第百四十八話 世界一静かな大宴会
## 第百四十八話 世界一静かな大宴会
大庭が黒板を占領したのは、帰還から二時間後だった。
日が傾き始めた旧南第三の食堂には、十五人分の器が並んでいた。
八人の子ども。
健二とハル。
帰ってきた五人。
二列の長机をつなげて、一つの食卓にしてある。
脚の高さが違う場所には、蓮が薄い木片を挟んだ。椅子の脚にも、古い布を巻いている。
引いても、鳴らない。
美月は、直樹の席を通路に近い端へ置いた。
背後を人が通らない。
立ち上がれば、すぐに出口が見える。
悠太の席は、調理室から一番遠かった。
鍋や金属の蓋が鳴っても、壁を一枚挟める。
健二は、誰がそこへ座れと指示した覚えもなかった。
子どもたちが、自分たちで選んだ位置だった。
黒板の前で、大庭が短くなった白いチョークを握っている。
黒板いっぱいに、大きな文字を書いた。
世界一静かな大宴会。
書き終えると、大庭は振り返った。
「本日の催しは――」
声が食堂へ広がる。
悠太の指が机の縁をつかんだ。
直樹の顔が上がる。
左肩が固まり、目が入口へ動いた。
大庭は二人を見た。
すぐに声を落とす。
「失礼。音量設定を間違えました」
チョークを黒板の受け皿へ置こうとして、手を止めた。
折りたたまれた布の上へ置く。
音はしなかった。
今度は、食堂の端まで届くぎりぎりの声で続ける。
「本日の催しは、世界一静かな大宴会です」
蓮が黒板を見た。
「大宴会ってほど、食い物ないだろ」
「宴会の規模は、食料では決まらない」
「何で決まるんだよ」
「名前です」
「詐欺じゃねえか」
調理室から鍋を運んできた健二が言った。
「無料でも詐欺は詐欺だぞ」
「今日は誰からも金を取りません」
「問題はそこじゃない」
大庭は聞こえなかったふりをして、黒板へ向き直った。
宴会名の下へ、今日の献立を書いていく。
第一皿。
山地産じゃが芋の温製。
第二皿。
白豆の国境風煮込み。
第三皿。
芋と豆の再会仕立て。
最後に少し考え、もう一つ加える。
締め。
豆の煮汁、香りの余韻。
陸が黒板と鍋を見比べた。
「四品じゃない」
大庭は振り返る。
「四品あります」
「材料は二種類」
陸は指を二本立てた。
「芋と豆」
「水と塩も入っています」
「数を増やすために数えてる」
「陸君。料理は名前と食べ方で変わります」
「全部、同じ鍋から出る」
食堂の中央には、大鍋が一つだけ置かれていた。
芋と白豆を一緒に煮たものだ。
健二とハルが作った。
塩は少ない。
油はほとんど使っていない。
肉も卵もない。
それでも温かい。
十五人全員の器へ、一度ずつ入れられる量はある。
大庭は黒板の文字を指した。
「最初に芋を食べる。次に豆を食べる。最後に一緒に食べる。体験が三種類です」
「食べる順番を変えただけ」
「体験は変わる」
「材料は二種類」
陸は譲らなかった。
大庭はチョークを取り、黒板の端へ小さく書き足した。
使用食材、二種類。
健二が鍋を机の中央へ置く。
鍋の下には、古い毛布を切って重ねた敷物がある。
金属の底が机へ当たっても、音はしない。
「訂正したなら許す」
健二が言った。
「料理名は訂正していません」
「そこが一番怪しいんだよ」
壁際で書類を整理していたえりが顔を上げた。
「その献立表、外部提出書類には添付しないでください」
「宴会の記録として残します」
「残すだけなら構いません」
大庭は満足そうに頷いた。
美月が小さく笑った。
短い声だった。
蓮が美月を見る。
「笑っただろ」
「笑ってない」
「聞こえた」
「小さかったから、違うかも」
悠太が言った。
全員が悠太を見る。
悠太は机へ目を落とした。
「音、小さかった」
