『ジン。聞こえる』
「聞こえてる」
『経路を変えろ』
挨拶はなかった。
大庭が紙の道路図を膝へ広げる。
「理由は」
『第三検問所で燃料券の照合が止まっている。武器検査ではない。待てば二時間かかる』
「別の道は」
『二つ先の交差点を東へ。旧工業道へ入れ。河川沿いを北上し、第四燃料所の手前で的場側の誘導車と合流する』
大庭が地図を指で追う。
「橋は通れる?」
『昨日、ロシア側UN便が通った。一部沈下。大型車は一台ずつ』
「了解」
アレクセイは間を空けなかった。
『燃料は二台分。第四燃料所。運転者署名は大庭航平』
「任務責任者は」
『Jin FUKUOKA』
大庭が直樹を見る。
「真柴直樹だと駄目なのか」
『通る。照会が三か所増える』
「なら、ジンでいい」
直樹が言った。
『学校の燃料券とは混ぜるな』
「分かってる」
『次。医療物資は六箱』
ミーシャが記録用紙を出した。
直樹は衛星電話を少し離し、彼女にも声が聞こえる位置へ向ける。
『箱番号。RU-UN、四三一一八から四三一二三』
ミーシャが書く。
「四三一一八から四三一二三」
『復唱』
ミーシャが一つずつ読み上げた。
「四三一一八。四三一一九。四三一二〇。四三一二一。四三一二二。四三一二三」
『四三一二二のみ低温管理。共同市場の医療倉庫へ入れろ。旧南第三へ直接運ぶな』
「内容は」
直樹が聞く。
『滅菌ガーゼ。創傷被覆材。消毒用品。吸入器交換部品。基礎抗菌薬。破傷風関連物資』
「中継受領は」
『Jin FUKUOKA』
「最終受領は」
『医療倉庫側の責任者。旧南第三へ移す分は、末安えりと真柴健二』
「記録は三つか」
『三つの場所を通る。紙も三つだ』
風向きが変わった。
衛星電話の音が一度薄くなる。
『ロシア側UN便の記録と、学校の支援記録を一枚へまとめるな』
「理由は分かってる」
『言え』
「学校が俺の外勤拠点に見える」
『旧南第三は帰還先だ。所属先ではない。補給所でもない』
「外勤記録には」
『帰還先、旧南第三』
「学校側には」
『外勤名義を入れない。物資の出所、箱番号、中継受領、最終受領を残す』
「分かった」
『君の仕事を学校へ入れるな』
「学校を仕事へ入れない」
『同じではない』
直樹は膝の上の茶封筒を見る。
「ああ」
電話の向こうから、紙をめくる音がした。
『実務は以上だ』
「切るぞ」
『待て』
声の調子は変わらなかった。
それでも、次に呼ばれた名前は違った。
『ナオキ』
直樹は衛星電話を持ち直した。
「何だ」
『相良の死亡記録を受け取った』
堤防を越えた風が、冬枯れの草を倒していく。
相良の氏名。
空いた所属欄。
ミーシャの止まったペン。
別々の鞄へ入れられた二つの封筒。
富士川の机が、直樹の中へ戻ってきた。
『氏名を優先した処理で問題ない。所属欄も埋めない』
「本人には、もう聞けない」
『だから埋めない』
アレクセイは短く答えた。
『同じ便で、ミーシャの離脱申請も届いた。封筒は別だ』
直樹がミーシャを見る。
ミーシャは視線をそらさなかった。
「あの時の紙か」
『そうだ』
「旧所属は」
『閉じた』
「名前を消したのか」
『履歴は残した』
「任務も?」
『教育、任務、負傷、移動、離脱理由。すべて残る』
「次の所属は」
『空欄だ』
「受入責任者は」
『空欄』
「なぜ俺に言う」
『備考の同行希望欄に、Jin FUKUOKAが参加する外勤系統と書かれている』
直樹の声が低くなる。
「人を荷物みたいに話すな」
『荷物なら箱番号だけで済む』
アレクセイは即座に返した。
『彼女には氏名と本人署名がある。私は移送先を決めていない』
「俺へ預ける気でもない?」
『預けない』
「では何をした」
『本人が旧所属を離れる意思を、記録へ残した』
通信が途切れた。
