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第140話 学校の外へ

# 第140話 学校の外へ


朝の守衛室には、米の匂いがしなかった。


代わりに、灯油と濡れた段ボールの匂いが残っていた。


健二は棚の前にしゃがみ、開封済みの米袋を持ち上げた。


底が軽い。


振っても、音が薄かった。


「これ、三日かな」


後ろで鉛筆が止まった。


高瀬陸が、罫線を引いたノートから顔を上げた。


「四日です」


「誰もおかわりしなかったら?」


「一日二食で、四日です」


健二は米袋を棚へ戻した。


袋の口から、白い粒が一つ転がった。


「それは生活って言わないな」


陸は答えなかった。


鉛筆の先を、数字の下へ置いた。


守衛室の床には、確認する物が並べてあった。


米。


乾麺。


塩。


固形燃料。


医療箱。


飲料水。


発電機用の燃料缶。


子ども用の長靴。


穴の開いた雨具。


まだ使える毛布。


使えるかどうか分からない懐中電灯。


陸がノートを読み上げた。


「飲料用の容器は十八本です。満水が十二本。半分が三本。空が三本」


「洗う水は?」


「水タンクです」


「今朝の確認は?」


陸の目が、水タンクの点検票へ向いた。


昨日の日付があった。


その下に、濁りなし、と書かれている。


「まだです」


「じゃあ、今は飲める水に入れない」


健二は空の容器を足元へ寄せた。


蓋のない物を右へ置く。


蓋のある物を左へ置く。


「数は逃げないけど、水は逃げるからね。隙があるとすぐいなくなる」


陸が空の容器を一本持ち上げた。


底に細い亀裂があった。


「十七本です」


「うん。見つけた分だけ助かる」


陸は十八を消し、十七と書き直した。


健二は医療箱を開いた。


包帯。


消毒液。


鎮痛薬。


体温計。


湿布。


未開封のガーゼ。


数は少なかった。


廊下で靴底が鳴った。


宮原美月が戸口で止まった。


右足を少し浮かせている。


「どうした?」


「何もない」


「何もない人は、そんな歩き方しないよ」


美月は、すぐに右足を下ろした。


「大丈夫」


健二は医療箱の蓋を閉じなかった。


「はい。今日の『大丈夫』は売り切れ」


美月の眉が寄った。


「なんで」


「便利すぎるけん、いったん回収します」


健二は壁際の椅子を指した。


「痛い場所だけ教えて。頑張った話は、あとで聞くから」


美月は動かなかった。


廊下の奥を見た。


誰もいなかった。


それから、壁際の椅子へ座った。


靴を脱ぐと、かかとの皮が赤くなっていた。


まだ破れてはいない。


「どこ?」


「かかと」


「どのくらい?」


美月は少し黙った。


「少し痛い」


健二は靴下のしわを伸ばした。


靴紐が強く締まりすぎていないか確かめる。


ガーゼを一枚出すと、美月の手が止めた。


「まだ使わなくていい」


「どうして?」


「もっと怪我した人が来たら」


「その時は、その人にも使う」


健二はガーゼを小さく折った。


「ガーゼは我慢大会の賞品じゃない。美月に使うためにある」


靴の中で擦れない位置へ当てた。


美月は足元を見たまま聞いた。


「外、行くの」


「まだ決めてない」


「農場」


「耳が早いね」


「昨日、地図を見てた」


健二は笑わなかった。


美月も笑っていなかった。


「行くかどうかは、一人ずつ聞く」


「行く人だけ?」


「行かない人も」


「行かないって言ったら、残される?」


健二の手が止まった。


ガーゼの端が、靴の縁から少し見えていた。


「学校に残る」


美月は健二を見た。


「それは、残されるのと違う?」


「違う」


健二は靴紐を緩く結び直した。


「残る人には、大人がつく。戻る時間も決める。無線も残す」


美月は何も言わなかった。


「誰かを置いたまま、話を先へ進めたりはしない」


美月は足を床へ下ろした。


今度は、すぐに立たなかった。


守衛室の外で金属が鳴った。


一度。


続いて、短い舌打ちが聞こえた。


健二は医療箱を閉じた。


「今の音、だいたい誰か分かるな」


廊下へ出ると、笹原蓮が工具箱の前にいた。


片手に錆びた留め具を持っている。


もう片方の手は、ペンチへ伸びていた。


「勝手に触るなって言っただろ」


「触ってない」


「これから触る手だったね」


「壊れてる」


「見れば分かる」


「じゃあ直せよ」


蓮は留め具を床へ落とした。


乾いた音がした。


音楽室の前にいた浅野悠太の肩が跳ねた。


健二は蓮ではなく、悠太を見た。


悠太の目は、床の留め具へ向いたまま止まっていた。


健二は右手の指を二度、ゆっくり曲げた。