大庭は両手を静かに広げた。
「本宴会の趣旨に合っています」
*
食事を始める前に、健二は器を確認した。
音の小さい木の椀が九つ。
縁の欠けていない陶器が六つ。
木の匙が足りない分は、金属の匙の柄へ細い布を巻いてある。
器同士を重ねない。
匙を投げ入れない。
鍋の縁で、お玉を叩かない。
誰も規則として読み上げなかった。
置き方を見れば分かる。
悠斗は、全員が座るまで立っていた。
玄関側。
窓側。
調理室の入口。
空いている席。
順番に目を向ける。
「悠斗」
健二が声をかけた。
「お前の席、空いてるぞ」
悠斗は人数を確認しかけた。
途中で陸を見る。
「陸」
「十五人いる」
「全員?」
「全員」
悠斗はようやく椅子を引いた。
椅子の脚は鳴らなかった。
千紘が水差しへ手を伸ばす。
ハルも同じ水差しへ手をかけた。
「千紘」
「はい」
「今日は私が入れる」
「でも、近いから」
「近くても、頼んでいい」
千紘の手が止まる。
自分の器を見る。
まだ何も入っていない。
ハルは急かさなかった。
千紘は、最後に水差しから手を離した。
「お願いします」
「うん」
ハルが全員のカップへ水を入れる。
千紘は座り、自分のカップを両手で持った。
花音は黒板を見ていた。
ノートへ大きな鍋を描く。
鍋から四本の矢印が伸びている。
矢印の先には、同じ形の器が四つ。
横に数字の二を書く。
陸が覗き込んだ。
「材料の数?」
花音は頷いた。
大庭も横から覗こうとする。
花音はノートを閉じた。
大庭は一歩下がる。
「了解」
少ししてから、花音はノートを開いた。
隣に座る千紘へだけ見せた。
*
大庭が立ち上がった。
両手を打ち合わせそうになり、途中で止める。
そのまま左右へ静かに広げた。
「それでは」
食堂の声が止まる。
「帰ってきた五人と、待っていた十人」
陸が一度だけ唇を動かした。
人数は合っている。
何も言わなかった。
「全員の器があります」
大庭は自分の椀を持ち上げた。
「乾杯」
誰も器をぶつけなかった。
拍手もしなかった。
十五人が、それぞれの器を少しだけ持ち上げる。
陶器も木も鳴らない。
颯太は周りを見てから、自分の椀を両手で持ち上げた。
悠太は高く上げなかった。
机から指一本分だけ浮かせる。
直樹は左手で椀を持った。
右手は膝の上に置いている。
めぐみも器を上げた。
言葉にはしない。
ミーシャは周囲と同じ高さまで上げる。
えりは書類を机の端へ置き、片手で参加した。
健二も椀を上げる。
誰の器にも酒は入っていない。
水と、芋と豆の煮汁だけだった。
それでも乾杯だった。
器が机へ戻る。
大庭は静かに座った。
「世界一静かな大宴会、開始です」
「大宴会は静かじゃないだろ」
蓮が言った。
「世界で一番静かな宴会なので、世界一です」
「ほかに誰もやってなくても?」
「競争相手がいないので優勝です」
蓮は鼻で笑った。
*
芋は、匙を入れれば崩れるほど柔らかかった。
豆には少し硬いものが残っている。
味は薄い。
だが、温かかった。
大庭は最初に芋だけを匙へ載せた。
「第一皿。山地産じゃが芋の温製」
蓮も同じ鍋から芋を取る。
「ただの煮た芋」
「料理名を言ってから食べると味が変わる」
「変わらねえよ」
蓮は芋を口へ入れた。
少し黙る。
「どうです」
「芋」
「産地の風を感じませんか」
「皮の味はする」
「皮はむいたぞ」
健二が言った。
「じゃあ芋の味」
「最初からそう言ってる」
大庭は次に豆だけを取った。
「第二皿。白豆の国境風煮込み」
ミーシャが豆を一つすくう。
口へ運ぶ。
「国境風とは、何ですか」
「国境近くで食べています」
「それだけですか」
