第百三十三話 立つ場所
## 第百三十三話 立つ場所
谷の向こうで、二台目のエンジン音が止まった。
大庭は地図を開いたまま、顔を上げなかった。
音だけを数える。
一台目は低い回転を保っている。
二台目は停止。
扉が一枚。
間を置いて、二枚。
最後に後部扉。
「少なくとも四人」
大庭が言った。
「犬は」
「追加は聞こえない」
直樹は排水管の奥を見た。
浅い水へ沈んだ小銃。
持ち主は消えている。
排水路では、搬送班が負傷者を固定していた。
犬には口輪が付けられ、担架から離されている。
死亡した無線手には、灰色の布が掛けられた。
名前は分からない。
所属も確定していない。
残っているのは、キリル文字の表示がある無線機と、上腕の標識だけだった。
「車両はどこから入る」
直樹が聞いた。
大庭は地図へ鉛筆を置いた。
「谷側の管理道」
「ここまで来るか」
「先頭は来る。二台目は後ろに残す可能性が高い」
「理由は」
「前が現場確認。後ろが退路」
鉛筆の先が止まる。
「普通ならな」
「普通ではないかもしれない」
「ああ」
無線機が鳴った。
『富士川、応答してください』
現地監視班の声だった。
『谷側から所属不明車両二。停止要求に応答なし』
「武装は」
大庭が聞いた。
『先頭車両上部に一名。小銃を確認』
「射撃は」
『なし』
「標識」
『側面にキリル文字らしき表示。旗はありません』
「距離」
『現場まで約七百』
「監視を続けろ。こちらから撃つな」
『了解』
大庭は回線を切った。
「さっきの班を探しに来た可能性はある」
直樹が言った。
「死者一。重傷一。行方不明一」
大庭は灰色の布を見る。
「現場に武装した日本側要員。説明がなければ、向こうも警戒する」
「話せるか」
「俺は無理だ」
「俺が話す」
「言葉を聞く距離まで入れればな」
大庭は地図を折りかけた。
手が止まった。
もう一度広げる。
「真柴」
「何」
「動くな」
大庭は地図を地面へ置いた。
旧保守路。
排水路。
排水管。
谷側の管理道。
四つを線で結ぶ。
さらに三か所へ印を付けた。
一つ目は、斜面上の倒木。
二つ目は、旧監視小屋の基礎。
三つ目は、排水管上部の窪地。
「観測手なら、最初にここへ入る」
大庭が倒木を示した。
「谷側の車両が見える。旧保守路も見える。風を正面から受けない」
「使えなければ」
「監視小屋へ移る。車両を止める必要が出れば、そこから前輪を狙える」
「三つ目は」
「接近された時の後退位置」
大庭は双眼鏡を上げた。
倒木の根元。
その上の斜面。
周囲の草。
三方向を確認する。
「俺が根元を見る」
大庭が言った。
「上を頼む」
「了解」
直樹は小銃を構えず、銃口だけを斜面上へ向けた。
大庭が身体を低くする。
歩幅を変えない。
倒木の手前で止まった。
土へ膝をつけず、根元だけを見る。
何にも触れない。
そのまま戻った。
「使えない」
「何がある」
「足跡」
大庭は双眼鏡を直樹へ渡した。
「倒木の右側」
直樹がのぞく。
湿った土に、浅い靴跡が残っている。
一人分。
倒木の陰へ入り、谷を見た跡。
そのあと、旧保守路へ顔を向けている。
観測手が来る方向を、観測手の位置から見ていた。
「後輩か」
「断定はできない」
「だが、誰かが先に使っている」
「ああ」
二つ目は、旧監視小屋だった。
今度は直樹が根元側へ入った。
大庭が斜面と建物の残骸を見る。
二人は同時に近づかない。
大庭が途中で手を上げた。
「止まれ」
地面に細い針金が落ちている。
錆びていた。
建物の残骸に見える。
端だけが新しく曲げられていた。
針金は、崩れた基礎の隙間へ続いている。
爆発物にはつながっていない。
先には、空の金属缶が置かれていた。
「警報線」
直樹が言った。
「観測手がここへ入れば鳴る」
「撃つためではない」
「この位置を選んだと知るためだ」
二人は針金から離れた。
三つ目の窪地には、何もなかった。
土も乱れていない。
枝も折れていない。
大庭は入口で止まった。
中へ入らない。
「ここが一番まずい」
直樹が窪地を見る。
「痕跡はない」
「中にはな」
大庭は窪地の右後方を指した。
斜面の一部だけ、草が短く倒れている。
自然に伏した方向ではない。
人間が腹ばいで横へ移動した跡だった。
窪地の正面ではない。
少し後ろ。
右側。
安全だと思って身体を起こした時、背中が見える位置だった。
「最初の観測地点」
大庭が倒木を見る。
「代替位置」
監視小屋。
「後退位置」
窪地。
三か所を順に見た。
「俺を知っているわけじゃない」
大庭が言った。
「観測手の動かし方を知っている」
「俺と組む人間が、どう配置されるか」
「ああ」
「最初の位置を使えなければ、どこへ移るか」
「そこも駄目なら、どこへ逃がすか」
大庭は地図を畳んだ。
「俺じゃない」
谷側の車両音が近づいている。
「俺の役割が読まれている」
直樹は旧保守路の奥を見る。
「俺へ足を残し、観測手の位置を決めた」
