第百四十九話 風呂は一つしかない
## 第百四十九話 風呂は一つしかない
風呂は一つしかなかった。
旧南第三の職員用浴室。
湯を張れる浴槽が一つ。
三つあるシャワーのうち、温水が出るのも一つだけだった。
児童用の大浴場は、床下の配管が割れたままになっている。
ボイラーへ回せる燃料にも限りがあった。
十五人全員が、好きな時刻に好きなだけ入れる場所ではない。
世界一静かな大宴会が終わると、健二は黒板の端へ入浴順を書いた。
子どもたちが先。
大人はそのあと。
木札が「入浴中」になっている間は、勝手に扉を開けない。
介助が必要な時も、先に声をかける。
返事がなければ、もう一度呼ぶ。
転倒や急病でない限り、内側の掛け金には触れない。
以前からあった決まりだった。
今夜は、帰ってきた五人の分だけ順番が増えた。
大庭が黒板を眺める。
「俺が直樹より先なのは、どういう判断ですか」
健二は、浴室の床へ敷く布を数えていた。
「大庭さんは一人で入れますよね」
「身体は」
「では問題ありません」
「心について聞かれなかった」
「風呂の担当外です」
「相談窓口は?」
「まだありません」
「帰還者への支援が薄いな、この学校」
「兄ちゃんの同期なら、自分で何とかしてください」
「急に信頼が重い」
健二は布を抱えた。
「十分でお願いします」
「十五分」
「十一分」
「一分しか譲ってない」
「特別扱いです」
「そう言われると、悪い気はしないな」
大庭は黒板から離れた。
「敬語なのに、扱いが軽くない?」
「気のせいです」
健二は浴室へ向かった。
*
子どもたちが順番に風呂へ入っている間、直樹は保健室の椅子に座っていた。
右手には、薄い補助手袋がついている。
直樹は左手で手首を押さえ、右の親指と人差し指を留め具へかけた。
一度、滑る。
指を開き直す。
中指を下から添えた。
留め具が外れた。
直樹は手袋を自分で引き抜く。
健二は机の反対側から見ていた。
「それ、自分で外せるようになったのか」
「前から外せる」
「病院では手伝ってもらってただろ」
「急ぐ時はな」
「今は急いでない?」
「ああ」
直樹は右手を開いた。
親指。
人差し指。
中指。
三本は、以前より滑らかに曲がる。
薬指は途中で動きが鈍くなった。
小指は遅れながらも、手のひらへ近づいた。
完全には握り込めない。
だが、もう形だけ残った手ではなかった。
直樹は机に置かれた乾いた布をつまむ。
親指と人差し指。
中指を添える。
布は落ちなかった。
「乾いた物なら持てる」
「昨日、椀は滑ってたぞ」
「持ち続ける力が弱い。濡れた物はもっと落ちる」
「風呂で困るやつじゃないか」
「左手がある」
「右腕を左手で洗うのか」
「届くところは」
「背中は?」
直樹は黙った。
「髪は?」
「洗える」
「着替えは?」
「できる」
「ボタンは?」
「時間をかければ」
健二は机に置かれた処置表を見た。
入浴前に刺激端子を外す。
手首の外側を強くこすらない。
熱い湯へ長く入れない。
入浴後は、指の間まで水分を拭き取る。
皮膚の色、腫れ、震えを確認する。
「一人で入るつもりか」
「その方が早い」
「一人で時間をかけるのに?」
「十五分で終わる」
「さっき大庭さんにも十一分って言った」
「大庭と一緒にするな」
「負傷してる分、兄ちゃんの方が話を聞かない」
保健室の扉が二度鳴った。
めぐみとミーシャが立っていた。
めぐみは着替えとタオルを抱えている。
ミーシャは医療鞄を持っていた。
健二が二人を見る。
「ちょうどよかった。兄ちゃんの風呂をどうするか決めたい」
直樹が顔を上げる。
「俺が決める話だろ」
「だから、兄ちゃんもいる」
ミーシャは処置表へ目を通した。
「右の背中と腕は、一人では十分に洗えません」
「左手が届く」
「肩までは。肩甲骨の内側と、右手の指の間は見えません」
