↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
130/314

第百三十話 読ませた足

## 第百三十話 読ませた足


 固定翼機の車輪が、富士川側飛行場の滑走路へ触れた。


 一度跳ねる。


 二度目で沈む。


 機体の奥に積まれた輸送箱が、固定帯の中で低く鳴った。


 直樹は座席脇の旅行鞄を左手で押さえた。


 右手は膝の上に置いている。


 何も握っていない。


 福岡を出た時に降っていた雨は、富士川まで来ていなかった。


 滑走路の向こうには、低い雲が残っている。


 吹き流しは南東へ伸びていた。


 北西から、乾いた風が入っている。


 機体が停止する。


 後部扉が開いた。


 燃料と土の匂いが流れ込んだ。


     *


 富士川側の医療区画は、格納庫の端を白い仕切りで囲っただけだった。


 直樹は、えりから預かった茶封筒を医療担当者へ渡した。


「本人確認を」


「真柴直樹です」


「封筒は開けていませんか」


「開けていません」


「指揮所を経由しましたか」


「していません。医療担当者本人へ渡すよう指定されています」


 担当者が封を確認した。


「受領します」


 直樹は受領欄へ署名した。


 四文字目の縦線が少し短くなった。


 担当者は書き直しを求めなかった。


「両手を見せてください」


 直樹は手を開いた。


 指を閉じる。


 もう一度開く。


「移動前から変化は」


「ありません」


「痛み」


「ありません」


「痺れ」


「三です」


「睡眠」


「四時間半です」


「足りません」


「機内で一時間寝ました」


「合計五時間半」


「はい」


 担当者は記録へ書いた。


「禁止動作と中止条件は、封筒の内容どおりです」


「分かりました」


「こちらから現地指揮側へ伝えるのは、行動制限だけです」


「お願いします」


 白い仕切りの外で、靴音が止まった。


「病院上がりにしちゃ、顔色いいな」


 聞き覚えのある声だった。


 直樹が振り返る。


 大庭航平が立っていた。


 髪は以前より短い。


 頬も少し痩せている。


 首から双眼鏡を下げ、丸めた地図を脇へ挟んでいた。


「大庭」


「マッシー」


 大庭が右手を差し出した。


 直樹も右手を出した。


 短く握る。


 先に離したのは直樹だった。


「握手まで医者の許可制か」


「違う」


「じゃあ、女に握られすぎたか」


「何の話だ」


「退院前だよ。病室に女がいると長いんだ。別れの言葉、約束、次の連絡、無事に帰れ」


「二十分だった」


「測ってんのか」


「えりが測った」


「女二人に時間まで管理されて、ようやく外へ出してもらえたわけだ」


「退院した」


「言い方の問題だ」


 大庭の視線が旅行鞄へ落ちた。


「荷物、それだけ?」


「これだけ」


「着替えと薬と、女から持たされた重い物」


「医療書類だ」


「色気がない」


「必要な物だ」


「女が持たせる物なんて、大抵は必要ない。写真、手紙、揃いの何か」


「もらったことがあるのか」


「店の女は、そんな物を渡さない」


 大庭は双眼鏡の位置を直した。


「仕事の女は仕事。俺は客。金を払って、好きなことをして、そこで終わる」


「それを楽だと思うのか」


「境界が決まってる。次の電話も、帰る約束もない。感情の借りが残らない」


「関係が違う」


「知ってる。違うから面倒なんだよ」


 大庭は直樹の顔を見た。


「宮崎さんに見送られた?」


「ああ」


「泣かれた?」


「泣いていない」


「怒られたな」


「怒られた」


「そっちの方が効く」


「そうかもしれない」


 大庭の眉がわずかに上がった。


「病院で何を入れられた。薬か、人間性か」


「何も入れられていない」


「認めるようになっただけか」


 大庭が背を向けた。


「武器は別に置いてある。まず地図だ」


「現場が先だ」


「俺が地図。お前が足」


