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第142話 できる家

## 第142話 できる家


農場の玄関には、長靴が十二足並んでいた。


大きさも、泥の色も違う。


どれも、つま先が同じ方向を向いていた。


「外の靴は、赤い線まで」


農場主が、床に引かれた塗料の線を指した。


「向こうへ入れるな。豚の場所と、人が食べる場所は分ける」


蓮が自分の靴底を見た。


「まだ豚のところ行ってないけど」


「道の泥も持ち込まん」


農場主は、壁に掛けられたブラシを一本取った。


「泥を落とす。水で洗う。ここで履き替える」


玄関の隅には、古いゴム草履が重ねてあった。


その横に、濡れ物を入れる籠。


さらに横に、乾いた布。


送迎車から運んだ着替え袋も、壁際へ置かれていた。


道具は、使う順番に並んでいた。


健二は濡れた雨具を脱いだ。


「この家、物が迷子にならないね」


農場主は答えなかった。


ブラシを元の釘へ戻した。


柄の先についた白い印が、壁の印と重なった。


佐伯千紘は、着替え袋を開いた。


花音へ乾いた上着を差し出す。


「こっちに替えよう」


花音は自分で濡れた上着を脱いだ。


千紘が袖を広げると、自分で腕を通した。


次に千紘は、颯太の袖へ手を伸ばした。


「そこ、濡れてる」


颯太は自分で雨具の留め具を外した。


千紘の手が襟元へ届く。


「名前札、落とさないようにね」


「分かってる」


声は小さかった。


千紘は頷き、今度は悠太の足元を見た。


「靴、脱げる?」


悠太は返事をしなかった。


玄関の奥から、金属の蓋が落ちる音がした。


一度。


硬い音が床を走った。


悠太の指が、雨具の裾を掴んだ。


肩が上がった。


ハルが手を二回、ゆっくり開いた。


悠太は見ていた。


指は動かなかった。


農場主が奥へ顔を向けた。


「悪い。鍋の蓋だ」


誰かを叱る声ではなかった。


音の名前だけを置いた。


悠太の目が、台所へ続く戸口へ動いた。


健二は玄関へしゃがんだ。


「悠太、今の音、嫌だった?」


返事はなかった。


「急がなくていいよ」


健二は床を指で一度叩いた。


「鍋の蓋だった。もう一回鳴るかもしれない」


悠太の指が、雨具の布の上で一度動いた。


聞こえている。


千紘が悠太の靴へ手を伸ばした。


花音が、その手首に触れた。


千紘が振り向いた。


花音は悠太の足を指した。


次に、悠太の手を指した。


悠太は自分で靴紐をほどき始めていた。


千紘の手が止まった。


「自分でできる?」


悠太は答えなかった。


片方の靴を脱いだ。


千紘は、もう片方を待った。


待ちながら、自分の雨具を着たままだった。


健二がそれを見た。


「千紘」


「はい」


「自分の雨具も脱いでいいよ。そこに住むつもりじゃないだろ」


「あとで」


「あとって、いつ?」


千紘は颯太の名前札を見た。


花音の袖を見た。


悠太の靴を見た。


「みんなが終わったら」


「八人分やらなくていいよ」


健二は自分の濡れた靴下を引っ張った。


「俺も自分の靴下くらいは脱げる。たぶん」


蓮が横から言った。


「たぶんなのかよ」


「朝だからね。まだ信用しすぎないで」


誰も笑わなかった。


ただ、千紘の手が颯太の襟元から離れた。


自分の雨具の留め具へ移った。


美月は玄関脇の長椅子に座っていた。


右の靴を脱ぎ、かかとを浮かせている。


ガーゼはずれていなかった。


陸は水の本数をノートに書いていた。


悠斗は、外へ残した荷物と、中へ運んだ荷物を見比べていた。


蓮は壁のブラシを手に取った。


柄の白い印を見たあと、元の釘へ戻した。


農場主が全員の靴を確認した。


「食う場所は、こっちだ」


廊下の左側に、低い食卓があった。


右側の戸を開けると、作業着が吊られていた。


その奥は、動物区画へ続く土間だった。


床の色が違う。


人が食べる側は、古い板張り。


作業側は、洗えるコンクリート。


境には、黄色い線が引かれていた。


「黄色を越える時は、作業靴」


農場主が言った。


「戻る時は洗う。手も洗う。道具も戻す」


蓮が土間を覗いた。


壁には、鍬、スコップ、熊手、ロープが掛けられている。


道具の形に合わせて、白い線が描かれていた。


一本抜けば、空いた形が残る。


「これ、誰が描いたんだ」


「俺だ」


「全部?」


「俺が戻す場所を忘れるからな」


農場主は、白い線を指した。


「空いていれば、戻してないと分かる」


健二が壁を見上げた。


「なるほど。俺も顔の形を壁に描いとこうかな」


蓮が言った。


