第百四十七話 帰ってきた人
## 第百四十七話 帰ってきた人
最初に反応したのは、悠太だった。
午後三時を少し回った頃、廊下の窓際に座っていた浅野悠太が、顔を上げた。
健二には、まだ何も聞こえない。
外壁に打ちつけた板が風で鳴っている。
調理室では、鍋の蓋が一度だけ触れ合った。
守衛室の無線から、小さな雑音が続いている。
悠太は窓の方へ耳を向けた。
「車」
健二は職員室の入口で足を止めた。
「何台だ」
悠太はすぐには答えなかった。
坂の下から、低いエンジン音が上がってくる。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
「二台」
「補給車か」
悠太は首を横に振った。
「前の一台は、国境第三」
もう一度聞く。
「後ろは違う。でも、同じ速さ」
二台の車間は変わらない。
前の車が後ろを追い立てている様子も、後ろが距離を詰めている様子もなかった。
健二は壁の時計を見た。
十五時十二分。
連絡では、十五時から十六時の間に到着する予定だった。
「来た」
誰も歓声を上げなかった。
中原悠斗が廊下へ出た。
走らない。
窓へ張りつかない。
玄関と守衛室の間で止まり、後ろにいる七人を見た。
「陸。人数、頼む」
高瀬陸は、抱えていた帳面から顔を上げた。
「まだ見えない」
「見えてからでいい」
「分かった」
悠斗は、自分で数え始めなかった。
健二はそれを確認してから、守衛室へ向かった。
笹原蓮は、もう門の内側に立っていた。
昨日、油を差した蝶番。
締め直した下側のボルト。
曲がっていた閂。
蓮は三か所を順番に見ていた。
門の外へは出ていない。
隣には、国境第三から配置されている守衛がいる。
「開けていいのか」
蓮が聞いた。
「車両確認が先だ」
「見えてるだろ」
「識別布と運転手を見る」
「面倒くせえ」
「面倒だから、二人で見る」
蓮は口を曲げた。
それでも、勝手に閂へ手をかけなかった。
坂の下から、最初の車体が現れた。
国境第三の識別布が風に揺れている。
運転席の隊員が窓から手を出し、決められた順番で指を動かした。
後続は、灰色の小型輸送車だった。
軍用車ではない。
側面には、医療搬送許可の古い札が残っている。
健二が守衛を見る。
守衛が頷いた。
「開門」
「一緒にやるぞ」
蓮が言った。
「分かってる」
二人で閂を外した。
蓮が右側。
守衛が左側。
金属の門は、以前より小さな音で開いた。
蓮が油を差したからだった。
前の車が敷地へ入る。
灰色の輸送車も続いた。
子どもたちは駆け寄らなかった。
玄関前を塞ぐように集まりもしなかった。
悠斗は校舎側に残っている。
陸は一段高い玄関から、車の窓を見ていた。
千紘は水差しと五つのカップを載せた盆を持っている。
一人では持たず、反対側をハルに頼んでいた。
美月は二脚の折りたたみ椅子のそばにいた。
昨日、悠斗と一緒に脚のがたつきを確認した椅子だった。
花音は、ノートを胸に抱えている。
開いたページには、四角い門と校舎と、二脚の椅子が描かれていた。
門から椅子まで、一本の線が続いている。
椅子の背には、透明な名札入れが下げられていた。
中の紙は白いままだった。
昨日、颯太が空欄のまま残した名札だった。
帰ってくる人の名前を、大人が先に決めなかった。
前の車が止まった。
灰色の輸送車も、その三メートル後ろで止まる。
二台のエンジンが切れた。
急に音が減った。
悠太の肩が上がる。
千紘は何も言わず、悠太から見える位置へ移動した。
身体には触れない。
声も重ねない。
ただ、そこに立った。
前の車から、国境第三の隊員が降りた。
助手席から、末安えりが降りる。
えりは、門、守衛、玄関の子どもたちを順に見た。
手は振らない。
名前も呼ばない。
胸元から書類袋を出した。
「末安えり。帰還者五名。搬入物資は、あとで確認します」
健二が答える。