「二人を分けるためだ」
「高所を捨てるか」
「捨てる」
「観測範囲は狭くなる」
「前へ出て、見せられた場所を順に踏むよりましだ」
大庭は地図を開き直した。
「お前は人を見る」
鉛筆で旧保守路を叩く。
「俺は車両と射線を見る」
次に、管理道路の分岐を示す。
「搬送班を動かす。谷側の道を管理する。通信を持つ」
「帰路は」
「残す」
直樹は地図を見た。
「了解」
大庭は地図を畳んだ。
*
搬送班の車両を、排水路から二百メートル下げた。
負傷者と犬を先に移す。
死者は現場へ残した。
記録前には動かさない。
灰色の布だけが、風でわずかに浮いた。
大庭は管理道路の分岐脇へ入った。
搬送車両の後部と、崩れた法面の間。
高所ではない。
射線も広くない。
それでも、搬送班、二台の車両、旧保守路の入口を同時に見られた。
直樹はその前へ出る。
「連絡時刻」
大庭が聞いた。
直樹は端末を見る。
午後五時二十六分。
「十八時半」
「戻れない場合は」
「通信圏へ出る」
「十九時」
「連絡する」
「ロシア語で接触された場合は」
「聞く」
「射撃を受けた場合は」
「遮蔽物へ入る」
「交戦は」
「避ける」
「了解」
砂利を踏む音が近づいた。
先頭車両が見えた。
濃い灰色の四輪駆動車。
フロントガラスの片側に金属板が張られている。
側面には、消しかけた白いキリル文字。
車両上部の男が、小銃を持っている。
銃口はまだ直樹へ向いていない。
二台目は、木々の向こうで止まった。
「配置につけ」
大庭が搬送班へ言った。
「撃つな。こちらから始めるな」
直樹は道路の中央へ立たなかった。
右側の崩れた擁壁へ寄る。
小銃を下げたまま、谷側からの直線上を外れる。
先頭車両が止まった。
後部扉が開く。
一人目が降りた。
医療鞄を持っている。
二人目は小銃。
三人目が最後に降りた。
他の二人より装備が軽い。
暗い上着。
短い銃。
頭には帽子もヘルメットもない。
男は最初に、灰色の布を見た。
次に排水路。
犬の血が残った場所。
排水管。
最後に直樹を見る。
顔を識別できる距離ではない。
それでも、男の視線は直樹の顔や小銃ではなく、足元へ落ちた。
立っている場所を見ている。
「普通の増援要員じゃない」
大庭の声が骨伝導通信へ入った。
「根拠は」
「先頭を歩いていない。それでも残りを止められる位置にいる」
暗い上着の男が片手を上げた。
後ろの二人が止まる。
医療鞄を持つ男も止まった。
自分だけが前へ出る。
「指揮官か」
大庭が言った。
「まだ分からない」
男は死者より先に、排水管の入口を見た。
持ち主の消えた小銃がある場所だった。
「死体より排水管を見ている」
「行方不明者を探している可能性はある」
「それだけじゃない」
直樹が言った。
男は、直樹が立つ擁壁を見る。
視線だけで距離を測る。
次に直樹の足へ戻る。
暗い上着の男が、短く何か言った。
直樹には聞き取れた。
「武器を置け」
大庭が尋ねた。
「何て言った」
「武器を置け」
「従うか」
「まだ」
直樹はロシア語で答えた。
「負傷者は後方へ移した。死者一。行方不明一」
男の表情は変わらない。
返事もしなかった。
直樹の肩を見る。
負い紐。
銃床。
左手。
右手。
また足元へ戻る。
直樹の言葉を理解していないのではない。
信じていない。
後方のロシア兵が、小銃を上げた。
「真柴、右から一」
大庭の声が低くなる。
「見えている」
「俺が止めるか」
「撃つな」
暗い上着の男が片手を下げた。
後方の銃口が止まる。
男は道路の中央から外れた。
直樹と同じ側へ移る。
擁壁を使える位置だった。
「同じ遮蔽物を選んだ」
大庭が言った。
「ああ」
「譲るか」
「譲らない」
暗い上着の男の右足が、半歩外へ開いた。
腰が落ちる。
銃を上げる姿勢ではない。
接触距離へ入る構えだった。
直樹も半歩動いた。
擁壁の角を身体の左へ置く。
二人の間には、道路が十二メートルある。
暗い上着の男が、もう一歩近づく。
直樹は小銃を負い紐へ預けた。
左手を銃から離す。
右手は身体の近くへ残した。
降伏ではない。
接触距離へ入られた時、左手を空けておくためだった。
男の視線が細くなる。
その意味を読んだ。
道路の外で風が変わった。
灰色の布が持ち上がる。
死者の靴が見えた。
暗い上着の男は、そちらを見なかった。
直樹だけを見ていた。
「大庭」
「いる」
「後方を頼む」
「了解」
先頭車両の反対側でも、扉が開いた。
車体が死角になり、降りた人数までは見えない。
正面に残った男が、直樹を見る。
後ろ足の踵が浮いた。
地面を蹴る。
直樹も擁壁の角へ入った。
男は二歩だけ距離を詰めた。
そこで止まった。
銃を上げない。
直樹からも目を外さない。
接触するための動きではなかった。
直樹を、その場所へ留める動きだった。
大庭の照準器の中で、二人の間だけが狭くなる。
その時。
大庭の背後にある法面で、砂利が一つ鳴った。