悠太の指が、一度だけ動いた。


聞こえている。


健二は床の留め具を拾った。


「蓮」


「何だよ」


「壊す前に呼ぶ。直すなら、そのあと」


「壊したの俺じゃない」


「知ってる」


「じゃあ怒るなよ」


「怒ってないよ」


「その顔で?」


健二は自分の頬へ触れた。


「これは標準装備」


蓮は鼻で息を吐いた。


ペンチから手を離した。


ただし、その場からは動かなかった。


「農場に行くんだろ」


「まだ決めてない」


「柵が壊れてるって聞いた」


「どこで?」


「大人が話してた」


「情報収集が早いね」


「盗み聞きじゃない」


「そういうことにしておこうか」


健二は、板で塞がれた窓を指した。


下の釘が一本浮いていた。


「その能力が余ってるなら、あれを見てくれない?」


蓮は窓板へ近づいた。


浮いた釘を指で押した。


「ここも壊れてる」


「助かる」


「やっぱり直す仕事あるじゃん」


「仕事はある」


健二は工具箱を足で閉じた。


「お前が農場へ行くかどうかとは別だけどね」


蓮の目が細くなった。


「俺じゃ無理ってこと?」


「行きたくないなら、行かなくていいってこと」


「行きたいって言ったら」


「途中で嫌になったら、やめてもいい」


「そんなやつ、連れていく意味ないだろ」


「あるよ」


健二は浮いた釘を指で押した。


板が小さく動いた。


「無理して壊れる人を増やしに行くんじゃない」


蓮は返事をしなかった。


「食べ物をもらいに行くわけでもない。水や道具をどう残すか、支援が止まった時にどうつなぐか、それを見に行く」


蓮は浮いた釘を見たまま聞いた。


「じゃあ、働きに行くんじゃないのか」


「帰ってくる人数を減らさないために行く」


健二は留め具を手のひらへ載せた。


「働ける人数を数えに行くんじゃない」


しばらくして、蓮は留め具を取った。


今度は工具箱を開けなかった。


「これ、どこに戻す」


「右の小箱」


蓮は留め具を入れた。


蓋は閉めなかった。


午前九時。


多目的室の黒板に、健二は二本の縦線を引いた。


左に、行く人。


右に、戻る人。


チョークの粉が指へついた。


八人は、椅子を円にせず、ばらばらに座っていた。


悠斗は扉に近い席。


美月は通路側。


蓮は窓板の前。


千紘は花音の隣に立っていた。


陸はノートを膝へ置いている。


悠太は古いピアノから離れた壁際。


颯太は名前札を指でなぞっていた。


瀬田ハルは黒板の横に立った。


紙は持っていなかった。


一人ずつ、顔を見るためだった。


「今から、農業集落へ行くかどうかを聞きます」


声は小さかった。


部屋の奥まで届いた。


「今、答えなくても大丈夫です」


誰も動かなかった。


「途中で答えを変えても構いません」


ハルは悠太と花音を見た。


「声で答えにくい時は、指や線でも構いません」


悠斗の目が健二へ向いた。


「行かないって言ったら、誰がここに残る」


「境界一時保護所から、大人が二人来る」


健二は指を二本立てた。


「それと、運営準備会から一人。学校を空にはしない」


「門は」


「内側から閉める」


「無線は」


「一台残す。こっちも一台持つ」


「帰る時刻は」


「日帰り。日が落ちる前には戻る」


健二は黒板の端へ、予定時刻を書いた。


「道が悪ければ、向こうの集会所に泊まる。その時は、ここへ連絡する」


悠斗は、下の子たちを見た。


人数を数える時の目だった。


ハルが聞いた。


「悠斗さんは、行きたいですか」


悠斗はすぐに答えなかった。


扉。


窓。


健二。


ハル。


もう一度、八人。


「行く」


「理由は、今は言わなくて大丈夫です」


「車は何台」


健二が答えた。


「送迎車が一台。道具を運ぶトラックが一台」


「トラックの荷台には」


「子どもは乗せない」


悠斗の肩が少し下がった。


ハルは次へ移った。


「美月さんは」


美月は右足を椅子の下へ引いた。


「行く」


健二が口を開きかけた。


ハルの視線が止めた。


「今の足でも、行きたいですか」


美月は黙った。


靴の中のガーゼが気になるのか、つま先を一度動かした。


「歩けなくなったら」


「途中で休めます」


「戻ることもできる?」


「できます」


「みんなが先に行っても?」


「一人にはしません」


美月は右足を床へ置いた。


「行く」


今度の声は、少し遅かった。


蓮の番になると、椅子の脚が鳴った。


「行く」


「最後まで聞きます」


「もう言った」


「今、答えを変えても構いません」


「変えない」


ハルは蓮を見た。


「誰かに命令されたからではありませんか」


「違う」


「行かないと言っても、役に立たないとは扱いません」


