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第百三十六話 同じ男を追う 改正版

## 第百三十六話 同じ男を追う


 足跡は、森の中央へ続いていた。


 直樹はその上を歩かない。


 靴底の外側。


 崩れた土。


 まだ起き上がっていない草。


 残された形の横を進む。


 十五メートル右では、ミーシャが斜面を上がっていた。


 二人の間に低い灌木が重なる。


 姿は見えない。


 枝へ衣服が触れる音だけが、同じ速度で進んでいる。


 直樹が止まった。


 三秒遅れて、右側の足音も止まる。


「見えたか」


「何が」


「俺が止まった理由だ」


「あなたが止まったから、私も止まりました」


「それでは遅い。前を見ろ」


「見ています」


 直樹はしゃがんだ。


 泥に踵だけが残っている。


 つま先がない。


 前へ進んだ足ではなかった。


 一度置いて、後ろへ戻している。


 その先に細い獣道がある。


 入口だけを見せるための足だった。


「中央は捨てる」


 ミーシャの声が右から返る。


「理由は」


「踵しかない。体重も乗っていない」


「では、こちらです」


「勝手に入るな」


「別の線を使うと決めました」


「先に死ねとは言っていない」


 灌木の向こうで、音が止まった。


「今のは心配ですか」


「手が減ると困る」


「分かりやすい言い方を避けましたね」


「黙って見ろ」


 直樹は中央の足跡を残し、右へ寄った。


 ミーシャの線には入らない。


 二人の距離を十メートルまで縮める。


 斜面の土に、細い擦れがあった。


 靴ではない。


 硬い物を引いた跡。


 幅は手のひらほどだった。


「端末か」


「可能性があります」


 ミーシャが黒い繊維を見つけた。


 素手では触れない。


 細い金属棒で持ち上げる。


「保持索です」


「切れたか」


「切っています」


 繊維の端は潰れていない。


 斜めに落とされている。


「持ち主から外した」


「行方不明者から」


「まだ生きている可能性が上がったな」


「なぜですか」


「死体なら紐ごと取れる」


「抵抗したため切った」


「たぶんな」


「推測です」


「いちいち言うな」


 直樹は斜面の上を見る。


 木の根。


 乾いた苔。


 擦れた樹皮。


 人間一人を引きずった跡ではない。


 誰かを支えながら歩いた跡だった。


「右へ寄りかかっている」


 ミーシャが先に言った。


「完全には歩けない」


「右足に問題があります」


「見えているだろ」


「前を見ています」


「そのまま見ろ」


     *


 大庭は管理道路の分岐脇で、双眼鏡を下ろした。


 東側の谷に動きはない。


 ロシア側の車両も、まだ境界へ入っていなかった。


 重傷者を乗せた自衛隊側の車両が後退する。


「一号車、左を十センチ」


『見えません』


「俺には見える。下がれ」


 左輪が石を避ける。


「そのまま。分岐を塞ぐな」


『了解』


 通信を切る。


 息を吸うと、右脇腹が痛んだ。


「女の拳より、味方の運転の方が怖えな」


 誰にも聞かれていない。


 大庭は双眼鏡を森へ戻した。


 木々が重なり、ほとんど見えない。


 直樹とミーシャが離れて動いていることは、通信と足音で分かっている。


 だが、姿は見えなかった。


 斜面が一度だけ切れた。


 暗い服が現れる。


 直樹だった。


 木の根元へ片膝をつく。


 すぐ右からミーシャが入った。


 同じ痕跡を見るため、直樹の肩越しへ顔を寄せる。


 二人の肩が触れた。


 直樹は避けない。


 ミーシャも離れない。


 枝が揺れた。


 二人の姿が消える。


「十五メートル離れてるんじゃなかったのか」


 返事はない。


 送話は切っている。


 次に見えた時には、二人が同時に立っていた。


 直樹の左肩と、ミーシャの右肩が当たる。


 互いを見ない。


 そのまま別の方向へ分かれ、木々の奥へ消えた。


「見える時だけ近えって、どういう地形だよ」


 大庭は地図へ目を落とした。


 十八時五十分。


 二名帰還。


 その下に、小さく一名追加予定。


 監視端末の画面を一度切り替える。