 振り返らないまま言った。


「昔からそうだろ、マッシー」


     *


 運用室の長机に、三枚の地図が並べられた。


 一枚は地形図。


 一枚は道路と車両の通過記録。


 最後の一枚には、避難路と監視地点だけが手書きされている。


 大庭は地形図の上へ透明板を重ねた。


「旧川端から出た痕跡は、ここで一度切れた」


 鉛筆の先が、細い管理道路を示す。


「軍用車両が三台。救出班が二台。燃料輸送が一台」


「時刻は」


「救出班が十三時二十分。燃料輸送が十四時過ぎ。最後がこっちの監視車両」


「徒歩は」


「表へ出たのは六人。救出班四人。地下から二人」


「記録外は」


「一人いる」


 大庭は別の透明板を重ねた。


 赤い点が、管理道路の北側に三つ並ぶ。


「一つ目。排水溝の泥」


 次の点。


「二つ目。旧資材置場の石」


 三つ目。


「三つ目。斜面の水滴」


「雨の残りでは」


「周囲は乾いてる。葉にも残ってない」


「時間は新しい」


「現物次第だ」


 大庭は鉛筆を北へ滑らせた。


「俺から見れば、ここへ上がる」


 尾根の一角を叩く。


「旧保守路、燃料置場、南側検問が全部見える」


「車両は」


「東へ下りれば民間道路。西なら廃線沿い」


「風は」


「昨日から北西」


「犬は」


「避難者の経路と重なる。使ってない」


 大庭は地形図の端を押さえた。


「俺が見るのは、こいつがどこに立てば、何を見られるかだ」


「俺は、どこへ足を置いたかを見る」


「だから呼んだ」


 机の端に、折曲銃床の八九式小銃が置かれていた。


 弾倉は外されている。


 隣には、薄手の戦闘用グローブが一組あった。


「護身用」


 大庭が言った。


「戦闘しろって意味じゃない」


「分かっている」


「病院帰りを担いで戻るのは御免だぞ」


「無理はしない」


「酒飲みの『今日は一杯だけ』と同じぐらい信用できねえ」


「任務中は飲むな」


「これは帰った後の分」


 大庭が腰の小型フラスクを指で叩いた。


「帰れる前提か」


「飲まずに死ぬのは損だろ」


 直樹は左右のグローブをはめた。


 右側の手首と掌を、内側の布で調整する。


 小銃の弾倉が外れていることを確認した。


 遊底を左手で引く。


 薬室が空であることを目視する。


 安全装置を確認した。


 弾倉は装着せず、弾納へ戻した。


 負い紐の長さだけを合わせる。


「出る前に連絡する」


 直樹は通信端末を取り出した。


 大庭が腕時計を見る。


「昨日決めた十九時には早い」


「連絡不能区画へ入る前に伝える」


「電話連絡で束縛か」


「約束だ」


「到着を報告。入る場所を報告。戻る時間を報告」


 大庭は地図を丸めながら数えた。


「女の長電話は、任務以上にこたえる」


「長くない」


「喋れる女は長いんだよ」


「めぐみは必要なことだけ話す」


「今まで言えなかった分があるんだろ。十年分だぞ」


「聞く」


「真面目だねえ」


 大庭はフラスクをもう一度叩いた。


「だから店の女の方が楽なんだ。仕事は仕事。金を払って、好きなことをして、終わり」


「さっき聞いた」


「大事なことは二回言う」


「感情の借りが残らない」


「覚えてるじゃねえか」


 直樹が回線をつないだ。


 二度目の呼び出しで、めぐみが出た。


『なお』


「富士川へ着いた」


『うん』


「これから連絡が届かない場所へ入る」


『何時まで』


「十八時半に一度戻る。遅れると分かった時点で連絡する」


『体は』


「睡眠が足りない。移動はできる」


『大丈夫ではないね』


「大丈夫ではない」


『戻ったら連絡して』


「する」


『行ってらっしゃい』


 直樹は一度息を止めた。


「行ってくる」


 回線を切る。


 大庭が腕時計を見る。


「一分三十七秒」


「短い」


「最初はな」


「最初」


「一週間で五分。一か月で十五分。半年後には、銃撃戦の方が先に終わる」


