第百三十五話 思考する機械
## 第百三十五話 思考する機械
ミーシャが片手を上げた。
正面のロシア兵が止まる。
車上の小銃は、まだ直樹たちへ向いていた。
日本側の搬送班も武器を下ろしていない。
大庭の照準は、ミーシャの胸から動かなかった。
ミーシャはロシア語で命じた。
「銃口を三度下げて」
車上の銃口が少し落ちる。
地上の二人も合わせた。
武器は保持したまま。
直樹たちを撃てる角度だけを外した。
「大庭」
直樹が呼ぶ。
「聞こえてる」
「射線を外せ」
「そいつが動いたら戻す」
「ああ」
大庭の銃口が、ミーシャの胸から法面の土へ移った。
指は引き金の外にある。
頬から血が垂れていた。
左手で拭う。
右脇腹へ触れた。
深く息を吸う。
途中で痛みが刺した。
息は入る。
咳を一度する。
血の味はしない。
「折れてない」
誰にも聞かれていないのに言った。
ミーシャが大庭を見る。
「確認していません」
「自分の骨だ」
「本人申告は診断ではありません」
「歩ける。息もできる。診断は後ろに予約しとけ」
搬送班の医療担当が近づこうとした。
大庭は手を上げた。
「重傷者を先に運べ。俺は自衛隊側へ戻ってから診てもらう」
「内出血の可能性があります」
「その時は、酒を飲んでないのに腹が膨れたって報告する」
「大庭」
直樹が呼ぶ。
「お前は人を追え。俺の肋骨まで追跡するな」
大庭は法面へ手をついた。
身体を起こす。
足を引きずってはいない。
ただ、右側へ体重を乗せるたび、呼吸が短くなった。
地図を脇へ挟む。
小銃を肩へ戻す。
「女に殴られて後送なんて、酒場で一生笑われる」
一歩進む。
「酒場が残ってりゃの話だが」
管理道路の分岐脇へ向かった。
崩れた法面。
搬送車両の後部。
旧保守路の入口。
三つを同時に見られる位置だった。
高所ではない。
広い射線もない。
だが、車両を動かせる。
通信を受けられる。
直樹たちが戻る道も見える。
大庭はそこで地図を開いた。
「酒は飲める」
もう一度深く息を吸う。
痛みで途中に止まった。
「笑うのは無理」
骨伝導通信を耳へ押し直した。
「女に殴られた話は、黙ってりゃばれない」
地図へ鉛筆を置く。
「真柴が喋らなきゃな」
*
ミーシャが直樹へ向き直った。
「あなたから説明して、NAO」
「直樹だ」
「あとで直します」
「今、直せ」
「時間を使う話ではありません」
直樹は言い返さなかった。
「俺たちは一人を追って、ここへ入った」
「名前は」
「確定していない」
「推定は」
「ある」
「言わない理由は」
「間違えた名前で追えば、別の人間を対象にする」
ミーシャが一度まばたきをした。
「続けて」
「犬の声を聞いた。到着時には一名死亡、一名重傷、一名行方不明。俺たちは三人へ攻撃していない」
「私には攻撃した」
「大庭を追っていた」
「無力化していました」
「大庭には違う」
ミーシャの視線が分岐脇へ動く。
大庭は法面に背を預け、谷側の道路を双眼鏡で見ていた。
脇腹を片手で押さえている。
もう一方の手で監視班へ位置変更を指示していた。
「だから私をどかした」
「ああ」
「また、必要な位置から私を外しましたね」
「今回はアレクセイはいない」
「いました」
「どこに」
「あなたの動きの中に」
ミーシャは直樹の右手を見る。
拳を作っていない。
身体の近くへ置かれている。
「戦い方が変わりました」
「変えた」
「以前は、武器を外した」
「ああ」
「腕を取った。相手を引き込み、姿勢を固定した」
直樹は答えない。
「相手一人を長く管理した。最後の拘束を、後ろの人間へ残した」
「自衛官だった頃の動きだ」
「合わせにくかった」
直樹がミーシャを見る。
「そうか」
「あなたがどこまで制御したのか、見なければならなかった。