「受領は中で。先に人を入れます」
「それでいい」
灰色の輸送車の運転席が開いた。
大庭航平が降りる。
地面へ両足をつけると、肩を大きく回した。
それから門、屋上、窓、守衛を短く見る。
最後に、玄関前の二脚の椅子を見つけた。
「なるほど」
大庭は真っすぐ椅子へ歩いた。
花音のノートに描かれた線と、ほとんど同じ道だった。
一番手前の椅子へ腰を下ろす。
「帰還者用の特等席、いただきます」
美月が言った。
「それ、怪我した人の椅子」
「長旅で心が傷ついてる」
陸が大庭の足元を見る。
「普通に歩いてました」
「身体と心は別会計だ」
蓮が門を閉めながら言った。
「どけよ」
「歓迎が厳しいな、この学校」
大庭は、ひどく悲しそうな顔を作った。
美月の口元が動いた。
笑い声にはならなかった。
千紘が盆を持ったまま、少しだけ下を向いた。
守衛も顔をそらした。
大庭はそれ以上ふざけず、椅子から立った。
「椅子、正常。俺が座っても壊れません」
「昨日、確認した」
美月が言った。
「二重確認です」
「頼んでない」
大庭は椅子を元の位置へ戻した。
輸送車の助手席から、ミーシャが降りた。
暗い色の上着。
肩には小さな荷物。
手には医療用の鞄を持っている。
ミーシャは大庭のように周囲を大きく見回さなかった。
車から玄関までの地面。
二脚の椅子。
校舎へ上がる段差。
子どもたちの立っている位置。
必要な場所だけを短く見た。
健二へ頭を下げる。
「到着しました」
「お疲れさまです」
ミーシャは後部座席の扉へ回った。
すぐに手は出さない。
扉を押さえ、その場で待った。
反対側の後部扉から、めぐみが降りた。
喉元には薄い布が巻かれている。
めぐみは健二を見て、小さく頭を下げた。
口が動く。
「ただいま」
弱い声だった。
それでも、健二には聞こえた。
「おかえり」
健二は、それ以上言わなかった。
めぐみも、すぐには直樹へ触れなかった。
開いた扉の横へ立つ。
手を伸ばせば届く場所で待った。
最後に、直樹が姿を見せた。
左足を地面へ下ろす。
次に右足。
左手で車体をつかむ。
右手は、胸の前へ寄せたままだった。
薄い手袋の下で、指の形が少し硬い。
降りるだけで時間がかかった。
誰も急かさなかった。
大庭も口を挟まない。
ミーシャは医療鞄を持ったまま待っている。
直樹の身体がわずかに傾いた。
その時になって、めぐみが左腕へ手を添えた。
直樹は拒まなかった。
両足が地面につく。
顔を上げる。
板で塞がれた窓。
錆びた手すり。
色の違う屋根の補修跡。
門の内側に立つ八人。
直樹は何も言わなかった。
「陸」
悠斗が呼んだ。
陸は帳面を見なかった。
一人ずつ顔を見る。
えり。
大庭。
ミーシャ。
めぐみ。
直樹。
「五人」
もう一度、顔を追う。
「予定と同じ。全員、顔を見た」
悠斗が聞く。
「間違いない?」
「ない」
「分かった」
悠斗はそこで初めて、肩を下ろした。
走っていくことはしなかった。
直樹の方から歩き始める。
一歩。
次の一歩までに、少し間がある。
花音がノートを開いた。
紙の上の門。
紙の上の線。
紙の上の椅子。
実際の直樹は、その線の上を進んでいた。
完全に同じではない。
めぐみが左側にいる。
ミーシャが半歩後ろから医療鞄を運んでいる。
大庭とえりが続いている。
それでも、門から椅子まで、人が帰ってくる線になっていた。
花音は鉛筆を取り出した。
線を描き足さない。
消しもしない。
紙と目の前を、交互に見た。
直樹が椅子の前まで来る。
美月が座面を手で押さえた。
「使って」
直樹は椅子を見た。
「誰が置いた」
「私と悠斗」
悠斗が言った。
「途中で座ってもいいように」
「ここ、途中か」
「門から部屋までの途中」
直樹は小さく頷いた。
「そうか」
椅子へ座った。
脚は揺れなかった。
美月が昨日、何度も床へ押しつけて確認したからだった。
めぐみも隣の椅子へ座る。