「めぐみは違う」


「全員そう言う」


 大庭は扉へ向かった。


「でも、まあ」


 足は止めなかった。


「帰れって言う女がいるなら、帰った方がいい」


 直樹は返事をしなかった。


 大庭も振り返らなかった。


     *


 管理道路へ入る前の装填地点で、二人は小銃を確認した。


 直樹は弾倉を装着した。


 左手で遊底を引く。


 薬室へ送る。


 安全装置を掛ける。


 銃床は折ったまま、負い紐を肩へ回した。


 管理道路には、昨日の雨が細く残っていた。


 車両の轍には水がある。


 道の中央は乾いている。


 直樹と大庭は、旧資材置場の手前で車両を降りた。


 運転手には待機地点を変えるよう指示した。


 同じ場所に長く置けば、観測される。


 大庭は地図と風を見た。


 直樹は地面を見た。


「ここから徒歩」


 大庭が言った。


「先頭は」


「俺が行く」


「足を見るなら後ろじゃないか」


「最初の足を踏むな」


「了解、教官殿」


 二人は道路の端を進んだ。


 直樹は歩幅を狭くした。


 呼吸は平らだった。


 右手は負い紐の近くへ置く。


 小銃は握らない。


「終わったら何を飲む」


 大庭が前を向いたまま聞いた。


「飲まない」


「薬か」


「ああ」


「じゃあ俺が二人分飲む」


「いつもだろ」


「女も二人分いける」


「黙って歩け」


「出た。昔のマッシー」


 最初の痕跡は、排水溝の縁にあった。


 泥の中へ、踵だけが深く沈んでいる。


 つま先は浅い。


「負傷者に見える」


 大庭が言った。


「そう見せている」


「根拠は」


 直樹は足跡の横へしゃがんだ。


 右膝は地面につけない。


 踵の中央に、細い筋がある。


 靴底に挟まった小石が引いた線だった。


 線は足跡の外へ続いていない。


「踏み込んだあと、踵だけを押している」


「体重を掛けた可能性は」


「体重なら、つま先側の泥も逃げる」


 直樹は泥に触れなかった。


「足を置いた。あとから深くした」


「読ませるために」


「まだ分からない」


 直樹は立ち上がった。


 右手を一度開く。


 大庭はその動作を見た。


 何も聞かなかった。


 二つ目の痕跡は、旧資材置場の入口にあった。


 複数の作業靴が土を踏んでいる。


 燃料輸送の作業員。


 救出班。


 監視要員。


 同じ靴跡が、何度も重なっていた。


 大庭は周囲を見る。


「ここなら足を混ぜられる」


「混ぜていない」


「どれだ」


 直樹は答えず、しゃがんだ。


 古い作業靴の左足。


 その上に、別の左足が重なっている。


 大きさはほぼ同じだった。


 踵もつま先も、古い跡の中へ収まっている。


 右足はない。


「片足だけか」


「右は石の上だ」


 道の端に、平たい石が置かれていた。


 細く尖った側が北を向いている。


 石の脇には、同じ形の白い土が残っていた。


 周囲は昨日の雨を吸って黒い。


 白い部分だけ、雨の間は石に覆われていた。


 大庭が腰を落とす。


「元はこっちか」


「ああ」


 現在の石の下は湿っている。


「雨が止んだあと、動かした」


「北を示すため」


「そう読ませるためかもしれない」


「実際の進行方向とは限らない」


「限らない」


 大庭は石へ触れなかった。


「本人だと思うか」


「まだ決めない」


「心当たりは一人だろ」


「痕跡は本人確認にならない」


「間違えれば、別の人間を追う」


「ああ」


 大庭は立ち上がった。


 口元から軽さが消えた。


「続ける」


     *


 三つ目の痕跡は、斜面の途中にあった。


 杉の根元。


 周囲の土は乾いている。


 根の上にだけ、小さな水滴が三つ残っていた。


 一つは土へ落ち、丸い跡を作っている。


 水はまだ吸われ切っていない。


 直樹は斜面の下を見た。


 水場はない。


 昨日の雨が残るほど、葉も湿っていなかった。


