第146話 持って帰るもの
## 第146話 持って帰るもの
朝、雨は止んでいた。
集会所の軒から、水だけが落ち続けていた。
山の向こうは白く霞んでいる。
川は見えない。
健二は無線機の前に座った。
壁の時計は六時十九分を指していた。
子どもたちは、まだ毛布の中にいる。
眠っている者。
目だけを開けている者。
雨音の消えた天井を見ている者。
無線から雑音が流れた。
『車両待機地点、野村です』
健二は受話器を取った。
「こちら、真柴です」
『橋の水は下がりました。路面は見えてます』
「渡れますか」
『まだです』
野村の返事は早かった。
『流木が欄干に引っかかってます。橋の端も、一部削れてるように見えます』
「近づかないでください」
『境界一時保護所の道路班が、こちらへ向かってます』
「到着予定は?」
『八時前後です』
健二は時計を見た。
「それまでは動きません。こちらも高台で待機します」
『了解』
通信が切れた。
陸は毛布の中から顔を出していた。
「水は下がったんですか」
「橋の上からは下がった」
「なら、帰れますか」
「まだ帰れない」
健二は受話器を机へ戻した。
「水がなくなっても、橋が元どおりとは限らないからね」
陸は壁の時計を見た。
「八時まで待つ」
「そう」
健二は、毛布から出ている陸の足を見た。
「その前に、朝ごはん」
陸はノートへ手を伸ばした。
「乾パンは四十八枚です」
「起きるより先に数えたの?」
「昨日、数えました」
「便利な記憶だね」
健二は固形燃料を一つ出した。
宮坂が鍋へ水を入れる。
昨夜、確認した手押しポンプの水だった。
濁りはない。
臭いもない。
周囲に油や薬が流れた跡もない。
それでも、鍋の底から泡が上がり続けるまで火へ掛けた。
持参した飲料水は、そのまま飲む分として残した。
朝食は、蓋付きの容器へ入れていた芋と豆。
未開封の乾パン。
塩を少し。
美月は長椅子へ座ったまま食べた。
右足には、新しいガーゼが当ててある。
健二が聞いた。
「今は?」
美月は芋を飲み込んだ。
「四」
「歩けそう?」
「休みながらなら」
「分かった」
美月は自分から付け足した。
「途中で痛くなったら言う」
健二は頷いた。
「助かります」
千紘は、空いた椀を集めようとした。
二つ重ねたところで、手を止めた。
「宮坂さん」
「何だ」
「洗う水は、どこですか」
宮坂は入口側の容器を指した。
「そっちだ。飲む水とは混ぜるな」
千紘は頷いた。
三つ目の椀へ手を伸ばす前に、悠斗を見た。
「残り、運んでくれる?」
悠斗は自分の椀を置いた。
「分かった」
二人で分けて運んだ。
花音は、昨夜置いた桶を見た。
雨漏りは止まっている。
桶の底には、浅く水が溜まっていた。
花音は指を入れなかった。
桶の横へ、使用しない水、と書かれた札を置いた。
宮坂がそれを見た。
「そのままでいい。あとで外へ出す」
花音は一度頷いた。
八時六分。
道路班から無線が入った。
橋は、徒歩なら通れる。
ただし、一度に渡る人数は三人まで。
中央では止まらない。
欄干へ触れない。
黄色い印より外側へ出ない。
車両を通すのは、流木を外し、路面の下まで確認してから。
送迎車とトラックは、まだ待機させる。
健二は条件を一つずつ復唱した。
「子どもを先には渡しません」
『道路班二人で、橋の両側を見ます。到着したら、もう一度説明します』
「了解しました」
健二は受話器を置いた。
悠斗が立った。
「出る?」
「出る準備をする」
「何を持つ」
「昨日持ってきた物と、宮坂さんから預かる物」
蓮が、集会所の壁に置かれた交換記録を見た。
「食べ物は?」
宮坂が答えた。
「腹いっぱい持たせるほどはない」
「じゃあ、何を持って帰るんだよ」
宮坂は農協倉庫の鍵を取った。
「腹が減った時に、次を作る物だ」
子どもたちは、宮坂について倉庫の前まで行った。
中へ入るのは、宮坂、健二、杉原だけだった。