直樹へ寄りかかりはしない。
ただ、手が届く距離にいる。
ミーシャは医療鞄を二人の間には置かなかった。
椅子の外側へ下ろした。
千紘とハルが水を運ぶ。
千紘は五人全員へ配ろうとはしなかった。
「持てる人は、取ってください」
大庭とえりが、自分でカップを取る。
ミーシャも取った。
めぐみは左手で受け取った。
直樹は、自分の右手を見た。
千紘はカップを押しつけなかった。
「ここに置きます」
椅子の横の小さな台へ置いた。
「ありがとう」
直樹が言った。
千紘は頷いた。
花音の横へ戻る。
全員の世話をする位置には残らなかった。
門を閉めた蓮が戻ってくる。
「下の蝶番、引っかからなかった」
健二は言った。
「見てた」
「ならいい」
蓮は直樹を見た。
何かを言いかけて、唇を閉じる。
少ししてから、別の言葉を出した。
「門、勝手に開けるなよ」
「分かった」
「次から守衛に言え」
「分かった」
「一人で出るな」
直樹は一度、目を伏せた。
「分かった」
蓮は、それ以上言わなかった。
健二は直樹の前へ歩いた。
兄弟の間に、めぐみもミーシャも入らなかった。
健二は、兄の顔より先に右手を見た。
「遅い」
「悪かった」
「その手、何点残ってる」
「採点中だ」
「赤点なら追試だからな」
「厳しいな」
「ここは学校らしいぞ」
直樹は古い校舎を見上げた。
「そうだったな」
それだけだった。
抱き合わない。
肩も叩かない。
健二は直樹の右手へ触れなかった。
直樹も、無事だったとは言わなかった。
健二は五人の顔を、もう一度見た。
今は、それでよかった。
その時、颯太が椅子の背から名札入れを外した。
中には、何も書かれていない白い紙がある。
颯太はそれを胸の前で持ち、直樹を見た。
すぐには話さない。
健二も待った。
誰も意味を代わりに説明しなかった。
颯太は白い紙を見る。
直樹の顔を見る。
「真柴直樹」
直樹が答えた。
「いる」
颯太は、もう一度白い紙を見た。
「名前、書く?」
直樹は空欄を見た。
「今はいい」
「まだ、空けておく」
「ああ」
颯太は白い紙を名札入れへ戻した。
直樹の名前は書かなかった。
めぐみの名前も。
ミーシャの名前も。
次に帰ってくる者が誰なのかを、大人が先に決めなかった。
空いている名前の場所は、空いたまま残った。
健二が玄関の扉を開ける。
「中へ入れるか」
直樹は校舎の入口を見た。
めぐみを見る。
ミーシャを見る。
それから八人を見る。
「入る」
「荷物は」
直樹が答える前に、ミーシャが医療鞄を持ち上げた。
「私が持っています」
大庭も荷台へ回る。
「重い物は俺。怪我人は格好つけない」
直樹は反論しなかった。
健二は何も言わず、兄の荷物を大庭へ渡した。
先に校舎へ入ったのは、健二だった。
玄関の段差。
通路に出ている箱。
開いたままの扉。
一つずつ確認する。
ハルが後ろから扉を押さえた。
「通れる」
健二が言った。
陸は玄関脇に残り、帰還者五人の顔をもう一度確認した。
悠斗は、陸の報告を待った。
「五人、入ります」
「分かった」
美月は椅子を片づけなかった。
疲れた者が、途中でまた座れるように。
帰ってきた人たちは、一人ずつ校舎へ入った。
誰も一斉に「おかえり」とは言わなかった。
旧南第三には、言葉を急いで出せない者もいる。
言われても、すぐには返事ができない者もいる。
それでも門は開いた。
人数は、顔で確認された。
椅子は使われた。
水は、手の届く場所へ置かれた。
名前を呼ばれた人が、いると答えた。
最後に陸が、帳面の到着欄へ時刻を書いた。
十五時二十六分。
帰還者、五名。
確認者、高瀬陸。
報告先、中原悠斗。
健二が扉を閉める前に校庭を見る。
二台の車。
閉じた門。
椅子まで続く足跡。
花音が描いた線より、不揃いで、何度も曲がっている。
それでも、途中では切れていなかった。
帰ってきた人は、もう校舎の中にいた。




