第145話 八人いる
## 第145話 八人いる
箸を置く頃には、雨の音が変わっていた。
屋根を打つ粒が、一つずつ聞き分けられなくなっている。
雨樋から落ちる水は、もう線ではなかった。
軒下の土を白く叩いていた。
悠太は空になった椀を両手で持ったまま、天井を見た。
無線機から短い雑音が走った。
陸の顔が上がった。
健二は、食卓の端に置いていた受話器を取った。
「旧南第三側、真柴です」
雑音の向こうから、野村の声がした。
『車両待機地点です。低い橋の手前まで水が来ました』
健二は壁の時計を見た。
十八時七分。
「橋の上は?」
『路面へ乗り始めました。まだ浅いですが、増えてます』
「渡らないでください」
『了解』
「車は高い場所にありますか」
『二台とも待避場所です。斜面からも離してます』
「そのまま待機。危ないと思ったら、車は置いて上の旧料金所へ移ってください」
『分かりました』
健二は受話器を握ったまま続けた。
「次は十八時三十分。変化があれば、その前でも呼んでください」
『了解』
通信が切れた。
食卓の周りで、誰も立ち上がらなかった。
悠斗が窓を見た。
暗くなった畑の向こうに、川は見えない。
「戻れない?」
「今夜は橋を使わない」
健二は受話器を置いた。
「水が引くまでは渡らない」
蓮が椅子を引いた。
「浅いなら行けるだろ」
「浅く見える時が、一番よく分からない」
「車まで一・四キロだぞ」
「橋が使えなければ、距離はゼロでも戻れないよ」
蓮は口を閉じた。
土間の方から宮坂が入ってきた。
雨合羽の肩から水が流れている。
杉原も後ろにいた。
「橋は駄目だ」
宮坂は雨合羽を赤い線の手前で脱いだ。
「この雨なら、夜中まで増える」
「家は?」
健二が聞いた。
宮坂は床を見た。
古い板の端。
土間へ続く段差。
玄関の外を流れる水。
「ここは川より高い。すぐ浸かる場所じゃない」
山側の窓へ顔を向けた。
「ただ、裏の水路が詰まると庭へ回る」
「高台の集会所は?」
「使える。さっき杉原と見てきた」
杉原が頷いた。
「屋根に二か所、染みがあります。床までは落ちてません。無線も通じました」
「距離は?」
「坂を百二十メートルです」
宮坂は食卓の子どもたちを見た。
「明るいうちに上がる」
健二は時計を見た。
日が落ちるまで、長くはない。
雨は強い。
家に残る危険と、坂を移動する危険を比べる。
「全員で移ります」
悠斗が立った。
「荷物は何を持つ」
「待って」
健二は椅子から離れなかった。
「先に、人と足を見る」
悠斗の手が止まった。
健二は美月の前へ行った。
「今は?」
美月は右の靴先を見た。
「四」
そのまま黙った。
健二は待った。
「五に近い」
「歩けそう?」
美月は坂の方角を見た。
窓には雨しか映っていない。
「歩ける」
「休まずに?」
美月の口が閉じた。
千紘が椅子から腰を浮かせた。
健二は美月を見たままだった。
「足が痛い」
美月が言った。
「少し休みたい」
「分かった」
健二は時計を見た。
「十分休む。そのあと、ゆっくり上がる」
蓮が窓を指した。
「雨、増えてる」
「十分で家が流れる状態じゃない」
宮坂が答えた。
「急いで転ぶほうが危ない」
美月は椅子の背へ体を預けた。
健二は靴紐を緩めた。
ガーゼの位置を確認する。
赤みは広がっていた。
皮膚は破れていない。
「坂では俺が横につく」
「一人で歩ける」
「うん。一人で歩く」
健二は木箱を美月の前へ置いた。
