第百三十九話 名前を戻す
## 第百三十九話 名前を戻す
男の指が、直樹の上着から離れた。
呼吸は残っている。
浅い。
一度吸うたび、胸より先に腹が動いた。
直樹は左腕で男の身体を支えた。
右手は床へ落ちたまま動かない。
脇腹から流れた血が、上着の内側を伝っていた。
「意識が落ちます」
ミーシャが言った。
左前腕へ巻いた圧迫帯を、右手と歯で締め直す。
「呼吸は」
「あります」
「脈は」
ミーシャは男の首へ右手を当てた。
「弱いです」
「搬出を呼べ」
「要請済みです」
ミーシャが通信機へ顔を寄せる。
「大庭。重篤者一名。左上腹部に刺創。作業用刃物は刺入部に残置。意識低下」
『お前らは』
「私の左前腕に刺創。後頭部打撲。NAOは複数の裂傷と右手機能の悪化」
『真柴の右は元からだろ』
「随意運動を確認できません」
「余計なことまで言うな」
『言わせておけ。七分で入る』
「ロシア側の負傷者もいます」
『別車両を回した。位置を送れ』
ミーシャが座標を送る。
直樹は男の顔を見た。
血の気が引いている。
目は半分だけ開いていた。
「聞こえるか」
返事はない。
床を流れる排水が、男の背中の下へ回り始めた。
落ちた点検蓋が排水溝を塞いでいる。
「少し動かす」
「刃が動きます」
「水のない場所までだ」
「一人では無理です」
「分かってる」
直樹は左腕を男の背中へ回す。
ミーシャが右肩側へ入った。
「私の左腕は使えません」
「右肩を入れろ」
「三つ数えます」
「二つでいい」
「一」
「上げるぞ」
「まだ一です」
「遅い」
二人で男の身体を浮かせた。
直樹の脇腹へ痛みが走る。
息が止まった。
左腕から力が抜ける。
男の身体が傾いた。
ミーシャが右肩を押し込む。
「落とすな」
「あなたが離しました」
「分かってる」
数十センチ先の乾いた床へ移す。
刃の位置を変えないよう、ゆっくり下ろした。
ミーシャが止血材を刃の左右へ当てる。
「名前は」
直樹は答えなかった。
「暫定記録に必要です」
男の胸が小さく上下している。
直樹は痩せた顔を見た。
中央即応連隊へ入ったばかりの顔ではない。
白い光のあと、久世の前へ立った時の顔でもない。
四年間を一人で歩いた男の顔だった。
「相良遼介」
ミーシャの右手が止まった。
「もう一度」
「相良遼介」
名前が、取水管理棟の中へ残った。
ミーシャが端末を開く。
画面には、追跡対象と表示されている。
その文字を消した。
氏名。
相良遼介。
「漢字は」
「相手の相。良いの良。遼遠の遼。介助の介」
ミーシャが入力する。
氏名欄の横へ、暫定識別と表示された。
「識別者」
「真柴直樹」
「所属は」
直樹は答えなかった。
ミーシャも聞き直さない。
空欄のまま保存した。
端末が名前を読み上げる。
相良遼介。
男の瞼が一度動いた。
右の指が床を擦る。
一度だけだった。
*
車両音が近づいた。
取水棟の外で枝が折れる。
「大庭です」
ミーシャが言った。
「なぜ分かる」
「声が聞こえます」
『こんな場所を選んだ奴は誰だ!』
大庭の声が作業口から入った。
「聞こえてるぞ」
『聞かせてる』
大庭が担架班を連れて入ってきた。
右脇腹を押さえている。
頬も腫れていた。
床の血を見る。
直樹。
ミーシャ。
最後に男を見る。
大庭の口が閉じた。
「相良遼介だ」
直樹が言った。
大庭は何も返さなかった。
担架班へ手を上げる。
「作業用刃物は刺さったまま。抜くな。左右を固定。相手が使った刃物は床にある。別で封印しろ」
衛生員が男の首へ指を当てる。
「頸動脈、微弱」
「先に搬出する」
酸素器具が当てられる。
点滴路を取る準備が始まる。
刃の周囲へ厚い固定材が置かれた。
大庭が直樹を見る。
「お前も乗れ」
「ロシア側が先だ」
「もう別車両へ乗せた」
「ミーシャは」
「お前より自分で歩ける」
「左腕を見ろ」
「見てる。だから二人とも乗れ」
直樹は立とうとした。
左足へ力を入れる。
脇腹の傷が開いた。
視界の端が暗くなる。
