↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
132/303

第百三十二話 狩る側

## 第百三十二話 狩る側


 犬が泥の足跡へ鼻を寄せた。


 綱を持つ男が、短く声を掛ける。


 ロシア語だった。


 犬は排水路へ向かった。


 泥に残した三歩を拾っている。


 その先には何もない。


 男は、三人の背後にいた。


 木の幹を挟み、呼吸を止める。


 先頭は犬を扱う男。


 二人目は小銃を持っている。


 最後尾は無線機と地図を持っていた。


 三人とも、避難者を通した古い道へ向かっている。


 経路の先には、まだ人がいた。


 足の悪い老人。


 子どもを連れた女。


 熱を出して動けない男。


 夜までに移す予定だった。


 犬が匂いを拾えば、間に合わない。


 男は地面を見た。


 落ち葉。


 濡れた石。


 細い根。


 踏めば鳴る場所。


 足を置いても沈まない場所。


 先に決めた。


 無線手が下がる位置。


 犬が向きを変える場所。


 小銃を持つ男が、射線を取ろうとする道。


 三人は、まだ自分で立つ場所を選べると思っていた。


     *


 男は小石を拾った。


 斜面の左へ投げる。


 石が枯れ枝へ当たった。


 乾いた音が一度だけ鳴る。


 先頭の二人が左を見た。


 最後尾の無線手は、半歩下がった。


 二人と同じ方向を見ない。


 右側と後方を確認する。


 訓練された動きだった。


 その動きまで読んでいた。


 男は木の陰から出た。


 無線手が気づいた時には、距離がなかった。


 左手で口を塞ぐ。


 右手の刃を一度だけ使う。


 声は出なかった。


 無線機が胸元で鳴った。


 男は身体を木の根元へ滑らせた。


 枝に触れない位置で止める。


 倒さない。


 落とさない。


 音を残さない。


 犬が振り返った。


 耳が立つ。


 男は死んだ無線手の手袋を外した。


 排水路の縁へ擦りつける。


 濡れた草を三歩分なぞった。


 最後に、手袋を倒木の向こうへ落とす。


 犬が鼻を上げた。


 元の足跡から外れる。


 新しい匂いへ頭を向けた。


 綱を持つ男が犬を見る。


 迷ったのは一秒だった。


 男は犬を進ませた。


 犬を騙したのではない。


 犬を信じる人間を動かした。


 綱が伸びる。


 犬を扱う男が排水路の縁へ近づく。


 足元には、濡れたコンクリートがある。


 犬が倒木の向こうへ鼻を入れた。


 男は背後から距離を詰めた。


 犬を扱う男が気配に反応する。


 振り向く。


 その前に、膝の外側へ蹴りを入れた。


 左脚が折れる。


 身体が傾いた。


 右肩を押す。


 男の肩が、排水路の縁へ落ちた。


 硬い音がした。


 小銃を持つ男が振り向く。


 銃口が上がる。


 犬が間にいた。


 撃てない。


 男は綱を切った。


 犬は倒れた主人のそばへ戻った。


 吠える。


 小銃を持つ男が、犬の横から射線を取ろうと移動した。


 男は木の間へ姿を見せた。


 一度だけだった。


 小銃を持つ男が追う。


 狭い獣道へ入った。


 右は急な斜面。


 左には倒木がある。


 小銃を横へ振れる幅はない。


 前方には、古い排水管が通っていた。


 男は先へ下がった。


 小銃を持つ男は、撃てる場所を求めて進む。


 足を置ける場所は、一つしかない。


 そこへ置いた。


 男は作業用の細い溝へ入る。


 排水管の上を回る。


 小銃を持つ男の背後へ下りた。


 男が振り返る。


 銃口は間に合わなかった。


 短い衝突音がした。


 小銃が水へ落ちる。


 人の声は続かなかった。


     *


 排水路の男は生きていた。


 意識もある。


 左脚は動かない。


 右肩の形が変わっている。


 男は自分の上着から布を切った。


 脚の傷へ巻く。


 強く締める。


 犬は歯を見せて唸った。


 刃は向けなかった。


 切った綱の端を、負傷者の手元へ置く。


 無線機も残した。


 助けを呼ぶ物は残す。


 追える物は残さない。


 無線手は木の根元にいる。


 小銃を持っていた男は、排水管の中から出てこなかった。


 生きているのか。


 死んでいるのか。


 外からは分からない。


 男は排水管の反対側へ抜けた。


 足跡を消す。


 一つだけ残した。


 真柴に読ませるための足ではない。


 後から来る人間へ、三人が進んだ方向を誤らせるための足だった。


 避難者の経路とは反対へ向ける。


 犬の声が遠くなる。


 男は振り返らなかった。


     *


 直樹が最初に聞いたのは、犬の声だった。


 同じ場所で繰り返している。


「止まれ」


 大庭が足を止めた。


 冗談はなかった。


「距離、二百弱」


 北西の風が、犬の声を運んでいる。


 斜面の下。


「人の声は」


「聞こえない」


「銃声もない」


「行くか」


「行く」


 二人は旧保守路を外れた。


 大庭が高所と射線を見る。


 直樹は地面を見る。


 三人分の軍用靴。


 犬の足。


 一人分の靴跡だけが、途中で後方へずれていた。


「隊形が変わってる」


 大庭が言った。


「変えさせられた」


「どこで」


 直樹は折れた枝を見る。


 断面が新しい。


「ここ」


 枝の音。


 先頭の二人が向く。


 最後尾が反対側を見る。


 三人が同じ方向を見ない訓練を、逆に使われた。


 直樹は木の根元へ向かった。


 男が一人いた。


 木へ背を預ける形で、地面に座っている。


 胸元には無線機。


 小銃は身体の横へ置かれていた。


