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第百二十九話 退院する男

## 第百二十九話 退院する男


 右手は、紙コップを持てた。


 持ち上げる。


 口元まで運ぶ。


 机へ戻す。


 水はこぼれなかった。


「もう一度お願いします」


 作業療法士が言った。


 直樹は紙コップへ手を伸ばした。


 親指と人差し指が縁を挟む。


 一度目より、指が閉じるまでに時間がかかった。


 持ち上げた直後、紙が小さくへこんだ。


「置いてください」


 直樹は従った。


 机へ置く直前、握る力が抜けた。


 紙コップの底が傾く。


 左手が下から支えた。


 水面が揺れた。


 こぼれなかった。


「今の感覚は」


「痺れがあります」


「痛みは」


「ありません」


「握っている強さは分かりますか」


「途中から分からなくなります」


 作業療法士が記録用紙へ書き込んだ。


 右手には何も巻かれていない。


 金属の支柱もない。


 手首を覆う補助具も外されていた。


 見た目だけなら、左手と大きな違いはない。


 指は開く。


 握ることもできる。


 ただ、同じ力を保てなかった。


 机には、次の評価器具が並んでいた。


 ペン。


 鍵。


 硬貨。


 衣服用のファスナー。


 細い布紐。


「名前を書いてください」


 直樹は右手でペンを持った。


 真。


 柴。


 直。


 樹。


 四文字目の縦線が、わずかに右へ流れた。


「日常の署名は可能です」


 作業療法士が紙を回収する。


「速く書く。小さく書く。筆圧を一定にする。その三つが重なると乱れます」


「はい」


「鍵をお願いします」


 直樹は鍵をつまんだ。


 錠前へ差し込む。


 右へ回す。


 最初は動いた。


 途中で止まった。


 左手を添えると、最後まで回った。


「単独では」


「短時間ならできます」


「長く固定する動作は」


「難しいです」


 部屋の隅で、医師が記録を見ていた。


 末安えりは壁際に立っている。


 宮崎めぐみは、直樹の斜め前にある椅子へ座っていた。


 記録板はベッド脇の机に置いてある。


 めぐみは直樹の顔ではなく、右手を見ていた。


「最終評価を伝えます」


 医師が椅子を寄せた。


「指の開閉、日常的な把持、筆記、衣服の着脱。通常の生活動作は可能です」


「はい」


「長時間の強い把持は困難」


「はい」


「細かな圧力調整も安定していません」


「はい」


「一度、大きな力を出したあと、次の動作が遅れる」


「認識しています」


「認識していても、身体は予定通りには動きません」


「はい」


「相手を長く押さえるような制御動作はできません」


 めぐみの指が、膝の上で止まった。


 直樹は医師を見た。


「できない前提で動きます」


「その言い方をする人は、別の方法で同じことをしようとします」


 医師は記録用紙を伏せた。


「これは戦闘復帰の許可ではありません」


「分かっています」


「移動と現地調整の許可です」


「はい」


「身体状態が悪化した場合は中止」


「はい」


「右手を使ったあと、痺れが増えた場合も中止」


「はい」


「眠れていない場合も」


 直樹はすぐには答えなかった。


「返事」


 えりが言った。


「中止します」


「採用」


 えりは手元の書類へ印を付けた。


「医療情報は富士川側へ共有します」


 医師が続ける。


「ただし、必要な範囲だけです」


「診断名は」


「医療担当者まで」


 えりが答えた。


「現地指揮系統へ渡すのは、禁止動作と中止条件。病歴は分ける」


「分かりました」


「本人同意」


 確認欄が直樹の前へ置かれた。


 直樹は右手で署名した。


 最後の線が少し震えた。


 書き直さなかった。


 評価室の扉が二度叩かれた。


「入ってください」


 医師が答えた。


 扉が開く。


 松隈先生が車椅子で入ってきた。


 長い脚は足台の上に置かれている。


 袖をまくった腕で車輪を押し、狭い入口を一度で抜けた。


「終わりましたか」


「今、終わったところです」


 医師が答えた。


 松隈先生は机の上の紙コップと鍵を見た。


 次に、直樹の右手を見る。