数秒の無音。
再び雑音が戻る。
『書面の写しは、ロシア側UN便で旧南第三へ送る。今日ではない』
「原本は」
『こちらで保管する。閲覧記録も残す』
「次の欄は」
『本人と、受け入れる指揮系統が決めるまで空ける』
直樹はミーシャを見る。
彼女の手元には、六つの箱番号が並んでいた。
「勝手には埋めない」
直樹が言った。
『それでいい』
遠くから大型車の音が近づく。
大庭が道路側を見た。
「そろそろ出るぞ」
直樹は電話へ言った。
「書面が届いたら確認する」
『確認するのは署名と処理だ。進路を承認するのではない』
「分かってる」
『本当に?』
「切るぞ」
『箱番号を忘れるな』
ミーシャが答える。
「四三一一八から四三一二三」
『低温箱は』
「四三一二二」
『受領名義』
直樹が言った。
「中継はJin FUKUOKA。学校では健二とえり」
『記録は』
「分ける」
『帰還先は』
「旧南第三」
『よろしい』
通信が切れた。
*
ミーシャが衛星電話を受け取った。
アンテナを収納し、電源を落とす。
直樹はすぐには車へ戻らなかった。
堤防の向こうを見ている。
「あの申請、いつから決めてた」
「提出する前からです」
「相良の件があったからじゃないのか」
「違います」
返事は早かった。
「離れることは、その前から決めていました」
「なら、なぜ富士川で出した」
「えりがいて、アレクセイへ届く連絡便がありました」
「それだけか」
ミーシャは少し考えた。
「相良の所属欄を、誰も勝手に埋めませんでした」
直樹は答えなかった。
「あの人は何も拒否できません。それでも、空欄のまま残した」
「ああ」
「私は生きています」
ミーシャは続ける。
「生きているうちに、自分の欄を自分で空けるべきだと思いました」
「次を決めるために?」
「次を、前の所属に決められないために」
直樹はミーシャを見る。
「なぜ俺には言わなかった」
「ジンは、持ち帰る名前のことで精一杯でした」
「それでも聞けた」
「私の進路を、その場でジンに決めてもらう必要はありませんでした」
ミーシャは衛星電話を鞄へ戻した。
「アレクセイは、私をジンへ渡していません」
「では何をした」
「私が選んだことを、消せない形にしました」
直樹は、あの夜の机を思い出した。
ミーシャが紙へ署名していたことは見ていた。
読もうとはしなかった。
「同行希望欄に、俺の名前を書いた」
「はい」
「俺には、めぐみと帰る生活がある」
「知っています」
「それでもか」
「はい」
「生活へ入りたいのか」
「その申請には、外勤への同行希望しか書いていません」
「それも俺だけでは決められない」
「知っています。久世一尉の指揮、任務内容、私の意思、ジンの意思が必要です」
「めぐみにも話す」
「はい」
「先に」
「はい」
直樹は後続車を見る。
助手席のめぐみが、窓越しにこちらを見ていた。
「今、話す」
*
めぐみとえりが前の車へ来た。
直樹は説明をミーシャへ任せなかった。
「アレクセイから連絡があった」
めぐみが頷く。
「実務の話は、あとでえりさんへ渡す」
「うん」
「ミーシャの旧所属が閉じた」
めぐみの目がミーシャへ動く。
「いつ?」
「富士川で合流した時に、本人が離脱申請を書いた」
「次は?」
「まだ空欄」
直樹が答えた。
「ただ、俺の外勤への同行を希望すると書いてある」
めぐみは黙った。
直樹は続ける。
「俺だけでは決めない。久世一尉の指揮系統がある。ミーシャ本人の意思もある」
「私には?」
「先に話す」
「許可を取るの?」
「違う」
直樹は言葉を選んだ。
「隠さない」
めぐみは直樹を見る。
「私が嫌って言ったら?」
「それだけでミーシャを切らない」
「私を無視する?」
「しない」
「じゃあ、話す?」
「ああ」