 以前使っていた店の履歴が残っていた。


 フランス系。


 大庭は削除した。


 検索欄へ指を置く。


 ロシア系。


「なるほど。マッシーは、そっち系が好み、と」


 一件だけ保存する。


 すぐ監視画面へ戻した。


「次は俺も戦場を合わせるか」


 脇腹へ手を当てる。


「本人は自分の好みに死ぬまで気づかなそうだけどな」


 双眼鏡を東側へ戻した。


     *


 直樹は片膝をついた。


 土の上に血が一滴ある。


 黒く乾き始めていた。


 その先に二滴目はない。


「行方不明者のものですか」


「分からない」


「量が少ない」


「鼻か、口か、浅い傷だ」


 血の位置は低かった。


 歩きながら落ちたのではない。


 一度、膝をついている。


 近くの土が二か所へこんでいた。


 片方だけ深い。


「座らせた」


 直樹が言う。


「休ませた」


「長くはない」


「なぜ」


「苔が戻っていない」


 ミーシャが端末を向ける。


 直樹が手で下げた。


「光を出すな」


「赤外線です」


「向こうが見ていれば同じだ」


「記録が必要です」


「帰りに撮れ」


「位置が変わります」


「では覚えろ」


「頭だけの記録は嫌いです」


「俺はお前の端末が嫌いだ」


「壊しません」


「奪われる」


「奪わせません」


「さっき三人から一台消えている」


「私はその三人ではありません」


「知っている。いちいち言うな」


 直樹は木の根元へ、小さな石を一つ置いた。


 自然に転がった形ではない。


 帰路側からだけ見える角度にする。


「撮るなら一秒」


 ミーシャが端末を上げる。


 一枚。


 すぐに消した。


「説明しましたね」


「うるさい」


 二人は同時に立った。


 肩が触れる。


 直樹は避けない。


 ミーシャも離れなかった。


 前方の木々が狭い。


 一人ずつでは死角が増える。


「俺が先に行く」


「右は私が見ます」


「左は俺」


「後ろは交互」


「三歩ごとだ」


「五歩でいいです」


「長い」


「今のあなたなら三歩で十分です」


「勝手に評価するな」


「もうしました」


 直樹が前へ出る。


 ミーシャが半歩後ろへ入った。


 直樹の右肩の外。


 近い。


 だが、小銃にも右手にも触れない位置だった。


     *


 倒木の向こうに、男が一人伏せていた。


 近づいてくる二つの音を聞く。


 一つは知っている。


 枝を踏まない。


 濡れた土へ踵から入らない。


 止まる時は、呼吸より先に肩が止まる。


 もう一つは知らない。


 軽い。


 だが、素人ではない。


 足の置き場を探していない。


 最初から、自分が通る線を決めている。


 二人は並んでいなかった。


 同じ痕跡も踏んでいない。


 それでも、一方が止まれば、少し遅れてもう一方も止まる。


 片方が地面を見る間、もう片方が周囲を見る。


 真柴直樹は一人ではなかった。


 遠くにいる観測手とも違う。


 すぐ近くに、別の誰かを置いている。


 男は倒木の内側へ指を置いた。


 土は冷たい。


 新しい足音は右側から来ている。


 距離は分からない。


 正確な位置も読めない。


 ただ、真柴が隣を空けたまま来なかったことだけは分かった。


 喉の奥が動く。


 笑いにはならない。


「今度は、置いてこなかったのか」


 声は土へ吸われた。


 木の根元には、ロシア側の男が座っている。


 両手は前にある。


 縛ってはいない。


 右足首だけを、裂いた布で固定していた。


 ロシア側の男が何かを言う。


 言葉は分からない。


 水筒を差し出す。


 受け取らない。


 蓋を開け、手が届く地面へ置いた。


「飲むかどうかは勝手にしろ」


 通じていない。


 それでも言った。


 個人端末は、すでに分解してある。


 電源部。


 記録部。


 位置発信部。


 避難経路だけを抜いた。


 残りは布へ包んでいる。


 殺す必要はなかった。


 持ち帰らせる物がある。


 男は負傷者を立たせた。


 右肩を貸す。


 正面の細い尾根へ進む。


 背後で、三度だけ小さな音が鳴った。


 鳥ではない。


 二人の間で交わされた合図だった。