「合格か」


「生活には」


 医師が言った。


「戦うことには」


「許可していません」


「それはよかった」


 松隈先生が直樹を見た。


「お前に合格を出すと、試験にない問題まで解こうとする」


「否定できません」


「否定しなさい」


「できません」


 めぐみが笑った。


 声にはまだ薄い掠れがある。


 だが、言葉を交わすことに支障はなかった。


「声の調子は」


 松隈先生が聞いた。


「会話はできます。長く話すと、少し掠れます」


「一日分を一度に話す必要はありません」


「はい」


「明日も使う声です」


 めぐみは頷いた。


 松隈先生が直樹へ向き直る。


「行くのか」


「行きます」


「誰に話した」


「久世一尉と医療担当者には」


「それだけか」


 直樹はめぐみを見た。


「これから、めぐみに話します」


「行くと決めたあとに」


「はい」


「遅い」


「はい」


「だが、黙って出るよりはましだ」


 松隈先生は車輪へ手を置いた。


「私は廊下にいる」


「先生」


 めぐみが呼び止めた。


「はい」


「逃がさないでください」


 松隈先生は直樹を見た。


「聞いたか」


「聞きました」


「では、逃げるな」


「はい」


     *


 えりが病室の扉を開けた。


「二十分」


「十五分では」


 直樹が聞いた。


「私が増やした」


 えりは直樹の脇を通り、廊下へ出た。


 松隈先生の車椅子が進む音も遠ざかった。


 病室には、直樹とめぐみだけが残った。


 午後の光が窓から入っている。


 遠隔運用に使った折り畳み画面は、すでに畳まれていた。


 壁の電源コードだけが残っている。


 めぐみは椅子から立った。


 そのまま直樹の前まで歩く。


 歩幅はまだ小さい。


 足取りに迷いはなかった。


 直樹は椅子に座ったまま、その姿を見上げた。


「富士川へ行く」


「うん」


「明日の朝、出る」


「いつ決めたの」


「昨日、行く必要があると思った」


「決めたのは」


「今朝」


「私に言う前に」


「そうなる」


「そうなる、じゃない」


 声は大きくなかった。


 それでも、怒っていることは伝わった。


「ごめん」


「医療評価が駄目だったら、言わないつもりだったの」


「そうしようとした」


 めぐみは直樹の前に立ったまま、黙った。


 直樹は言葉を探した。


「でも、それだと、また結果だけを持って帰る」


「うん」


「行けるようになったから報告するんじゃない」


 直樹は右手を膝に置いた。


「行きたいと思った時点で、話すべきだった」


「昨日のうちに」


「そうだ」


「遅いよ」


「遅れた」


「怒ってる」


「分かってる」


「本当に分かってる?」


 直樹はすぐには答えなかった。


「分かったとは言わない」


 めぐみは直樹を見たまま、息を吐いた。


「何をしに行くの」


「後輩かどうか確認する」


「確認したあとは」


「話を聞く」


「連れて帰るの」


「分からない」


 直樹はめぐみを見た。


「帰りたい場所があるのかも分からない」


「なおが決めないで」


「決めない」


「久世さんも」


「本人に聞くよう言われた」


 めぐみの肩から、少し力が抜けた。


「帰る日は」


「分からない」


「分からないまま行くの」


「はい」


 直樹の返事が硬くなった。


 めぐみが正面から見る。


「なお」


「……うん」


「帰る日が決められなくても、次に話す日は決めて」


「明日の十九時」


「毎日」


「毎日、連絡する」


「連絡できない場所に入る前は」


「先に伝える」


「遅れる時は」


「分かった時点で伝える」


「連絡できなかった時は」


「できる場所へ戻った時点で、最初に連絡する」


 めぐみは直樹の右手を見た。


「それと」


「何」


「その手で、何でもできるふりをしないで」


「しない」


「できない時は」


「言う」


「誰に」


「大庭。久世一尉。医療担当」


「私にも」


「めぐみにも言う」


 めぐみは一歩近づいた。


 触れられる距離だった。


 それでも、すぐには手を伸ばさなかった。


「黙っていなくならないで」


「黙っていなくならない」


「約束して」


「約束する」


