第141話 水の値段
##第141話 水の値段
翌朝、門が開いたのは七時十二分だった。
境界一時保護所から借りた十二人乗りの送迎車が先に出る。
旧南第三の中型トラックが、その後ろについた。
送迎車には、子ども八人と瀬田ハル、健二、運転手の杉原が乗った。
トラックを運転するのは、運営準備会の野村だった。
荷台には、工具箱、空の保存容器、折り畳み机、毛布、雨具が積まれている。
重い物は前へ寄せた。
箱はロープで固定した。
医療箱は荷台へ載せず、送迎車の助手席の足元へ置いた。
健二は後部扉を開けたまま、座席を見た。
悠斗が先に数えていた。
「八人、座れる」
「大人も入れて?」
「十一人」
「正解。今日は定員に勝ったね」
悠斗は一番後ろの席を見た。
扉までの通路には、荷物が置かれていない。
「降りる時は前から?」
「普通の時は前。何かあった時は、近い扉から」
「分かった」
悠斗は、ほかの七人が座ってから、最後に空いた席へ腰を下ろした。
美月は通路側に座った。
右足を少し前へ出している。
健二は車外から靴を見た。
「今は?」
美月は口を開いた。
大丈夫、と言いかけて止まった。
「少し痛い」
「数字にすると?」
美月は指を三本立てた。
「三」
「歩ける?」
「歩ける」
「四になったら言って」
「五じゃなくて?」
「申告の値上げは、早めでお願いします」
美月は指を下ろした。
右足を座席の下へ隠さなかった。
陸は膝の上にノートを置いていた。
水の欄には、本数と用途が書かれている。
飲料用。
洗浄用。
予備。
その下に、小さく「薬」とあった。
健二が窓から覗いた。
「その薬って、別の水?」
「同じです」
「じゃあ、誰の分?」
陸は美月を見た。
「美月が薬を飲む分です」
「なら、美月って書いとこう」
「名前を書くんですか」
「誰の分か分からないと、うっかり飲むだろ」
陸は「薬」を消した。
小さな字で、美月、と書き直した。
美月は隣の席から、その文字を見た。
何も言わなかった。
発車前に、留守番をする三人が門へ出てきた。
境界一時保護所から来た男女二人。
運営準備会の年配の男が一人。
無線機は一台、守衛室へ残した。
門は内側から閉める。
健二は腕時計を見た。
「到着したら連絡します。十時を過ぎても入らなかったら呼んでください」
留守番の男が頷いた。
「帰還予定は十六時半」
「天気と道で変えます。変更したら必ず連絡します」
「了解」
健二は送迎車へ乗った。
扉が閉まる前に、多目的室の窓が見えた。
黒板までは見えない。
右側に書いた名前だけが、校舎の中に残っている。
送迎車が門を出た。
悠太はエンジン音へ顔を向けた。
低い音が一定に続いている間は、肩は上がらなかった。
後ろを走るトラックの荷台で、ロープの金具が一度鳴った。
悠太の指が、座席の縁を掴んだ。
ハルが手を二回、ゆっくり開いた。
昨日決めた合図だった。
聞こえています。
止めなくて大丈夫です。
悠太の指が、一度だけ動いた。
車は富士東麓へ向かった。
舗装路を外れると、窓の外の家が減った。
閉じたガソリンスタンド。
看板の落ちた食堂。
草に半分埋まった観光案内板。
空の駐車場には、錆びた自動販売機が二台並んでいた。
蓮が窓へ顔を寄せた。
「中に残ってないかな」
「何が?」
健二が聞いた。
「金」
「自動販売機に?」
「売上」
「四年も待ってくれる泥棒は、たぶんいないよ」
「開けたら分かるだろ」
「開けたら、先に杉原さんに怒られる」
運転席の杉原が前を向いたまま言った。
「怒ります」
蓮は座席へ戻った。
「聞こえてたのかよ」
「同じ車だからね」
健二が振り向いた。
「代わりに、農場で使える物を探そう。持って帰っていい物だけ」
「金より?」
「今日に限っては、蓋の閉まる容器のほうが偉い」