直樹は左手を背中へ回した。
指先は肩甲骨の内側で止まる。
もう一度伸ばそうとした。
「届いてない」
健二が言う。
「黙ってろ」
「俺が聞いたんだぞ」
ミーシャは処置表を机へ戻した。
「私が介助できます。移動中も、NAOの傷を確認してきました」
めぐみが顔を上げた。
「お風呂も?」
「必要なら」
「服を脱いで?」
「NAOが自分でできることは、自分でします。私は背中と右腕だけで構いません」
めぐみは黙った。
喉元へ手を置く。
一度、息を整えた。
「……私は嫌」
ミーシャの表情は変わらなかった。
「私が介助することが?」
「NAOの裸を見て、身体を洗うこと」
「はい」
「ミーシャには傷の処置でも、私には違う」
ミーシャは少し考えた。
「分かりました」
めぐみはミーシャを見る。
「私が嫌だと言っても?」
「それなら、しません。私はできると言っただけです」
健二が椅子から立った。
「ここからは、三人で決めて」
直樹が見る。
「お前が聞き始めたんだろ」
「俺が確認したかったのは、一人で入って安全かどうかまでだ」
健二は処置表を机へ置いた。
「誰に頼むかは兄ちゃんが決める。決まったら、転んだ時の合図と、何分で出るかだけ教えて」
「分かった」
「一人で入るのはなし。倒れなかったから大丈夫だった、もなしだからな」
「分かった」
「その返事が一番信用できない」
健二は保健室を出た。
*
扉を閉めても、中の声は聞こえなかった。
廊下の壁には、大庭が寄りかかっている。
着替えとタオルを抱え、自分の順番を待っていた。
「大庭さん」
「はい」
「少し聞いていいですか」
「入浴時間なら十五分を希望します」
「その件は十一分で終わってます」
「終わっていたのか」
健二は保健室の扉を見る。
「兄ちゃんと、あの二人のことです」
大庭の口元から笑いが消えた。
「質問の範囲が広いな」
「めぐみさんは分かります」
「うん」
「ミーシャは何ですか」
大庭はすぐには答えなかった。
「俺が勝手に名前をつけていい話じゃない」
「何も知らないんですか」
「知ってることと、説明していいことは別だ」
「便利な言い方ですね」
「大人には便利な言葉が必要なんだよ」
廊下の向こうから、えりが歩いてきた。
薄い書類箱を抱えている。
「大庭さん。余計な説明をしていませんね」
「信用がないな」
「実績です」
健二がえりを見る。
「えりさんから聞いてもいいですか」
「確認できている範囲なら」
えりは保健室の扉へ一度目を向けた。
「直樹とめぐみは、一緒に帰ると決めています」
「はい」
「ミーシャも、それを知っています」
「知っていて、兄ちゃんの風呂を手伝うと言ったんですか」
「ミーシャにとっては、負傷者の傷を洗う実務です」
「めぐみさんには違った」
「そうです」
健二は眉を寄せる。
「それで、兄ちゃんとミーシャは?」
「まだ三人が、その関係へ名前をつけていません」
「本人たちにも分からない?」
「少なくとも、三人で合意した呼び方はありません」
大庭が言った。
「外で見たことなら話せる」
えりが大庭を見る。
「事実だけにしてください」
「分かってます」
大庭は壁から背中を離した。
「ミーシャは、外で直樹と組める。直樹の無茶を止められるし、直樹も彼女の判断を信用してる」
「その先は?」
「本人に聞け」
健二は大庭を見る。
「大庭さん、そこまでしか知らないんですか」
「知ってても言わない」
「やっぱり役に立たないですね」
「だいぶ遠慮がなくなってきたな」
「少し慣れました」
「普通、慣れると扱いがよくならないか」
「兄ちゃんの同期なら、このくらいで大丈夫でしょう」
「その信頼の仕方、直樹に似てるぞ」
「それは嫌だな」
「俺も褒めてない」
健二の口元が少し動いた。
えりが二人を見る。
「仲良くなるのは、話が終わってからにしてください」
