第百三十話 読ませた足
## 第百三十話 読ませた足
固定翼機の車輪が、富士川側飛行場の滑走路へ触れた。
一度跳ねる。
二度目で沈む。
機体の奥に積まれた輸送箱が、固定帯の中で低く鳴った。
直樹は座席脇の旅行鞄を左手で押さえた。
右手は膝の上に置いている。
何も握っていない。
福岡を出た時に降っていた雨は、富士川まで来ていなかった。
滑走路の向こうには、低い雲が残っている。
吹き流しは南東へ伸びていた。
北西から、乾いた風が入っている。
機体が停止する。
後部扉が開いた。
燃料と土の匂いが流れ込んだ。
*
富士川側の医療区画は、格納庫の端を白い仕切りで囲っただけだった。
直樹は、えりから預かった茶封筒を医療担当者へ渡した。
「本人確認を」
「真柴直樹です」
「封筒は開けていませんか」
「開けていません」
「指揮所を経由しましたか」
「していません。医療担当者本人へ渡すよう指定されています」
担当者が封を確認した。
「受領します」
直樹は受領欄へ署名した。
四文字目の縦線が少し短くなった。
担当者は書き直しを求めなかった。
「両手を見せてください」
直樹は手を開いた。
指を閉じる。
もう一度開く。
「移動前から変化は」
「ありません」
「痛み」
「ありません」
「痺れ」
「三です」
「睡眠」
「四時間半です」
「足りません」
「機内で一時間寝ました」
「合計五時間半」
「はい」
担当者は記録へ書いた。
「禁止動作と中止条件は、封筒の内容どおりです」
「分かりました」
「こちらから現地指揮側へ伝えるのは、行動制限だけです」
「お願いします」
白い仕切りの外で、靴音が止まった。
「病院上がりにしちゃ、顔色いいな」
聞き覚えのある声だった。
直樹が振り返る。
大庭航平が立っていた。
髪は以前より短い。
頬も少し痩せている。
首から双眼鏡を下げ、丸めた地図を脇へ挟んでいた。
「大庭」
「マッシー」
大庭が右手を差し出した。
直樹も右手を出した。
短く握る。
先に離したのは直樹だった。
「握手まで医者の許可制か」
「違う」
「じゃあ、女に握られすぎたか」
「何の話だ」
「退院前だよ。病室に女がいると長いんだ。別れの言葉、約束、次の連絡、無事に帰れ」
「二十分だった」
「測ってんのか」
「えりが測った」
「女二人に時間まで管理されて、ようやく外へ出してもらえたわけだ」
「退院した」
「言い方の問題だ」
大庭の視線が旅行鞄へ落ちた。
「荷物、それだけ?」
「これだけ」
「着替えと薬と、女から持たされた重い物」
「医療書類だ」
「色気がない」
「必要な物だ」
「女が持たせる物なんて、大抵は必要ない。写真、手紙、揃いの何か」
「もらったことがあるのか」
「店の女は、そんな物を渡さない」
大庭は双眼鏡の位置を直した。
「仕事の女は仕事。俺は客。金を払って、好きなことをして、そこで終わる」
「それを楽だと思うのか」
「境界が決まってる。次の電話も、帰る約束もない。感情の借りが残らない」
「関係が違う」
「知ってる。違うから面倒なんだよ」
大庭は直樹の顔を見た。
「宮崎さんに見送られた?」
「ああ」
「泣かれた?」
「泣いていない」
「怒られたな」
「怒られた」
「そっちの方が効く」
「そうかもしれない」
大庭の眉がわずかに上がった。
「病院で何を入れられた。薬か、人間性か」
「何も入れられていない」
「認めるようになっただけか」
大庭が背を向けた。
「武器は別に置いてある。まず地図だ」
「現場が先だ」
「俺が地図。お前が足」
