第百三十八話 止める手
## 第百三十八話 止める手
直樹が残した足跡は、古い取水管理棟へ続いていた。
山肌へ半分埋まったコンクリートの建物だった。
窓は割れている。
屋根から落ちた水が、錆びた配管を伝っていた。
正面に広い作業口。
右には水路へ下りる保守階段。
左の管理通路は、崩れた壁で半分塞がれている。
逃げ道は三つ。
車両は入れない。
避難経路からも外れている。
直樹は時計を見た。
午後七時二十六分。
二十時四十分まで、一時間十四分。
二十一時になれば、ロシア側の報復部隊が境界へ入る。
負傷者を回収しなければならない。
森の男も連れて戻る。
めぐみには帰ると言った。
どれか一つを諦めれば、時間は足りる。
直樹は三つとも捨てなかった。
小銃を左手で保持したまま、作業口の前で止まる。
「中へ入らないのですか」
十五メートル右からミーシャの声がした。
「向こうに出てこさせる」
「出なければ」
「入る」
「最初から入れば早い」
「お前は右を見ろ」
「命令が雑です」
「通じているなら十分だ」
ミーシャの姿が斜面の陰へ消える。
直樹は暗い作業口を見る。
水滴が落ちる。
風で鉄板が揺れる。
それ以外の音はない。
だが、中にいる。
こちらを見ている。
直樹は小銃の銃口を下げた。
「出てこい」
返事はなかった。
「負傷者を先に出せ」
建物の奥で、金属が擦れた。
暗がりからロシア側の男が現れた。
右足首を裂いた布で固定している。
壁へ手をつきながら、自分の足で歩いていた。
両手は縛られていない。
首から下げた個人端末は分解され、電源部だけが残されていた。
その後ろに人影はない。
「ミーシャ」
「見ています」
「回収しろ」
ミーシャが斜面から下りた。
負傷者へ向かう。
ロシア側の男が声を上げた。
ミーシャがロシア語で返す。
「中に一人です」
「武器は」
「刃物」
直樹が一歩進んだ。
靴先へ、細い通信線が触れた。
張力が変わる。
頭上で金属が外れた。
直樹は左へ跳んだ。
鉄製の点検蓋が落ちる。
先ほどまで立っていた場所へ叩きつけられた。
錆と埃が噴き上がる。
「NAO!」
「負傷者を外へ出せ!」
直樹は埃の中へ入った。
*
最初の刃は、右肩へ来た。
人影は見えない。
空気が切れる音だけが先に届く。
直樹は左前腕で刃の線を外した。
切っ先が上着を裂く。
二撃目は右脇腹。
三撃目は右手首。
右を使わなければ止めにくい場所だけを選んでいる。
直樹は小銃を横へした。
刃が銃床へ当たる。
硬い音が室内へ響いた。
男が埃の中から現れる。
頬が痩せている。
目だけは動いていない。
「生きていたなら、なんで帰ってこなかった」
答えを待たず、男が小銃の負い紐へ刃を滑らせた。
布が切れる。
小銃が床へ落ちた。
男の足が銃床を蹴る。
小銃は排水溝を滑り、暗い水へ沈んだ。
直樹の拳銃は右腰にある。
左手で抜くには、身体の正面を開かなければならない。
男はその時間を与えない。
撃つ選択肢が消えた。
「帰れなかった」
「違う」
男が踏み込む。
「帰らなかった」
刃が直樹の喉へ上がる。
直樹は頭を引いた。
顎に熱が走る。
血が首へ落ちた。
直樹は左肩から入る。
男の胸へぶつけた。
壁まで運ぶ。
左肘を脇腹へ打ち込む。
鈍い感触。
男の息が一度止まる。
続けて膝を腿へ入れた。
足が崩れる。
直樹は押さえ込まない。
一歩外へ出る。
男は片手を床へつき、すぐに立った。
「それか」
口の端から血が落ちる。
「外で覚えたやり方」