「なってません」
「今のは少し傷つくな」
「心の相談窓口はありません」
「さっきの話を覚えてたのか」
えりは書類箱を持ち直した。
「今夜決めるのは、誰が直樹の背中と右腕を洗うかだけです」
「それだけで済みますか」
「今夜は済ませます」
「その先は?」
「本人たちが服を着ている時に話します」
健二は保健室の扉を見る。
「兄ちゃん、また黙ってるでしょう」
「黙っていれば、二人が決めてくれると思った可能性はあります」
「面倒だな」
「だから、あなたが話させたのでしょう」
「話させましたけど」
「今は、安全だけ見てください」
「分かりました」
大庭が小さく言う。
「ちなみに、一番悪いのは直樹です」
「大庭さん」
「事実でしょう」
健二は頷いた。
「そこは同意します」
「二対一ですね」
「本人のいないところで採決しないでください」
えりが言った。
保健室の中では、まだ話が続いている。
声は聞こえない。
健二は息を吐いた。
「帰ってきた途端、話すことが増えたな」
えりの表情が少し緩む。
「生きて帰れば、増えます」
大庭が着替えを持ち上げた。
「では俺は、健全に一人で入浴してきます」
「十一分で」
「十二分」
「十一分半」
「細かいな」
「特別扱いです」
「またそれで押すのか」
大庭は浴室へ向かった。
*
保健室では、直樹が二人の前に座っていた。
健二の足音が遠ざかってから、ミーシャを見る。
「申し出てくれたことは助かる」
「はい」
「傷の注意点だけ教えてくれ」
「分かりました」
次に、めぐみを見る。
「めぐみ」
「うん」
「背中と右腕を頼めるか」
めぐみはすぐには答えなかった。
「髪と前は?」
「自分で洗う」
「着替えは?」
「できるところまで自分でやる」
「できなかったら?」
「その時に頼む」
「途中で嫌になったら、やめてもいい?」
「ああ。俺も無理なら言う」
「次も私だって決めない?」
「決めない。その時に聞く」
めぐみは直樹の右手を見る。
少しずつ動くようになった指。
濡れた物を持ち続けるには、まだ力が足りない手。
「分かった」
めぐみは言った。
「今日は私がする」
ミーシャが処置表を広げた。
「湯は熱くしすぎないでください。手首の外側は感覚が鈍いので、強くこすらない」
めぐみが頷く。
「傷へ石鹸を直接つけず、泡を手へ取って周囲から洗ってください。指の間は、入浴後に一本ずつ拭きます」
「うん」
「皮膚の色が変わる。腫れが出る。震えが強くなる。そのどれかがあれば、途中でも終わってください」
「分かった」
ミーシャは直樹を見る。
「痛みを隠さないでください、NAO」
「分かった」
「その返事を守ってください」
「ああ」
ミーシャは医療鞄を閉じた。
*
子どもたちが寝室へ入ったあと、健二は浴室へ続く廊下の戸を閉めた。
ここから先は、成人の入浴時間だった。
子どもたちは入らない。
誰が誰の身体を洗うのかを、子どもたちへ聞かせないための区切りでもあった。
大庭は、予定より少し早く浴室から出てきた。
髪から水を落としながら、健二へ時計を見せる。
「十分快挙です」
「十一分って言ったでしょう」
「余裕を残しました」
「では合格です」
「褒美は?」
「次の人のために、入口だけ拭いてください」
「合格者の仕事じゃないな」
「大庭さんならできます」
「また軽い信頼が来た」
大庭は置かれていた布を拾い、浴室の入口を拭いた。
「これでいい?」
「ありがとうございます、大庭」
大庭の手が止まる。
「今、さんが消えたな」
「呼びやすかったので」
「俺の敬称、一晩も持たなかった?」
「必要な時はつけます」
「必要な時っていつだ」
「まだ分かりません」
「扱いが軽いなあ」
大庭は笑いながら布を干した。
「まあ、直樹の弟なら、そのくらいでいいか」
「兄ちゃん基準にしないでください」
「もう敬語が戻ってる」