振り返らないまま言った。
「昔からそうだろ、マッシー」
*
運用室の長机に、三枚の地図が並べられた。
一枚は地形図。
一枚は道路と車両の通過記録。
最後の一枚には、避難路と監視地点だけが手書きされている。
大庭は地形図の上へ透明板を重ねた。
「旧川端から出た痕跡は、ここで一度切れた」
鉛筆の先が、細い管理道路を示す。
「軍用車両が三台。救出班が二台。燃料輸送が一台」
「時刻は」
「救出班が十三時二十分。燃料輸送が十四時過ぎ。最後がこっちの監視車両」
「徒歩は」
「表へ出たのは六人。救出班四人。地下から二人」
「記録外は」
「一人いる」
大庭は別の透明板を重ねた。
赤い点が、管理道路の北側に三つ並ぶ。
「一つ目。排水溝の泥」
次の点。
「二つ目。旧資材置場の石」
三つ目。
「三つ目。斜面の水滴」
「雨の残りでは」
「周囲は乾いてる。葉にも残ってない」
「時間は新しい」
「現物次第だ」
大庭は鉛筆を北へ滑らせた。
「俺から見れば、ここへ上がる」
尾根の一角を叩く。
「旧保守路、燃料置場、南側検問が全部見える」
「車両は」
「東へ下りれば民間道路。西なら廃線沿い」
「風は」
「昨日から北西」
「犬は」
「避難者の経路と重なる。使ってない」
大庭は地形図の端を押さえた。
「俺が見るのは、こいつがどこに立てば、何を見られるかだ」
「俺は、どこへ足を置いたかを見る」
「だから呼んだ」
机の端に、折曲銃床の八九式小銃が置かれていた。
弾倉は外されている。
隣には、薄手の戦闘用グローブが一組あった。
「護身用」
大庭が言った。
「戦闘しろって意味じゃない」
「分かっている」
「病院帰りを担いで戻るのは御免だぞ」
「無理はしない」
「酒飲みの『今日は一杯だけ』と同じぐらい信用できねえ」
「任務中は飲むな」
「これは帰った後の分」
大庭が腰の小型フラスクを指で叩いた。
「帰れる前提か」
「飲まずに死ぬのは損だろ」
直樹は左右のグローブをはめた。
右側の手首と掌を、内側の布で調整する。
小銃の弾倉が外れていることを確認した。
遊底を左手で引く。
薬室が空であることを目視する。
安全装置を確認した。
弾倉は装着せず、弾納へ戻した。
負い紐の長さだけを合わせる。
「出る前に連絡する」
直樹は通信端末を取り出した。
大庭が腕時計を見る。
「昨日決めた十九時には早い」
「連絡不能区画へ入る前に伝える」
「電話連絡で束縛か」
「約束だ」
「到着を報告。入る場所を報告。戻る時間を報告」
大庭は地図を丸めながら数えた。
「女の長電話は、任務以上にこたえる」
「長くない」
「喋れる女は長いんだよ」
「めぐみは必要なことだけ話す」
「今まで言えなかった分があるんだろ。十年分だぞ」
「聞く」
「真面目だねえ」
大庭はフラスクをもう一度叩いた。
「だから店の女の方が楽なんだ。仕事は仕事。金を払って、好きなことをして、終わり」
「さっき聞いた」
「大事なことは二回言う」
「感情の借りが残らない」
「覚えてるじゃねえか」
直樹が回線をつないだ。
二度目の呼び出しで、めぐみが出た。
『なお』
「富士川へ着いた」
『うん』
「これから連絡が届かない場所へ入る」
『何時まで』
「十八時半に一度戻る。遅れると分かった時点で連絡する」
『体は』
「睡眠が足りない。移動はできる」
『大丈夫ではないね』
「大丈夫ではない」
『戻ったら連絡して』
「する」
『行ってらっしゃい』
直樹は一度息を止めた。
「行ってくる」
回線を切る。
大庭が腕時計を見る。
「一分三十七秒」