「立てるなら話せ」
「昔みたいに取れ」
男は刃を持つ腕を前へ出した。
「腕を止めろ」
「必要ない」
「倒して押さえろ」
「今はしない」
「できないのか」
男が直樹の右へ回る。
直樹も位置を変える。
左には排水溝。
右には崩れた機械台。
背後には壁。
動ける場所が少しずつ減っていく。
男は直樹を追っているのではない。
直樹が立てる場所を削っている。
敵の身体を追うな。
逃げられる場所を先に消せ。
直樹自身が教えた方法だった。
「お前を置いたままになった」
男の足が一度止まった。
「四年遅い」
次の刃が来る。
謝罪を聞くために止まったのではない。
直樹が話す瞬間を待っていた。
直樹は左手で手首を払う。
掌底を顎へ入れる。
肩を胸へぶつける。
男の背中が機械台へ当たった。
錆びた工具が床へ落ちる。
男は工具を蹴った。
直樹の足元へ滑らせる。
直樹が左へ避ける。
その分だけ壁へ近づいた。
男の刃が右脇へ入る。
左は排水溝。
後ろは壁。
右手で止めるしかない。
直樹は男の手首をつかんだ。
右の指を閉じる。
刃が止まる。
一秒。
二秒。
親指から力が抜けた。
男の手首が回る。
刃が直樹の上腕を裂いた。
直樹は左前腕を男の喉へ入れた。
体重を乗せる。
男の後頭部がコンクリートへ当たった。
直樹はさらに左肘を胸へ落とした。
男の膝が沈む。
今なら倒せる。
腕を引く。
姿勢を崩す。
床へ落とす。
手首を固定する。
昔の形へ入れば終わる。
直樹の右手は、もう開いていた。
男がそれを見る。
「やっぱりな」
頭から直樹の腹へ入った。
二人で機械台へ倒れる。
背中に鉄の角が当たる。
肺の空気が消えた。
男の肘が頬へ入る。
視界が揺れる。
刃が上がる。
直樹は左手で手首を押した。
切っ先が顔の横へ落ち、床へ刺さる。
男は刃を抜かない。
柄を軸に身体を回した。
膝で直樹の右腕を押さえる。
拳が落ちる。
一発。
二発目を額で受ける。
白い光が視界に広がった。
直樹は腰を持ち上げる。
男の重心が浮く。
左肘を胸へ入れた。
男が横へ落ちる。
二人は同時に立った。
直樹の口に血の味が広がる。
右手の指先は冷たい。
男は床から刃を抜いた。
「その手で来たのか」
「関係ない」
「俺にはある」
「刃を捨てろ」
「兄貴みたいな顔で教えたくせに」
男の声が低くなる。
「一人で帰れと言ったのは、お前だ」
「俺を兄と思う必要はない」
「俺を知ってるみたいに言うな」
男が走った。
*
刃ではなく、蹴りが先に来た。
直樹の右手首へ当たる。
神経の奥を焼く痛みが、肘まで走った。
右腕が勝手に下がる。
男の刃が胸へ入る。
直樹は機械台へ左手を置き、身体を横へ逃がした。
切っ先が服を裂く。
肩を男の背中へぶつける。
男が前へ崩れる。
直樹は後頭部へ肘を落とさない。
膝裏を蹴った。
男の片脚が落ちる。
首へ左腕を回す。
絞めない。
立てない角度へ引くだけだった。
男は刃を逆手へ持ち替えた。
自分の肩越しに突く。
直樹は腕を離す。
刃が頬をかすめる。
男は立った。
「止めろ」
「止めている」
「違う」
男が右側から入る。
「俺を残すな」
直樹は左肘を男の腕へ当てた。
肩を胸へ入れる。
男は壁を蹴り、直樹の身体を入れ替えた。
右腕を取り、機械台へ押しつける。
直樹の手が鉄へ挟まれた。
指が開く。
男は刃を直樹へ向けない。
作業口へ目を動かした。
*
ミーシャは負傷者を外壁の陰へ座らせた。
右足首の固定を確認する。
骨は皮膚を破っていない。
