第百三十四話 顔より先に
## 第百三十四話 顔より先に
正面の男は来なかった。
二歩詰めた位置で腰を落とし、直樹の進路だけを塞いでいる。
直樹は男を見た。
銃口。
肩。
足。
どれも攻撃の始まりではない。
時間を使わせる立ち方だった。
背後で砂利が鳴った。
搬送班の靴音ではない。
車両から降りた者とも違う。
法面を下りた人間が、最後の一歩だけ地面へ置いた音だった。
「大庭、後ろ」
直樹が叫んだ。
返事より先に、鈍い衝突音がした。
*
大庭は振り向き切れなかった。
暗い影が、崩れた法面の陰から入る。
前腕が首へ向かった。
大庭は顎を引いた。
喉への直撃は外れる。
衝撃が右肩へ落ちた。
身体が搬送車両の側面へぶつかった。
息が詰まる。
襲撃者は女だった。
髪を後ろで短く束ねている。
暗い上着。
身体へ密着させた装備。
腰には短銃。
女は大庭の小銃を下から押し上げた。
銃口が空へ向く。
大庭は銃床を胸へ引いた。
奪われないようにするだけで精いっぱいだった。
女の膝が上がる。
大庭は腰を引いた。
膝が腹の前をかすめる。
続く掌底が頬へ入った。
視界が横へ流れた。
「大庭」
直樹の声が聞こえる。
「前を見ろ!」
大庭は叫んだ。
正面にはロシア側の車両がある。
車上に小銃手。
地上に二人。
日本側の搬送班も武器を上げている。
誰も撃っていない。
撃てないのではない。
撃てば何に当たるか、全員が分かっている。
大庭には射線が見えた。
車上の銃口は、法面の左を通っている。
地上の兵士は、大庭の右肩越しに女を見ている。
搬送班からは、大庭と女が重なっていた。
一歩、左へ下がる。
車上の射線から外れた。
地上の兵士からは見える。
女が距離を詰める。
二歩目を斜め後ろへ置いた。
女の身体が、地上のロシア兵の銃口を塞いだ。
撃てば、先に仲間へ当たる。
大庭は、その細い場所から外れなかった。
女の左拳が脇腹へ入る。
肺の空気が抜ける。
大庭は小銃を横にして受けた。
格闘では勝てない。
手首を取っても次へつなげられない。
腕を外しても、その次の拳が来る。
足を払えば、自分の方が先に崩れる。
見えるのは射線だけだった。
半歩ずれれば撃たれる。
反対へ動けば、味方が撃てなくなる。
どこにいれば、女が仲間の銃口を塞ぐか。
どこまで下がれば、直樹が撃たれずに入れるか。
女の肘が来た。
大庭は首を傾けた。
耳の後ろをかすめる。
足がもつれた。
右膝が地面へ触れる。
女の手が襟へ伸びる。
大庭は倒れなかった。
右足を外へ開く。
一歩目。
女の利き腕の外へ出る。
左肩を法面へ擦りながら、斜め後ろへ下がる。
二歩目。
搬送車両の後部を、女との間へ入れる。
女は止まらない。
車両を回り込む。
大庭は身体を横へ滑らせた。
三歩目を置く場所を空ける。
昔から変わらない逃げ方だった。
*
昔から、大庭は三歩で逃げた。
一歩目で腕の外へ出る。
二歩目で物を挟む。
三歩目で、直樹の入る場所を空ける。
近接訓練で負け続けて身についた、本人も意識していない足だった。
大庭の右足が開く。
一歩目。
搬送車両へ肩を寄せる。
二歩目。
女が車両を回る。
三歩目の場所が空く。
直樹には分かった。
「そのまま下がれ」
「下がってる!」
正面の男が小銃を上げた。
直樹は擁壁の内側へ入る。
男の射線から一度消える。
小銃を負い紐へ預けた。
左手を空ける。
右手は身体の近くへ残した。
正面の男は追わない。
やはり囮だった。
自分を正面へ固定する。
その間に背後の観測手を外す。
順番が決められていた。
直樹は搬送車両の後部へ回る。
大庭が三歩目を置いた。
身体が右へ抜ける。
女の左脇が開いた。
直樹がそこへ入った。
*
左肩を女の脇腹へぶつけた。
女の身体が横へ動く。
倒れない。
腰を切り、衝撃を逃がした。
直樹は組みつかなかった。
左前腕を女の胸へ当てる。
大庭との間を切る。
掌底を顎へ出す。
女が頭を引いた。
直樹は手を止めず、そのまま肩を押した。
女の身体が半歩下がる。
膝を腿の外へ入れる。
立てなくするためではない。
次の一歩を遅らせる。
女がロシア語で言った。
「離れろ」
「そっちが先だ」
直樹もロシア語で返した。
女の目がわずかに動く。
声ではない。
返答までの速さを見た。
女は腰の短銃へ手を伸ばさなかった。
直樹の左腕を取る。
手首ではない。
肘の上を押さえ、肩の動きを止める位置だった。
直樹は腕を引かなかった。
相手の力へ半歩入る。
額が近づく。
女の右肘が上がった。
直樹は頭を下げる。
肘が側頭部の上を通った。
左足で女の前足を止める。
左前腕を鎖骨へ当てた。
体重を乗せる。
女は後ろへ下がらない。
直樹の右側へ抜けようとする。
大庭へ戻る線だった。
直樹は、その線へ身体を置いた。
女が方向を変える。
今度は搬送班側へ抜ける。
直樹はまた先へ入った。
肩。
前腕。
短い肘。
打撃を一度だけ当て、次の位置へ移る。