子どもたちは開いた扉の外で待った。
倉庫の中は、湿った土と木の匂いがした。
空の飼料袋。
錆びた農具。
木箱。
棚の上に、土のついた芋が並んでいる。
宮坂は、隙間のある小さな木箱を下ろした。
「種に残した分だ」
食べる芋より小さい。
芽の位置へ、薄い印がつけてある。
陸が扉の外から聞いた。
「何個ですか」
宮坂は数えた。
「十二個」
陸がノートへ書く。
「十二個で、何人分になりますか」
「今は誰の腹も満たさん」
宮坂は木箱へ乾いた布を掛けた。
蓋は閉めなかった。
「植えて、腐らず、芽が出て、そのあとだ」
健二が箱を持ち上げた。
「今日の飯にはならない。でも、植えれば次ができる」
「意味あるの?」
蓮が聞いた。
「今すぐ食べられないからって、要らない物にはならないよ」
健二は木箱を床へ置いた。
「ただ、これで食料の心配が終わったことにはしない」
宮坂は次の棚から、保存瓶を出した。
口が欠けていない物。
蓋が閉まる物。
曇りの少ない物。
七本。
千紘は一本ずつ見た。
「何を入れるんですか」
「塩漬け。煮た豆。乾かした物」
宮坂は瓶の底を光へ向けた。
「入れる物より先に、割れてないかを見る」
千紘は瓶へ手を伸ばさなかった。
「運ぶ人は?」
健二が答えた。
「箱ごと大人が持つ。千紘は、本数を陸に頼んでくれる?」
千紘は陸を見た。
「書いてくれる?」
陸がノートを開いた。
「七本」
千紘は瓶を自分で覚えようとせず、宮坂が箱へ戻すのを見た。
宮坂は農具棚の下から、布に包まれた部品を出した。
手押しポンプの革パッキン。
小さな逆止弁。
軸を留める金具。
「今のポンプと同じ型じゃないかもしれん」
宮坂が言った。
「寸法を見て、合わなければ削る。勝手に取りつけるな」
蓮が部品を覗いた。
「俺が見てもいい?」
「見るだけならな」
蓮は手を後ろへ回した。
革パッキンの厚さ。
金具の穴。
逆止弁の向き。
目だけで追った。
「学校のポンプ、音が変だった」
健二が聞いた。
「いつから?」
「前から。戻る時に一回鳴る」
「帰ったら、先に報告」
「直さないのか」
「報告して、止めて、合う部品か見てから」
蓮は部品を見た。
「分かってる」
宮坂は、修理後に余った柵の留め具も一つ出した。
昨日使った蝶番と同じ型だった。
割れた金具は持ち帰らない。
交換記録として農場へ残す。
代わりに、使える留め具と寸法を書いた紙を持ち帰る。
花音は、その紙の余白へ線を引いた。
柵。
留め具。
開く方向。
閉じる方向。
宮坂は線を見た。
「こっちが内側だ」
花音は矢印を一本足した。
宮坂は、薄い板へ水の扱いを書いた紙を載せた。
飲む水。
洗う水。
動物へ使う水。
正体の分からない水。
検査記録のない水。
油や薬の近くを通った水。
欄は、それぞれ分かれていた。
陸が読んだ。
「正体の分からない水は、飲まない」
「そうだ」
「煮たら?」
「薬や油は消えん」
宮坂は、使用不可の欄を指した。
「迷ったら、飲む側へ入れるな」
健二は紙を透明な袋へ入れた。
「旧南第三でも、飲料用と洗浄用を分ける。点検の日付も書く」
「誰が決めますか」
陸が聞いた。
「最後は大人が決める」
健二は袋の口を閉じた。
「陸は、残りと日付を教えて」
陸は頷いた。
倉庫から持ち出す物を、地面へ並べた。
種芋の小箱。
保存瓶七本。
手押しポンプの部品。
柵の留め具。
水の処理手順。
宮坂の無線番号を書いた紙。
二日間の作業記録。
作業記録には、時刻が残っていた。
到着。
車両故障。
徒歩移動。
雨水の確認。
柵の破損。
部品の交換。
高台への避難。
橋の通行停止。
使用した水。
残った食料。
誰が悪かったかは書かれていない。
起きたことと、使った物だけが並んでいた。
健二は最後の紙を読んだ。
「豚のことも記録に?」
「書く」
宮坂は短く答えた。
「いなくなった分を隠すと、次に餌の量を間違える」
健二は記録を透明な袋へ入れた。