蓮は納得しなかった顔をした。
陸はノートの端に、容器、と書いた。
七時四十一分。
雨が落ち始めた。
大粒ではない。
フロントガラスに細い点が増えた。
ワイパーが一度動くたび、山の輪郭が現れた。
後ろのトラックが、短くライトを点滅させた。
杉原が速度を落とした。
「後ろが止まります」
送迎車を少し先の広い路肩へ寄せた。
トラックは、その後方で停止した。
健二は振り返った。
右後輪が、わずかに沈んでいる。
「全員、座ったまま。ベルトもそのまま」
扉へ手をかけた。
「瀬田さん、お願いします」
「はい」
悠斗が窓から後ろを見た。
「降りないの」
「まだ降りない」
「手伝える」
「今は座ってるのが手伝い」
健二は外へ出た。
雨が額へ当たった。
トラックの右後輪には、短い金属片が刺さっていた。
空気が細く漏れている。
野村が荷台から輪留めを下ろした。
「交換します」
「路肩は?」
「少し柔らかい。板を敷きます」
健二は車道の先を見た。
通行する車はない。
それでも、停止表示板を後方へ置いた。
交換作業は健二と野村で行った。
ナットを緩める。
ジャッキの下へ板を敷く。
車体を上げる。
タイヤを外す。
予備へ替える。
雨で板がずれないよう、何度も位置を確かめた。
送迎車の中では、陸が時計を見ていた。
十分。
十五分。
二十分。
美月は右足を前へ出したまま座っている。
千紘が水筒を取ろうとした。
美月は先に陸を見た。
「飲んでいい?」
陸はノートを開いた。
「今飲むと、残りは――」
健二が扉を開けた。
雨の匂いが車内へ入った。
「飲んでいいよ」
陸の鉛筆が止まった。
「でも、二十二分遅れてます」
「遅れた分、水を減らす決まりはない」
「歩く距離が増えたら、足りなくなります」
「その時は俺が決める」
健二は美月の小さな水筒を取った。
蓋を緩めて返した。
「陸は残りを教えて。誰が飲むかまで背負わなくていい」
陸はノートを見た。
「美月の分を開けます」
「うん」
美月は二口飲んだ。
自分で蓋を閉め、膝の横へ置いた。
陸は水筒の位置を見てから、数字を書き直した。
八時三分。
交換作業が終わった。
健二は車内へ戻った。
髪から雨水が落ちた。
花音が、その一滴を目で追った。
健二はタオルを頭へ載せた。
「車は大丈夫。人も八人いる」
悠斗がすぐに答えた。
「大人は四人」
「そう。全員いる」
陸が聞いた。
「二十二分の遅れです」
「二十二分で済んだ、とも言える」
「帰る時刻は変わりますか」
「今は変えない。次の休憩で決める」
「書かなくていい?」
「鉛筆は逃げないけん、少し待ってもらおう」
陸は時刻の横へ、小さく保留と書いた。
再び車が動いた。
雨は、山へ入るほど強くなった。
舗装路の端から水が流れていた。
畑だった場所には、茶色い筋ができている。
花音は窓の曇りへ指を当てた。
一本の線を引いた。
線は上から下へ落ちた。
途中で二つに分かれた。
片方は道路へ。
もう片方は、山側の溝へ。
健二はその線を見た。
「水?」
花音は窓の外を指した。
古い作業小屋の屋根から雨水が落ちていた。
落ちた水は、割れた雨樋を通らず、壁際の土を削っている。
その先に、浅いコンクリートの槽があった。
水は槽の手前で曲がり、道路脇の溝へ流れていた。
杉原が速度を落とした。
「この先です」
前方に赤い柵が置かれていた。
道路の片側が崩れている。
作業用の白い板に、手書きの文字があった。
車両通行不可。
農場まで一・四キロ。
八時三十四分。
杉原は送迎車を止めた。
トラックも後ろへ停車した。
健二は地図を開いた。
現在地。
農場。
迂回路。
地図上の迂回路には、細い林道が一本あった。
杉原が首を振った。
「昨日の連絡では、林道も倒木です」