「水筒か」


 大庭が聞いた。


「違う」


「濡れた布」


「近い」


 直樹は自分のグローブを見る。


 手首の内側へ縫い込まれた布。


「手袋を濡らした」


「何のために」


「置くため」


「三滴だけ」


「三滴だから意味がある」


 直樹は水滴の間隔を見る。


 最初の二つは近い。


 三つ目だけ、少し離れている。


 大庭は口を閉じた。


「二つと、一つ」


 観測だけを言った。


「俺たちの訓練で使った」


「誰に分かる」


「通った人間の一部」


「全員じゃない」


「全員ではない」


 最後の一滴は、根の北側に落ちている。


 風は北西から吹いていた。


 自然に落ちれば、南東へ流れる。


 水滴は風上へ置かれている。


「大庭」


「何」


「尾根を見るな」


 大庭の視線が止まった。


「理由は」


「見させたい」


 大庭は顔を動かさず、目だけを斜面の下へ向けた。


「俺が高所を取ると知っている」


「俺と組んでいた人間なら知っている」


 大庭は右足を半歩引いた。


 斜面の下に、使われていない古い排水管がある。


 その奥は暗い。


「監視の可能性」


「ある」


「位置は」


「足跡の先じゃない」


 直樹は来た道を見る。


 二つ目の痕跡。


 動かされた石。


 重ねられた左足。


 存在しなかった右足。


「戻った側だ」


 二人は同時に身を低くした。


 銃は構えない。


 大庭は斜面下の道路を見る。


 直樹は資材置場の裏手を見る。


 風で草が揺れている。


 一か所だけ、揺れない部分があった。


 そこに人はいなかった。


 伏せていた跡だけが残っている。


 枯れ草が身体の幅に押されていた。


 中央には、浅い膝跡が一つある。


「移動済み」


 大庭の声から、冗談が消えた。


「いつ」


「俺たちが石で止まった間」


「音は」


「ない」


「風下を使った」


 直樹は膝跡の横を見る。


 乾いた土に、靴の先が触れていた。


 深くはない。


 隠そうとしていない。


 爪先は、これから進む旧保守路へ向いている。


「逃げた足じゃない」


 大庭が言った。


 直樹は返事をしなかった。


 膝跡の先に、足跡が二つ残っている。


 一歩目は深い。


 二歩目は浅い。


 三歩目から消えていた。


 負傷者に見せる深い踵。


 追跡者へ選ばせる進行方向。


 消せる人間が、最初の二歩だけを残している。


「真柴」


 大庭が呼んだ。


 マッシーではなかった。


「隠れてない」


「ああ」


「見せてる」


「俺たちじゃない」


 直樹は二歩目の外側を見る。


 靴底の縁に沿って、細い線が引かれていた。


 途中で一度切れ、もう一度続いている。


 訓練中、直樹が後輩へ教えた確認方法だった。


 教官が痕跡を見落とした時は一本。


 見つけた時は二本。


 正式な符号ではない。


 二人の間だけで使った。


「俺に読ませている」


 大庭は旧保守路の先を見る。


「罠か」


「そうかもしれない」


「呼んでいるのか」


「そうだ」


「両方か」


「ああ」


 大庭は腰のフラスクへ触れた。


 取り出さなかった。


「本人なら、目的は」


「分からない」


「接触する」


「そのために追う」


「帰る時刻は」


 直樹は端末を見る。


 午後四時五十八分。


「十八時半」


「遅れた場合は」


「通信圏へ戻る」


「了解」


 大庭は地図を畳んだ。


「行くぞ、真柴」


 道の入口に、足跡が一つだけ残っている。


 踵は二人へ向いていた。


 爪先は森へ向いている。


 逃げる者の足ではなかった。


 追う者が来たことを確かめ、先へ進んだ足だった。


 直樹は左手で小銃の負い紐を整えた。


「追う」


 二人は森へ入った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。