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第144話 食べる前

##第144話 食べる前


割れた留め具を「交換」の紙の下へ置いてから、三十分ほど経った。


予備区画へ戻した豚は、まだ立たなかった。


ほかの三頭は餌箱の周りを動いている。


一頭だけが、泥の上に腹をつけていた。


宮坂が餌を置く。


豚は顔を上げた。


鼻先を動かす。


それでも、体は起こさなかった。


宮坂は柵の外で待った。


急かさなかった。


しばらくして、豚が前脚を立てた。


腰を持ち上げようとする。


左の後ろ脚へ体重が移った瞬間、体が崩れた。


低い声が漏れた。


宮坂の顔から、作業の緩さが消えた。


「さっきは興奮しとった」


健二が隣へ立つ。


「落ち着いてから出てきた?」


「そうかもしれん」


宮坂は新しい手袋を着けた。


杉原と二人で、豚が暴れない方向から近づいた。


子どもたちは、豚舎から十メートル以上離れた白いロープより、家側にいる。


美月は土間に近い木箱へ座っていた。


悠太は戸の内側。


ほかの子どもも、ロープを越えていない。


宮坂は脚を無理に動かさなかった。


腫れ。


足先の向き。


体重をかけた時の反応。


呼吸。


目の動き。


一つずつ確認した。


豚がもう一度、立とうとした。


左脚が地面につかない。


前脚だけで体を支え、すぐに伏せた。


宮坂は柵から出た。


手袋を外し、指定した容器へ入れる。


「骨か関節をやっとる」


健二は豚を見た。


「ここで治せますか」


宮坂は首を横に振った。


「戻せる傷かも分からん。俺が無理に触れば、余計に痛める」


「家畜を診られる人は」


「一番早くても二日先だ」


宮坂は道路の方角を見た。


車両は一・四キロ先に残している。


そこまで運ぶには、豚を荷台へ上げなければならない。


「今の状態じゃ運べん」


豚が前脚で泥を掻いた。


体を起こそうとする。


左へ崩れる。


宮坂は、その動きを最後まで見た。


「このまま立とうとするたびに痛む」


声は低かった。


「俺が処置する」


健二は一度だけ頷いた。


「子どもたちには、先に話します」


「処置も、そのあとの判断も大人だけでやる」


「お願いします」


健二が家へ戻ると、八人は食卓の周りにいた。


蓮は、交換した留め具の記録を見ている。


陸は使った水の量を書いている。


美月は右足を椅子の横へ伸ばしていた。


悠太は、閉じた土間の戸を見ていた。


板の向こうから、豚の低い声だけが届いている。


健二は食卓の端へ手を置いた。


「一頭、脚を大きく怪我してる」


陸の鉛筆が止まった。


「さっき逃げた豚ですか」


「そう」


「大きな怪我はないって言ってた」


「その時は立ってた。落ち着いてから、脚をつけなくなった」


陸は豚舎の方を見た。


健二は続けた。


「ここでは治せない。運ぶのも難しい」


蓮が記録紙から顔を上げた。


「どうするんだよ」


「宮坂さんが、これ以上苦しまないように処置する」


「殺すってこと?」


「そう」


雨樋から水が落ちた。


一滴。


少し間を空けて、もう一滴。


千紘が花音の肩へ手を伸ばしかけた。


花音は、その手を見る。


千紘の指が途中で止まった。


健二は農場主の記録紙を一枚借りた。


食卓へ置く。


「見るか、見ないか」


紙へ書く。


「水を運ぶか、ここで待つか」


次の行へ書く。


「終わったあと、宮坂さんが渡した物だけ洗う」


最後に、少し間を空けた。


「食べるか、食べないかは、あとで決める」


蓮が紙を見た。


「食べるって、あの豚を?」


「食用に回せるかは、処理のあとで宮坂さんが決める」


健二は鉛筆を置いた。


「分からなければ出さない。今はまだ約束できない」


美月が聞いた。


「今、全部決めないと駄目?」


「決めなくていい」


ハルが椅子を一つ引いた。


「最初に決めたことと、途中の気持ちは別です」


誰か一人を見てはいなかった。


「見に行って、途中で戻っても構いません」


悠太の肩が動いた。


健二が名前を呼ぶ前に、悠太は指を一本上げた。


紙の「見ない」を指す。


「見ない?」


悠太は頷いた。


少し間を置き、土間の戸を指した。


「閉めて」


「分かった」


健二は戸を閉めた。


木の掛け金も下ろす。


外の音が、一枚遠くなった。


ハルは悠太の隣に残った。


颯太は紙を見ていた。


名前札の角へ指を押しつけている。


「今、決めなくても大丈夫です」


ハルが言った。


颯太は返事をしなかった。


紙から目も離さなかった。


千紘が口を開いた。


「水を運びます」


すぐに続ける。