水筒を手の届く位置へ置く。
ロシア語で指示する。
「ここから動かないで」
建物の中で、身体が壁へ当たる音がした。
金属が落ちる。
拳銃を抜く。
作業口へ入った。
直樹と男が重なっている。
撃てない。
男が直樹の右腕を機械台へ押しつけている。
直樹の顔が痛みで歪む。
ミーシャは拳銃を収めた。
拘束帯を左手へ持つ。
壁沿いに移動する。
「NAO、一秒ください」
「撃つな」
「撃ちません」
直樹が左肘を男の顎へ入れた。
男の頭が動く。
ミーシャが死角へ入る。
拘束帯を男の右腕へ掛けた。
男は振り返らない。
直樹の目を見ていた。
直樹の視線が、一度だけミーシャへ動く。
男はそれで位置を知った。
身体を沈める。
拘束帯を外す。
刃を後ろへ走らせた。
ミーシャの腹へ向かう。
止める動きではない。
深く入れる軌道だった。
ミーシャは腰を引いた。
上着が裂ける。
腹の皮膚へ熱が走る。
刃が返る。
次は喉。
「下がれ!」
直樹が二人の間へ入った。
左前腕で男の腕を外へ押す。
刃が袖を裂く。
肩でミーシャを後ろへ押した。
「頼んでいません」
「黙れ」
「右側が空いています」
「分かってる」
男が直樹の右へ入る。
直樹は左足で追う。
男はさらに位置を変えた。
三人が作業棟の中央へ集まる。
近すぎて拳銃は使えない。
拘束帯も掛けられない。
正面の出口は男の後ろ。
右は排水溝。
左は崩れた壁。
簡単な選択肢が消えていく。
「外へ出ろ」
直樹が言った。
「一人では無理です」
「負傷者を連れて下がれ」
「あなたの右が続きません」
「見れば分かる。下がれ」
ミーシャは動かない。
男の目が、二人の間を往復した。
「今度は置いていかないのか」
「こいつは関係ない」
「隣にいる」
「今だけだ」
「俺の時も、そう言えばよかった」
男がミーシャへ向かった。
直樹が肩から入る。
男はそれを待っていた。
直樹の左肩を外へ流す。
右腕を取り、再び機械台へ押しつける。
直樹の右手に痛みが走る。
男の刃がミーシャへ向く。
ミーシャは刃を持つ腕の内側へ入った。
肘を押す。
男の左手がミーシャの喉をつかむ。
壁へ叩きつけた。
後頭部がコンクリートへ当たる。
視界が白く揺れる。
男は手を離さない。
刃を下から上げる。
直樹は右手を機械台から抜いた。
指は動かない。
左手で男の肩をつかむ。
引く。
男はミーシャを離さない。
直樹は左肘を男の顎へ入れた。
一発。
頭が横へ動く。
まだ離さない。
二発目。
喉をつかむ指が緩む。
ミーシャが身体を沈めた。
刃が髪を切る。
直樹は男の腰を蹴った。
三人が離れる。
ミーシャは壁へ手をついた。
呼吸を戻す。
男は刃を構えたまま立っている。
口から血が落ちる。
左目の下が腫れていた。
息も浅い。
それでも、足は止まっていない。
「他の奴にやらせるな」
男が言った。
「何を」
「俺を終わらせることだ」
「終わらせに来たんじゃない」
「なら帰れ」
「一緒に戻る」
「どこへ」
男が笑った。
息が混じる。
「学校か」
「違う」
「部隊か」
「違う」
「記録の中か」
「違う」
「ならどこだ」
直樹は答えられなかった。
その沈黙が、男の答えになった。
笑いが消える。
「ほらな」
男が踏み込んだ。
*
最初の刃を、直樹は左へ外した。
二撃目も。
三撃目は避けなかった。
左前腕を男の腕へ当てる。
肩を胸へ入れる。
男を壁へ押した。
男は壁を蹴る。
二人で床へ転がった。
刃が直樹の耳の横へ刺さる。