「重要な条件です」
ミーシャは真面目な顔で少し考えた。
「では、場所の説明としては正しいです」
大庭が胸へ手を当てた。
「理解者がいました」
えりが言う。
「料理として認めたとは言っていません」
ミーシャは豆をもう一つ食べた。
「味は、豆です」
陸が小さく頷いた。
*
直樹は左手で匙を持っていた。
右手で器を押さえようとする。
手袋の下で指が動く。
器の縁に触れた。
だが、力が入らない。
匙を動かすたび、椀が少しずつ奥へ滑った。
直樹は何も言わず、もう一度右手を添える。
椀が傾いた。
熱い煮汁が縁へ上がる。
めぐみとミーシャが同時に動いた。
めぐみが椀を押さえる。
ミーシャが直樹の右手首を支え、熱い縁から離した。
二人の手が、直樹の前で止まる。
「熱い」
めぐみが短く言った。
「右手を下げてください」
ミーシャも言う。
直樹は二人を見る。
めぐみは椀を押さえたまま。
ミーシャは右手首を支えたままだった。
大庭が少し身を乗り出した。
「真柴直樹選手、左右から同時に――」
「大庭さん」
えりの声が飛んだ。
大きくはない。
だが、止めるには十分だった。
「はい」
「実況は終わりです」
「中継を終了します」
大庭は自分の椀へ向き直った。
蓮が鼻で笑う。
美月が直樹の椀を見る。
「下に布を置く?」
直樹は右手を見た。
「頼む」
美月が立とうとする。
健二が先に布を取った。
「俺がやる」
椀を少し持ち上げ、折った布を下へ敷く。
めぐみが器を支える。
ミーシャが直樹の右手を膝の上へ戻す。
二人とも、相手の手を追い払わなかった。
役割が重ならない位置へ、わずかに動いただけだった。
直樹が匙を持ち直す。
「めぐみ」
「うん」
「ミーシャ」
「はい」
「助かった」
めぐみは椀から手を離した。
ミーシャも手首を放す。
直樹は自分で匙を動かした。
今度は椀が滑らなかった。
大庭は一度だけ顔を上げた。
えりと目が合う。
何も言わず、豆を食べた。
*
食事が半分ほど進んだ頃、美月が椅子へ深く座り直した。
右膝を手で押さえる。
健二が気づいた。
「痛いか」
美月は少し迷った。
「少し痛い」
「保健室へ行くか」
「まだ食べる」
「終わってから見る?」
「うん」
美月は、痛くないとは言わなかった。
直樹が美月を見る。
何か言いかける。
健二が直樹を見て、短く頷いた。
直樹は立ち上がらなかった。
自分の椀へ戻る。
健二は、兄が反論しなかったことを見ていた。
今、自分がしなくていいことを、誰かへ渡した。
以前の兄には、それが難しかった。
悠太は食堂の音を聞いている。
匙が椀へ触れる音。
布を敷いた机。
低い声。
蓮が芋を潰す音。
大庭が笑いをこらえて、鼻から息を吐く音。
「大丈夫?」
千紘が聞いた。
悠太はすぐには答えなかった。
「音、少ない」
「嫌じゃない?」
「今は、平気」
千紘はそれ以上聞かなかった。
自分の椀から豆をすくう。
誰かの世話ではなく、自分の分を食べた。
*
大鍋の底が見え始めた。
陸は席を立たず、中を覗いた。
「芋は、あと二人分くらい。汁は残ってる」
健二が言った。
「芋をおかわりしたい人」
千紘は周りを見かけた。
途中で止め、自分の腹へ手を当てる。
「私、少し欲しい」
「分かった」
ハルが千紘の器へ、半分に崩れた芋を入れた。
千紘は頭を下げる。
美月も手を上げた。
「私も、芋」
「膝は?」
「痛い。でも食べたい」
「了解」
健二が残っていた芋を一つ入れる。
鍋には豆と煮汁が残った。
蓮が大庭を見る。
「第三皿は」
大庭が顔を上げる。
「芋と豆を一緒に食べてください」
「ずっと一緒に入ってるだろ」
「今までは別々に味わっていたでしょう」