「短い」
「最初はな」
「最初」
「一週間で五分。一か月で十五分。半年後には、銃撃戦の方が先に終わる」
「めぐみは違う」
「全員そう言う」
大庭は扉へ向かった。
「でも、まあ」
足は止めなかった。
「帰れって言う女がいるなら、帰った方がいい」
直樹は返事をしなかった。
大庭も振り返らなかった。
*
管理道路へ入る前の装填地点で、二人は小銃を確認した。
直樹は弾倉を装着した。
左手で遊底を引く。
薬室へ送る。
安全装置を掛ける。
銃床は折ったまま、負い紐を肩へ回した。
管理道路には、昨日の雨が細く残っていた。
車両の轍には水がある。
道の中央は乾いている。
直樹と大庭は、旧資材置場の手前で車両を降りた。
運転手には待機地点を変えるよう指示した。
同じ場所に長く置けば、観測される。
大庭は地図と風を見た。
直樹は地面を見た。
「ここから徒歩」
大庭が言った。
「先頭は」
「俺が行く」
「足を見るなら後ろじゃないか」
「最初の足を踏むな」
「了解、教官殿」
二人は道路の端を進んだ。
直樹は歩幅を狭くした。
呼吸は平らだった。
右手は負い紐の近くへ置く。
小銃は握らない。
「終わったら何を飲む」
大庭が前を向いたまま聞いた。
「飲まない」
「薬か」
「ああ」
「じゃあ俺が二人分飲む」
「いつもだろ」
「女も二人分いける」
「黙って歩け」
「出た。昔のマッシー」
最初の痕跡は、排水溝の縁にあった。
泥の中へ、踵だけが深く沈んでいる。
つま先は浅い。
「負傷者に見える」
大庭が言った。
「そう見せている」
「根拠は」
直樹は足跡の横へしゃがんだ。
右膝は地面につけない。
踵の中央に、細い筋がある。
靴底に挟まった小石が引いた線だった。
線は足跡の外へ続いていない。
「踏み込んだあと、踵だけを押している」
「体重を掛けた可能性は」
「体重なら、つま先側の泥も逃げる」
直樹は泥に触れなかった。
「足を置いた。あとから深くした」
「読ませるために」
「まだ分からない」
直樹は立ち上がった。
右手を一度開く。
大庭はその動作を見た。
何も聞かなかった。
二つ目の痕跡は、旧資材置場の入口にあった。
複数の作業靴が土を踏んでいる。
燃料輸送の作業員。
救出班。
監視要員。
同じ靴跡が、何度も重なっていた。
大庭は周囲を見る。
「ここなら足を混ぜられる」
「混ぜていない」
「どれだ」
直樹は答えず、しゃがんだ。
古い作業靴の左足。
その上に、別の左足が重なっている。
大きさはほぼ同じだった。
踵もつま先も、古い跡の中へ収まっている。
右足はない。
「片足だけか」
「右は石の上だ」
道の端に、平たい石が置かれていた。
細く尖った側が北を向いている。
石の脇には、同じ形の白い土が残っていた。
周囲は昨日の雨を吸って黒い。
白い部分だけ、雨の間は石に覆われていた。
大庭が腰を落とす。
「元はこっちか」
「ああ」
現在の石の下は湿っている。
「雨が止んだあと、動かした」
「北を示すため」
「そう読ませるためかもしれない」
「実際の進行方向とは限らない」
「限らない」
大庭は石へ触れなかった。
「本人だと思うか」
「まだ決めない」
「心当たりは一人だろ」
「痕跡は本人確認にならない」
「間違えれば、別の人間を追う」
「ああ」
大庭は立ち上がった。
口元から軽さが消えた。
「続ける」
*
三つ目の痕跡は、斜面の途中にあった。
杉の根元。
周囲の土は乾いている。
根の上にだけ、小さな水滴が三つ残っていた。
一つは土へ落ち、丸い跡を作っている。
