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第143話 逃げた豚

##第143話 逃げた豚


雨が弱くなったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


軒先から落ちる水が、細い糸に変わっていた。


農場主の宮坂は、土間の戸を開けた。


「豚を見る。外へ出る前に、もう一度確認するぞ」


作業靴。


手袋。


出入りしたあとの手洗い。


豚の真後ろへ立たない。


柵の中へ勝手に入らない。


宮坂は一つずつ指で示した。


豚舎は、家から二十メートルほど離れていた。


その手前に、白いロープが張られている。


子どもが見学するのは、ロープより家側。


柵へ近づくのは、宮坂、健二、杉原だけだった。


「白い線から先は、大人の場所」


健二はロープを指した。


「向こうへ行ったら、豚より先に俺が捕まえます」


蓮が顔をしかめた。


「俺、豚じゃないけど」


「知ってる。豚のほうが素直かもしれないだけ」


「喧嘩売ってんのか」


「昼飯のあとだから、安くしとく」


蓮は返事をせず、作業靴のつま先をロープの手前で止めた。


美月は土間に近い木箱へ座った。


乾いた布が敷かれている。


右足は前へ出したままだった。


健二が聞いた。


「今は?」


「四」


「歩くのは?」


「少しなら」


「今日はそこが特等席。豚からは遠いけど、俺の背中よりはよく見える」


美月は豚舎を見た。


「健二さんは、どこに立つの」


「宮坂さんの邪魔にならない場所」


「それ、見える?」


「たぶん肩くらい」


千紘が水筒を置こうとして、美月の顔を見た。


「ここでいい?」


美月が頷いた。


千紘は水筒だけを置いた。


花音は、美月のそばに立った。


地面の泥と、柵まで続く足跡を見ている。


悠太は土間の戸口から出なかった。


低い鳴き声。


水入れが動く音。


柵へ鼻が当たる音。


外の音を、戸の内側から聞いている。


ハルは隣に立った。


「ここからでも構いません」


悠太の指が一度動いた。


待つ。


宮坂が先に白いロープを越えた。


健二と杉原が続く。


柵は四つの区画に分かれていた。


手前に三頭。


奥の仕切りの陰に一頭。


蓮が言った。


「四頭いる」


陸がノートを開いた。


「手前に三頭。奥に一頭」


悠斗は豚より先に、周囲を見た。


母屋。


農協倉庫。


高台へ続く坂。


畑の間の細い作業道。


戻る場所を確認する目だった。


宮坂は餌箱の留め金を外した。


中を確かめる。


水入れの縁へ手を当てる。


柵の柱を一本ずつ押した。


蓮の視線が、奥の区画で止まった。


「そこ、浮いてる」


宮坂が顔を上げた。


留め具を覆う金属板が、外側へわずかに開いていた。


「昨日より出とるな」


蓮の右手が上がった。


ロープは越えなかった。


「軸も曲がってる」


宮坂が柵へ近づいた。


健二は豚の位置を見る。


奥の一頭は、柵の反対側で泥を掘っていた。


宮坂が金属板へ手を伸ばす。


「触るな」


蓮が言った。


「根元、割れてるかもしれない」


宮坂の手が止まった。


板の陰へ顔を寄せた。


表からは見えない位置に、黒い線があった。


「亀裂か」


宮坂が杉原へ言った。


「ロープを持ってこい。先に仮止めする」


杉原が道具置き場へ向いた。


その時、奥の豚が体を返した。


鼻先が戸へ当たる。


金属が短く鳴った。


宮坂が手を引いた。


「離れろ」


軸の根元が割れた。


留め具ごと金属板が外れた。


戸が外側へ開いた。


豚の頭が隙間へ入る。


肩が抜けた。


泥が跳ねた。


「全員、土間へ戻る!」


健二の声から冗談が消えた。


「走らない。前を見て戻る」


豚は子どものいる家側へは向かわなかった。


農協倉庫へ続く低い道を走った。


それでも進路は定まっていない。


美月は木箱から立とうとした。


千紘が手を伸ばしかける。


美月は首を横に振り、自分で立った。


右足をかばいながら土間へ向かう。


花音は美月の横を歩いた。


悠斗の視線が、子どもたちを追った。


美月。


花音。


千紘。


颯太。


悠太は戸口。


蓮と陸は白いロープの手前。


自分。


唇が、声を出さずに動いた。


「陸」


陸が顔を上げた。


「人数」


陸は数字だけを見なかった。


一人ずつ顔を追った。


「八人」