「大庭が細かいからです」
「また消えた」
「気にするな」
「健二、距離の詰め方が独特だぞ」
「その呼び方でいいです」
大庭は少し意外そうな顔をした。
すぐに口元を緩める。
「了解、健二」
*
直樹は脱衣所の椅子へ座った。
めぐみは扉のそばにいる。
ミーシャが処置用の布、乾いたタオル、新しい手袋を棚へ並べた。
「刺激端子を外します」
「自分でやる」
直樹は右手を上げた。
親指と人差し指を、手の甲にある小さな端子へ近づける。
一つ目をつまみ、外す。
二つ目は滑った。
中指を添える。
角度を変え、もう一度つまむ。
端子が外れた。
小さな受け皿へ置く。
以前なら、誰かの手が先に伸びていた。
今は時間をかければ、自分で外せる。
ミーシャは手を出さなかった。
「親指が前より内側へ入っています」
「俺にも分かる」
「中指も補助に使えています」
直樹は上着のボタンへ手を伸ばした。
左手で布地を張る。
右の親指と人差し指で、一つ目を押し出す。
時間はかかった。
だが、外れた。
二つ目も右手で外す。
三つ目で指が震え始めた。
めぐみが手を伸ばしかける。
「ここまではやる」
直樹が言った。
めぐみは止まる。
「うん」
直樹は右手を休ませた。
残りは左手で外す。
全部を右手で行う必要はなかった。
動かなくなるまで使う必要もない。
上着を脱ぐ。
右腕を袖から抜く時だけ、めぐみが袖口を広げた。
引っぱらない。
直樹が自分で腕を動かすのを待つ。
ミーシャが肩と手首を確認する。
「赤みはありません。腫れも増えていません」
直樹は立ち上がった。
浴室の扉の前でミーシャを見る。
「ありがとう」
「入浴後にもう一度確認します」
「外で?」
「めぐみが確認できれば、私は入りません」
めぐみが言った。
「私が見る」
「異常があれば呼んでください」
「うん」
ミーシャは処置表をめぐみへ渡す。
「途中で介助をやめても構いません。最初に決めたことを、最後まで続ける必要はありません」
めぐみは頷いた。
「分かった」
ミーシャが脱衣所を出る。
扉を閉める前に直樹を見た。
「NAO」
「何だ」
「できることが増えても、転ばなくなったわけではありません」
「分かってる」
「では、その返事も守ってください」
扉が閉まった。
*
浴室には、古いタイルと石鹸の匂いが残っていた。
湯気は少ない。
燃料を使いすぎないよう、浴槽には半分までしか湯を張っていない。
直樹は低い椅子へ座った。
めぐみが内側の掛け金を閉める。
「閉めた」
「ああ」
直樹は左手でシャワーを出した。
手の甲へ湯を当てる。
水を少し足した。
めぐみも自分の手を差し入れ、温度を確かめる。
「熱くない?」
「ちょうどいい」
「本当に?」
「本当」
「痛い時は、痛いって言って」
「言う」
「大丈夫は禁止」
「分かった」
「それも信用できない」
「健二と同じことを言うな」
「二人が言うなら、なおが悪い」
「そうかもな」
直樹は左手で髪を濡らした。
右手も上げる。
指を濡れた髪へ入れる。
親指。
人差し指。
中指。
三本が髪の間へ入った。
薬指も遅れて頭皮へ触れる。
小指はまだ十分に開かない。
右手だけで髪を洗うことはできない。
それでも直樹は、動く指で頭の右側をゆっくりこすった。
めぐみは手を出さなかった。
「前より動いてる」
直樹が言う。
「うん」
「湯に入ると、開きやすい」
「何が分かる?」
「髪と、頭と、水の向き」
以前は、何かに触れていることしか分からなかった。
今は濡れた髪の束と、その下の皮膚を区別できる。
湯が指の間を流れる方向も分かった。
「戻ってる」
直樹が言った。
めぐみはすぐには喜ばなかった。
「全部?」
「まだ」
「じゃあ、今戻った分だけ使う」
「ああ」
直樹は左手で泡を作り、右の手のひらへ載せる。
指をゆっくり閉じた。
泡を落とさず、自分の胸へ運ぶ。