足を載せられる高さにする。
「ただし、倒れそうになったら捕まえる。そこは勝手にやります」
美月は小さく頷いた。
健二は立ち上がった。
「持っていくのは、飲料水、医療箱、無線、着替え、毛布、今夜と朝の食料」
陸がノートを開いた。
「飲料水は十一・五リットルです」
「人の分だけ?」
「人の分です。洗う水は別です」
「美月の水は?」
陸は小さな水筒を指した。
「残っています」
健二は頷いた。
「じゃあ、その数を使う」
陸は続けた。
「集会所に水があるか分かりません」
宮坂が答えた。
「手押しポンプが一本ある。先月の検査票も残っとる」
「今夜、飲めますか」
「まず濁りと臭いを見る。周りに油や薬が流れてないかも見る」
宮坂は土間に置かれた鍋を指した。
「飲むなら、そのあと沸かす。燃料も一晩分はある」
健二は陸へ言った。
「持ってきた水を先に飲料用にする。ポンプの水は確認が終わるまで洗浄用」
陸は頷いた。
「十一・五リットル」
「全部持つ」
「重いです」
「大人四人で多く持つ。子どもは自分の水筒だけ」
悠斗が口を開いた。
「俺は大きいのを持てる」
「今日は自分の分」
「でも」
「悠斗の腕だけ増えてないからね」
健二は二リットルの容器を宮坂へ渡した。
「一人へ全部は持たせない」
悠斗は容器を見た。
手は伸ばさなかった。
「分かった」
「代わりに、出る前の人数を陸へ頼んで」
悠斗は陸を見た。
「陸、人数」
陸はノートを閉じた。
食卓の周りを見る。
悠斗。
美月。
蓮。
悠太。
千紘。
花音。
颯太。
最後に、自分の胸へ手を置いた。
「八人」
答えたあとも、視線を下ろさなかった。
美月の足。
悠太の肩。
千紘の濡れた袖。
颯太の名前札。
「八人います」
悠斗は数え直さなかった。
「分かった」
荷物を床へ分けた。
宮坂が飲料水を二本。
杉原が水と毛布。
健二が医療箱と無線。
ハルが着替え袋と小さな水筒。
千紘が食料袋へ手を伸ばした。
一つ持つ。
次の袋も取ろうとする。
花音が千紘の袖を引いた。
千紘は自分の手を見た。
「これだけ」
食料袋を一つだけ持った。
健二が中身を確認した。
冷ました芋と豆は、蓋付きの容器へ入っている。
乾パンは未開封。
塩は小さな袋へ分けてあった。
「今夜、もう食べた人は?」
全員の顔が上がった。
「全員だね」
健二は乾パンへ触れなかった。
「これは朝までの予備。向こうへ着いてから置き場所を決める」
陸が聞いた。
「一人何枚ですか」
「まだ決めない」
「数えなくていい?」
「枚数は数えていい。誰が何枚食べるかは、着いてから」
陸は食料袋へ視線を戻した。
「二袋。全部で四十八枚」
「ありがとう」
外へ出る順番を決めた。
宮坂と杉原が先。
そのあとに健二と美月。
子どもたち。
最後にハル。
誰も一人では動かない。
雨具を着る。
名前札は服の中へ入れる。
靴紐を確認する。
飲料水の蓋を閉める。
無線を雨用の袋へ入れる。
悠太は土間の戸口で止まった。
屋根を叩く音が近い。
ハルが手を二回開いた。
悠太の指は動かなかった。
健二は待った。
「どの音?」
悠太は軒先を指した。
「屋根」
「外へ出ると、少し離れる」
返事はなかった。
宮坂が先に戸を開けた。
雨音が一段大きくなる。
悠太の肩が上がった。
ハルは急かさなかった。
「私と最後に出ますか」
悠太の指が一度動いた。
待つ。
全員が土間を出た。
美月は健二の横で歩いた。
右足をつくたび、歩幅が小さくなる。
坂の入口で一度止まった。