「車はここまでですね」
「はい」
健二は無線を取った。
雑音の向こうから、高齢の男の声がした。
道は歩ける。
水が橋を越えるほどではない。
ただし、車両は入れるな。
高い側の道を使え。
健二は復唱した。
「子ども八人、大人三人で徒歩移動します。大人一人は車両へ残します」
野村が手を上げた。
「こっちは見ておきます」
「何かあれば無線で」
「了解」
健二は農場へ到着予定を伝えた。
「九時半前後です」
返事があった。
無線を切る。
「ここから歩く」
蓮が扉へ手をかけた。
「荷物は?」
「持つ物を減らす」
「工具は全部いるだろ」
「全部は工具箱の都合だね。俺たちの都合じゃない」
荷台から、必要な物だけを下ろした。
飲料水。
医療箱。
無線機。
毛布二枚。
軽い工具袋。
非常食。
空の密閉容器。
大型の工具箱。
折り畳み机。
保存瓶の空箱。
予備の燃料。
それらは車両へ残した。
水は体格と状態で分けた。
健二と杉原が二リットル容器を持つ。
ハルは医療箱と一リットルの水。
悠斗、千紘、蓮、陸には、小型の水筒か五百ミリリットルの容器だけを渡した。
悠太、花音、颯太には水を持たせなかった。
美月は、自分の小さな水筒だけを持つ。
悠斗が二リットル容器へ手を伸ばした。
「俺は、もう一本持てる」
「持てるのと、持つのは別」
「一・四キロだろ」
「帰りもある」
「でも」
「腕は二本しかないんだから、少し残しといてよか」
健二は小型の水筒を一本渡した。
悠斗は受け取った。
もう一度、大きな容器を見た。
手は伸ばさなかった。
美月が立ち上がった。
右足をついた時、眉が少し動いた。
健二は見ていた。
「今、いくつ?」
美月は靴紐を結び直した。
「三」
一度、黙った。
「少し四」
「上がった?」
「さっきより少し」
ハルが美月の前へ立った。
「出発前に行くと決めたことと、今の痛みは別です」
美月はハルを見た。
「今、やめても構いません」
美月は右足を床へ置いた。
「五分歩いてみたい」
健二は頷いた。
「五分で確認。四のままなら続ける。上がったら休む」
「みんなは?」
「一緒に休む」
「私だけで?」
「十一人で。かなり大きい休憩になるね」
美月の口元が少し動いた。
雨具を着て、車外へ出た。
悠太は、雨が車の屋根を叩く音に肩を上げた。
ハルが決めた合図を出した。
悠太の指が一度動いた。
颯太は、首から下げた名前札を雨具の中へ入れた。
花音は地面の水を見ていた。
作業小屋の屋根から落ちた水が、さっきより太くなっている。
花音は健二の袖を引いた。
槽を指した。
次に地面へしゃがみ、指で線を引いた。
屋根。
水。
槽。
道。
健二はその線を見た。
「集められるってこと?」
花音は頷いた。
蓮が槽を覗いた。
底には葉と砂が溜まっている。
「飲める?」
「今は飲まない」
健二はすぐに答えた。
「雨水だろ」
「だからって、すぐ飲めるわけじゃない」
小屋の壁。
古い槽。
割れた雨樋。
何に使われていた場所か分からない。
陸が聞いた。
「煮たら飲めますか」
「菌は減らせる。でも、薬や油が混じってたら消えない」
健二は槽から少し離れた。
「場所だけ記録する。使うかどうかは、農場主に聞いてから」
花音は、水が槽へ向かう線をもう一度なぞった。
ハルが小さな記録用紙を出した。
陸が時刻を書いた。
杉原が、使い捨ての手袋をはめた。
密閉できる小瓶へ、槽へ入る前の雨水を少量だけ取った。
蓋を閉める。
赤い印をつけた袋へ入れる。
健二は札を書いた。
確認用。
飲用不可。
小瓶は飲料水から離し、杉原の荷物へ入れた。
誰も飲まなかった。
一列には並ばず、間隔を空けて歩いた。
健二と杉原が前。
ハルが後ろ。
子どもは、その間に入った。
道の山側を進む。
崩れた側へは寄らない。