めぐみは少し息を吐いた。
「それなら、今はいい」
ミーシャが言った。
「書面が届いた時も、めぐみに見てほしいです」
「私の書類じゃない」
「はい」
「だから、見せるかはミーシャが決めて」
「私が決めました」
めぐみはミーシャを見る。
しばらくして頷いた。
「分かった」
えりが言う。
「移動を再開しましょう。今ここで、関係の名前まで決める必要はありません」
大庭が運転席から顔を出した。
「こっちは最初から、そのつもりです」
「大庭さんは道路を見ていてください」
「見てましたよ」
直樹たちは車へ戻った。
二台は旧工業道へ向かった。
*
三日後、書面が旧南第三へ届いた。
ロシア側UN便の車両は、医療物資とは別に、封印された書類袋を一つ持ってきた。
受領したのはえりだった。
健二が横で到着時刻を記録する。
「物資ではないんですね」
「個人書類です」
「学校の受領簿には?」
「書類が到着した事実だけ。内容は記載しません」
えりは封印番号を確認した。
発送元。
搬送者。
原本保管場所。
写しの管理番号。
開封権限。
すべてが一致してから、ミーシャを呼んだ。
同席者は、ミーシャ本人が決めた。
直樹。
めぐみ。
健二は旧南第三を所属先として登録しないことを確認するため、学校運営に関係する欄だけを見る。
過去の任務歴や負傷歴は、えりが紙で覆った。
職員室だった部屋で、えりが封を切った。
書類は三枚あった。
旧所属終了確認。
履歴保全通知。
離脱申請の写し。
氏名欄には、ミーシャの名前がある。
旧所属も消されていない。
任務歴の照合番号。
負傷歴の保管先。
離脱理由の閲覧制限。
本人署名。
その下に、二つの空欄があった。
次期所属。
受入責任者。
えりは最初にミーシャへ書面を向けた。
「本人確認をお願いします」
ミーシャは三枚を順に読んだ。
「間違いありません」
「写しの保管先は」
「私が持ちます」
「予備写しは」
「えりに」
「閲覧者は」
「私。えり。必要になった場合、久世一尉」
ミーシャは直樹を見る。
「ジンには、私が見せると決めた時」
直樹は頷いた。
「それでいい」
めぐみが紙を見る。
「私も?」
「今回は見てほしいと、私が決めました」
「次は?」
「次は、その時に決めます」
めぐみは頷いた。
健二は、紙で覆われていない二つの欄だけを確認する。
「旧南第三の名前は入ってないんですね」
「入れない」
直樹が答えた。
「ここは帰還先だ。所属先にはしない」
「兄ちゃんの外勤名義も?」
「まだ入れない」
「同行希望は書いてあるんだろ」
「希望と所属は別だ」
健二はそれ以上、紙を見なかった。
「確認しました。学校側の所属登録はありません」
えりが記録する。
めぐみはミーシャへ聞いた。
「前のことは残ってる?」
「残っています」
「残したくないものも?」
「閲覧を止めることはできます。削除を求めることもできます」
「アレクセイが決めるの?」
「私が申請します」
めぐみは小さく頷いた。
えりが次期所属の欄を指す。
「ここは現在、未記入です」
「今は埋めません」
ミーシャが言った。
直樹は、相良の記録を思い出していた。
相良の紙にも、所属のない欄があった。
だが、もう本人へ聞くことはできない。
この紙の前には、本人が座っている。
えりが書類を透明な保護袋へ入れようとした。
「少し待ってください」
ミーシャが言った。
えりの手が止まる。
ミーシャは書面を自分の前へ引いた。
次期所属の空欄へ、人差し指を置く。
何も書かない。
「ここは、まだ私が答える欄です」
直樹はペンを取らなかった。
めぐみも、答えを口にしなかった。
健二は受領簿へ、個人書類一通とだけ記した。
えりは、その二つの欄を空けたまま、保護袋の封を閉じた。