一度。
二度。
三度目で指が震えた。
「痛い?」
「少し」
「続ける?」
直樹は右手を下ろした。
「ここからは左でやる」
「うん」
使えることを証明するために、動かなくなるまで使わない。
直樹は左手で身体の前を洗った。
終えると、めぐみへ背中を向ける。
銃創。
切創。
火傷。
手術痕。
新しい傷の間に、古い傷が残っていた。
めぐみは泡を手へ取る。
すぐには触れない。
「触るよ」
「ああ」
肩から洗う。
肩甲骨の内側。
直樹の左手では届かなかった場所。
めぐみの手が背中を下りる。
直樹の肩が硬くなった。
めぐみは止める。
「嫌?」
「違う」
「痛い?」
「痛くない」
「じゃあ、何?」
直樹は前を向いたまま答えた。
「誰かに洗われるのに慣れてない」
「やめる?」
少し間があった。
「続けて」
「分かった」
めぐみは、もう一度手を動かした。
傷だけを避けて洗うのではない。
傷のある皮膚も、直樹の身体として洗った。
「なお」
「うん」
「さっき、嫌だって言ったこと」
「ああ」
「ミーシャが悪いからじゃない」
「分かってる」
「必要な仕事があることも分かってる」
「ああ」
「でも、分かるのと、平気なのは違う」
「そうだな」
「私が嫌って言ったから、ミーシャを遠ざけないで」
直樹は振り返りかけた。
めぐみが背中へ手を置く。
「動かないで。泡が落ちる」
直樹は前を向き直った。
「遠ざけない」
「次の介助も、勝手に私って決めないで」
「その時に聞く」
「ミーシャに頼む時も?」
「先に話す」
めぐみは背中の泡を流した。
「それでいい」
右腕を洗う時、めぐみはミーシャから聞いた順番を守った。
肩。
上腕。
肘。
前腕。
手首。
傷の上へ石鹸を直接つけない。
指の間は、直樹が自分で開くのを待つ。
「親指」
直樹が動かす。
「人差し指」
開く。
「中指」
少し遅れて開いた。
「薬指」
以前より大きく離れる。
「小指」
震えながらも、隣の指との間に細い隙間ができた。
めぐみが布を通す。
「動いた」
「まだ遅い」
「前より動いた」
大げさな奇跡にはしない。
なかったことにもさせない。
直樹は濡れた布の端を、右手でつまんだ。
親指と人差し指。
中指が下から支える。
布はすぐには落ちなかった。
「持てる」
「無理しないで」
「ああ」
直樹は自分から、布をめぐみへ渡した。
落とすまで握らなかった。
めぐみは右腕の泡を流す。
皮膚の色を見る。
「赤くない」
「腫れてない」
「震えは?」
直樹が手を開く。
指先に細かな揺れがある。
「少し」
「湯へ入ったら終わり」
「ああ」
直樹は浴槽へ入った。
半分の湯では肩まで届かない。
腰と腹を温める。
右腕は浴槽の縁へ置いた。
湯へ沈め続けない。
めぐみは隣の椅子へ座る。
裸の直樹を見続けるのではなく、右手と顔色を確認できる位置にいた。
少しして、直樹は自分から立ち上がった。
左手で浴槽の縁をつかむ。
右手も添えた。
体重を支えるほどの力はない。
それでも、身体が横へ流れるのを止めた。
「今、右手使った」
めぐみが言う。
「ああ」
「前は?」
「できなかった」
直樹は浴槽から出た。
「次は、もう少し使える」
「明日すぐ増やさないで」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは嘘をつかないんだ」
*
身体を拭く時も、直樹は自分でできるところから始めた。
髪。
顔。
胸。
腹。
右手では、乾いたタオルの端をつかむ。
左の前腕へ当て、ゆっくり動かした。
一度、握力が抜ける。
タオルが床へ落ちた。
直樹は右手を伸ばす。
親指と人差し指で端をつまむ。
中指を添える。
持ち上げる。
今度は落とさなかった。
「できた」
めぐみが言う。
「見れば分かる」
「言ってもいいでしょ」
「ああ」