直樹は左手で男の喉を押す。
男は直樹の右手首をつかんだ。
刃の柄へ押しつける。
「取れ」
「離せ」
「昔みたいに止めろ」
「今はしない」
「俺にはしろ!」
男の膝が腹へ入る。
直樹の呼吸が消える。
男が上へ乗った。
刃を逆手へ持ち替える。
直樹の胸へ落とす。
直樹は左手で前腕を押した。
切っ先が胸の上で止まる。
男は両手で柄を押す。
少しずつ下がる。
直樹は右手を上げた。
男の手首をつかむ。
指を閉じる。
一秒。
刃が止まる。
二秒。
右手から力が抜ける。
切っ先が服へ入った。
直樹は腰を跳ね上げる。
男の身体が前へ崩れる。
左肘を顎へ入れた。
男が横へ落ちる。
直樹も起き上がる。
男は先に刃を拾った。
直樹は右へ動けない。
左へ出る。
男はそこへ刃を置いていた。
切っ先が直樹の脇腹を裂いた。
熱が走る。
血が上着の内側へ広がる。
「NAO!」
「来るな!」
ミーシャは止まらない。
男の背後へ回る。
直樹がそれを見る。
男も直樹の目を見る。
振り向かずに刃を後ろへ突いた。
ミーシャは左腕で受けた。
刃が上着を貫き、前腕へ入る。
ミーシャの指から拘束帯が落ちた。
男が刃を抜く。
血が袖を伝う。
次の切っ先は、ミーシャの胸へ向いた。
ミーシャは負傷した左腕を下げ、右手を拳銃へ伸ばす。
近すぎる。
抜く前に刺される。
直樹の足元に、短い刃が落ちていた。
錆びた工具棚から落ちた作業用の刃だった。
右手では取れない。
左足で柄を踏む。
刃を起こす。
左手で取った。
男がミーシャへ踏み込む。
避ければ、刃はミーシャへ届く。
右手では止められない。
拘束する時間もない。
選べる場所は一つしか残っていなかった。
直樹は左足を踏み込んだ。
自分の意思で刃を入れた。
刃が男の左脇腹、肋骨の下へ深く入る。
手の中へ硬い抵抗が返った。
男も止まらなかった。
身体を前へ押し込む。
男の刃は、ミーシャの胸の手前で止まった。
二人の動きが消える。
直樹は刃から手を離さなかった。
男が直樹を見る。
痛みではない。
確認する目だった。
これを待っていた。
直樹には分かった。
「お前」
男の口元が動く。
残っていた力を、攻撃へ使わなかった。
刃を握る指を開く。
武器が床へ落ちた。
男は抵抗をやめた。
*
男の身体が直樹へ倒れた。
直樹は左腕で受けた。
重い。
右手は動かない。
二人で床へ膝をつく。
直樹の脇腹からも血が落ちる。
上腕の傷が服へ張りつく。
顎から首へ血が流れていた。
ミーシャが近づく。
左前腕から血が落ちている。
「離して」
「まだ動く」
「抵抗を止めました」
「分からない」
「見れば分かります」
「黙れ」
男の手が直樹の上着をつかんだ。
弱い。
それでも離さない。
ミーシャは自分の左腕へ止血帯を巻く。
右手と歯で締める。
次に男の傷へ止血材を当てた。
「刃は抜きません」
「そのまま固定しろ」
「搬出を要請します」
「負傷者も一緒だ」
「分かっています」
ミーシャが右手で通信機を開く。
直樹は男の背中へ左腕を回した。
右手では支えられない。
自分だけでは運べない。
「お前を置いた」
男の呼吸が浅くなる。
「一人で帰れと言って、帰る場所を作らなかった」
男の指が、直樹の服を引いた。
直樹は男の顔を見る。
「悪かった」
男の目が開く。
怒ってはいなかった。
許してもいなかった。
ただ、四年前に聞くはずだった言葉が、本当に自分へ向けられたものかを確かめていた。
唇が動く。
「それを、四年前に言え」