水はまだ吸われ切っていない。
直樹は斜面の下を見た。
水場はない。
昨日の雨が残るほど、葉も湿っていなかった。
「水筒か」
大庭が聞いた。
「違う」
「濡れた布」
「近い」
直樹は自分のグローブを見る。
手首の内側へ縫い込まれた布。
「手袋を濡らした」
「何のために」
「置くため」
「三滴だけ」
「三滴だから意味がある」
直樹は水滴の間隔を見る。
最初の二つは近い。
三つ目だけ、少し離れている。
大庭は口を閉じた。
「二つと、一つ」
観測だけを言った。
「俺たちの訓練で使った」
「誰に分かる」
「通った人間の一部」
「全員じゃない」
「全員ではない」
最後の一滴は、根の北側に落ちている。
風は北西から吹いていた。
自然に落ちれば、南東へ流れる。
水滴は風上へ置かれている。
「大庭」
「何」
「尾根を見るな」
大庭の視線が止まった。
「理由は」
「見させたい」
大庭は顔を動かさず、目だけを斜面の下へ向けた。
「俺が高所を取ると知っている」
「俺と組んでいた人間なら知っている」
大庭は右足を半歩引いた。
斜面の下に、使われていない古い排水管がある。
その奥は暗い。
「監視の可能性」
「ある」
「位置は」
「足跡の先じゃない」
直樹は来た道を見る。
二つ目の痕跡。
動かされた石。
重ねられた左足。
存在しなかった右足。
「戻った側だ」
二人は同時に身を低くした。
銃は構えない。
大庭は斜面下の道路を見る。
直樹は資材置場の裏手を見る。
風で草が揺れている。
一か所だけ、揺れない部分があった。
そこに人はいなかった。
伏せていた跡だけが残っている。
枯れ草が身体の幅に押されていた。
中央には、浅い膝跡が一つある。
「移動済み」
大庭の声から、冗談が消えた。
「いつ」
「俺たちが石で止まった間」
「音は」
「ない」
「風下を使った」
直樹は膝跡の横を見る。
乾いた土に、靴の先が触れていた。
深くはない。
隠そうとしていない。
爪先は、これから進む旧保守路へ向いている。
「逃げた足じゃない」
大庭が言った。
直樹は返事をしなかった。
膝跡の先に、足跡が二つ残っている。
一歩目は深い。
二歩目は浅い。
三歩目から消えていた。
負傷者に見せる深い踵。
追跡者へ選ばせる進行方向。
消せる人間が、最初の二歩だけを残している。
「真柴」
大庭が呼んだ。
マッシーではなかった。
「隠れてない」
「ああ」
「見せてる」
「俺たちじゃない」
直樹は二歩目の外側を見る。
靴底の縁に沿って、細い線が引かれていた。
途中で一度切れ、もう一度続いている。
訓練中、直樹が後輩へ教えた確認方法だった。
教官が痕跡を見落とした時は一本。
見つけた時は二本。
正式な符号ではない。
二人の間だけで使った。
「俺に読ませている」
大庭は旧保守路の先を見る。
「罠か」
「そうかもしれない」
「呼んでいるのか」
「そうだ」
「両方か」
「ああ」
大庭は腰のフラスクへ触れた。
取り出さなかった。
「本人なら、目的は」
「分からない」
「接触する」
「そのために追う」
「帰る時刻は」
直樹は端末を見る。
午後四時五十八分。
「十八時半」
「遅れた場合は」
「通信圏へ戻る」
「了解」
大庭は地図を畳んだ。
「行くぞ、真柴」
道の入口に、足跡が一つだけ残っている。
踵は二人へ向いていた。
爪先は森へ向いている。
逃げる者の足ではなかった。
追う者が来たことを確かめ、先へ進んだ足だった。
直樹は左手で小銃の負い紐を整えた。
「追う」
二人は森へ入った。




