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第百三十七話 追ってこい

## 第百三十七話 追ってこい


 直樹は水へ入った。


 最初の石へ左足を置く。


 表面に薄い藻が張っている。


 体重を預ける前に、靴底を小さく動かした。


 滑らない。


 二歩目へ進む。


 右手は使わない。


 小銃の負い紐を左前腕へ掛け、身体の近くへ寄せている。


 ミーシャが一歩後ろから続いた。


「右の石は動きます」


「見えている」


「今、踏もうとしました」


「踏んでいない」


「踏む前に言いました」


「黙って足元を見ろ」


 直樹は左側の石へ移った。


 水は膝より低い。


 流れも強くない。


 それでも、水底には足跡が残らない。


 対岸へ近づく。


 最後の石だけ間が広かった。


 直樹は左手を岩へ置く。


 身体を引き上げる。


 右手が一度、岩へ触れた。


 指が閉じる。


 すぐに離れた。


 ミーシャが背後から負い紐へ手を伸ばす。


「触るな」


「落ちる前です」


「落ちていない」


「右が外れました」


「見れば分かる」


 直樹は左脚で身体を持ち上げた。


 対岸へ立つ。


 ミーシャも続いた。


 差し出された手は使わない。


「補助を拒否しましたね」


「お前に言われたくない」


 二人は水際を離れた。


     *


 足跡は沢沿いへ続いていた。


 一人は歩幅が狭い。


 右足を置く位置だけ、土が浅く崩れている。


 もう一人が横から支えている。


 直樹は速度を上げなかった。


 歩幅。


 土の乾き。


 草の戻り。


 一つずつ確認する。


 ミーシャは十メートル右へ離れた。


 樹皮。


 低い枝。


 布の繊維。


 行方不明者が触れた物を探している。


「止まって」


 ミーシャの声がした。


 直樹が止まる。


「命令するな」


「右に痕跡があります」


「なら最初からそう言え」


 二人は斜面へ寄った。


 黒い布が枝へ掛かっている。


 行方不明者の装備と同じ素材だった。


 裂けた端は新しい。


 その先に二人分の足跡がある。


 尾根へ上がっていた。


「沢を離れています」


 ミーシャが言った。


「見せているだけかもしれない」


「確認します」


「待て」


 直樹は沢沿いの土を見る。


 直進した跡も残っていた。


 同じ靴底。


 同じ歩幅。


 尾根にも沢にも、二人分の痕跡がある。


「また二本です」


「時間をずらして作っている」


「どちらが新しいですか」


「乾き方が同じだ」


「水を掛けた可能性は」


「ある」


「踏み直した可能性も」


「ある」


「判断は」


 直樹は二つの線を見る。


「沢だ」


「根拠は」


「負傷者がいる」


「尾根の方が乾いています」


「水が必要だ」


「追跡者もそう考えます」


「だから尾根へ行くのか」


「それも読まれています」


 直樹は沢側へ足を向けた。


「面倒な奴だ」


「あなたを知っている相手です」


「まだ決めていない」


 ミーシャが右の斜面へ戻る。


「沢を選んだ理由を追加します」


「必要ない」


「帰路で検証できます」


「勝手にしろ」


     *


 二十分進んだ。


 足跡は途切れない。


 だが、距離は縮まらなかった。


 新しいはずの泥が、どこまで進んでも同じ乾き方をしている。


 直樹が止まった。


 前方に倒木がある。


 二人分の足跡が、その下を通っていた。


 倒木を越えた先で一人分になる。


 さらに進む。


 五十メートル先で、その一人分も消えた。


 岩場だった。


 右にも左にも、折れた枝はない。


 苔も荒れていない。


 登った跡も、下りた跡もなかった。


「ここで終わっています」


 ミーシャが言う。


「ここで終わるわけがない」


「痕跡はありません」


「作った足だ」


「最初から?」


「途中からだ」


 直樹は引き返した。


「どこへ」


「倒木」


 ミーシャも続く。


 倒木の手前まで戻る。


 直樹は足跡を横から見た。


 深さが一定だった。


 負傷者の右足も。


 支える男の左足も。


 斜面でも平地でも変わらない。


「荷重がありません」


 ミーシャが言った。


「靴だけで押した」


「二足分を持っていた」


「行方不明者の靴を使った」


「本人は別の場所で外れています」


「もっと前だ」


 直樹は周囲を見る。


 起き上がった草。


 乾いた根。


 風で落ちた葉。


 読ませるための線だけが、岩場まで続いていた。


「尾根へ戻りますか」


「遅い」


「では分岐へ」


「そこも空だ」


「確認していません」


「確認させるための場所だ」


「追跡をやめますか」


「戻る」


「どこへ」


「休んだ場所だ」


 ミーシャの目が動いた。


「前へ行かない?」


「俺たちが足を追っている間に、向こうは後ろを見ている」


 直樹は来た道を戻り始めた。


     *


 大庭は谷の入口へ双眼鏡を向けていた。


 東側の車両は三台。


 待機線から前進したが、まだ境界へ入っていない。