「戻す場所ないだろ」


「ひどいな。学校に戻る予定なんだけど」


農場主は二人を置いて、台所へ入った。


火の上には、大きな鍋がかかっていた。


湯気が細く上がっている。


火の横に、赤い蓋の容器。


水場には、青い蓋の容器。


食卓の下には、空の瓶。


どれも同じ形ではなかった。


触らなくても用途が分かるように、色が分けられている。


花音が赤い蓋を見た。


次に、火を指した。


農場主が頷いた。


「赤は湯だ」


花音は青い蓋へ目を移した。


「青は飲む水」


陸がノートを開いた。


「一日に、どのくらい使いますか」


「天気と豚で変わる」


「平均は」


「人だけなら、飲む分と料理で二十から三十リットル」


陸の鉛筆が動いた。


「豚は?」


「それより多い」


「何リットルですか」


農場主は陸を見た。


「頭数と暑さで変わる」


陸の鉛筆が止まった。


数字が一つに決まらない。


健二が青い容器を持ち上げた。


「陸、今は正解を一個にしなくていいよ」


「でも、必要量が分からないと」


「条件も一緒に書けばいい」


健二は蓋を閉め直した。


「人だけ。豚がいる時。暑い日。雨の日」


陸は新しい行を作った。


農場主が、手押しポンプの方角を指した。


「湧水は上にある。飲む分は朝に汲む。豚の水は別の貯水槽だ」


「同じ水じゃない?」


「同じ湧水でも、通る管が違う」


農場主は青い容器を指した。


「人が飲む分を、豚小屋へ持っていかん」


説明はそれだけだった。


農場主は鍋の蓋を取った。


金属が擦れる音がした。


悠太の肩がわずかに動いた。


さっきほど大きくはなかった。


鍋の中では、湯が沸いていた。


一定の間隔で、泡が底から上がる。


悠太は火ではなく、音を聞いていた。


鍋。


雨樋。


窓を打つ雨。


遠くの豚。


手押しポンプの軋み。


同じ場所に、違う音が重なっている。


農場主が火を弱めた。


「何が聞こえる」


悠太は答えなかった。


農場主は待たずに鍋を下ろした。


赤い蓋の容器へ湯を移す。


容器は、子どもの手が届かない火の奥の棚へ置いた。


悠太は赤い容器を見た。


「三つ」


声が小さく落ちた。


健二が顔を向けた。


「三つ?」


悠太は指を一本立てた。


「雨」


二本目。


「鍋」


三本目を立てるまでに、少し時間がかかった。


「豚」


農場主は窓の外を見た。


「豚は四頭だ」


悠太は首を横に振った。


「三つの音」


農場主は、もう一度耳を澄ませた。


低い鳴き声。


柵へ体が当たる音。


水を飲む音。


「音の種類か」


悠太は頷いた。


健二が台所の戸口へ寄りかかった。


「俺には全部、豚だった」


悠太は答えなかった。


ただ、肩は下がっていた。


千紘は、食卓の端で濡れた布を畳んでいた。


一枚。


二枚。


三枚。


花音へ渡した上着の袋を閉じた。


颯太の濡れた靴下を籠へ入れた。


美月の横へ乾いた布を置いた。


悠太の雨具を椅子の背へ掛けた。


自分の髪からは、まだ水が落ちていた。


畳んだ布の端へ、雫が一つ落ちた。


花音がそれを見た。


千紘の袖を引いた。


「大丈夫」


千紘はすぐに言った。


花音は手を離さなかった。


千紘の濡れた肩を指した。


次に、着替え袋を指した。


そのあと、空いている椅子を指した。


千紘は椅子を見た。


「まだ終わってないから」


花音は、千紘が畳んだ布を一枚取った。


千紘へ差し出した。


「花音が使って」


花音は首を横に振った。


布を千紘の腕へ押しつけた。


その横から、颯太が自分の靴下を持ち上げた。


「これ、どこ」


千紘はすぐに手を伸ばした。


花音が先に、濡れ物の籠を指した。


颯太は籠へ靴下を入れた。


千紘の手が宙に残った。


健二は食卓の反対側で、農場主と作業記録を見ていた。


顔を上げずに言った。


「千紘」


「はい」


「濡れてる人の数に、自分も入れて」


千紘は答えなかった。


健二は記録紙を一枚めくった。


「今、濡れてる人は?」


陸が人数を数えようとした。


健二は手で止めた。


「千紘に聞いてる」


千紘は自分の袖を見た。


濃く色が変わっていた。


「私も」


「うん」


「でも、先に――」


「先は、もうみんな自分でやってる」


颯太は濡れ物の籠の前にいた。


花音は千紘へ布を差し出したまま。


悠太は自分の雨具を椅子へ掛け直している。


美月は長椅子へ座り、自分で靴の中のガーゼを確認していた。


千紘は一人ずつ見た。


それでも椅子へ座らなかった。


「何かすることありますか」


農場主が振り向いた。


「ある」