颯太の足が止まった。


逃げた豚が、農協倉庫の前で振り返った。


低い声が響く。


千紘が颯太の前へ回った。


手は掴まなかった。


「一緒に戻る?」


颯太は豚を見たまま黙っていた。


千紘は待った。


颯太が小さく頷く。


二人は土間へ入った。


悠斗は蓮と陸を見た。


「二人も戻る」


蓮が柵を指した。


「残りが出る」


開いた戸の向こうへ、三頭が寄り始めていた。


健二が柵の外から状況を見た。


「板とロープがいる」


蓮がすぐに土間脇を指した。


「長い板があった」


悠斗は陸を見た。


「陸、蓮と運べる?」


陸は板までの距離を見た。


「二人なら」


「お願い」


二人は白いロープの内側を通り、土間脇へ戻った。


豚から離れた側に立てかけてある長い板を持ち上げる。


蓮が前。


陸が後ろ。


「急ぐな」


陸が言った。


「分かってる」


「歩幅を合わせて」


蓮は一度だけ陸を見た。


速度を落とした。


二人は板を、白いロープの手前まで運んだ。


そこから先へは出ない。


「ここで置いて」


健二が受け取った。


杉原がロープを持って戻る。


健二と杉原が、開いた戸の前へ板を当てた。


三頭の鼻先が板へ触れた。


子どもには持たせない。


宮坂が隣の区画の仕切りを開けた。


餌桶を振り、残った三頭を奥へ移す。


三頭が板から離れたところで、健二と杉原が板を柱へ固定した。


宮坂が結び目を引いた。


「これで、すぐには出ん」


蓮は白いロープの内側から、割れた軸を見ていた。


「曲がったんじゃない」


「割れたな」


宮坂が答えた。


「昨日、外から見た時は分からんかった」


蓮の手が、工具のない空中で握られた。


「直せる」


「豚が戻ってからだ」


「板で止まってるなら、今でもできる」


宮坂は逃げた豚を見た。


「作業中に戻ってきたら危ない」


蓮は口を閉じた。


健二が言った。


「直す順番まで直せたら、今日はかなり上出来」


「うるさい」


「聞こえてるなら大丈夫」


逃げた豚は、農協倉庫の前で鼻を鳴らしていた。


杉原が赤い布を巻いた棒を持ち、高台側の道へ回った。


走らない。


豚へ近づかない。


道の出口へ立ち、棒を横にして進路を狭める。


宮坂は小さな餌桶を持った。


豚の正面には立たず、斜め前へ回る。


桶を低く振った。


豚が鼻先を上げる。


一歩、宮坂の方へ動いた。


土間の中で、花音が板切れを見つけた。


泥のついた指で線を引く。


柵。


農協倉庫。


高台の道。


荷車。


花音は、石垣と古い荷車の間を指した。


そこは狭い。


豚が高台へ向かおうとすれば、方向を変える場所だった。


ハルが板切れを持ち上げ、土間から外へ出ずに宮坂へ見せた。


「花音さんが、こちらの道を示しています」


宮坂は一度だけ振り返った。


線と実際の地形を見比べる。


「杉原、そのまま荷車側を塞いでくれ」


杉原が赤い棒を持ったまま位置を変えた。


豚は高台側を見た。


杉原のいる方へは進まない。


農協倉庫の壁沿いに向きを変える。


宮坂は餌桶を少しずつ柵の方へ動かした。


誰も豚へ飛びつかなかった。


誰も縄を投げなかった。


豚の動ける方向だけを、大人二人が少しずつ狭めていった。


蓮は白いロープの前に立っていた。


「俺も道を塞げる」


健二は首を横に振った。


「豚が戻ったら、お前の方へ来る」


「じゃあ、何をすればいいんだよ」


健二は仮止めした板を指した。


「どこが壊れたか、見える範囲で覚えといて」


「見るだけ?」


「戻ったあと、宮坂さんに説明する」


蓮は割れた軸を見た。


浮いた板。


外れた留め具。


錆びたボルト。


「工具は?」


「許可が出てから」


蓮は歯を食いしばった。


それでも白いロープは越えなかった。


逃げた豚が、柵から十メートルほどの位置まで戻った。


宮坂は餌桶を予備門の内側へ置いた。


杉原は赤い棒で、農協倉庫側の道を塞いでいる。


豚が止まった。


鼻を鳴らす。


前足で泥を掻く。


土間の中で、悠太の指が戸枠を掴んだ。


低い鳴き声。


荒い息。


泥を踏む音。


ハルが手を二回、ゆっくり開いた。


悠太の指は動かなかった。


ハルは合図を繰り返さなかった。


待った。


宮坂も豚を急かさなかった。


餌桶から二歩離れる。


豚が一歩進んだ。


もう一歩。


予備門をくぐった。


宮坂が外から門を閉める。


杉原が近づき、留め金を掛けた。