健二も止まる。
後ろの列も止まった。
蓮が振り返った。
何も言わなかった。
「今は?」
健二が聞いた。
「五」
美月は息を整えた。
「休みたい」
「了解」
宮坂が前方の水の流れを確認する。
杉原は列の横に立った。
道を塞がない。
千紘が毛布を出そうとした。
美月が首を横に振った。
「濡れるから、まだいい」
千紘の手が止まった。
毛布を袋へ戻す。
三分休んだ。
美月が自分から立った。
「行ける」
「次の平らな所まで」
健二が言った。
「そこでもう一回聞く」
坂は長くなかった。
ただ、雨で土が軟らかい。
宮坂が赤い棒で踏む場所を示した。
子どもたちは、その跡を一つずつ踏んだ。
走らない。
前の人を押さない。
水が横切っている場所では、杉原と健二が両側に立つ。
花音は流れを見ていた。
道の右から左へ。
石の手前で分かれ、斜面へ落ちる。
花音は足を止めなかった。
指だけで流れをなぞった。
悠太とハルが最後に家を出た。
悠太は雨具のフードを深くかぶっている。
ハルの腕は掴まなかった。
それでも、半歩後ろから離れなかった。
高台の集会所へ着いた時、全員の靴は濡れていた。
時刻は十八時四十二分。
宮坂が先に中へ入る。
床。
窓。
天井。
裏口。
異常がないことを確認した。
「入っていい」
健二が入口に立った。
「靴はここ。飲料水は奥の机。洗う水とは離す」
子どもたちが一人ずつ入る。
悠斗は入口の横へ立った。
最後のハルが入るのを待つ。
扉が閉じた。
「陸、人数」
陸はすぐに答えなかった。
靴を脱いでいる美月。
フードを外せない悠太。
食料袋を持った千紘。
名前札を服の中から出す颯太。
窓際の蓮。
床の水滴を見ている花音。
扉の横の悠斗。
自分。
一人ずつ見た。
「八人」
少し間があった。
「美月は足が痛い」
美月が顔を上げた。
「自分で言える」
陸の口が閉じた。
美月は濡れた靴を脱いだ。
「足が痛い。五」
健二が医療箱を置いた。
「分かった。先に乾かそう」
陸は頷いた。
「悠太の服も濡れてます」
悠太は自分の袖を見た。
濃い色に変わっている。
「着替える?」
ハルが聞いた。
悠太は少し遅れて頷いた。
千紘が着替え袋を開いた。
悠太の服。
美月の乾いた靴下。
颯太の上着。
花音のタオル。
四つを腕に重ねたところで、手が止まった。
花音が集会所の長椅子を指した。
千紘は見ないふりをしなかった。
健二が聞いた。
「千紘、今は?」
「大丈夫です」
言った直後、自分で口を閉じた。
袖から水が落ちた。
床へ丸い跡ができる。
千紘は着替えを抱えたまま、もう一度言った。
「少し休みたいです」
「うん」
健二は腕の上の服を見た。
「それ、誰かに頼める?」
千紘は悠斗を見た。
一度、颯太を見た。
「悠斗」
「何」
「颯太の上着だけ、渡してくれる?」
「分かった」
千紘は颯太の上着を悠斗へ渡した。
悠太の服はハルへ。
美月の靴下は健二へ。
花音のタオルだけを、本人へ差し出した。
花音は受け取った。
千紘は空いた長椅子へ座った。
食料袋は足元へ置いた。
すぐには開かなかった。
濡れた服を替える。
窓際へ紐を張る。
雨具を間隔を空けて掛ける。
紐の下には、桶と古い布を並べた。
雨具から落ちた水が、床へ広がらないようにした。
飲料水は、集会所の中央にある机へ載せる。
洗浄用の水は入口側。
医療箱は長椅子の端。
食料は窓から離れた棚。
蓋付きの芋と豆の容器も、乾パンの横へ置いた。
陸が水を数えた。