腕だけか。武器も外したか。立てるのか。まだ抵抗できるのか」
ミーシャは自分の左腕へ触れた。
先ほど直樹の前腕が当たった場所だった。
「今は違います」
「何が」
「短い」
ミーシャは直樹の足元を見る。
「攻撃範囲から外れる。肩で姿勢を崩す。肘で一歩を止める。膝で次の移動を遅らせる」
次に右手。
「長く持たない」
「持てない」
「右は」
「継続して使えない。左を主にする」
それ以上は説明しなかった。
ミーシャも診断名を聞かなかった。
「一人を完全に拘束しない」
「追えない状態にすれば、次へ移れる」
「行動不能になった位置が分かりやすい」
「お前には」
「合わせやすい」
ミーシャは淡々と言った。
「あなたが一人目を止めれば、私は二人目へ入れる。あなたが射線から人間を外せば、私は搬出へ移れる」
「記録も」
「あとです」
「お前にしては珍しい」
「生きている人間が先です」
ミーシャは数秒、直樹を見た。
「接近戦だけなら、以前より速い」
「手間を省いている」
「無駄を削っています」
「褒めているのか」
「評価です」
ミーシャは死者へ視線を移した。
「ただし、戦闘以外は遅くなりました」
「なぜ」
「名前を確認する。本人を見る。理由を聞く」
「必要だ」
「以前は条件を先に処理した」
「今は、条件の中に人間がいる」
「それを確認する時間が増えた」
「悪いか」
「戦闘では以前より合わせやすい」
ミーシャは言った。
「戦闘の外では、以前より予定が立てにくい」
直樹は返事をしなかった。
「でも」
ミーシャは続けた。
「説明しましたね」
「必要だった」
「以前も必要でした」
「あの時は任務に影響しなかった」
「私には影響しました」
直樹はミーシャを見る。
ミーシャは答えを待たなかった。
灰色の布が掛けられた死者へ向かった。
*
ミーシャは布をめくった。
顔。
頸部。
衣服。
上腕の標識。
順番に確認する。
識別票は外さない。
番号だけを端末へ入力した。
無線機の表示を開く。
最後の送信時刻。
受信記録。
接続先。
画面を撮影する。
無線機は元の位置へ戻した。
「所持品は」
分岐脇から大庭が聞いた。
「小銃。弾倉。水。医療包。班用無線」
「奪われた物は」
「個人端末がありません」
「三人目が持ってる可能性」
「確認します」
ミーシャは死者のポケットを外側から確かめた。
弾薬も金品も残っている。
布を戻した。
重傷者の担架へ向かう。
犬は別の車両へ移されていた。
男は目を開けている。
呼吸は速い。
ミーシャが男の名前を呼んだ。
瞳が動く。
「聞こえますか」
短い返事が返った。
ミーシャは記録端末を起動する。
「質問は五つです」
録音を始めた。
「襲った人数」
「一人」
「顔は」
「見ていない」
「銃声は」
「ない」
「三人目は」
男の呼吸が乱れた。
ミーシャは急かさなかった。
「排水管へ入った」
「その時、生きていましたか」
「声を聞いた」
「内容は」
「離せ、と」
「その後は」
「分からない」
男が唇を濡らした。
ミーシャは水を一口だけ与える。
「何を追っていましたか」
「足跡」
「誰の」
「道を知る人間」
「避難者が使う経路ですか」
男の目が直樹へ向く。
「端末に経路があった」
「端末は」
「三人目が持っていた」
「物資を奪われましたか」
「いいえ」
「端末だけが消えた」
男が頷いた。
ミーシャは録音を止める。
「証言はここまで」
「何が確定した」
直樹が聞いた。
「三人は避難経路の記録を追っていた」
ミーシャは端末へ入力する。
「攻撃者は武器、弾薬、物資を取っていない。経路記録の入った
端末だけが所在不明」
「三人を、避難者を連れ戻す側だと判断した可能性がある」
「推測として記録します」
「行方不明者は」
「排水管へ入った時点では生存していた可能性が高い」