赤い棒は最後まで杉原の手にあった。


「入った」


陸が言った。


悠斗は柵の中を見た。


奥の区画に三頭。


予備区画に一頭。


「四頭」


陸が土間へ向いた。


今度は自分から、一人ずつ顔を見た。


「子どもも八人」


悠斗は頷いた。


数え直さなかった。


宮坂は新しい手袋へ替えた。


戻った豚の体を確認する。


足。


腹。


背。


歩き方。


呼吸。


「大きな怪我はない」


健二は子どもたちへ言った。


「確認が終わるまで、ここで待つ」


豚を作業場所から離れた区画へ移す。


四頭すべての門を閉める。


留め金を確認する。


それが終わってから、宮坂は壊れた戸へ戻った。


蓮が白いロープの前に立った。


「見ていい?」


「外からならな」


宮坂が割れた留め具を外へ向けた。


蓮は根元を指した。


「軸が先に割れてる。板を曲げ直しても駄目だ」


「そうだな」


「同じ金具はある?」


「ない」


宮坂は工具袋から短い蝶番とボルトを出した。


「これを使う」


蓮の手が伸びかけた。


途中で止まる。


「使っていい?」


宮坂は蓮の手を見た。


「先に手を洗え。手袋も替える」


蓮は土間へ戻った。


泥のついた手袋を外す。


指定された籠へ入れる。


石けんで手を洗う。


新しい作業用手袋を着けた。


戻る時も走らなかった。


宮坂は柵の外から作業できる位置を選んだ。


健二が板を支える。


杉原がロープを緩めずに持つ。


蓮は、宮坂から渡されたレンチを受け取った。


割れた金具のボルトへ当てる。


力を入れても動かない。


蓮の肩が上がった。


工具を握る指が白くなる。


「固い」


健二が言った。


「工具は悪くないよ」


「分かってる」


「顔がさっきの豚みたいだけど」


「一緒にすんな」


宮坂が潤滑油を一滴垂らした。


「待て」


蓮はレンチを回しかけたまま止まった。


油が錆へ染みる。


十秒。


宮坂が頷いた。


「今だ」


蓮はゆっくり力をかけた。


ボルトが動いた。


金属が短く鳴る。


工具は落とさなかった。


割れた留め具を外す。


新しい蝶番を当てる位置は、宮坂が決めた。


蓮がボルトを締める。


最後は宮坂がレンチを取り、締まりを確認した。


「ここまで」


蓮は手を離した。


戸を見た。


宮坂を見る。


「試していい?」


「ゆっくりな」


蓮が戸を開けた。


閉めた。


金具は浮かなかった。


「もう一回」


「一回でいい」


宮坂が自分で戸を引いた。


上下へ揺らす。


留め金を掛ける。


「使える」


蓮は顔を上げなかった。


新しい蝶番の位置だけを見ていた。


外した古い金具を拾う。


捨てる場所を探した。


壁にあった三つの欄を思い出したのか、手が止まる。


「これは?」


「交換済み」


宮坂が答えた。


「記録の横へ置く」


蓮は古い金具を工具袋へ戻さなかった。


土間の壁にある「交換」の紙の下へ置いた。


作業用手袋も、指定された籠へ入れた。


宮坂は戸の修理時刻を書いた。


蓮は横から見ていた。


何も書き足さなかった。


雨雲の切れ目から、畑へ薄い光が落ちた。


宮坂は赤い布の棒を杉原から受け取った。


元の壁へ戻す。


それから土間にいる子どもたちを見た。


最後に、颯太の前で足を止めた。


颯太は名前札を上着の外へ出していた。


宮坂は札を読まなかった。


「さっき、土間へ戻った子だな」


颯太の指が名前札の角へ触れた。


返事はなかった。


宮坂は待たずに、自分の胸を指した。


「俺は宮坂だ」


それだけ言って、作業記録へ戻ろうとした。


「小野寺」


小さな声が、背中へ届いた。


宮坂が止まった。


颯太は名前札を握っていた。


顔は上げなかった。


時間をかけて息を吸った。


「小野寺颯太です」


宮坂が振り返った。


「そうか」


大きく頷かなかった。


褒めもしなかった。


「颯太」


一度だけ、その名前で呼んだ。


颯太の指が名前札から離れた。


すぐには返事をしなかった。


宮坂も待った。


しばらくして、颯太の顎が小さく動いた。


柵の向こうで、豚が水を飲んでいた。


蓮が直した戸は、鼻先で押されても開かなかった。


土間の壁には、割れた留め具が残っていた。


交換、と書かれた紙の下に。


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