「旧南第三で写しを取ります」
「原本を持っていけ」
「いいんですか」
「俺は控えを書いた」
宮坂は壁へ掛けた紙を指した。
「片方が濡れても、片方は残る」
健二は袋を受け取った。
「預かります」
陸が地面の物を数えた。
「七種類です」
健二は並んだ物を見た。
「食料は種芋だけ」
「食べられない」
陸が言った。
「今はね」
健二は種芋の箱へ掛けた布を直した。
「今日食べる物より、水と道具と次の手順を持って帰る」
悠斗が荷物を見た。
「誰が持つ」
「橋までは大人四人」
健二は先に言った。
悠斗の手が止まる。
「俺は何を持つ」
「自分の水筒」
「それだけ?」
「それと、人数」
悠斗は八人を見た。
声には出さなかった。
陸が聞いた。
「今、数えますか」
悠斗は少し考えた。
「橋の前で頼む」
「分かった」
橋まで運ぶ物は、大人四人で分けた。
健二は種芋と作業記録。
杉原は保存瓶。
宮坂はポンプの部品と留め具。
ハルは水の手順書と着替え袋。
子どもたちは、自分の水筒だけを持った。
美月には、水筒も持たせなかった。
「私も持てる」
「今日は荷物より、足をちゃんと持ち帰る方が大事」
健二は美月の右足を見た。
美月は水筒へ伸ばしかけた手を戻した。
集会所を出る前に、中を確認した。
火は消えている。
固形燃料は缶へ戻した。
食料の包みは残っていない。
濡れた布は一か所へまとめた。
使用した水量を書いた。
雨漏りの桶は、宮坂が外へ出した。
花音が引いた線のある紙は、作業記録と一緒に袋へ入れた。
「忘れ物は?」
健二が聞いた。
陸が床を見た。
千紘が長椅子の下を見た。
蓮が工具の形を確認した。
颯太は名前札へ触れた。
悠太は集会所の音を聞いた。
風。
樋。
閉じた窓。
「ない」
悠斗が言った。
健二は扉を閉めた。
橋へ向かう道は、昨日より泥が深かった。
宮坂が先に歩く。
杉原が美月の反対側につく。
健二は美月の横。
ハルは最後尾。
昨日と同じように、急がなかった。
平らな場所で休む。
足元の水を避ける。
崩れた道端へ寄らない。
美月は二度、自分から止まった。
「休みたい」
一度目は坂の途中。
二度目は作業小屋の前。
健二は時計を見た。
「五分」
蓮は先へ行かなかった。
足元の石も蹴らなかった。
立ったまま待った。
作業小屋の横には、前日に見つけた槽があった。
水は澄んでいた。
使用不可の赤い札が、雨に濡れている。
花音は槽を見た。
次に、水処理手順の入った透明な袋を見た。
それ以上は近づかなかった。
橋の手前には、道路班の男が二人立っていた。
野村は反対側にいる。
流木は、すでに欄干から外されていた。
橋の端には黄色い印がついている。
削れた部分へ近づかないための線だった。
道路班の男が説明した。
「三人ずつ渡ります。中央では止まらないでください。黄色い印より外へ出ないでください」
健二は橋を見た。
「先に荷物を渡します」
子どもたちは、橋から離れた平らな場所で待った。
健二とハルが、子どもたちのそばに残る。
宮坂と杉原が荷物を橋の入口まで運んだ。
道路班の二人が、一箱ずつ受け取る。
種芋。
保存瓶。
ポンプ部品。
留め具。
着替え袋。
透明な記録袋。
人とは一緒に運ばなかった。
道路班員が橋を往復し、反対側で野村が受け取る。
保存瓶は毛布で包んだ。
種芋の木箱は密閉せず、上から乾いた布を掛けた。
燃料缶から離れた場所へ置く。
水の手順書と作業記録は、野村が車内へ入れた。
すべての荷物が橋の向こうへ渡った。
道路班の一人が農場側へ戻ってきた。
「次は人です」
最初は、健二、美月、花音。
健二は美月へ手を差し出した。
「手、いる?」
美月は橋を見た。
健二の手を見る。
首を横に振った。
「今はいらない」
「分かった」
健二は、すぐに支えられる距離を歩いた。
美月は黄色い印から離れて進む。
花音は二人の後ろを歩いた。
橋の中央では止まらなかった。