蓮の顎が上がった。


「そういう言い方、嫌い」


「分かりました」


ハルは引かなかった。


決めつけもしなかった。


「今は答えなくて大丈夫です」


蓮は浮いた窓板の釘を見た。


「柵が壊れてるなら、直したい」


健二が言った。


「直すかどうかは、農場主が決める」


「じゃあ俺は何するんだよ」


「最初は一緒に見る」


「見るだけ?」


「勝手に触ったら、ずっと見るだけ」


蓮は健二を睨んだ。


「先に呼べば」


「工具を使っていい」


短い沈黙のあと、蓮は言った。


「行く」


悠太は声で答えなかった。


ハルが名前を呼ぶと、壁の近くで指が二度動いた。


健二は、その合図を見た。


ハルも見た。


「行く、で合っていますか」


悠太の指が、もう一度動いた。


「音が苦しくなったら、止めたい時に今の合図で知らせてください」


指は動かなかった。


ハルは待った。


十秒ほどして、悠太は人差し指を一度曲げた。


千紘は、自分の番になる前に花音の水筒を立て直した。


颯太の名前札が裏返っているのを見て、手を伸ばした。


ハルが呼んだ。


「千紘さん」


手が止まった。


「はい」


「あなたは、行きたいですか」


千紘は花音を見た。


それから颯太を見た。


「みんなが行くなら」


「みんなではなく、あなたに聞いています」


千紘の手が膝の上へ戻った。


「行きます」


声は小さかった。


ハルは理由を聞かなかった。


陸は、座席の数と水の本数を言ってから、行くと答えた。


ハルはもう一度だけ聞いた。


「数字が足りているからですか」


陸は、椅子の下の美月の右足を見た。


「水は、予定より二本多く要ります」


健二が聞いた。


「誰の分?」


「美月が休む時と、薬を飲む時」


「そうだね」


陸はノートへ一本、線を足した。


花音の番になると、ハルは名前を呼んだ。


花音は答えなかった。


床へ指を置いた。


埃の上に一本の線を引く。


線は扉へ向かい、途中で曲がった。


同じ場所へ戻ってきた。


ハルはその線を見た。


「戻る線?」


花音はハルの顔を見た。


それから一度、頷いた。


颯太は最後だった。


「小野寺颯太さん」


名前札を触る指が止まった。


部屋の全員が待った。


健二は黒板へ顔を向けた。


返事を見張らないためだった。


しばらくして、小さな声がした。


「行く」


ハルは聞き返さなかった。


「分かりました」


それだけ言った。


全員の確認が終わると、健二は黒板の左側へ向かった。


チョークを持ち上げたところで、悠斗が言った。


「そっちから書くの」


「ん?」


「行く人」


健二は左側の見出しを見た。


それから、右側へ移った。


戻る人。


その下へ、一人ずつ名前を書いた。


中原悠斗。


宮原美月。


笹原蓮。


浅野悠太。


佐伯千紘。


高瀬陸。


村瀬花音。


小野寺颯太。


続けて、瀬田ハル。


最後に、真柴健二。


蓮が椅子へ背中を預けた。


「まだ行ってないのに」


「だから、先に書く」


「戻れなかったら」


健二はチョークを黒板の溝へ置いた。


白い粉が落ちた。


「戻れない道なら、最初から行かない」


悠斗が右側の名前を上から見た。


一人ずつ、指で追った。


「留守番の人は」


「下に別で書く」


「到着したら」


「無線」


「遅れたら」


「無線」


「車が壊れたら」


「歩く距離を見て、戻るか、向こうへ行くか決める」


「誰が決める」


「俺」


健二は悠斗を見た。


「悠斗は人数を見てくれていい。でも、帰る道を決めるのは俺の仕事」


悠斗の口が一度だけ開いた。


閉じた。


「分かった」


それは承諾というより、確認の終わりだった。


多目的室を出る時、美月が黒板の前で止まった。


自分の名前を見た。


右側にあることを確かめた。


蓮は、その横を先に通った。


廊下へ出てから、窓板の浮いた釘を指した。


「これ、今直していい?」


健二は工具箱を見た。


それから時計を見た。


「十分だけ」


「短い」


「お前、腕は二本しかないんだから。今日は十分でよか」


蓮は返事をしなかった。


工具箱を持ち上げた。


今度は勝手に開けなかった。


健二の前へ置いた。


「開けていい?」


「どうぞ」


守衛室では、陸が水の数を書き直していた。


美月は椅子へ座ったまま、靴を履き直していた。


悠斗は門と守衛室の間を歩き、留守番の大人が使う鍵を確認していた。


黒板には、まだ「行く人」の名前がなかった。


右側だけが、先に埋まっていた。


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