女の拳が直樹の頬へ入った。
頭が揺れる。
直樹は下がらなかった。
右手を閉じれば、女の腕を固定できる。
指に力を入れる。
一秒。
力が抜けた。
女の腕が外れる。
視線が直樹の右手へ落ちた。
直樹は左前腕で次の打撃を外へ流した。
拳の届く範囲から、半歩だけ外れる。
女が追う。
直樹は大きく下がらない。
左足を斜め外へ置く。
拳が通り過ぎた位置へ、肩から入り直す。
胸へ体重を当てる。
接触した瞬間に離れる。
組み倒さない。
腕を長く固定しない。
肩。
肘。
前腕。
膝。
一度止める。
攻撃の範囲から抜ける。
もう一度、外側へ入る。
女が知っていた戦い方とは違っていた。
以前の男は武器を外した。
腕を制御した。
相手を地面へ固定し、味方へ引き渡した。
今の男は違う。
打撃で足を止める。
追えない一瞬を作る。
その間に、守る人間を外へ出す。
戦い方は変わっていた。
だが、足は変わっていなかった。
*
「大庭」
直樹が呼んだ。
「生きてる」
「後方へ」
「もういる」
大庭は搬送車両の陰へ入っていた。
頬から血が出ている。
呼吸も乱れていた。
それでも照準器を上げている。
「正面、三」
大庭が言った。
「車上、一。地上二」
「撃てるか」
「撃てる」
「撃つな」
「お前と女が重なってる」
大庭の照準器がわずかに動く。
「女が半歩左へ出れば、車上から撃たれる」
女は日本語を理解していない。
だが、大庭の視線が向く先は分かった。
車上の銃口。
地上の兵士。
搬送班。
大庭。
直樹。
五つの位置を確認する。
直樹は女の左側へ回った。
大庭の射線を開けない。
ロシア側の射線にも、女を出さない。
双方が撃てない場所へ、二人の身体を押し込む。
女が直樹の喉へ手を伸ばす。
直樹は左足を引いた。
攻撃の先から抜ける。
腕が伸び切る前に外側へ回る。
肩を女の背中へ当てた。
押し倒さない。
大庭との間から外す。
女は直樹の足を見た。
拳の届く範囲から抜ける半歩。
攻撃を避けたあと、逃げずに外側へ入り直す足。
相手を倒せる距離まで詰めながら、退路を一つだけ残す立ち方。
以前にも見ていた。
壊れた道路。
銃口が重なった車列。
アレクセイの指示が届く前に、彼女を射線から外した男。
福岡仁。
顔は変わっていた。
身体も痩せている。
主に使う腕も違う。
組み倒す戦いから、打撃へ変わっていた。
それでも、相手の攻撃範囲から抜ける足は同じだった。
大庭がもう一歩下がる。
女が追おうとする。
大庭の右足が外へ開いた。
一歩目。
車両を挟む。
二歩目。
直樹が入る場所を空ける。
三歩目。
直樹は大庭を見ず、空いた場所へ入った。
昔から何度も繰り返してきたように。
女の動きが止まった。
直樹は止まらない。
左前腕で女の腕を外へ流す。
肩を胸へ当てる。
大庭への線を塞ぐ。
女は直樹の顔を見た。
額。
頬。
目。
もう一度、足元へ視線を戻す。
「ジン」
小さな声だった。
直樹の左肘が止まる。
完全には下ろさない。
「何と言った」
大庭が聞いた。
直樹は女を見る。
声。
目の動き。
打撃を受けた時、左肩をわずかに引く癖。
記憶の中の顔と重なった。
「ミーシャ」
女の表情が初めて変わった。
「遅い」
日本語だった。
大庭の照準は下がらない。
「知り合いか」
「以前、仕事をした」
「なら、撃たせるな」
「分かっている」
ミーシャは正面の兵士へ片手を上げた。
ロシア語で短く命じる。
銃口は下がらない。
だが、前へも出てこない。
直樹も搬送班へ手を見せた。
撃つな。
大庭は照準を維持したまま言った。
「まだ終わってないぞ、真柴」
「ああ」
ミーシャが直樹へ向き直る。
「三人をやったのは、あなたたち?」
「違う」
「一人は死んだ」
「俺たちが着いた時には死んでいた」
「一人は壊されていた」
「追えない状態で残された」
「もう一人は」
「消えた」
「誰がやった」
「それを追っている」
ミーシャは直樹の右手を見る。
次に足元。
戦えるかどうかを見ているのではない。
福岡仁と、目の前の男を重ねている。
「アレクセイは」
直樹が聞いた。
ミーシャの目から、わずかに熱が消えた。
「生きている」
「ここにいるのか」
「いない」
ミーシャは灰色の布を見た。
「でも、三人分の答えを求めている」
谷の奥で、別のエンジン音が鳴った。
近づいている。
ミーシャが直樹を見る。
「時間がない、ジン」
「その名前で呼ぶな」
「では、何と呼ぶ」
「真柴直樹」
ミーシャは、その名前を口の中で分けた。
「マシバ・ナオキ」
最後の音が浅く消えた。
「NAO」
直樹の眉がわずかに動く。
「直樹だ」
「分かっている」
「なら、そう呼べ」
「今は長い。NAOで足りる」
「勝手に決めるな」
「あとで直す」
ミーシャは正面の兵士へ顔を向けた。
銃口は、まだ双方とも下がっていない。
「今は動いて、NAO」
直樹の左肘も、まだ下がっていなかった。