「手を洗う水と、作業用の水を分けます」


健二が聞いた。


「一人で?」


千紘の口が閉じた。


食卓の周りを見る。


悠斗。


陸。


花音。


颯太。


悠太。


「悠斗」


悠斗が顔を上げた。


「もう一つの容器を、一緒に運んでくれる?」


「分かった」


千紘は、その返事を聞いてから立った。


全員分の水筒には触れない。


作業に使う容器だけを選んだ。


花音は紙の余白へ指を置いた。


手押しポンプ。


家。


土間。


三つの位置を線で結ぶ。


水を置く場所だった。


「ここ?」


千紘が聞いた。


花音は、食事場所から離れた土間の外を指した。


千紘は頷いた。


「そこにする」


颯太が椅子から立った。


土間の戸へは向かわなかった。


玄関脇の長椅子へ座る。


名前札を上着の中へ入れた。


健二が聞いた。


「そこで待つ?」


颯太は少し遅れて頷いた。


「終わったら呼ぶ?」


もう一度、間があった。


「呼んで」


「分かった」


蓮は紙の「見る」を指した。


「俺は見る」


健二は蓮を見た。


「途中で戻ってもいいからね」


「戻らない」


「今は、そう決めたってことにしとく」


蓮は何も言わなかった。


宮坂が土間の外から声をかけた。


「見るやつは、白いロープより家側だ」


健二が外へ出る。


蓮と悠斗が続いた。


陸は迷ったあと、家に残った。


美月も椅子から動かなかった。


花音は千紘が選んだ水の置き場所を見ていた。


悠太と颯太は、別々の椅子へ座っている。


ハルは二人の間には立たなかった。


どちらからも見える壁際へ座った。


千紘と悠斗が、手押しポンプから水を運んだ。


大きな容器は悠斗。


小さな容器は千紘。


千紘は、二つ目へ手を伸ばさなかった。


「もう一つ要りますか」


宮坂が答えた。


「今はそれで足りる」


「足りなくなったら」


「その時に頼む」


千紘は容器を土間の外へ置いた。


花音が示した場所だった。


飲料水から離れている。


食卓からも離れている。


宮坂は処置に使う物を確認した。


刃物は布に包まれたまま、蓋付きの箱へ入っていた。


箱を持つのは杉原。


子どものいる場所では開かない。


宮坂は蓮と悠斗を、白いロープからさらに数歩、家側へ下がらせた。


「ここから先へは来るな」


「分かった」


悠斗が答えた。


蓮は豚舎を見ていた。


宮坂は一度だけ言った。


「顔を背けてもいい」


蓮は答えなかった。


健二は二人の横へ立った。


宮坂と杉原が豚舎へ入る。


門が閉まった。


家の中で、悠太が顔を上げた。


桶が地面へ置かれる音。


門の留め金。


豚の低い息。


悠太の指が椅子の縁を掴んだ。


ハルが手を二回開いた。


悠太の指は動かなかった。


「どの音が嫌ですか」


悠太は答えなかった。


ハルは待った。


外で、短い音がした。


悠太の肩が上がった。


「閉めて」


土間の戸はすでに閉まっている。


悠太は耳を指した。


次に、台所の奥を指した。


ハルは立った。


「もっと奥へ行きますか」


悠太が頷いた。


ハルは台所の奥の小部屋を開けた。


悠太は自分で立った。


走らなかった。


小部屋へ入る。


ハルは戸へ手をかけた。


「閉める?」


悠太は首を横に振った。


戸には、細い隙間が残った。


颯太は玄関脇の長椅子に座っていた。


両手を膝の間へ入れている。


豚舎の方は見なかった。


名前札にも触れなかった。


宮坂が脱いだ古い長靴を見ていた。


泥が乾き始めている。


処置は長く続かなかった。


宮坂と杉原が豚舎から出た。


宮坂は道具箱を閉じた。


その場で鍵を掛ける。


「終わった」


蓮は白いロープより家側に立ったままだった。


顔は上げている。


両手は握られていた。


宮坂は何も褒めなかった。


健二も感想を聞かなかった。


「家へ戻ろう」


悠斗が、土間の周りを見た。


陸が戸口から言った。


「八人います」


悠斗は陸を見た。


「分かった」


数え直さなかった。


宮坂と杉原だけが豚舎へ残った。


処理も、大人二人で行った。


子どもは近づかなかった。


宮坂は食用に回せるかどうかを確認するまで、子どもへ何も言わなかった。


杉原と二人で、肉と内臓を分ける。


傷の周りや異常が疑われる部分は、食用側へ入れない。


使わない物は蓋付きの容器へ分けた。


食用に回す物は、別の蓋付き容器へ入れる。


生肉へ触れた刃物。


桶。


布。


手袋。


すべてを食事用の道具から離した。


処理が終わると、宮坂は箱を土間の鍵付き棚へ入れた。


鍵は首から下げた。


しばらくして、宮坂が家へ戻った。


道具箱は持っていない。