千紘の背筋が伸びた。


「まず着替えろ」


千紘の顔が止まった。


「そのあと、食卓の瓶を数えてくれ」


「みんなの分ですか」


「空の瓶だけだ」


農場主は食卓の下を指した。


「割れてない物と、欠けた物を分ける。それだけでいい」


千紘は花音から布を受け取った。


自分の髪を拭いた。


着替え袋から乾いた上着を出す。


濡れた服を脱ぎ、袖へ腕を通した。


一度立ち上がったまま、すぐに瓶へ向かおうとした。


花音が椅子を引いた。


脚が床を擦った。


千紘は、その音を聞いた。


椅子へ座った。


「少しだけ」


誰に言ったのかは分からなかった。


健二は作業記録から顔を上げなかった。


「少しでいいよ」


農場主は、家の中を案内した。


火の位置。


水の容器。


作業靴。


食事場所。


動物区画。


道具の戻し場所。


保存瓶の棚。


手洗い場。


どこにも、新しい物はなかった。


板は擦れていた。


瓶の蓋には錆があった。


ポンプの柄には布が巻かれていた。


それでも、物は使う順に置かれている。


使ったあと、戻る場所がある。


蓮は壁の工具を見た。


「全部そろってるわけじゃないんだな」


「そろっとらん」


農場主は、柄の折れた鍬を持ち上げた。


「ない物は、ない」


「じゃあ、どうする」


「ある物でできる所までやる」


「できない所は?」


農場主は壁の紙を指した。


修理。


交換。


保留。


三つの欄があった。


「書いておく」


折れた鍬を、保留の欄の下へ置いた。


「書かずに置くと、次のやつが使う。こいつは、それが怖い」


蓮は鍬を見た。


何も言わなかった。


悠斗は、家の出入口を確認していた。


表玄関。


土間の戸。


台所の勝手口。


高台へ続く裏道。


農場主が言った。


「勝手口は使うな。蝶番が弱い」


悠斗は戸から手を離した。


「直さないの」


「今は閉まる」


「壊れたら?」


「その前に直す」


蓮が振り向いた。


「俺が見ていい?」


「午後にな」


農場主は即答した。


「先に豚の餌と水を見る」


蓮は不満そうに戸を見た。


それでも触らなかった。


食卓の下で、千紘が瓶を並べていた。


割れていない物。


口が欠けた物。


蓋が合わない物。


三列に分ける。


花音は向かい側へ座った。


瓶ではなく、千紘の手を見ていた。


千紘の指が止まると、花音も止まった。


千紘が瓶を持ち上げると、花音は置く場所を指した。


二人の間に、言葉はなかった。


十本目で、千紘の手が膝へ落ちた。


すぐに持ち上げようとした。


花音が瓶の前へ手を置いた。


千紘の指が止まった。


「あと三本」


花音は首を横に振った。


空いている椅子の背を指した。


千紘は一度、健二を見た。


健二は陸と水の記録を見ていた。


こちらを見ていなかった。


千紘は口を開いた。


閉じた。


もう一度、開いた。


「健二さん」


「うん?」


「少し休みたいです」


健二は顔を上げた。


千紘は瓶から目を逸らさなかった。


「あと三本あります」


「三本は逃げないよ」


健二は壁の時計を見た。


「十分休憩。瓶も一緒に休ませよう」


「瓶は疲れません」


「じゃあ、休憩が必要なのは千紘のほうだね」


千紘は返事をしなかった。


椅子の背へ体を預けた。


花音は、千紘の前に置かれた三本の瓶を、少し遠くへ動かした。


手が届かない距離ではない。


すぐに取らなくてもいい距離だった。


外で、豚が鳴いた。


悠太の顔が窓へ向いた。


一つ目は低い声。


二つ目は、柵へ体が触れる音。


三つ目は、水入れが動く音。


悠太は指を三本立てた。


今度は、誰にも聞かれなかった。


農場主が土間の戸を開けた。


「次は、外の音だ」


悠太は立ち上がらなかった。


戸の向こうを見た。


ハルが言った。


「今、行かなくても大丈夫です」


悠太は戸を見続けた。


しばらくして、指を一本動かした。


待つ。


ハルは頷いた。


農場主も急かさなかった。


土間の戸を半分だけ開けておいた。


外の音が、細い隙間から家の中へ入った。


雨。


豚。


ポンプ。


風。


千紘は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。


花音は、農場主が置いた記録紙の余白へ指を置いた。


瓶から椅子へ。


椅子から土間の戸へ。


細い線を引いた。


線は外へ出なかった。


家の中で、一度止まっていた。


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