「最初から一緒に食った」
大庭が止まる。
「順番を守らなかった?」
「誰が守るかよ」
「第三皿を先に食べたことになります」
「腹の中じゃ全部一緒だろ」
陸が言った。
「鍋の中でも一緒」
「その確認はもう終わりました」
大庭は黒板へ向かい、料理名を消そうとチョークを取った。
花音が机を指で二度叩いた。
小さな音だった。
大庭が振り返る。
花音は首を横に振る。
「消さない?」
花音が頷いた。
えりが黒板を見る。
「記録として残すそうです」
「宴会の記録です」
「見る人が決めます」
大庭はチョークを布の上へ戻した。
「残します」
黒板には、大げさな宴会名と、芋と豆から作られた四つの料理名が残った。
*
最後に残ったのは、豆と煮汁だった。
陸が鍋を見る。
「汁なら、五人分」
健二が聞いた。
「欲しい人」
少し間があった。
大庭が手を上げる。
「希望します」
「遠慮ないな」
「遠慮して余らせる方が失礼です」
「余らない」
直樹も左手を上げた。
「欲しい」
健二は兄を見る。
直樹は目をそらさない。
自分の分を、自分で欲しいと言った。
「分かった」
めぐみも手を上げる。
「私も」
声は小さい。
だが、聞こえた。
ミーシャが続く。
「私もお願いします」
残り一人。
千紘は周りを見る前に、自分の手を上げた。
「私も欲しいです」
「五人」
陸が確認した。
「ちょうど」
健二が五人の器へ順番に煮汁を入れる。
大庭。
直樹。
めぐみ。
ミーシャ。
千紘。
誰かが黙って残り物を待つ食卓ではなかった。
欲しい者が、欲しいと言った。
大庭は器を持ち上げる。
「締め。豆の煮汁、香りの余韻」
「ただの汁」
蓮が言った。
「締めに入ったので、苦情は受けつけません」
「最後まで詐欺だな」
今度は、何人かが一緒に笑った。
声の大きさは揃っていない。
笑わない者もいた。
悠太は口元を少し動かしただけだった。
花音は黒板をノートへ写している。
颯太は胸元の名札を指でなぞりながら、四つの料理名を見ていた。
陸は、空になった鍋を見た。
帳面の残量欄へ、数字のゼロを書く。
書き直す必要のない数字だった。
食べ終わった者が椅子を引き始めても、悠斗は席を立たなかった。
自分の器を最後まで空にした。
誰も器を打ち鳴らさない。
食べ終えた器は、一つずつ布の上へ置かれた。
大庭が立ち上がる。
宴会を締めるために手を叩きそうになり、また途中で止めた。
両手を静かに下ろす。
「世界一静かな大宴会を、終了します」
拍手の代わりに、何人かが器を少し持ち上げた。
空になった器だった。
直樹も左手で上げる。
めぐみが隣で上げる。
ミーシャも同じように続いた。
器は鳴らなかった。
それでも、終わったことは全員に伝わった。
「この宴会名、明日も残しますか」
大庭が花音へ聞く。
花音は頷いた。
陸が言う。
「材料二種類も残す」
「そこも必要?」
「必要」
大庭は黒板の隅へ日付を書いた。
チョークを布の上へ戻す。
今度も音はしなかった。
健二は空になった鍋を持ち上げた。
軽かった。
食料が増えたわけではない。
明日の肉があるわけでもない。
油も、卵も、十分な塩もない。
それでも今夜は、十五人全員の器が一度は満たされた。
帰ってきた人が食べた。
待っていた人も食べた。
少なくとも今夜は、誰か一人だけが食べずに、他人の器を満たしたわけではなかった。
黒板には、大げさな宴会名が残っている。
食堂には、小さな笑いの跡が残っている。
世界一静かな大宴会は、本当に静かなまま終わった。
だが、旧南第三でこれほど多くの人間が、同じ時刻に、同じ食卓で、明日の心配以外のことで笑った夜はなかった。