 エンジンを切らずに並んでいる。


「圧を掛けてきたな」


 双眼鏡を下ろす。


 右脇腹が痛んだ。


 身体をひねらず、通信を開く。


「真柴。東は三台で停止。期限は守ってる」


『分かった』


「そっちは」


『足が消えた』


「見失ったか」


『最初から、そこにはいなかった』


 大庭の鉛筆が止まる。


「作った跡か」


『ああ』


「今どこだ」


『戻ってる』


「帰還か」


『違う。休憩地点だ』


 大庭は地図を見る。


 直樹たちが一度止まった場所。


 木の根元。


 血痕。


 小石の印。


「後ろへ回られたか」


『たぶんな』


「二人で追って抜かれた?」


『足を見せられた』


 ミーシャの声が入った。


『大庭。十九時の通信準備をしてください』


「もうしてる」


『帰還時刻を変更します』


「本人の口から聞く」


『面倒ですね』


「お前らに言われたくない」


 直樹の声が戻る。


『二十時四十分に変える』


「十九時の連絡は」


『する』


「場所は」


『休憩地点から中継できるか』


 大庭は車両の中継出力を確認した。


「音声一本なら通せる。映像は無理だ」


『音声でいい』


「十八時五十八分に開く」


『頼む』


「珍しく素直だな」


『黙ってやれ』


「了解」


 大庭は通信を切った。


 地図の十八時五十分へ線を引く。


 横に二十時四十分と書く。


 その下に、十九時通信。


「帰る方の時計か」


 脇腹を押さえた。


「ちゃんと動いてるじゃないか」


     *


 休憩地点は、最初に見た時と同じ形をしていた。


 木の根。


 乾きかけた血。


 直樹が置いた小石。


 ミーシャが撮影した苔。


 何も変わっていないように見える。


 直樹は近づかなかった。


「止まれ」


 ミーシャが足を止める。


 直樹は五メートル手前から見る。


 小石の向き。


 置いた時より、尖った側が右へ向いていた。


「触られてる」


「石ですか」


「それだけじゃない」


 血の横へ、細い草が一本置かれていた。


 先ほどはなかった。


 草の先端は、直樹たちが進んだ方向ではない。


 戻ってきた方向を指している。


 ミーシャがしゃがもうとする。


「入るな」


「足跡を確認します」


「俺たちの跡へ重ねてる」


 直樹は外周へ回った。


 休憩地点へ残した自分たちの靴跡。


 その上に、別の足が正確に重なっている。


 大きさは近い。


 踵もつま先も、直樹の跡から外れていない。


 途中で一度だけ、土が横へ押されていた。


 そこで立ち止まっている。


 直樹が触れた木の根を見た。


 さらに二歩。


 ミーシャが端末を向けた位置へ立っている。


「俺たちの動きをなぞった」


「何を見たと思いますか」


「全部だ」


「右手も」


 直樹は答えなかった。


 木の根には、手袋の跡がある。


 左手を置いた深い跡。


 右は、掌の下だけが薄く触れていた。


 指先の跡がない。


 立ち上がる時に残したものだった。


 見れば分かる。


 直樹を知っている人間なら、もっと分かる。


「身体の使い方も見られました」


 ミーシャが言う。


「ああ」


「右の制限は」


「見せた」


「意図したことではありません」


「結果は同じだ」


 直樹は草の向きを見る。


 戻れ、ではない。


 こちらへ来たことを確認した印だった。


 追跡者が一度離れ、また同じ場所へ戻ることまで読まれていた。


「向こうは俺たちを見ていた」


「今も?」


「見てる」


「どこから」


「分からない」


 ミーシャが周囲を見る。


 木々。


 斜面。


 倒木。


 人影はない。


 直樹は小石の横へ目を落とした。


 土に二本の細い線がある。


 平行。


 その先に、斜めの一本。


 昔、訓練中に使った簡単な指示だった。


 線を追え。


 直樹は靴の先で土をならした。


「意味は」


 ミーシャが聞く。


「追ってこい」


「誘導です」


「分かってる」


「行きますか」


「行く」


「罠です」


「それも分かってる」


「なぜ」


 直樹は森の奥を見る。


「話す気がある」


「殺す気もあるかもしれません」


「両方だろ」


     *


 斜面の上に、男が一人いた。


 距離がある。


 二人の声までは届かない。


 真柴直樹が土の線を消した。


 意味は読んだ。


 昔と同じだった。


 違うのは、身体だった。


 沢を渡る時。


 右手で岩をつかんだ。


 すぐに外した。


 休憩地点。


 立ち上がる時、左手へ体重を預けた。


 右は掌を置いただけだった。


 移動中も、小銃の位置を直すのは左。


 木を避ける時も、右肩を引き、左前腕を先に出す。


 右を隠しているわけではない。


 使わない形を選んでいるわけでもない。


 一度なら使える。


 そのあとが続かない。


 男の指が湿った土へ沈んだ。


「使わないのではない」


 声は小さかった。


「続けて使えない」


 真柴を知っているから分かった。


 以前なら、右で一人を残し、左で次を取った。