 男は振り返らなかった。


     *


 ミーシャが舌を三度鳴らした。


 直樹が止まる。


 斜面から手だけが見えた。


 指が二本。


 二人。


 次に、一本が下を向く。


 一人は歩行が難しい。


 直樹は左手を上げた。


 了解。


 ミーシャが灌木を抜ける。


 二人の距離が縮まった。


「見たのか」


「跡です」


「二人」


「一人が右側へ荷重を預けています」


「足首を負傷している」


「骨折とは限りません」


「固定した布の跡がある」


「そこまで見えましたか」


「お前より前から追っている」


「年齢の話ですか」


「違う」


「怒りました?」


「黙れ」


 直樹は木の根元を見る。


 新しい水滴がある。


 円形。


 水筒の蓋から落ちた跡だった。


 その横に、靴跡が二つ残っている。


 一方は先を行く男。


 もう一方はロシア側の行方不明者。


 つま先は、逃げる方向を向いていない。


 二人とも同じ方向だった。


「引きずっていない」


 ミーシャが言う。


「ああ」


「脅されて歩いている可能性は」


「分からない」


「拘束痕は」


「ここにはない」


「武器は」


「行方不明者は持っていない」


 ミーシャが周囲を見る。


「生きています」


「ここまではな」


「報告できます」


「位置がない」


「生存可能性は上げられます」


「報復は止まるか」


「延期の材料にはなります」


「なら送れ」


「確定前です」


「確定してからでは遅い」


 ミーシャは一秒だけ直樹を見る。


 端末を開いた。


「送ります」


「最初からやれ」


「あなたは説明が増えたのに、待つ時間は減りましたね」


「口を動かす前に手を動かせ」


     *


 直樹は時計を見る。


 午後六時九分。


 帰還まで四十一分。


 先を行く男は、負傷者を連れている。


 速くは進めない。


 だが、足跡は再び二つへ分かれていた。


 一方は尾根。


 もう一方は沢へ下りている。


 どちらにも同じ靴底がある。


「また読ませる気だ」


「両方とも同じ人間です」


「時間をずらして歩いている」


「現在の線は」


「まだ分からない」


「止まって確認しますか」


「時間がない」


「なら分かれます」


「一人で行くな」


「別線を使うと決めました」


「見える距離にいろ」


 ミーシャが直樹を見る。


「命令ですか」


「共同捜索の条件だ」


「距離は」


「十メートル」


「近いです」


「十五で見失った」


「あなたが遅い」


「殴るぞ」


「右ですか。左ですか」


 直樹の目が細くなる。


「左で十分だ」


「では十メートル」


 ミーシャは沢側へ向かう。


 直樹は尾根側へ入った。


 二人の間に木々が重なる。


     *


 大庭の受信機へ、三度の合図が入った。


 続いて直樹の声。


『行方不明者は生存の可能性が高い』


「歩いてるか」


『支えられている』


「先を行く奴にか」


『たぶん』


「殺す気はない」


『今のところはな』


 ミーシャの声が入る。


『個人端末から、避難経路だけを抜いた可能性があります』


「報復側へ送れるか」


『生存可能性として送信しました』


「よし」


 大庭は東側へ双眼鏡を向けた。


 遠くでエンジン音が重なった。


 一台ではない。


 まだ境界へ入っていない。


 待機線から前進配置へ動いている。


「真柴」


『何だ』


「東で三台動いた」


『入ったか』


「まだだ。入口へ寄せてる」


『十八時五十分は変えない』


「変えろとは言ってない」


『戻る』


「そうしろ」


 ミーシャの声が重なる。


『NAO、沢側に新しい跡があります』


 大庭の鉛筆が止まった。


 また、その音だった。


 直樹は今度、訂正しなかった。


『何分前だ』


『十五分以内』


『そっちへ寄る』


『尾根は』


『捨てる。負傷者を連れているなら、水場から離れない』


『同意します』


 二人の声が途切れた。


 大庭は地図へ新しい線を引く。


 沢。


 帰還路。


 東側の車両。


 三本が一か所へ近づいている。


「ロシア系どころじゃねえな」


 保存した店の画面を思い出す。