渡り終えた美月が、息を吐いた。
健二が聞いた。
「痛い?」
「五」
「休む?」
「休みたい」
道路班が用意した椅子へ座った。
誰も次の組を急かさなかった。
二組目は、ハル、千紘、颯太。
ハルが二人の間ではなく、半歩後ろを歩いた。
千紘は颯太の腕へ手を伸ばさなかった。
颯太も、名前札を触らなかった。
三人は同じ速さで橋を渡った。
三組目は、杉原、悠斗、陸。
渡る前に、悠斗が陸へ言った。
「人数」
陸は橋の両側を見た。
渡った者。
これから渡る者。
農場側に残っている者。
一人ずつ顔を追った。
「八人」
「分かった」
悠斗は数え直さなかった。
三人が橋を渡った。
四組目は、宮坂、蓮、悠太。
宮坂が二人の前を歩いた。
蓮は黄色い線だけを見た。
悠太は橋の下を見なかった。
水の音へ顔を向けたまま歩く。
橋脚へ当たる水。
靴が路面へ触れる音。
欄干から落ちる滴。
三人が渡り切った。
悠太は指を三本立てた。
ハルは意味を決めなかった。
「三つ、聞こえましたか」
悠太は頷いた。
陸が、もう一度八人の顔を見た。
「八人います」
宮坂は、橋の向こうに置かれた荷物を確認した。
保存瓶の箱を杉原へ渡す。
ポンプ部品と留め具も、その横へ置いた。
健二へ、作業記録の袋を差し出した。
「ここから先は頼む」
「預かります」
「分からんことがあったら無線を入れろ」
「はい」
宮坂は、子どもたちを順に見た。
名前は呼ばなかった。
長い別れの言葉も言わなかった。
「また、手が足りん時は来い」
蓮が聞いた。
「直す物がある時?」
「見る物がある時だ」
蓮は口を閉じた。
宮坂は道路班の一人と、橋を農場側へ戻った。
中央では止まらなかった。
向こう岸へ着くと、一度だけ手を上げた。
それから農場へ続く道を歩き始めた。
野村が送迎車の扉を開けた。
子どもたちが座る。
持ち帰る物は、トラックの荷台へ固定した。
保存瓶の箱は、毛布で包んだ。
種芋は燃料缶から離す。
水の手順書と作業記録は、荷台ではなく健二が持った。
美月は通路側へ座った。
右足を前へ出す。
悠斗は全員の座席を見た。
シートベルト。
通路。
扉。
陸が言った。
「八人座りました」
悠斗は頷いた。
送迎車が動き出した。
旧南第三へ戻ったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
門は内側から開いた。
留守番をしていた三人が外へ出てくる。
健二は車を降りた。
最初に、子どもの人数を確認する。
次に荷物。
最後に、門が閉じる音を聞いた。
黒板の右側には、出発前に書いた名前が残っていた。
戻る人。
その下に、十人の名前。
悠斗が黒板の前に立った。
上から一人ずつ指で追う。
八人の子ども。
ハル。
健二。
「全員いる」
健二はチョークを取った。
名前の横へ、小さな丸をつける。
十個。
荷物は守衛室の前へ並べた。
陸が記録を読む。
「種芋、十二個」
健二が木箱を置く。
「保存瓶、七本」
杉原が箱を置く。
「ポンプ部品、三種類」
宮坂から預かった包みを置く。
「柵の留め具、一個」
蓮が寸法を書いた紙を、その横へ置く。
「水の処理手順、一部」
透明な袋。
「宮坂さんの連絡先」
無線番号の紙。
「作業記録」
最後の袋。
陸はノートへ書いた。
「食料は増えてません」
「うん」
健二は種芋の箱を見た。
「今日食べられる物は増えてない」
陸が顔を上げる。
「でも、持って帰る物はありました」
「そうだね」
健二は木箱に掛けた布を直した。
「すぐ使わない物もある。だから、先に置き場所を決める」
種芋は、暗く涼しく、風の通る場所。
保存瓶は、割れない低い棚。
ポンプ部品は、工具箱とは別の乾いた箱。
留め具には、農場の寸法紙をつける。
水の手順は、守衛室と調理場へ一部ずつ写す。
連絡先は、無線機の横。
作業記録は、原本と写しを分ける。
蓮がポンプ部品の箱を見た。