 今は、右で止めたあとの動きがない。


 だから戦い方を変えた。


 一人を長く持たない。


 短い打撃で、追えない状態を作る。


 次の相手へ移る。


 真柴の横にいる女が周囲を見ている。


 自分の位置までは読めていない。


 だが、先ほどより近い。


 男は斜面を下がった。


 次は、右を使わせる。


     *


 午後六時五十八分。


 大庭が中継回線を開いた。


「久留米、聞こえるか」


 雑音が入る。


 数秒後、えりの声が返った。


『聞こえます』


「音声だけ。三分が限界」


『直樹さんは』


「つなぐ」


 大庭は直樹の回線を中継へ重ねた。


「真柴。開いた」


『分かった』


 一秒、間があった。


 直樹の声が変わる。


「めぐみ」


『なお』


 細い声だった。


 以前より明瞭になっている。


 一語のあとに、短い呼吸が入る。


「聞こえるか」


『聞こえる』


「戻る時刻を変える」


『何時』


「二十時四十分」


『怪我は』


「増えてない」


 ミーシャが直樹を見る。


 嘘ではない。


 頬の腫れも右手の制限も、連絡前からあった。


『危ない?』


「危ない」


 直樹は迷わず答えた。


「でも戻る」


『一人で?』


「ミーシャといる」


『ミーシャさん?』


「前に一緒に仕事をした奴だ」


『一緒にいるの?』


「ああ」


 大庭は送話を切ったまま地図を見る。


 今は口を挟まない。


 使うなら後だ。


『なお』


「何だ」


『ちゃんと帰ってきて』


「ああ」


『ミーシャさんも』


 直樹はミーシャを見る。


「聞こえたか」


「聞こえました」


 ミーシャが日本語で答えた。


「帰還予定は二名です」


 回線の向こうで、めぐみが息を吸った。


『お願いします』


「約束しました」


 直樹がミーシャを見る。


「最初からそう言え」


「同じ意味です」


「違う」


 二人の間に、短い沈黙が入る。


 直樹が回線へ戻る。


「二十時四十分に戻る。遅れるなら、その前に伝える」


『待ってる』


「分かった」


 大庭が時刻を見る。


「残り三十秒」


 えりの声が入った。


『直樹さん』


「何ですか」


 めぐみへ向けた声より少し硬くなる。


『次の通信が切れた場合、こちらは移動準備へ入ります』


「どこへ」


『富士川です』


「来る必要はない」


『あなたが決めることではありません』


 直樹は黙った。


『めぐみ本人へ確認します』


「危険です」


『だから確認します』


 回線が揺れた。


 大庭が言う。


「切れる」


『なお』


 めぐみの声。


「いる」


『また、あとで』


「ああ」


 通信が切れた。


     *


 久留米の部屋で、えりは端末を閉じた。


 めぐみは椅子から立った。


 自分の足だけで立つ。


 壁へ手をつかない。


「行く」


 声は少しかすれていた。


 それでも、言葉は途切れない。


 えりはすぐに答えなかった。


「見送りではないよ」


「分かってる」


「現場へは入れない」


「分かってる」


「会える保証もない」


 めぐみは頷いた。


「それでも?」


「近くで待つ」


 えりは端末を開き直した。


 移動許可。


 医療情報の分離。


 同行者。


 受け入れ先。


 経路。


 富士川側の連絡先。


 一つずつ確認する。


「薬を二日分」


「うん」


「喉の加湿器」


「持つ」


「記録板は」


 めぐみは少し考えた。


「持っていく」


「使わなくても?」


「持っていく」


 えりは頷いた。


「準備しよう」


 めぐみは棚から小さな鞄を出した。


 薬。


 充電器。


 水。


 記録板。


 直樹から戻された紙。


 一つずつ入れる。


 最後に、声を出す前から使っていた鉛筆を入れた。


     *


 森では、直樹が通信機を戻していた。


 ミーシャが横へ立つ。


 肩が触れる距離だった。


「来る必要はない、と言いました」


「聞いてたのか」


「同じ回線です」


「忘れろ」


「記録しません」


「頭からも消せ」


「無理です」


 直樹は小銃の負い紐を左手で直した。


「行くぞ」


「どこへ」


 ミーシャが、消された土の線を見る。


「追ってこい、だ」


「従うのですか」


「違う」


 直樹は、土の線が示した方角とは別の場所へ足を置いた。


 枝を一本だけ押し下げる。


 元へ戻りきらない角度で残した。


 次に、濡れた土へ左足を深く置く。


 読ませるための足だった。


「何をしていますか」


「向こうは、俺の足を読んでる」


「だから残す?」


「ああ」


「誘導し返すのですね」


「説明させるな」


 直樹は別の枝へ触れた。


 今度は折らない。


 進んだ方向だけが分かるよう、葉の裏を表へ返す。


 森の奥へ歩き始める。


「向こうに、俺を追わせる」


 ミーシャは土の線を一度見た。


 直樹の右側へ入る。


 二人の足音は、再び別の線へ分かれた。


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