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第百三十一話 白い光の日

## 第百三十一話 白い光の日


 泥へ踵を置いた。


 体重は掛けない。


 足を上げる。


 右手の親指で、靴底の跡をもう一度押した。


 踵だけが深くなる。


 負傷者の足に見えた。


 次は、古い作業靴の跡へ左足を重ねた。


 右足は土へ置かない。


 道端の平たい石へ乗る。


 石から降りる。


 雨の間、石に覆われていた白い土が見える位置まで動かした。


 尖った側を北へ向ける。


 北へ進んだように見える。


 北を見れば、背中が空く。


 最後に、手袋の手首を水で濡らした。


 杉の根へ二滴。


 少し離して、一滴。


 水はまだ土へ吸われていない。


 風上へ置いた。


 自然に落ちた水ではないと、あの人なら分かる。


 斜面を戻った。


 足跡の先には行かない。


 読む人間の背後へ回る。


 枯れ草の中へ伏せた時、管理道路の向こうから車両音が届いた。


 一台。


 停止。


 扉が二度開く。


 二人分の足が地面へ下りた。


 一人は、先に風を見た。


 もう一人は地面を見た。


 顔を見る前に分かった。


 立ち方が変わっていた。


 肩の位置も違う。


 小銃を身体の中心へ置いていない。


 それでも、足跡の手前で止まる距離は同じだった。


 近づきすぎない。


 痕跡へ触れる前に、周囲を見る。


 残された物だけではなく、それを残した人間が立つ場所を探す。


 あの人だった。


 生きていた。


 握っていた土が、掌の中で崩れた。


 四年前から噛み締めたままだった奥歯が、初めて動いた。


     *


 あの人が海外へ出たあとも、教えだけは部隊に残った。


 室内へ入る順番。


 銃口を向ける高さ。


 相手の腕を外す角度。


 最後尾が出口を通るまで、扉を閉めないこと。


 教導が終わるたび、同じ言葉を聞いた。


「今の入り方、真柴から習ったのか」


「はい」


「やっぱりな」


 成功した時は、あの人の名前が出た。


 自分の名前は報告書へ書かれた。


 口には出なかった。


 失敗した時も同じだった。


「真柴なら、そこで止めていた」


「真柴なら、二人目を見落とさない」


「真柴なら、退路を一つ多く作った」


 真柴なら。


 真柴なら。


 真柴なら。


 直せと言われた部分は直した。


 次の訓練では成功した。


 成功すると、また言われた。


「真柴の教え方がよかったんだな」


 自分が行ったことを、自分の名前で評価されたことはなかった。


 それでも残った。


 帰ってくると言われていたからだった。


 海外で何年使われても、あの人は戻る。


 戻った時に、部隊が別の物へ変わっていたら困る。


 教えられた形を残す。


 どこが変わったか説明できるようにする。


 それが、自分の役割だと思った。


 白い光が上がった日の朝。


 教導室の床には、昨日使った訓練用のナイフが六本並んでいた。


 刃のない黒い樹脂製だった。


 一番端の一本だけ、柄に白いテープが巻かれている。


 あの人が使っていた物ではない。


 同じ形にしただけだった。


 通信係が扉を開けた。


「聞いたか」


「何を」


「真柴が帰るらしい」


 手に持っていた布が止まった。


「いつ」


「今日だ。経路は変わるかもしれない」


「確定ですか」


「帰投予定が入った」


 ナイフの柄を拭いた。


 白いテープの端が少し剥がれていた。


 貼り直した。


「出迎えは」


「必要ないだろ。帰ってから嫌になるほど顔を合わせる」


 通信係は笑っていた。


 自分も何か返したはずだった。


 言葉は覚えていない。


 午前の訓練が始まった。


 最初の班を入口へ並ばせた。


「扉だけを見るな」


 六人の視線が室内へ向く。


「入る前に、出る場所を決めろ」


 一人目が頷いた。


 二人目がナイフを構えた。


 その時だった。


 窓の外が白くなった。


 太陽の色ではなかった。


 壁も床も、人の顔も消えた。


 影だけが足元へ落ちた。


「伏せろ」


 声より先に身体が動いた。


 一番近い隊員の襟をつかみ、床へ落とした。


 二人目を壁から離す。


 窓の正面にいた三人目を蹴り倒す。


 光のあとで、音が来た。


 建物全体が横へ動いた。


 窓が内側へ割れた。


 白いテープを巻いたナイフが、床を滑って棚の下へ消えた。


 停電。


 警報。


 煙。