機械台へ左手をついた。
「歩ける」
「歩ける奴は止まらない」
大庭が直樹の左脇へ入る。
支えた瞬間、右脇腹に痛みが走った。
顔が歪む。
それでも腕は離さなかった。
「触るな」
「落ちてから言え」
「落ちない」
「その台詞、今日二回目だぞ」
ミーシャが反対側へ立つ。
肩が直樹へ触れた。
「今度は私が右を見ます」
「お前は自分の腕を見ろ」
「右腕は使えます」
「左が血だらけだ」
「あなたの方が多いです」
「競うな」
大庭は二人を見る。
何か言いかける。
相良を乗せた担架が前を通った。
口を閉じた。
「先に出す」
*
相良の担架は一号車へ入った。
ロシア側の負傷者は二号車。
直樹とミーシャは三号車へ乗せられた。
相良が使っていた刃物と、切断された装備類は現場へ残した保全班が回収する。
直樹が使った作業用刃物は、相良の身体へ刺さったままだった。
大庭は助手席へ座る。
車両が動き出した。
取水棟が木々の間へ消える。
直樹は一号車の後部灯を見ていた。
赤い灯りが木の間で揺れる。
右手は膝の上に置かれていた。
指は開いたまま動かない。
ミーシャが向かいに座る。
左前腕の圧迫帯から、まだ血がにじんでいる。
「気分は」
直樹が聞いた。
「吐き気はありません」
「視界は」
「二重には見えません」
「眠るな」
「あなたも」
「分かってる」
ミーシャの視線が直樹の右手へ落ちる。
「指を動かしてください」
「今は無理だ」
「一本だけ」
「無理だと言った」
「変化の確認です」
「後でやれ」
「後では比較できません」
直樹は右の人差し指へ力を入れた。
動かない。
手首だけがわずかに震える。
ミーシャが端末へ入力する。
「右手指、随意運動なし」
「書くな」
「必要です」
「相良の記録を先にしろ」
「同時にしています」
端末には、搬送記録が並んでいた。
救出者一名。
負傷者二名。
刺創による重篤者一名。
氏名。
相良遼介。
暫定識別者。
真柴直樹。
所属欄は空白だった。
「刺したのは俺だ」
「記録しています」
「理由で隠すな」
「隠していません」
ミーシャが別紙記録を開く。
第三者への致命的攻撃を阻止するため、真柴直樹が相良遼介へ刺突。
使用した作業用刃物は、刺入部に残したまま搬送。
相良遼介は刺突後、自ら攻撃を停止。
ミーシャは右手で保存した。
*
富士川前進医療所へ着いた時、午後八時六分だった。
前進医療所は境界内に置かれている。
救命処置を優先するための場所だった。
正式な帰還記録は、後方検問所で確定する。
一号車の扉が先に開いた。
相良の担架が処置室へ運ばれる。
直樹も降りようとした。
衛生員が肩を押さえる。
「あなたは次です」
「相良を先に見ろ」
「担当が入っています」
「俺も行く」
「歩行補助が必要です」
「歩ける」
足を地面へ置く。
一歩目で脇腹が引きつった。
身体が左へ傾く。
大庭が支える。
大庭自身の呼吸も一度止まった。
「全体重を預けるな」
「離せ」
「診察が終わったらな」
処置室の中で声が飛ぶ。
酸素。
静脈路。
輸液。
血圧。
外科担当への連絡。
相良はまだ、重篤者一名と呼ばれていた。
直樹は処置室の入口で止まる。
「名前を使え」
衛生員が振り返った。
「本人確認済みですか」
「俺が識別した」
ミーシャが端末を上げる。
「真柴直樹による暫定識別です。氏名は相良遼介」
医師が頷く。
「相良さん、聞こえますか」
初めて、処置室の中で名前が呼ばれた。
相良の身体は動かなかった。
直樹は入口から離れない。
ミーシャが横へ立つ。
肩が触れる。
どちらも動かなかった。
医師が刃の周囲を確認する。
処置のために服だけを切る。
刃は抜かない。
モニターの音が変わった。
指示が短くなる。
胸骨へ手が置かれる。
時間だけが進む。
午後八時十八分。
医師が手を止めた。
「相良遼介さん」
一度呼ぶ。
返事はない。
もう一度、名前を呼ぶ。
それから、死亡確認時刻を告げた。
ミーシャは端末を見た。
自動入力欄へ、対象死亡と表示されている。