 めぐみが手を出した。


 直樹は右手を重ねた。


 強くは握らなかった。


 右手の力が緩んだ。


 直樹は握り直さなかった。


 めぐみも手を離さなかった。


「帰ってきて」


 直樹は返事を急がなかった。


「ちゃんと、私のところに帰ってきて」


「戻る」


     *


 夕方、病室へ濃い色の旅行鞄が運ばれた。


 直樹が用意した物ではない。


 めぐみが看護師へ頼み、えりが必要品だけを確認した。


 替えのシャツが二枚。


 下着。


 薬。


 充電器。


 右手のリハビリ記録。


 筆記具。


 小さなタオル。


 武器は入っていない。


 迷彩服もない。


 旅行鞄の上に、薄手の戦闘用グローブが一組置かれていた。


 黒に近い灰色。


 左右は同じ形だった。


 手首と掌を締める布が、内側へ縫い込まれている。


 直樹は左手にはめた。


 次に右手を入れる。


 指を一本ずつ収めた。


 右側だけ、手首と掌を少し強く締める。


「きつすぎない」


 えりが聞いた。


「痺れは増えていません」


「何分で確認する」


「三十分」


「最初は十五分」


「分かりました」


 えりが旅行鞄を指した。


「持って」


 直樹は左手で取っ手を持った。


「右は」


「長く握る必要がない時に使います」


「今は」


「必要ありません」


「採用」


 えりは内ポケットから、封をされた薄い茶封筒を出した。


「富士川の医療担当へ」


「医療連携書類ですか」


「必要範囲だけ。開けない。なくさない。指揮系統へ直接渡さない」


「分かりました」


「誰に渡す」


「富士川側の医療担当者本人」


「採用」


 直樹は封筒を旅行鞄へ入れた。


 着替えと薬の上に置いた。


 任務報告でも、作戦命令でもなかった。


 人から頼まれた、一通の封筒だった。


「連絡予定は毎日十九時」


 えりが書類を確認した。


「はい」


「連絡不能区画へ入る前に報告」


「はい」


「退院手続きは今夜中。明朝六時半、福岡空港側の引き渡し地点へ搬送」


「はい」


「帰投日未定」


「はい」


「治療は終わっていない」


「分かっています」


 えりは書類を閉じた。


「終了」


     *


 翌朝。


 病棟の廊下には、清掃用の水の匂いが残っていた。


 窓の外はまだ暗い。


 直樹は迷彩服を着ていなかった。


 暗い上着。


 動きやすいズボン。


 歩き慣れた靴。


 旅行鞄は左手にある。


 右手には何も着けていない。


 戦闘用グローブは、鞄の一番上に入れた。


 医師。


 看護師。


 作業療法士。


 えり。


 四人が退院書類を確認した。


 直樹は右手で最後の署名を書いた。


 四文字目の縦線が、前日より短かった。


 それでも読めた。


「退院です」


 看護師が言った。


「治療終了ではありません」


「分かっています」


「戻ってきたら再評価」


「戻ります」


 病棟の出口には、松隈先生がいた。


 車椅子の膝の上に、小さな紙袋を載せている。


 めぐみが、その隣に立っていた。


「忘れ物だ」


 松隈先生が紙袋を差し出した。


 中には、個包装の乾パンと小さな羊羹が入っている。


「朝食は食べます」


「途中で腹は減る」


「いただきます」


「礼は帰ってから聞く」


 直樹は紙袋を旅行鞄へ入れた。


「直樹」


「はい」


「帰る人数に、お前を入れたか」


 直樹は一度だけ黙った。


「入れています」


「なら、途中で勝手に減らすな」


「はい」


「必ず戻れると断言しろとは言っていない」


 松隈先生は車輪へ手を置いた。


「帰る側から、自分を外すな」


「はい」


 めぐみが一歩前へ出た。


「今日、十九時」


「連絡する」


 めぐみは直樹の旅行鞄を見た。


 着替え。


 薬。


 乾パン。


 羊羹。


 頼まれた封筒。


 直樹自身が戻るまでに必要な物が入っている。


「帰ってきて」


「戻る」


 自動扉が開いた。


 直樹は外へ出た。


 扉が閉じる前に、一度だけ振り返った。


 めぐみは、まだそこにいた。


 松隈先生も、その隣にいた。


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