五分歩いたところで、健二は手を上げた。
「休憩」
蓮が前を見た。
「まだ全然歩いてない」
「予定通り」
美月は黙ったまま、道路脇の平らな石へ腰を下ろした。
健二はしゃがんだ。
「今は?」
美月は靴先を見た。
「四」
「上がってない?」
「上がってない」
「休みたい?」
美月の口が閉じた。
後ろでは、陸が水筒の残りを確認していた。
悠斗は人数を数えている。
千紘が毛布を出そうとした。
花音が、その荷物を指した。
次に、空いている石を指した。
千紘は手を止めた。
美月が言った。
「少し休みたい」
雨音の中でも聞こえた。
「了解」
健二は腕時計を見た。
「五分休憩。水を飲みたい人は言って。靴に水が入った人も」
陸が聞いた。
「全員ですか」
「欲しい人だけ」
「残りが減ります」
「減った数を教えて」
健二は飲料用の容器を足元へ置いた。
「減らす相手を決めるのは、陸の仕事じゃない」
陸は容器を見た。
次に、美月の顔を見た。
「美月は飲む?」
美月は少し考えた。
「少し」
陸は、美月の水筒を渡した。
ノートへ手を伸ばす前に。
美月は二口飲んだ。
蓋を閉めて返した。
「ありがとう」
陸は水筒を受け取った。
重さを確かめた。
数字は書かなかった。
美月が立ち上がるまで待った。
雨は少し弱くなった。
一・四キロの道を、四度休んだ。
美月の痛みは、四から上がらなかった。
陸は休憩のたびに水を数えた。
二度目からは、本数を言ったあとで、美月を見た。
花音は道の端を流れる水を追った。
細い流れが二つに分かれる場所で立ち止まり、靴先で方向を示した。
健二が山側の道を選ぶと、花音はその線を指で空中へなぞった。
九時三十六分。
斜面の向こうに畑が見えた。
低い柵。
黒い屋根の農協倉庫。
高台の集会所。
その下に、古い家が一軒あった。
家の脇では、手押しポンプが雨に濡れていた。
門の前に、高齢の男が立っていた。
灰色の雨合羽。
泥のついた長靴。
片手に、赤い布を結んだ棒を持っている。
健二は足を止めた。
「真柴です。旧南第三から来ました」
男は八人を見た。
数えるようには見なかった。
濡れた靴と、持っている容器を順に見た。
「水は持ってきたか」
「飲料用はあります」
健二は杉原を見た。
杉原が、赤い印の袋を地面へ置いた。
「途中の作業小屋で、雨水の流れを見つけました。これは確認用です。飲ませてません」
男は袋の札を読んだ。
「どの小屋だ」
健二が場所を説明した。
男は首を横に振った。
「あの槽は昔、農薬の噴霧器と薬剤桶を洗うのに使っとった」
陸の顔が上がった。
透明な小瓶を見た。
「屋根の水も、槽の周りを通る。使わんほうがいい」
健二は札の下へ、もう一行書いた。
使用不可。
「捨てる場所は?」
「畑へ流すな。あとで俺が処理する」
「分かりました」
花音は小瓶を見ていた。
自分が見つけた水だった。
健二は花音の隣へ立った。
しゃがまなかった。
頭も撫でなかった。
「見つけて、飲む水と分けた」
花音が健二を見た。
「そこまでで十分」
男が家の脇を指した。
「飲むなら、上の湧水だ。昨日の検査票もある。子どもに出す分は、念のため沸かす」
健二は頷いた。
「確認してから使います」
男は赤い棒で、高台へ続く道を示した。
「まず靴を脱げ。豚の区画へ、そのまま入るな」
蓮が柵の向こうを見た。
低い鳴き声がした。
悠太の肩が固まった。
ハルが手を二度開いた。
悠太の指が一度だけ動いた。
美月は玄関脇の長椅子を見た。
健二が何か言う前に、口を開いた。
「少し座りたい」
「どうぞ」
健二は荷物を下ろした。
陸が飲料水を並べた。
その横へ、美月の水筒を置いた。
赤い印の袋だけは、少し離れた地面に残った。
中の水は、どの飲料水よりも澄んで見えた。