右手の指で消した。
相良遼介。
死亡確認時刻、二十時十八分。
既存の記録へ加える。
所属欄には触れなかった。
*
処置室の外で、大庭が通信を開いた。
「久世班長」
雑音のあと、久世の声が入る。
『状況は』
大庭は直樹を見る。
直樹が通信機を受け取った。
左手へ置く。
「本人を確認した」
『名前は』
「相良遼介」
回線の向こうで音が消えた。
久世はすぐに答えなかった。
『顔貌記録を送れ』
ミーシャが処置前に撮影した識別画像を、保全回線へ送る。
数十秒。
『相良遼介で間違いない』
ミーシャの端末から、暫定識別の表示が消えた。
氏名だけが残る。
『真柴』
「聞こえてる」
『間に合わなかったか』
「ああ」
『俺が出した』
「分かってる」
『記録を回せ』
「何のためだ」
『俺の名前も残す』
「必要ない」
『お前が決めることじゃない』
直樹は黙った。
えりと同じ言葉だった。
『相良を戻したあと、また外へ出したのは俺だ』
「俺が置いた」
『だから、お前だけに持たせない』
直樹は処置室の扉を見る。
白い布が相良の顔へ掛けられる。
「分かった」
久世が息を吐いた。
『真柴』
「何だ」
『帰れ』
「もう戻ってる」
『そうか』
通信が切れた。
*
午後八時二十四分。
ミーシャの端末が震えた。
ロシア側上級指揮系統からの更新だった。
二十一時に予定されていた境界進入は保留。
行方不明者の生存回収。
本人の供述準備。
相良遼介の死亡記録。
現場証拠の保全。
確認が終わるまで、待機線を越えない。
ミーシャは通知を大庭へ見せた。
「止まったか」
「保留です」
「お前が止めた?」
「報告を受けた上が決めました」
「二十一時は」
「入りません」
大庭は息を吐いた。
右脇腹へ手を置く。
「ようやく一つ減ったな」
直樹は処置室の扉を見たまま動かなかった。
*
午後八時三十七分。
直樹とミーシャは、後方検問所の帰還確認線を越えた。
大庭が時刻を記入する。
二名帰還。
真柴直樹。
ミーシャ。
ロシア側負傷者一名回収。
相良遼介一名搬送。
死亡確認済み。
所属欄で鉛筆が止まった。
大庭は何も書かなかった。
記録板を閉じる。
「二人で戻った」
直樹は検問線の標識へ左手を置いた。
右手は胸の前で固定されている。
脇腹には厚い処置材。
顎には細い縫合帯。
上腕の傷へ巻かれた包帯が、服の下で張っていた。
「時刻は」
「二十時三十七分」
「間に合ったな」
「三分前だ」
直樹は簡易椅子へ座った。
ミーシャが隣へ座る。
確認は取らない。
左腕を固定したまま、右手で端末を操作する。
肩が直樹の左肩へ触れた。
「NAO、右手を下げないでください」
「固定されてる」
「肩が下がっています」
「お前は頭を打ってる。座れ」
「座っています」
「黙れ」
「あなたも」
大庭は二人を見た。
口を開く。
何かを思い出す。
閉じた。
使うなら、今ではない。
*
久留米近郊の臨時飛行場から出た連絡機が、富士川後方飛行場へ着いたのは午後九時二分だった。
えりとめぐみは、そこから行政車両へ乗り換えた。
午後九時十八分。
車両が後方検問所の手前で止まる。
前席からえりが降りた。
周囲を見る。
検問線。
医療所。
停車位置。
武装した隊員。
それから後部扉を開ける。
めぐみが、自分の足で地面へ下りた。
小さな鞄を肩へ掛けている。
手には記録板を持っていた。
めぐみは検問線の奥を見る。
直樹は簡易椅子へ座っている。
右手を固定されていた。
顎と脇腹に処置材。
服には乾いた血が残っている。
その隣に、見知らぬ女が座っていた。
女の左腕も固定されている。
肩が直樹へ触れていた。
直樹は離れない。
女は直樹の右手の位置を見ている。
「NAO。車両です」
同じ時、直樹の通信機から久世の声が入った。
『真柴』
めぐみが一歩進む。
「なお」
三つの呼び方が重なった。
直樹は顔を上げる。
隣のミーシャ。
通信機。
検問線の向こうに立つめぐみ。
左手を上げる。
「いる」