「その後は」
「不明です」
ミーシャは新しい記録を開いた。
死亡一名。
重傷一名。
行方不明一名。
個人端末一台消失。
携行物資は残置。
避難経路記録のみ所在不明。
保存した。
「私の任務は五つです」
ミーシャが言う。
「死亡者の確認。重傷者の証言保全。行方不明者の搬出。攻撃者の識別。報復部隊進入前の事実確定」
「期限は」
「二十一時」
大庭の鉛筆が地図の上で止まった。
「あと三時間少し」
「それまでに私の報告が出なければ、部隊が入ります」
「誰の命令だ」
直樹が聞く。
「すでに出ている命令です」
「止められるか」
「報告で延期はできます」
「中止は」
「私一人では決められません」
「どこから入る」
大庭が地図を持ち上げた。
ミーシャは谷の東側を指す。
「東の管理道」
「車両数」
「六台。後方に燃料車一台」
「重火器は」
「私が出た時点では未確認」
「避難経路に重なる」
直樹が言った。
「はい」
「関係のない人間まで巻き込む」
「だから先に私が入りました」
ミーシャは直樹を見る。
「事実を確定するために」
「三人を襲った人間を見つける」
「行方不明者が先です」
「攻撃者が連れている可能性がある」
「あります」
「同じ方向だ」
「目的は違います」
「道は同じだ」
ミーシャは否定しなかった。
*
大庭は管理道路の分岐脇で、地図へ二本の線を引いた。
脇腹を押さえる。
東から入る管理道。
南へ抜ける排水線。
車両位置を一つずつずらす。
「一号車、あと十五メートル下げろ」
通信へ指示する。
『搬送中です』
「重傷者を積んだら下げろ。分岐を塞ぐな」
『了解』
「監視二班、旧保守路を見るな。谷の入口を見ろ」
『足跡は』
「足は真柴に任せろ。お前らが踏むな」
『了解』
大庭は無線を切った。
自分の脇腹へ手を当てる。
「痛い」
小さく言った。
地図へ視線を戻す。
「だが、女に殴られたより、仕事中に転んだ方が聞こえはいい」
谷の入口へ双眼鏡を向ける。
「転んでないけどな」
監視地点を一つ書き足した。
直樹とミーシャの帰還位置。
十八時五十分。
その下に十九時。
大庭は鉛筆の先で時刻を囲んだ。
*
直樹も時計を見る。
午後五時四十六分。
「十九時前に一度戻る」
ミーシャが時計を見る。
「捜索時間が減ります」
「十九時に連絡する約束がある」
「誰と」
「待っている人」
「任務より優先しますか」
「両方守る」
「不可能なら」
「先に伝える」
「そのために戻る」
「ああ」
ミーシャの視線が動いた。
「以前は戻る時刻を決めませんでした」
「今は決める」
「なぜ」
「帰る場所がある」
ミーシャは記録端末へ時刻を入力する。
「十八時五十分まで捜索」
「十九時に連絡」
「再進入は」
「十九時十分」
「最終撤収」
「二十時四十分」
「報復部隊まで二十分」
「行方不明者を運ぶ時間に使う」
「攻撃者は」
「話せる状態なら連れて戻る」
「拒否した場合は」
「本人から聞く」
「聞いても拒否したら」
直樹は森を見る。
「その時に決める」
「条件を先に決めない」
「本人を見ていない」
ミーシャは入力する指を止めた。
「接近戦では、判断が速くなった」
「必要のない制御を減らした」
「なのに、戦闘が終わると止まる」
「止まっているんじゃない」
「確認している」
「ああ」
「名前」
「必要だ」
「事情」
「必要だ」
「本人の意思」
「必要だ」
ミーシャは端末を閉じた。
「戦闘では、以前より合わせやすい」
「もう聞いた」
「人間の処理は、以前より合わせにくい」
「処理するな」
「だから合わせにくい」
ミーシャの表情は変わらなかった。
だが、声には拒絶がなかった。
「人数を確認します」
「二人」
「誰と誰」
「俺とミーシャ」
「私の同意を確認していません」
「行かないのか」