 誰かが名前を呼んでいた。


 誰の名前か分からなかった。


「人数」


 六人。


 教官一人。


 通信係。


 八人。


 一人が腕を切っていた。


 一人は耳を押さえている。


「出口は」


「正面が塞がっています」


「裏を使う」


 扉が歪んでいた。


 開かない。


 蝶番側へ肩を入れた。


 二度目で隙間ができた。


 隊員を一人ずつ外へ出す。


 最後尾を数えた。


 七。


 八。


 自分が最後に出た。


 外の空も白かった。


 灰ではない。


 細かな建材が光を反射していた。


 通信塔の上部が見えない。


 車両が一台、横倒しになっている。


「帰投経路を確認しろ」


 通信係へ言った。


「回線が死んでる」


「別系統」


「全部だ」


「移動局は」


「応答なし」


 あの人が、どの経路にいるのか分からなかった。


 飛行場。


 陸路。


 中継地点。


 どこも白い光の向こうにあった。


 その日は、負傷者を運んだ。


 夜は、崩れた倉庫から水を出した。


 翌朝は、名簿を作った。


 生存。


 負傷。


 所在不明。


 死亡確認。


 死亡推定。


 同じ大きさの欄が並んでいた。


 紙は足りなかった。


 裏面も使った。


 二日目の夜。


 通信が一部戻った。


 到着していない車両。


 乗っていない輸送機。


 途絶した回線。


 合流地点へ現れなかった人員。


 断片的な記録に混じって、一枚の紙が届いた。


 真柴直樹。


 死亡推定。


 遺体確認欄は空白だった。


 識別票返還欄も空白だった。


 推定という二文字だけが、名前の横へ置かれていた。


「確定ではありません」


 紙を持ってきた隊員へ言った。


「記録上は、そうなった」


「遺体は」


「ない」


「識別票は」


「ない」


「誰が出した」


「富士川側で確認しろ」


 紙を折った。


 胸ポケットへ入れた。


 その夜のうちに出た。


 白いテープのナイフは、棚の下から見つからなかった。


     *


 三日目の午前六時四十分。


 富士川へ着いた。


 久世へ四つのことを聞いた。


 遺体はない。


 識別票もない。


 死亡推定は暫定。


 帰還は未確認。


 四つとも、死んだ証拠ではなかった。


 生きている証拠にもならなかった。


 久世は、所属と任務が残っていると言った。


 残っている物は、すべて自分の外側にあった。


 翌朝。


 宿舎の鍵を返却箱へ入れた。


 水は開けなかった。


 保存食も持たなかった。


 窓の留め具へ細い金属片を挟んだ。


 外から見れば閉じている。


 押せば開く。


 あの人が教えた通りだった。


 富士川を出て、最初に会ったのは家族だった。


 男が一人。


 女が一人。


 子どもが二人。


 荷車の車輪が泥へ沈んでいた。


 男の足には布が巻かれている。


 血が乾いて黒くなっていた。


「この先へ行きたいんです」


 女が言った。


「親類の家があります。そこなら、まだ安全かもしれない」


「場所は」


 女は潰れた道路標識を指した。


「川を越えた先です。でも、道が分からなくなって」


 橋は落ちていた。


 案内標識も根元から倒れている。


 持っていた地図は古かった。


 主要道路以外は描かれていない。


 子どもの一人が、空になった水筒を抱えていた。


「荷物を減らせ」


 男が顔を上げた。


「誰ですか」


「動ける物だけ持て」


 荷車から布団を下ろした。


 割れた食器を捨てる。


 鉄鍋を一つ残す。


 水筒。


 薬。


 子どもの上着。


 それ以外は道端へ置いた。


 遠くから、エンジン音が聞こえた。


 自衛隊の車両ではない。


 警察車両でもない。


 塗装の剥げた四輪駆動車だった。


 荷台に何人か乗っている。


 所属を示す標識はない。


 武器を持っているかは、まだ見えなかった。


「道を外れる」


 家族を倒れた塀の陰へ入れた。


 四輪駆動車が通過するまで待つ。


 笑い声が聞こえた。


 空き缶が一つ、道路へ投げられた。


 車両は速度を落とさなかった。


 音が遠ざかってから、川へ下りた。


 橋は使えない。


 上流側に浅い場所があった。


 子どもを先に渡す。


 女が続く。


 負傷した男を最後尾には置かない。


 腕を肩へ回させ、中央を歩かせた。


 自分が最後に川へ入った。


 夜明け前に、四人を親類の住む集落が見える場所まで連れていった。