「十一・五リットルあります」
顔を上げる。
「美月が薬を飲む分と、悠太が夜に飲む分は分けたほうがいい」
健二が机の上を指した。
「小さい水筒を二本、右へ」
陸が動かす。
「残りは?」
「今夜、必要な人が飲む。朝の分を残す量は俺が決める」
「分かりました」
陸はノートへ数字だけを書いた。
宮坂は集会所の手押しポンプを確認した。
水を少量出す。
濁り。
臭い。
油の膜。
周囲の土。
異常がないことを確かめる。
それでも、飲料水の机へは置かなかった。
「今夜は洗う水にする」
宮坂は鍋と固形燃料を確認した。
「持ってきた水が足りなくなったら、こいつを沸かす」
健二が頷いた。
「それまでは分けておきます」
体が冷えた者には、宮坂が持ってきた湯を少量ずつ渡した。
湯飲みは足りなかった。
それぞれの水筒の蓋や携帯カップへ注ぐ。
悠太は自分の水筒の蓋を両手で持った。
美月は湯を飲んでから、健二へ足を向けた。
健二はガーゼを新しい物へ替えた。
濡れた靴は足元へ戻さず、壁際へ立てた。
履き口から水が落ちる。
「明日の朝、歩ける?」
健二が聞いた。
美月はすぐに答えなかった。
「分からない」
「それでいい」
千紘は長椅子へ座ったまま、食料袋を見ていた。
立ち上がろうとする。
途中で止まった。
「健二さん」
「うん?」
「朝の分、今は触らなくていいですか」
「触らなくていい」
「誰かが忘れたら」
「俺と宮坂さんが覚えてる」
千紘はもう一度、背中を椅子へつけた。
「分かりました」
十九時。
無線が鳴った。
野村からだった。
橋の路面は、完全に水へ隠れた。
水は茶色く濁っている。
流木が一本、橋脚へ当たった。
健二は答えた。
「渡りません。こちらは高台の集会所へ移動済み」
『人数は』
健二は悠斗を見た。
悠斗は陸を見た。
陸が一人ずつ顔を確かめた。
「八人」
健二が受話器へ言った。
「子ども八人。大人四人。全員います」
『了解。旧南第三にも連絡を回します』
「次は二十時。変化がなければ定時で」
通信が切れた。
陸は時計を見た。
二十時まで、一時間。
「待つんですか」
「待つ」
健二は無線を机へ置いた。
「橋も水も、こっちの都合では動かないからね」
蓮が窓の外を見た。
「何もしないのか」
「濡れた服を乾かす。水を守る。食料を濡らさない。次の連絡を待つ」
健二は集会所の扉を確認した。
「かなり忙しいよ」
蓮は返事をしなかった。
窓の下に置かれていた食料袋を、棚の奥へ動かした。
花音は床の水を布で拭こうとした。
宮坂が首を横に振った。
「そこは屋根の染みだ。下へ桶を置く」
花音は桶の位置を見た。
水滴が落ちる場所から、少しずれている。
桶を一度だけ動かした。
次の滴が、中央へ落ちた。
悠太は毛布の中で、その音を聞いた。
一滴。
一滴。
指を一本立てた。
「桶」
ハルが頷いた。
「桶です」
二十時の五分前。
集会所の中が静かになった。
無線の前には健二。
ハルは悠太の近く。
宮坂は窓。
杉原は裏口。
子どもたちは、それぞれの場所にいた。
誰も橋へ向かわなかった。
誰も先に無線を鳴らさなかった。
時計の針が二十時を指した。
受話器から雑音が流れる。
陸がノートを開いた。
一番上に時刻を書いた。
その下に、
八人。
と書いた。
鉛筆を止める。
数字の横へは何も足さなかった。
代わりに、顔を上げた。
悠斗。
美月。
蓮。
悠太。
千紘。
花音。
颯太。
最後に、窓へ映った自分。
八人いた。