土間の外へ、泥よけに使っていた板を一枚置いた。


豚にも肉にも触れていない板だった。


雨と泥だけがついている。


その横へ、未使用のゴム手袋を置く。


「子どもが洗っていいのは、これだけだ」


蓮が立とうとした。


千紘も動いた。


二人の手が同時に上がる。


千紘は蓮を見た。


「私は水を運びます」


「じゃあ、俺が洗う」


宮坂が首を振った。


「一人で持つな。板は濡れると滑る」


蓮は悠斗を見た。


言葉がすぐには出なかった。


「悠斗、持つの手伝って」


「いいよ」


二人は新しい手袋を着けた。


板の端を一つずつ持つ。


千紘は水を一杯だけ運んだ。


二杯目へ向かう前に、宮坂へ聞いた。


「まだ要りますか」


「今ので足りる」


千紘は空の容器を元の位置へ戻した。


花音が描いた線の終わりへ。


悠太は小部屋から出てきた。


土間で水が流れる音を聞いた。


板を擦る音。


桶を置く音。


金属音はしない。


悠太は戸口まで来た。


「洗う?」


健二が聞いた。


悠太は首を横に振った。


少し考えた。


「布」


「布ならある」


健二は未使用の乾いた布を一枚渡した。


悠太は、洗い終わった板に残った水だけを拭いた。


大きな音が出ない側を選んだ。


作業が終わると、全員が手を洗った。


子どもが使う手洗い場と、処理をした大人の洗浄場所は分けた。


宮坂と杉原は最後に手を洗った。


石けんを使い、爪の間まで洗う。


生肉を扱った上着も、食卓へ入る前に替えた。


夕方。


宮坂は蓋付き容器から、食用に回すと判断した分だけを出した。


生肉用の包丁とまな板は、土間側で使う。


食卓用の包丁や器には触れさせない。


切り分けた肉は鍋へ入れた。


汁が沸く。


宮坂は火を弱めず、肉の中心まで熱が通る時間を置いた。


肉を入れない鍋も、隣の火へ掛けた。


米。


芋。


豆。


塩を少し。


肉の入った鍋と、入っていない鍋。


お玉も別だった。


宮坂は二つの鍋を見た。


「食べるやつと、食べないやつで、どっちが偉いとかはない」


それだけ言った。


長い話はしなかった。


食卓へ、二種類の椀を並べた。


健二が一人ずつ聞いた。


悠斗は肉の入った椀を選んだ。


美月は肉を入れない椀。


蓮は肉の入った椀。


陸は少し迷い、肉を一切れだけ入れてもらった。


花音は肉を入れない椀を指した。


悠太の番になった。


「どっちにする?」


悠太は二つの鍋を見た。


指が椀の縁へ触れた。


「入れない」


「分かった」


健二は肉の入っていない椀を渡した。


理由は聞かなかった。


千紘は、椀を配ろうと立った。


一つ持つ。


次へ手を伸ばす。


途中で止まった。


「健二さん」


「うん?」


「自分のを先にもらっていいですか」


「もちろん」


千紘は自分の椀を受け取った。


肉が入ったものだった。


全員へ配り終える前に、自分の前へ置いた。


それから悠斗へ聞く。


「残り、運んでくれる?」


悠斗は椀を二つ持った。


「分かった」


颯太は最後だった。


宮坂が名前を呼んだ。


「颯太」


颯太の顔が上がった。


返事はすぐには出なかった。


宮坂も急かさない。


「食べるか」


颯太は肉の入った鍋を見た。


次に、入っていない鍋を見る。


名前札の角へ触れた。


「食べる」


宮坂は小さな肉を一切れだけ入れた。


「足りなければ、あとで言え」


颯太は椀を受け取った。


礼は言わなかった。


宮坂も求めなかった。


全員が座った。


誰も手を合わせろとは言わなかった。


宮坂が箸を取る。


健二も取った。


子どもたちの手が、それぞれの速さで動いた。


悠太は芋から食べた。


肉の入っていない汁を一口飲む。


音を立てずに椀を置いた。


千紘は自分の椀を持った。


隣の花音へ水を渡そうとする。


花音は自分の水筒を持ち上げた。


千紘の手が戻った。


自分の椀へ戻る。


蓮は肉を箸で挟んだ。


一度、椀へ戻した。


もう一度持ち上げ、口へ入れた。


健二は自分の椀へ目を落とした。


誰も蓮へ言葉をかけなかった。


颯太は肉を箸で挟んだ。


持ち上げる。


椀へ戻す。


もう一度、持ち上げた。


口へ運ぶ。


噛む途中で、手が止まった。


宮坂は何も言わなかった。


颯太は水を一口飲んだ。


残りの芋を食べた。


肉は、もう一切れ求めなかった。


食卓には、箸が椀へ触れる音だけがあった。


千紘の椀は、千紘の前にあった。


悠太の椀には、最初から肉が入っていなかった。


颯太の椀には、食べ終えた一切れ分の隙間が残っていた。


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