 集落の屋根には灯りが二つ残っていた。


「ここからなら分かります」


 女が言った。


「あなたも来ませんか」


「行かない」


「どこへ戻るんですか」


 答えなかった。


 子どもが振り返った。


「案内の人」


 それが最初だった。


 次は、別の一団だった。


「道を知っている人を呼べ」


 その次は、


「先に見てくれる人がいる」


 さらに次は、


「危ない道を避けられる人間がいる」


 名前を聞く者は減っていった。


 必要な機能が先に呼ばれた。


 道を読む。


 未確認車両を避ける。


 崩れた橋の代わりを探す。


 扉を開ける。


 人を安全な場所へ出す。


 自分は一緒に残らない。


 最初の数週間は、所属の分からない車両を避けた。


 燃料を積んだ車。


 窓を板で塞いだ乗用車。


 荷台に男を乗せた四輪駆動車。


 誰が味方かは、塗装では分からなかった。


 数か月後。


 道路に縄と廃材の検問が置かれた。


 制服のない男たちが立っていた。


 どこから来た。


 どこへ行く。


 何を持っている。


 答えを間違えれば、荷物を取られた。


 戻される者もいた。


 連れていかれる者もいた。


 さらに時間がたつと、制服を着た部隊が来た。


 道路脇に標識が立った。


 通れる道が決められた。


 紙へ名前と居住地を書くようになった。


 日付の印がなければ、橋を渡れなくなった。


 翌年。


 川の向こうを、別の管理地域と呼ぶ者が増えた。


 橋の中央に金網が置かれた。


 土嚢の向こうに、違う腕章の兵士が立った。


 地図に線が引かれた。


 初めは仮の線だった。


 仮という字だけが、先に消えた。


 人々は、その線を国境と呼ぶようになった。


 二年目には、名前を聞かれることも減った。


「案内役を呼べ」


「先導がいる」


「道を開ける者がいる」


 そのうち、呼び方が一つに寄った。


「無所属を呼べ」


 それで誰のことか通じた。


 名前がないのではない。


 名前を知らなくても、役割だけで足りるようになった。


 部隊にいた時と同じだった。


 成功すれば、誰かを通したという結果が残る。


 失敗すれば、死んだ者の名前だけが記録に残る。


 自分は、次の道へ移る。


 それを四年続けた。


     *


 森の中で、大庭が地図を畳んだ。


 真柴が、足跡の外側へ引いた二本の線を見ている。


 見つけた。


 昔と同じだった。


 見落とした時は一本。


 見つけた時は二本。


 訓練で使った、二人だけの確認だった。


 真柴が立ち上がる。


 大庭が旧保守路の先を見る。


 二人が森へ入った。


 追ってきた。


 助けに来たとは思わなかった。


 教え子が壊れた。


 教官が責任を取りに来た。


 自分が作った物を、自分で止めに来た。


 その方が自然だった。


 真柴は、最後まで任務を残さない男だった。


 木の間を移動した。


 二人の右側へ回る。


 距離を保つ。


 姿は見せない。


 今はまだ近づかせる。


 真柴が、どこまで昔の道を覚えているか。


 何を持ち帰ろうとしているか。


 最後に誰を数えるのか。


 自分まで数えるようになったのか。


 それを見る。


 旧保守路の先から、別の音が届いた。


 低いエンジン音。


 二台。


 日本側の車両ではない。


 回転が重い。


 停車後も、しばらく機関を切らない。


 短い無線音声が風に乗った。


 日本語ではなかった。


 避難者を通した古い経路に近い。


 真柴たちより先に、別の人間が入ってきた。


 進路を変えた。


 真柴へ残した足から離れる。


 谷側へ下りる。


 木の隙間に、車両の黒い屋根が見えた。


 三人が降りた。


 一人は地図。


 一人は小銃。


 一人は犬の綱を持っている。


 犬が地面へ鼻を寄せた。


 避難者の古い匂いを拾えば、隠した場所まで進む。


 石を一つ拾った。


 犬の進行方向とは逆へ投げる。


 音だけでは動かなかった。


 訓練されている。


 泥の残る排水路へ下りた。


 今度は踵だけを押さなかった。


 足裏全体へ体重を掛ける。


 右。


 左。


 三歩。


 誰にでも見える足を残した。


 犬の頭が上がった。


 綱を持つ男が、足跡へ光を向ける。


 残りの二人も振り返った。


 三人の視線が、泥へ集まる。


 その背後へ回った。


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