「生きて帰ったら、ロシア系へ変更だ」


 双眼鏡を上げる。


 斜面の切れ目に、二人が一瞬だけ見えた。


 直樹が沢へ下りる。


 ミーシャが横から入り、直樹の腕へ届く距離まで寄る。


 肩が重なる。


 また木々の奥へ消えた。


「離れてる時は見えねえくせに」


 大庭は小さく言った。


「見える時だけ、くっついてやがる」


     *


 直樹は沢へ下りた。


 ミーシャが岩の陰にいる。


 近づくと、自分の横を半分空けた。


 直樹は迷わずそこへ入る。


 岩陰は狭い。


 肩が触れる。


 どちらも離れない。


 岩の向こうに水辺がある。


 中央だけが濁っていた。


「渡った」


 ミーシャが言う。


「二人だ」


「ほかには」


「俺たちを見ている奴が一人いる」


「あなたを知っている相手?」


「たぶんな」


「名前は」


「まだ出すな」


「通信が開いています」


『俺も聞いてる』


「閉じろ」


『断る。今だけお前らが見える』


 大庭は双眼鏡の焦点を合わせていた。


 木々の隙間に、岩陰の一部だけが見える。


 直樹とミーシャの上半身が重なっていた。


 ミーシャは直樹の肩越しに対岸を見ている。


『何を見つけた。主語をつけて報告しろ』


「水の濁りを見たのはミーシャだ。森にもう一人いると判断したのは俺」


『それなら分かる』


 ミーシャが直樹を見る。


「ほかには何を言っていますか」


「俺たちが近いと言っている」


 ミーシャは二人の肩を見る。


 服の布が触れていた。


「事実です」


「肯定するな」


『本人が認めたぞ』


「地形が狭いだけだ」


『俺から見える場所は、毎回狭いんだな』


「東を見ろ」


『見てる。まだ境界には入ってない』


 枝が戻る。


 大庭から二人が見えなくなった。


『また消えた』


「監視手が文句を言うな」


『見えたものを報告してんだよ』


「余計な物まで見るな」


『無理だ。目がいい』


 直樹は水辺へ視線を戻した。


     *


 対岸の石に、黒い布が挟まっていた。


 行方不明者の装備と同じ素材。


 その下に、細い傷が三本ある。


 縦に二本。


 横に一本。


 直樹が知る訓練用の印ではない。


 ミーシャがしゃがむ。


「ロシア側の救難記号です」


「意味は」


「負傷者一名。移動中」


「誰が刻んだ」


「行方不明者が刻んだ可能性が高い」


「根拠は」


「救難班で使う線です。手を使えたことも分かります」


「拘束されていない」


「少なくとも、刻んだ時点では」


「先を行く奴が刻ませた可能性は」


「あります」


「何のためだ」


「追ってくる側へ、生存を知らせるため」


 直樹は対岸を見る。


 足跡は水際で消えている。


 流れは浅い。


 石が多く、靴底の形は残らない。


「追ってこい、ということか」


「誰に」


「俺にだ」


 ミーシャが傷跡を撮影する。


 直樹も止めなかった。


「生存確認の材料になります」


「送れ」


「送ります」


 直樹は時計を見る。


 午後六時十四分。


 残り三十六分。


 対岸の森は暗い。


 人影はない。


 それでも、どこかから見られている。


 森の中にいる誰かは、直樹以外に同行者が一人いることへ気づいている。


 大庭ではないことも分かっている。


 だが、それが誰なのかまでは読めていない。


「行くぞ」


「どちらから」


「俺が先に渡る」


「滑ります」


「見れば分かる」


「右手は」


「使わない」


「落ちた場合は」


「拾え」


「人間を?」


「端末をだ」


「あなたは」


「自分で上がる」


 ミーシャは直樹の横へ立った。


 岩陰を出る前に、背中へ手を伸ばす。


 触れない。


 負い紐の位置だけを確認した。


「何だ」


「落ちた時に、どこを持つか見ました」


「勝手に確認するな」


「落ちてから探すより速いです」


「落ちない」


 直樹が水へ入る。


 ミーシャも続いた。


 二人の間は、一歩しか空いていない。


 同じ男を追う。


 同じ道は踏まない。


 それでも、水の中では同じ石を選んだ。


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