「学校のポンプ、今日見る?」
「今日は見ない」
「なんで」
「帰ってきたばかりだから」
健二は時計を指した。
「明日の朝、音を聞いて、止めて、部品が合うか確認する」
蓮は工具箱へ手を伸ばさなかった。
「分かった」
美月は多目的室から、椅子を一脚出した。
右足をかばいながら、背もたれへ手を掛ける。
持ち上げる前に止まった。
悠斗を見た。
「片方、持って」
悠斗は椅子の反対側へ回った。
「どこ」
「守衛室」
二人で椅子を運んだ。
美月が進む速さに、悠斗が合わせた。
門の見える壁際へ置く。
座面を布で拭く。
美月は自分では座らなかった。
無線機が鳴った。
短い呼出音。
千紘が最初に振り向いた。
健二が守衛室へ入る。
受話器を取った。
「旧南第三、真柴です」
雑音のあと、富士川側の声が届いた。
『富士川側から連絡。記録します』
「どうぞ」
『真柴直樹ほか、治療および記録整理終了後、旧南第三へ移動予定』
健二の手が止まった。
『移動可否は医療側判断。到着時刻は未定』
「確認します」
健二は机の紙へ書いた。
真柴直樹ほか。
旧南第三へ移動予定。
治療・記録整理後。
到着時刻未定。
「現在、生存確認は取れていますか」
『取れています』
「移動開始時に、もう一度連絡をください」
『了解』
通信が切れた。
八人は、守衛室の入口へ集まってはいなかった。
悠斗は廊下。
美月は椅子の横。
蓮は門の近く。
悠太は音楽室の前。
千紘は無線机の反対側。
陸は黒板の前。
花音は床。
颯太は名前札の箱のそば。
それぞれの場所から、健二を見ていた。
健二は受話器を置いた。
「兄ちゃんは生きてる」
誰も声を上げなかった。
「治療と、向こうの記録整理が終わったら、ここへ戻る予定です」
美月の手が、椅子の背へ触れた。
「いつ?」
「まだ決まってない」
健二は机に書いた紙を見た。
「今日かもしれないとも、明日だとも言えない」
蓮が聞いた。
「誰と戻る」
「まだ、俺が言えるのは連絡に書いてあることだけ」
「怪我は」
「治療中」
健二はそれ以上を足さなかった。
「移動が始まったら、もう一度連絡が来る」
悠斗が廊下を見た。
子どもたちの位置を一人ずつ確かめる。
「陸」
陸が顔を上げた。
「人数」
陸は八人を見た。
「八人」
少し間を置く。
「今は、八人います」
悠斗は頷いた。
「分かった」
美月は壁際の椅子を、門が見える角度へ動かした。
悠斗が片側を持った。
脚が床へ触れる直前、美月が手で合図した。
二人は音を立てずに置いた。
蓮は門へ行った。
内側の留め具へ触れる前に、守衛の男を呼んだ。
「これ、確認していい?」
二人で留め具を開ける。
閉める。
浮きがないことを確かめる。
蓮は工具を持ち出さなかった。
悠太は音楽室の前で、外の音を聞いた。
発電機。
風。
遠くを走る車。
車両音が遠ざかった。
悠太は、立てていた指を一本下ろした。
千紘は無線机の上を整えた。
受話器のコード。
記録紙。
鉛筆。
予備の電池。
全部を一人で持とうとはしなかった。
「悠斗、電池の箱を取ってくれる?」
悠斗が棚から箱を下ろした。
「ここ?」
「無線の右」
陸は黒板の端に、新しい欄を作った。
到着予定。
チョークを持つ。
時刻は書かなかった。
代わりに、
未定。
と書いた。
その下へ、連絡を受けた時刻だけを書いた。
花音は床の埃へ線を引いた。
富士川。
途中の道。
橋。
旧南第三。
線は門の前で終わらなかった。
校舎の中まで入り、壁際の椅子へ続いた。
颯太は名前札の箱を開けた。
自分の札には触れなかった。
文字の書かれていない札を一枚取り出す。
黒板の前へ行く。
戻る人。
十人の名前が残る右側。
その下へ、空の名札を置いた。
颯太は何も書かなかった。
健二も名前を尋ねなかった。
門は閉じたままだった。
椅子は空いていた。
黒板の右側で、白い名札が一枚、帰ってくる名前の場所を先に取っていた。