「行きます」
「なら二人だ」
「戻る人数は」
「二人」
「行方不明者が生きていれば」
「三人」
「攻撃者も生きていれば」
「四人」
「あなた自身を最初から数えました」
「入る人間だからだ」
ミーシャは直樹を見る。
「以前は、最後まで自分を書かなかった」
「今は戻る」
「誰のために」
「待っている人のためだ」
「それだけ」
直樹は少し黙った。
「一緒に入る人間を減らさないためでもある」
ミーシャは記録端末を開く。
捜索参加者。
真柴直樹。
ミーシャ。
帰還予定人数。
二名。
空欄を残さず保存した。
*
大庭が二人を呼んだ。
「地図を見ろ」
直樹とミーシャが分岐脇へ近づく。
大庭は立たなかった。
立てないのではない。
法面へ背を預けた方が、呼吸が安定していた。
「報復側は東から来る」
地図の右端を鉛筆で叩く。
「旧保守路は使うな。後輩に読まれてる」
「南の排水線」
直樹が言う。
「徒歩なら使える。搬送は二人必要だ」
「空けておけ」
「もう空けた」
大庭は自衛隊側の車両位置を示した。
「一号車は重傷者を運ぶ。二号車は死者と犬。三号車は空で残す」
「行方不明者用か」
ミーシャが聞く。
「増えて帰ってくる前提だ」
「攻撃者も」
「生きてりゃ乗せる」
「抵抗する可能性があります」
「その時は、お前と真柴で何とかしろ。俺は運転手に格闘させない」
大庭は直樹を見る。
「十九時前に戻る」
「ああ」
「遅れると分かったら」
「連絡する」
「本当に帰る気だな」
「帰る」
大庭は一度だけ頷いた。
「了解」
ミーシャが装備を確認する。
短銃。
小型端末。
止血材。
拘束帯。
証拠袋。
予備通信機。
「殺す道具より、持ち帰る道具が多いな」
大庭が言った。
「死亡者は証言しません」
「合理的だ」
「あなたは来ません」
「分かってる」
「近接戦闘に不向きです」
大庭の鉛筆が止まった。
「それは今日、十分証明した」
「射線は使えます」
「褒めてんのか」
「配置理由です」
大庭は地図の南側へ新しい印を付ける。
「俺はここに残る。車両。通信。外周。退路」
「役割を混ぜない」
ミーシャが言う。
「ああ」
「二度目は殴りません」
「必要がなければ、だろ」
「はい」
大庭はミーシャを見た。
「正直だな」
「説明が必要だと、NAOから学びました」
大庭の鉛筆が一度止まった。
顔は上げなかった。
めぐみが呼ぶ音と同じだった。
直樹は眉を動かした。
「直樹だ」
「今は捜索を始めます」
ミーシャは呼称を直さない。
大庭は何も言わなかった。
今使う話ではない。
だが、忘れる話でもなかった。
鉛筆を動かす。
帰還地点の横へ、小さな丸を一つ書いた。
*
後輩が残した足跡は、森の中央へ続いている。
「同じ足跡を追いますか」
ミーシャが聞く。
「俺は足を読む」
「私は通信と所持品を読む」
「並ぶか」
「並びません」
「理由は」
「あなたの隣は、もう読まれています」
ミーシャは森の右側を示す。
「十五メートル離れます。あなたの線は踏まない」
「見失う」
「合図を三回」
「二回でいい」
「二回は向こうも使う可能性があります」
「では三回」
ミーシャは右側の斜面へ向かった。
直樹は中央の足跡へ進む。
森へ入る直前、ミーシャが振り返った。
「十八時五十分に戻ります、NAO」
大庭の鉛筆が、また止まった。
今度も顔は上げない。
直樹だけが振り返る。
「直樹だ」
「練習中です」
ミーシャは先に木々の間へ入った。
直樹も足跡を追う。
同じ男を追う。
同じ道は踏まない。
後方で、大庭が通信を開いた。
「外周から見てる。勝手に消えるな、二人とも」
ミーシャが振り返らず答える。
「帰還予定は二名です」
大庭は地図へ目を落とした。
「増えて帰ってこい」
二人は別の線から、森へ入った。