 血は衣服の内側へ広がっている。


 地面へ落ちた量は少ない。


 大庭が頸部へ指を当てた。


「死亡」


 直樹は男の靴を見る。


 踵の後ろに折れた枝がある。


「一人目」


「無線持ちを先に外したのか」


「ああ」


「連絡させないため」


「それだけじゃない」


 直樹は死者の向いている方向を見る。


「残り二人に、死んだことを気づかせないためだ」


 犬が吠えた。


 二人は排水路へ下りた。


 犬が歯を見せる。


 その後ろに、二人目の男が倒れていた。


 左脚。


 右肩。


 呼吸は速い。


 意識はある。


 大庭は小銃を下げたまま、左手を開いて見せた。


 掌を地面へ向ける。


 動くな。


 意味は伝わった。


 負傷者は身体を止めた。


 犬の綱は切られている。


 端が負傷者の手元へ置かれていた。


 脚には布が強く巻かれている。


 出血は止まり切っていない。


「処置してある」


 大庭が言った。


「止めを刺していない」


「助けたのか」


「違う」


 直樹は男の脚と肩を見る。


「追えない状態で残した」


 大庭が救急通信を開いた。


「負傷者一。重傷。犬一。搬送を寄越せ」


 応答が入る。


 大庭は位置を送った。


 直樹は排水路の向こうを見る。


 濡れた草。


 三歩分だけ倒れている。


 先に、黒い手袋が落ちていた。


 切られた綱。


 負傷者の脚が挟まった位置。


「犬じゃない」


 直樹が言った。


「何が」


「犬を扱う人間を動かした」


 大庭は手袋を見る。


「偽の匂いを作ったのか」


「ああ。犬が反応した。人間が正しいと判断して進ませた」


「二人目は、自分からここへ来た」


「来させられた」


 負傷者が何か言った。


 短いロシア語だった。


 直樹は男の口元を見る。


 同じ言葉が二度繰り返された。


「何て言ってる」


 大庭が聞いた。


「水を」


 直樹は自分の水筒を取り出した。


 大庭が犬を見張る。


 直樹は負傷者の頭を少しだけ起こした。


 水を少量含ませる。


 一度に飲ませない。


 男は咳き込んだ。


 直樹は水筒を離した。


 負傷者が別の言葉を吐いた。


 音が崩れていた。


「何だ」


「『まだいる』」


「誰が」


「そこまでは言っていない」


 直樹は負傷者の意識を確認する。


「別の人間か、別の車両か、本人たちの仲間か。今は分からない」


 大庭はそれ以上聞かなかった。


「三人目は」


 直樹が周囲を見る。


 小銃を持っていた三人目の男の靴跡が、排水路の縁から獣道へ続いていた。


 途中から歩幅が広がっている。


 走った跡だった。


「追った」


「何を」


「見せられた物を」


 二人は靴跡を追った。


 狭い獣道。


 右は斜面。


 左は倒木。


 小銃を振れる幅はない。


 足跡は古い排水管へ向かっている。


 大庭が入口を見る。


「一人しか入れない」


「逃げる側にも不利だ」


「逃げていれば」


 直樹は入口へしゃがんだ。


 土が削れている。


 二人分。


 一人は排水管へ進んだ。


 もう一人の跡は、途中から消えている。


 直樹は排水管の上を見る。


 細い作業用の溝が、斜面の反対側へ続いていた。


「上を回った」


「背後へ出たのか」


「ああ」


 排水管の中に、小銃が落ちていた。


 銃身の半分が浅い水へ沈んでいる。


 持ち主はいない。


 血もない。


 引きずった跡もない。


 靴跡が一つだけ、泥へ深く残っていた。


 その先は水で消えている。


「行方不明、一」


 大庭が言った。


「生死不明」


「連れていかれたか」


「自分で歩かされた可能性もある」


「抵抗は」


「ここではしていない」


 大庭は排水管の天井を見る。


「三人相手だぞ」


「三人を相手にはしていない」


 直樹は来た道へ視線を戻した。


 無線手を最後尾へ下げた。


 二人の視線を枝へ集めた。


 犬ではなく、犬を扱う人間を動かした。


 小銃を持つ男を、銃が使えない道へ入れた。


 同時には戦っていない。


 三人を一人ずつにした。


「相手が立つ場所を先に決めていた」


 大庭は返事をしなかった。


 排水管の外で、犬がまた吠えた。


 搬送班の車両音が近づいている。


 大庭は死者の上腕を確認した。


 標識が縫い付けられている。


 無線機の表示には、キリル文字が並んでいた。


「一名死亡。一名重傷。一名行方不明」


 大庭が通信へ報告した。


「無線言語と装備標識から、ロシア側の捜索班と推定」


『交戦相手は』


 久世の声だった。


 大庭は直樹を見る。


「未確認」


 直樹が答えた。


『痕跡は』


「旧川端と同じ系統です」


『本人と判断するか』


「まだ確定しません」


 大庭が排水管の奥を見る。


「ただし、避難者が偶然できる仕事じゃありません」


 負傷者が、またロシア語で何か言った。


 今度は長かった。


 痛みで音が途切れている。


 直樹は聞いた。


「分かるか」


 大庭が尋ねた。


「単語は分かる」


「内容は」


「今は確定できない」


 直樹は負傷者の呼吸を見る。


「部隊の呼び方か、場所の呼び方か判断できない。後で通訳と記録照合が必要だ」


 谷の向こうから、低いエンジン音が届いた。


 一台。


 続いて、もう一台。


 大庭が顔を上げる。


 地図を開いた。


「真柴」


「何」


「ここはもう、俺たちだけの追跡じゃない」


 直樹は排水管の奥を見る。


 持ち主の消えた小銃が、暗い水の中へ半分沈んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。