背中と右腕は、めぐみが拭いた。
指の間は一本ずつ。
赤みはない。
腫れも増えていない。
直樹は自分で上着を着た。
右腕から袖へ通す。
めぐみは袖口を広げただけだった。
前を閉じる。
一つ目のボタンを、右手で押し込む。
二つ目も入った。
三つ目で親指が滑る。
直樹は一度、手を下ろした。
少し休ませる。
もう一度ボタンをつまみ、穴へ押し込んだ。
残りは左手で閉じた。
「三つ」
めぐみが言う。
「温まってるからな」
「それでも三つ」
「ああ」
「明日は?」
「三つ以上」
「それならいい」
最後に、直樹はシャワーの止水レバーへ右手を伸ばした。
後から取りつけられた軽いレバーだった。
親指と人差し指で縁を挟む。
中指を添える。
下へ押した。
一度では動かない。
手首の角度を変える。
もう一度押す。
水滴が止まった。
直樹は右手を離した。
指は震えている。
だが、レバーは下りていた。
「今のは右だけ」
直樹が言った。
「見た」
めぐみが答えた。
直樹は止まった水を見る。
それから、自分の右手を見た。
何も握っていない。
ただ、自分が使った湯を止めた。
*
脱衣所の扉を開ける前に、めぐみが聞いた。
「出ていい?」
「ああ」
「もう手伝わなくていい?」
「今は、一人で立てる」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
めぐみが掛け金を外した。
脱衣所の外には、健二とミーシャがいた。
ミーシャが直樹の右手を見る。
「皮膚の色は」
めぐみが答える。
「変化なし。腫れなし。震えは少し。痛みも強くない」
「指の動きは」
「温まると開きやすい。濡れた布も持てた。ボタンは三つ。止水レバーも右手で下げた」
ミーシャは直樹を見る。
「最後のレバーは、必要な動作でしたか」
「閉められた」
「できたかではなく、今日する必要があったかを聞いています」
直樹は黙った。
健二が言う。
「二人とも同じこと言うな」
「正しいから」
めぐみが答えた。
ミーシャは新しい手袋を差し出す。
「今夜は刺激装置を使わず、皮膚を休ませます。朝に確認します」
直樹は右手で手袋の端を受け取った。
落とさない。
左手で口を広げ、右手を差し込む。
親指の位置で一度引っかかった。
右の親指を内側へ動かす。
自分で収めた。
手首まで引き上げる。
留め具は左手で閉じた。
全部を右手で行おうとはしなかった。
できる部分は右手で。
疲れた部分は左手で。
届かない場所だけ、人へ頼んだ。
健二が壁の時計を見る。
「十九分」
「二十分以内だ」
「ぎりぎりだろ」
廊下の向こうから、大庭の声がした。
「俺は十分でしたよ」
健二が振り返る。
「まだいたのか、大庭」
「髪を乾かしています」
「ついでに、その椅子片づけて」
「扱いが自然に雑用係になってない?」
「大庭なら大丈夫」
「また軽い信頼だ」
「嫌なら戻す?」
「何を」
「大庭さんに」
大庭は少し考えた。
「今のままでいい」
「じゃあ椅子、頼む」
「はいはい」
大庭は椅子を抱えた。
直樹が健二を見る。
「随分、慣れたな」
「話しやすいだけだ」
「大庭の方も楽しそうだぞ」
「それは知らない」
大庭が廊下の向こうから言う。
「聞こえてるよ、健二」
「椅子を運んだら寝て」
「年上への敬意は?」
「必要な時につける」
「必要な時はいつ来るんだ」
「まだ分からない」
大庭の笑い声が、廊下の先へ遠ざかっていった。
直樹は右手を一度開いた。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
最後の二本は遅い。
それでも、どちらも動いた。
今日は三つのボタンを閉じた。
落としたタオルを拾った。
浴槽から立つ身体を支えた。
使った湯を、自分の手で止めた。
右手は、もう失われた場所にはなかった。




